もぎたて語りおろし(2004/11.6出荷)


このごろの西研・これからの西研 (2004/9・1収録)

 
……西研    犬……犬端(管理人)  
F……古川敦子(西研夫人)


苅谷剛彦さんとの対談本,年内に刊行予定です

 京都・岩倉の西家に遊びにきています。就寝前のおしゃべりをそのまま、語りおろしにしてしまおうかとテープをまわしはじめている、厚かましいとしかいえない犬端です。(am030)ではありますが、西さん、さっそく近況報告などをひとつ……


 ええと……まず、年内には教育社会学者の苅谷剛彦さんとの対談本が出る予定です。内容はですね、これまで「教育をテツガク」するだとか、『よみがえれ、哲学』で少しずつ触れてきたけれど……「近代の教育は何をもって柱とすべきか」ということを、本格的に展開した感じのものになるはずです。

苅谷さんとは、お互い全然違った所で、違った方向から考えてきたわけなんだけども、非常に共鳴するところが多かった。苅谷さんには、思想は、一人ひとりの市民の中に根づいたものにならなければならない、という思いが非常に強くある。いろんな場所で、いろんな感触をもちながらくらしている人たちを念頭において、果たして彼らにほんとうに通じる論議ができているのかということを本気で考えながら言葉を練り上げているというような、「腰の強さ」を感じました。まず、そこのところにかなり自分と共通しているものを感じましたね。


 『よみがえれ哲学』で、……現在、裕福で教育熱心な家庭が私学に子どもを通わせる一方で、教育そのものに対する関心や展望をいだけずに、義務教育であるからしかたなく公立学校に子どもを通わせる家庭も多い。そうした二極化の傾向が生まれているんじゃないか。それは、個々人が、それぞれの可能性を展開していくのに必要な力を習得する機会が平等に与えられる、という市民社会の教育のあるべきすがたから見ると問題だし、こうした傾向が、今後ある種固定化された階層社会を生んでいくんじゃないか。……という話題が出ていましたよね。で、竹田さんからは、今後、たとえば義務教育の期間は学校をすべて公立にしたり、あるいは明確な公的基準を定めたりするなど、具体的な対策が必要になるんじゃないか、という提案もされていました。それって……苅谷さんが今まで社会学的な視点からデータをもとに考察し、語られてきたことにかなり重なっていくようにも感じたんですが。


 そうですね。階層社会論自体は多くの人たちもやっていることですけど、そのほとんどが、ただ資本主義社会の悪しき側面を暴くということのためにやっている。だけど、苅谷さんはそうではない。階層化が進行すると、社会としてはこういう不健全なところが実際に出てくる。で、それに対してこのように歯止めをかけることが必要になる……ということを具体的に考えられる人です。それは、「近代の学校とはそもそも階級を再生産する装置なのだ」という展望の見えない近代批判とはまったく違うことです。苅谷さんは、自由で対等な人間がフェアなゲームを競いながら生きていけるのが、近代社会のめざすべきところなんだ、という像を明確にもったうえで、いまの教育の問題点はなにか、どのように改善していくことが必要なのか、ということを発想していける人だと思う。

苅谷さんは社会学者ということもあって、いままで教育の理念のようなものを直接には語る機会はあまりなかったのですね。他方、僕の場合は哲学者ですから、逆に理念を扱う仕事なわけですよね。で、僕自身が「近代の教育の本質」として考察してきたことは、彼の感度にもかなりフイットしたようでした。そういう意味でいうと、違った側面からお互いの積み重ねてきた考察を、よい形で重ね合わせていける組み合わせにはなったんじゃないかと思います。


 内在に定位して意味と根拠をつかみとっていく「内側の視点」と、より客観的にそれを検証しようとする「外側の視点」の両面を大事にしていきたい……ということを西さんいつもおっしゃってますよね。苅谷さんとの対談って、それこそ、内側と外側の視点がうまくかみあって展開していく感じになりそうですね。それはそうとうに面白いものになるような気がします。


 うん、やっている最中も、非常に面白くてスリリングな対談だったので、かなり面白い本になっていくんじゃないかという感触はあります。



「書き下ろし」への構想は……

 ……で、『哲学は何の役に立つのか』『よみがえれ、哲学』、それに今度の苅谷さんとの本と、ここしばらく対談本が続いたんで、次は本格的な書き下ろしに取り組んでみたいな、なんて思っています。


 以前、『哲学的思考』で構想を示した「社会の現象学」を、も少しつっこんでやってみたい、ということをおっしゃってたと思うんですが、次作ではそんなことを考えておられるとか……


 そうですね……実は、「社会の現象学」はもう一つ突っ込みきれていないところがあったように思ってるんです。あそこでは、「実存派」と「社会派」の対立、対抗をどう解きほぐしていくかということを、まず基本的な図式として設定している。確かにその二つは、対立した形で現れ出る局面をもつものなんだけど、でも、根底にある共通項として、そもそも「個々人の自由が解放される」ということがある。自分の生き方を自分で決められる、決めなければいけなくなった、ということが「実存」の問いを生むわけだし、同じその条件が、「社会」をどう形づくっていくかという問いにもなる。もっと正確にいうと、近代になって、「実存」の問いとともに「社会」という像が生まれるんですね。〈「このわたし」は自由な存在として自分の生き方を選んでいきたい。でも、他の人たちだって、そういう意味では同じように生きようとしている自由な主体なんだ。そういう自由な主体どうしが社会を作っているんだ〉という社会像が想定されるようになる。このようにして、近代になって自由が生まれることによって、「このわたしはどうやって幸福な人生を送ればよいか」という実存の問いと、「自分と同じように他の人もその中を生きていく社会が、どうすればより公正なものになるのか」という社会の問いが同時に出てくる。

で……例えば社会を変えなければいけないという思いと、わたし自身の生をどう形作っていけばいいのかという思いが素直に重ねられなくなってしまう――社会のために生きなさいという要請が強まって実存的な問いが圧迫されたり、社会がそれなりにできあがってしまっていて社会の問いと実存の問いとが無関係なものと感じられてしまったりする――なかで、実存の問題と社会の問題は対立しはじめるようになる。でも、本質的に対立するものととらえる必要はないんですね。むしろ、自由を得ていく過程のなかで、それらはともに生まれ出てきているものであること、同時に、それがかくかくしかじかの条件(たとえば社会に大きな階層差があり、自分は豊かな側に属している等)のもとでは対立しあうようになってしまうが、根本的にはつながりうる、ということを明らかにしていく必要があると思います。そういうことが全体として書ければいいな、ということを考えているんですけどね。

いまふたたびルソーを読んでいるところなのですが、ルソーでは社会思想と実存思想とは分かれていないんですよ。その両面を一緒にあわせもっていて、一人でマルクスとニーチェを兼ねているようなところがある。それからカントなどを経て、二つはだんだん分岐していくわけですけれども。だから、ルソーとカントを掘り下げてやってみると、実存思想と社会思想のもともとの結びつき、それから対立、ということの意味がクリアーになるんじゃないかな、と思っているんですね。カントの場合には、道徳と幸福の対立というかたちですが、この二つの思想の対立がもうハッキリと意識されてきている。

しかしそれを、ルソー、カント、ヘーゲルのような思想史のような形でやるか、本質観取にもとづく現象学の方法で掘り下げていくか、あるいはその両方が一緒になったような方向をとることも考えられないかな、なんて思ったりしています。そういうことができれば、近代哲学をやってきたことをあらためて整理できることにもなるんじゃないかな、と思います。



西研 歴史に目覚める

研 もう一つは、いま言ったことにも関わってくるかもしれないけれども、歴史を少し勉強してみようかな、と思っている。近代って何だったんだろうっていうことをね、あらためて歴史的にとらえてみたくて。

近代の基本的な理念は、個人の自由を解放することにある、ということでほぼ間違いはないし、それに立脚して、いまぼくらが生きているということもまた確かなことだとは思うけど……そもそもそうした近代が、歴史過程における事実として、どのように展開してきたのか。非ヨーロッパ諸国をもふくめて。そういうことを、もうちょっと抑えておかないといけないんじゃないかなと思い始めているんです。反近代のさまざまな言説は、さまざまな悲惨な事実に立脚して出てきているわけだし、それを踏まえたうえで、それでも近代の生みだしたこうした部分は死守していくべきじゃないか、ということをしっかり打ち出していくために、歴史への考察はやはり必要なんじゃないかと思う。

お恥ずかしい話ですが、近代の成り立ちについてはほんとに知らないことが多いんですよ。この2年くらい、大学で「社会メディア論」という1年生の必修授業をやってるんですが、そのとき「近代とは何だったのか」ということを伝えようと思って、あらためていろいろ考えてみた。そうすると、「人間というのは自由な存在であって、自由を求めて生きようとする点では、どんな人も同じ人間だ。貴族だろうが王様だろうが本質的には同じ人間、対等平等な人間にすぎない」という近代の根底となる意識がいったいどのような形で成立し、広まったのかということですね。言葉を変えれば「近代的個人がいかにして誕生したのか」ということが自分でも意外に分かっていない。それで、そういうことが今の歴史学の水準からはどんなふうに語られているんだろうか、という興味が生まれてきたんですよね。

例えば阿部謹也さんが、近代的な自由な個人はいかに誕生したかということに関して何か言っていないのかな、ということを調べてみたら、やはりそれなりのことをおっしゃっている(『大学論』日本エディタースクール出版など)。彼の説では、一つには12,3世紀くらいに近代的な個人の始まりがある。その時期に、ヨーロッパでだいぶ通商がさかんになってきて、都市というものが生まれた。その都市の中に、例えば農民の子どもがそれまでの生活を捨てて逃げ込んでいけば、あらたに職を見つけることができ、成功すれば親方になったりする可能性が出てきた。自分の人生を選べる可能性が生まれるようになった。そういう可能性が出てきたときにはじめて、わたくしのこの人生、いかにして生きるかという問いがでてきた、というんですね。

あと、もう一つが宗教改革。ラテラノ公会議で、一人ひとりの人間が自分の罪をみつめ、告白しなければいけない、ということが制度化され、それが、近代的な個の意識を生むようになった……というようなことをいっている。フーコーなんかもキリスト教の告白については着目していますよね。その2点をあげていました。

非ヨーロッパ世界の人間にとっては、キリスト教の「告白」のほうは特に関係しないわけだから、ヨーロッパに限定せず、もっと一般化して近代と個人とをとらえようとしてみると、もっとも本質的なことはやっぱり、自分の人生が選択できる可能性が生まれたということにあるんじゃないかと思うんですよね。自分の人生が選択できる可能性があるところには、実存の意識、この人生どのように生きていくのか、という意識が生まれる。それは豊臣秀吉にもあったんじゃないかな。戦国時代って、力や才覚によって、まあ運にも少なからず助けられながら自分の人生を自分の力で作り出すことのできた時代ですよね。それは失敗もあるし、おそろしいことでもあるんだけれども。そういうときにはじめて、個の意識というのがそれなりに生まれてくる、というようなことじゃないかと思う。

近代になると、商業が発達するということが大きいと思います。商業ってそれこそ自分の力で富を得る可能性を切り開いていくことですよね。それに、都市が生まれれば、そこにはさまざまな種類の職業が生まれます。商業・交易の発達とともに、職業を選択する可能性がひらかれていくことが、自由な個人が生まれていくいちばんの基底にある、そういえるのではないかと思います。阿部さんは「お坊さんになる」というのも挙げていました。都市には教会と大学があって、一介の農民の子どもでもそこで勉強すれば、僧侶になって出世できる道があった。ひょっとすると大司教みたいなのになれて、ひょっとするとローマ法王までいけるかもしれないわけですね。

そういうふうに生の選択の可能性があらわれてくると、貴族だって、たまたま何かがあって貴族になったんだろうとか、王様だっていろんなことがあって王さまになっているんだろう、だとかね、つまり王様が王様である、貴族が貴族である、ということにしても万古不易の神から与えられた秩序というのではなくて、たまたまそうなったにすぎない、という見方が出てくると思うんですよ。そのときはじめて、身分制を相対化しうる視点が出てくるんじゃないかなと思う。人間としては同じ、という観念がそうやって芽生える。

……というような推論をぼくなりにしているのですが、これが歴史事実と照らし合わせたときにどれほどきちんとしたものかどうかはまだわからない。近代的な自由と平等の意識のはじまりに関しては、だいたいはこういうことで正しいんじゃないかと思っていますが。

簡単な話、「社会はもともと平等な人間が一緒につくりあげているものだ」という基本的な考え方のモデルは、まずは17世紀のホッブスが『リバイアサン』で明示したわけですが、『リバイアサン』では、「どの人間も同じなんだ」ということがすでに大前提となっているわけなんですよね。どの人間も、欲求、欲望のもとに行動しているものだし、一人ひとりの能力にもそんな大きな違いはない。人間は、基本的には同じ人間なんだ、ということが大前提となって書かれている。では、そういう意識が、いったいどういう形で、どのように成立したのかということがぼくはほとんど分かっていないし、それをはっきりさせてみたいな……ということですね。人間は自由な存在であるとか、どの階層の人びともどの民族も同じ人間であるとか、人間によって形作られているものなのだから社会秩序は動かしうるものだとか、そういう近代の根底にある感覚がどのような形で成立したのか。さらにヨーロッパ以外の地域に輸出されるときにどういった形になっていったんだろうかということが……今の歴史学の水準ではどんなストーリーになっているのかということを、はっきりさせてみたい。ヨーロッパでは、とくにプロテスタントの「神の前での平等」という意識も大きかったはずですよね。

ガッチリと調べて書いてある本がないかなあと思っているのですが、意外とそういったことって、ちゃんとやられてない可能性もありますね。「人間は平等平等っていうけど、そういった平等の意識はどこから出てきたの」っていう問いは、シンプルであるけど逆に非常に難しいものでもあるでしょう。そういうこと、歴史学で真正面からやるのは大変な力業だしね。学校でも、そういうことってならっていないでしょう。個人とはなんだとか、どうやって個人の意識というのが生まれ出てきたのかとか。


 そうですね……。ただ、すこし観点がずれるかもしれませんが……民衆史的な視点というのは……小学校にしても、中学校にしても、社会科や歴史の教科書なんかに盛り込まれていることはありますね。時の為政者に、民衆がどのように虐げられ、何を奪われていたのか。それに抗おうとして、どんなことをしたのか……ですとか、あるいは、日本の伝統的な文化として評価されている芸能だとか、いろんな技術にしても、実は低い身分に置かれた人々によって築き上げられてきたんだ、とか。

で、そうしたとらえ方というのは、「階級史観」的な見方を背景にしていて、歴史教育にふさわしいものとはいえないんじゃないか、という意見が、ここ数年来、保守主義的な傾向が強まるなかで出されている。

でも、特に「階級史観」を前提にしなくても、個々人の自由や、自由を達成する条件の平等を尊重しようとする、ぼくたちの中に内在化された「近代の視点」が、そうしたストーリーのもとに歴史の一側面を読み取ろうとさせていることがあるんじゃないかなあと思うんですよね。たしかに、為政者、権力の側に過度の悪意を読み取ろうとするバランスを欠いた見解には違和感を抱くこともあるけど、よりよい生の条件をみんなが獲得しようとしていくストーリーを歴史の中にみとろうとすること自体は、好ましいことに感じてしまう。

であるのですが……今、西さんがおっしゃったように、「一人ひとりの人間が、それぞれの生の可能性を活かすことの延長線上に、社会的関係を構想しようとする(近代の)意識」そのものが、どういう歴史的背景のもとに形成され、そこにはどんな必然性があったのか、ということを問い詰めていくような論……というか、そこを基点にして歴史を見つめなおしていこうとする見解には、まず出会うことはなかったですね。それって、いま、すごく必要とされてきているんじゃないでしょうか。


 そうですよね、自分としては、近代というのを「分かったもの」というふうにとらえないで、あらためて近代とは何か、近代のもたらしたものは何かを考えてみようとして……ほぼ10年くらいそういうことを中心に考えてきたんですよね。で、基本線として抑えた、「近代の本質は自由が解放されたことにある」ということ自体はまちがっていないとは思ってますが、歴史過程に関してはなんにも知らないんだなあと感じている。

例えば封建制というのがあって、村があって、領主さまがいて……それがどういった形で壊れたのかですとかね。王権が強まって……封建制というのは分権的な社会ですからね……絶対王政みたいになって中央集権化し……で、中央集権化した絶対王政がいわば近代国家の土台になるんですけれども……それが実際どんな形でおこってきたのかということになると、それほどちゃんと分かっているわけではない。

こちら側に、近代的な自由や平等への意識、近代的な社会の考え方がいかに成立したのか、という問いが無いまま、なんとなく歴史を習っていたのと、そういう問いがこっちの側に生まれてからあらためて歴史を学ぼうとするのでは、全然違った見え方がしてくるということもあるかもしれませんけどね。



近代の可能性をより深く探るために……

 そうですね。話が少し飛んじゃうんですが、9・11以降の問題をどうとらえるかというとき、イスラムはイスラムとして独自な文化であり、近代的な価値観とはまったく別な、一個の価値観をもった世界なんだ。まずのことを尊重しなければいけない、という言い方がよくされますよね。


 そうですね。「文化相対主義」の考え方から、そういう論が出される。


 たしかに、理想理念化した民主主義は一つのイデオロギーとして機能し、互いの関係の改善を阻害してしまう、という指摘に関しては一面いえているとは思うんですが、……でもどうなんでしょうか。イスラムの人とでは、たしかに文化も違い、世界像も違うかもしれませんけど、「個々の人間がそれぞれの可能性を追究することをベースに社会的関係を構想する」という、近代的な「自由」の意識そのものが、まったく共有できないものなのか、それともある程度は重なる部分もあるのかということを……やっぱり歴史とか、文化的背景を辿り直して、もっときちんと確認しないといけないんじゃないかと思う。イスラム社会との「違い」を強調しすぎると、逆にそういったプロセスが疎かになってしまうんじゃないかというような気がしてます。


 そうですよね……イスラムの原理主義というのも、ある種近代化の反動として出てきている部分が大きいんじゃないかな。イスラム社会の生活にしても、父祖伝来のくらしをそのまま続けているような状況ではないはずなんですよね。近代化が示している、個々人の自由によって展開する社会に対してはもともとはポジディブであって、しかし、新しい社会がこれまでの伝統を壊していく不安、果たして自分たちをよい方向に導くものになるだろうかという不安、それに実際に経済的にうまくいっていないという事実から、原理主義がでてくるんじゃないかと思う。

イスラム社会のこと、よく知っているわけじゃないのですが……でも、存分に近代的な部分もあるはずです。そもそもイスラム社会っていってもいろいろですよね。トルコなんかはかなり近代化されているし。また、同じ国の中でも、学校に行った人とそうでない人との間にはけっこう違いがあるはずです。学校に行った人というのは、そこで一般的な知識を学び、それをもとに職業を自由に選んでいくんだ、という目的のために行くわけですから。近代的な意識は相当にもっているはずですね。

だから僕も犬端さんと同じで、イスラムの人たちの意識が僕らとまったくかけ離れたものなんだろうか、そうなのだろうか、と思ってしまいます。条件にはいろいろ違いがあるにしても、ただ、異文化であって近代社会とはまったく違った固有な権利をもっているという言い方では済まないはずです。

(ここで古川敦子さんが会話に参加。)

F 近代化が進むと……すごく大雑把な言い方になるけど……神様はいなくなるんじゃないですかね。もちろん、個人信仰は残るでしょうけど……なんていうかな、人々の基本的な価値観や、立居振舞のベースを支えるような「文化としての神」はなくなるでしょうね。キリスト教にしても、たとえばカトリックなんかでは「女性がかくあるべしだ」ということについては、むしろイスラム社会よりも厳しいんだよね。もちろん保護されるという一面もあるけれども、規律はすごく厳しい。そういう意味で考えると……近代化するということは、そういう生の縛りをどんどん解いていって、自分で考え、自分で自分の行為を決めていくというあり方が中心になっていくということなわけだから……宗教という方向からはどんどんずれていくんじゃないでしょうか。


 基本的にそうでしょうね。でも、なんでイスラム教がそんなに強いかというと、おそらく生活が苦しいということなんでしょうね。大学にいって高学歴を身につけたのに、きちんとした職業に就けないとか……一種の絶望感のようなものが、「近代はよくない」「ヨーロッパはおかしい」という形で、ナショナリズムとしてのイスラム教、原理主義が出てくるんじゃないかな。要するに近代化が進んでいるんだけれども、その「果実」がきちんと享受できないという問題なんじゃないかな。もしも近代のもたらす「果実」が享受できれば宗教は個人信仰としてのみ残って、生活そのものを規定するようなものではなくなっていくと思いますよ。


 信仰そのものの強さや、自分達の信念、世界像に対するこだわりから、というよりも、むしろ生活苦という背景の中で、原理主義が出てくるんじゃないかと……。


F 原理主義というのは、いったんその信仰をベースにする社会から外れた人が、あらためにそこに戻ってきたときに、出てくるものなんじゃないかな。


 うん。ある可能性にひらかれながらそこで挫折するという体験から、むしろ出てくるんじゃないかと思う。伝統的な文化の中で生きられている人ならば、そもそもそんなに過激な信仰には走らないだろうし……


F もっとおっとりしていると思う。


 西欧社会や価値観に対する出会いと、そこでの挫折感が、別種の強固な価値観を自分のなかに打ちたてようとする動機となる、原理主義への希求がうまれるという感じなんでしょうかね。

 そうだね。

……でも、やっぱり、「近代論」をこれからもっと掘り下げていくには、「歴史」にしてもそうだけど、イスラム文化のことなんかももっときちんと調べていく必要があるね。たしかに。そういう勉強をもちっとしないといかんかなあと思う。

非ヨーロッパ文化における近代化をどうとらえていくのかってけっこう大きいことですよね。人類史のレベルで考えれば、それをうまくソフトランディングできるかどうかに、今後のいろんなことがかかっていると思う。

日本はかなりうまくいったほうかもしれないですね。いまの日本では、結婚の自由も職業選択の自由もないような社会にだれも行こうとしないだろうし、そもそも昔に戻れるということもないだろうしね。

就寝前に、「普遍洞察性」のこと、あらためて考えてみました。

 あの……またまた話が飛んじゃうんですが、この語り下ろしでも話題にした、大澤真幸さんと東浩紀さんの『自由を考える』で、「自由」そのものを自分たちは否定するわけではないけど、「自由」という概念そのものを今後刷新していく必要があるんじゃないか……という言い方をしていますよね……。で、今度の「群像」での竹田さんとの対談(2004年9月号「新しい自由の条件」)でも、大澤さんは竹田さんのいう「自由の相互承認」はただ近代に逆行しているだけのように思える、という言い方をしている。

そのとき、大澤さんのいうところの「近代」の「自由」は、個々の人間の主体性というか自己中心性に素朴に立脚するありかたとしてとらえられていて、そこによってたつもろもろの思想や活動がさまざま問題を生んできた以上、ただそこに回帰することはできないはずだ……ということを言おうとしているんでしょうかね……

 きちんとまだ読んでいないけど、ちょっとみたところでは……個々人のそれぞれに自由が一人ずつ、例えば職業選択の自由とか、なんとかの自由とかという形で一人ひとりに自由が配分され内属しているというイメージで自由をとらえてはいけない、というようなことは言われていますよね。

たぶん、大澤さんの場合は方法論的にも個人主義をとらない人なので、個人の自由の前に社会的関係がまず先にあるんだっていうとらえかたなんだと思う。自由が個人に内属しているように見える、というのはあくまでも結果であって、その自由に先立つものがあるんだよ、というイメージなんだと思うんですよね。

 もし、まっとうな権力を構想することの相関関係の中で個人の自由を考えていこう、ということだったら……権力というか、社会的なルールを形成することとの相関関係において、個人の自由をとらえていこうというイメージだとすれば、たしかに一理あるとは思うんですけど……。でも、大澤さんが、文化の対立を克服する方途として示している、「愛」という考え方……自己中心性を放棄したうえで他者に開かれていくような関係性への感度のようなことだと思うんですが……に特にそういうことを感じるんですが、自分自身の内在的な範疇からは想定不能な他者の視点をつねに意識しながら自分の行為を批正し続けるようなありかたを、個々人に要請しているようなイメージを感じてしまうんですよね。自分が素朴に思っていることは単に思い過ごしにすぎないんじゃないか、という視点を常に繰り込みながら生きようとするありかた……というか。


 わたくしの自己中心的な考え方をたえず外部のまなざしから相対化しなければいけない。外部のまなざしが実体化できないとすれば、絶えずその心の準備が必要だ……というような……ポストモダンのもっている考え方の典型だよね。


F 外側から自分の行動や思いを照射しつつ同時に自分の欲望を達成するって……かなり難しいことだよね。


 立派なことだとは思うけど、すべての人が一致してそれを行動の基盤にし続けていくことは、現実的に相当に難しい気がします。


F でも、さっきの信仰の話しともつながるけど、それが内なる神、内なる罰する神という形をとるんだったら可能になりますよね。逆にそうじゃないと……それを自発的にやることを常に求めるというのは難しいと思うな


 それはほんとうにそう思います。で、「自由の相互承認」の考え方って、「人はこうこう考えるべきだ」「こうすべきだ」という方向をまず設定するんじゃなくって、一人ひとりが「こうしたい」と思うことを積極的にできる条件をキープするために、社会的な関係を考えていこう、という発想ですよね。


 そうですね。

 「このように考えるべきだ」「このような価値観をもつべきだ」という「価値の中身の部分」をまず示すんじゃなくて、基本的に「これが自分にとってはよいことだ・だからこうしたい」という自己了解を中心に、一人ひとりが生を展開できること、みんなが生の喜びを享受できることをまず前提にして社会を営んでいけるような方向を考えていく……ということだろうと思うんですよね。

でも……どうなんでしょうか。好きなこと、やりたいことをやるのは自由なんだよ、ということをベースに生きている個人、ないしそうした個人が形成する社会が、まったく価値観の違う個人ないし社会と対峙しあったときに共存が可能なのか……という問いが背景にあるんでしょうかね。大澤さんたちの考え方には。

 あるのかもしれない。でもね、そういう問いじたいが、グローバルに広がった人・モノ・カネ・情報を前提としている。つまり、「人類共同体」の意識がすでに人びとのなかに成立してきているからこそ生まれている問いなのですね。何が言いたいかというと、「共同体の外にある、共同体の内部からは想定しがたい価値観をもった人びと」という設定じたいが、じつは、「人類という一つの共同体を意識した上で、その公正なあり方を求める」という思いから生まれているわけです。それは、近代になって自由を自覚した人間たちのなかに「自由な人間たちからなる公正な社会」という思いが生まれてくるのとまったく同型の事態ですね。

ただ人類共同体における「自由」は、個々人の自由だけでなく、それぞれの民族や文化の自由、そしてそれらの共存ということが問題になってきます。だから、民族的な文化の権利の尊重と、個人の権利の尊重とをどう調整するのがよいか、という問題も生じてくる。――この点に関しては、金泰明(キム・テミョン)さんの『マイノリティの権利と普遍的人権概念の研究――多文化的市民権と在日コリアン』(2004 トランスビュー)が、カナダの政治哲学者キムリッカの理論を原理的に検討しなおしていて、すぐれています。ともあれ、これはそういった問題なのであって、「自分を外に対して開くべきだという道徳的要請」が問題なのではない。

またもう一つ、「自由の相互承認にもとづく社会」に対する反論としては、自由のもたらす不自由という問題もありますね。「あなたは自由です。あなたは自分の生き方を自分だけでつくってください」っていわれても、実際につくれないですからね、一人きりでは。だから、個人に自由が認められると同時に、どういうふうに人生をつくっていくのかが個々人に問われていくなかで……最終決定は自分で選ぶのであってそこに絶対の正解はないとしても……一人ひとりが自分の生に向き合っている感触や、それぞれの抱えている困難について口に出して言ってみたり、相互に考えを交わしたりしていける空間――「表現しあう関係」と呼びましょうか――がどれほど生き生きと存在しうるか、という形で考えなくてはいけない。それ以外に方法はない。それがなくて「ただあなたは自由ですよ」とだけ言われても……サルトルじゃないけれども「自由という刑に処せられている」というように、「自由は非常にしんどい」ということになってきますよね。自由ということによって、いっしょにいろんなものがつくれたり、ともに考え合えたりすることができればいい。そういうことです。


 そうですね……そもそも、自由であるからこそ、個々人にしても、集団、社会にしても、それぞれ多様な考えや価値観を抱いてしまうものだし、だからこそ、それぞれが自分の価値観が形成されてきた背景をよくよく見つめ直すなかで、共通了解を可能にしていく道筋をひらこうとするための思考の原理をもつ必要があるんじゃないか……ということが、そもそも竹田さん、西さんの現象学の根底にはあるわけですし、それを踏まえたうえで「自由の相互承認」の考え方が出てきているわけですものね。

だから、西さんが『哲学的思考』ではっきり打ち出されたように、洞察に基づく共有をめざしていく、というのがやはりまず基盤になると思う。


 そうですね。

 わたしのこの考え方は(他者の視点からみて)まちがっている「かもしれない」というのは……あくまでも「かもしれない」以上のものにはならない。実際に語り合ってみないと確かにならない。他方、これこれこういう経緯があって、いま自分はこう考えている、これをよいと思っている、ということはより確かな感触のもとにはっきりさせていくことができる。まずは、そのことをしっかりと伝えてみる。同時に、相手からも、当初は受け入れがたかったような「価値観」の背景にあるものがなんであるかを受け取る。その中に、なるほどなあ、と思える要素があれば、それをきっかけに自分の価値観・考え方が書き換えられていくことがある。でも、それはこうした内在的な了解のルートを通してでなければ、ほんとうに納得できるものにはならない……そういう「洞察に基づく共有」は、それこそ内在的に考えて……というか、要は自分の思考のありかたをとらえかえしてみても、まずそれ以外の方向はないと思える原理だと思います。

 そうだよね。そう思っています。……もう3時だね……そろそろ寝る?

 ですね……どうもありがとうございます。