もぎたて語りおろし(2003/11・5出荷)
『自由を考える』を考える
研……西研 犬……犬端(管理人)
ふたりの論点を整理してみると……
犬 ここは新宿、ルノアール。朝日カルチュア―での講座や、研究会で上京した西さんをつかまえての語りおろしです。ご多忙な中、こうしてつかまえられていただき、どうもありがとうございます…ってたしか、前回も同じようなことを言った気が……。それにしても、また痩せちゃいましたねえ。大丈夫ですか。
研 うーん。体重は確かにずっと減り続けてたんですが、ようやく減りがとまったみたいです。大学のトレーニングの施設に久しぶりにいってみたら、体力的な面に関しても全然落ちていなかったので、大丈夫だ、とは思います。今度、洋泉社から佐藤幹夫さんと出す本の最後の章で、東浩紀さんと大澤真幸さんの対談本、『自由を考える』(NHKブックス)について論じているんですが、最近根詰めて、その原稿に手を入れていたので……けっこう忙しかったなあという感じですね。犬端君もあの本、読んだんだよね。
犬 ええ。最近僕もけっこう根詰めて読んで、ぐ研(※「ぐーたら研」という読書会の略。西さんや奥さんの古川さんも在川崎市時代、ご一緒していた。)でレジュメ発表しました。で、折角の機会ですので、今日は「『自由を考える』を考える」というテーマで、お話をうかがってみたいと思っています。
研 そうですね。えーと……まずふたりの論点を整理してみましょうか。……大澤さん東さんが、現代に対してどういう見方をしているかというと、一方では人びとの「動物化」が進んでいる、ととらえる。そして、他方では、人びとを巧妙に管理する「環境管理型権力」がどんどん進展していっている。そういう図式ですよね。
「動物化」というのは簡単に言うと、「オタク」がゲームで快楽を貪るというような現象のことですよね。「人としてどういうふうに生きるべきであろうか」だとか、「何をなすべきであろうか」という問題意識が消失して……「大きな物語」の消失、というような言い方を東さんはしていますが……快楽をただ貪るだけの動物的状態になってしまっている。
もっと普通の見方をすれば、多用な価値観のもとに自分の趣味をどんどん追及できるになった、ということでしょう。その極端な例がオタクということになるんだろうけれども。別に「動物化」しないで普通に趣味を追究しているだけの人もたくさんいると思う。でも、東さんは、「動物化」という現象として、それをとらえようとしている。
で、そのように、一人ひとりが自分の趣味を追究できる、けっこうな社会であるように見えながら、その背後に「環境管理型権力」というのが出てくるという。一人ひとりが趣味に没頭している背後で、ネット技術を活用したセキュリティのシステム、管理がどんどん進展していく。
こんな話が出ていましたよね。ネット上の本屋さんで、アマゾンというのがある。僕も非常に愛用しています。最近、本屋に行く時間がないもんですから。で、そのアマゾンで続けて本を頼んでいると、過去に注文した本の記録から自分の好みの傾向が分析され、「あなたにおすすめの本」というリストが送られてくる。
それと、ネット上の問題としては、「掲示板」のことにも触れられていました。無記名で自由に意見を書き込んでいるつもりでも、かなりな程度で追跡可能だという話がありました。警察でも企業でも、違法かもしれないけれども、その気になれば、そうした書き込みから、だれが書いたものかということが相等程度分かってしまう。
そういうように、ネット上では自分のやったことの記録、「ログ」が、意識しないうちにとことん残ってしまっている。そうした記録をもとに、アマゾンのようにお勧めの本のリストが「サービス」されてきたりもするのだけど、同時に、気がつかないところで自分の行動を管理されているような気持ち悪さを感じてしまう場面が生じてくる。
つまり、今のネット社会というのは、たしかに便利ではあるのだが、何をやってもウェブ上にログが残り、それを通して本人がいろいろな形で同定されてしまう可能性がある。これはけっこうやばいんじゃないか、というのが彼らの主張だよね。
で、東さんは、そうした環境管理型権力を、「匿名性の自由」を奪うものだとして、問題視する。えーと……こんな言い方をしているんだよね……「これは僕の予測ですが、近い将来に、監視カメラと携帯電話の個人認証か何かを組み合わせて、歓楽街に中高生が入ると自動的に近くの交番に連絡が行くとか、そういうシステムが作られていくと思います。これが、今の時代の気持ち悪さです。僕たちは、いつどこにいっても匿名になれそうにない社会を作ろうとしている。」(『自由を考える』P64〜65)
犬 自由といえば、たとえば「表現の自由」というように、自分自身の意志のもとで、何かを積極的に企てていくことを、まあふつうはイメージする。今の社会の場合、そうした自由を阻害する要素はだんだん減ってきている。好きな趣味に没頭して生きることもできる。でも、あからさまに自由がコントロールされるようには感じさせずに、ネットによる情報管理などで、行動可能な領域を囲い込んでしまうような権力がその背後で蠢いているんじゃないか。「それやっちゃだめです。反則です」と、ガツンとやられたり、「これやっちゃだめなんだろうな」と自分からセーブしたり、あるいは「なんでいけないんだよ」とそれに反抗しようとしたり、……そういうように明確に意識できるものではない、「見えない権力」のようなものが、この社会を規定しはじめているんじゃないか。そうした権力は、主体的に行為し判断し、という意識的な「自由」ではなく、そうした意識的活動を可能にしている基本的な条件である「匿名性の自由」というようなものを、人びとから奪っているんじゃないか………というような論ですよね。
研 そうだね。彼らの頭の中ではこうなっているんだと思います。これまでの「規律訓練型権力」……というのはもともとはフーコーの言葉ですけど……というのは個人の内面に道徳を入れ込む権力である。「人は社会のために、これこれしなくてはいけません」というように、道徳性を人間に入れ込む。そのことによって権力は社会を成立させていく。それに対して、「環境管理型権力」は、個人の内面に規範を植えつけるという形ではなく、ネットワークのシステムやセキュリティのシステムで、自ずと巧妙に管理していくようなものだ。「快楽機械」となり、動物化していく人びとに対して、道徳なんていうことを持ち出さなくても、外側から纏め上げることができるような装置、システムをつくっているんだ。……だいだいこういうことなんでしょうね。
ネット社会の「問題」、ほんとうはどこにある?
研 だけど、根っこから考えてみるとさ……今のネット社会って、何がどの程度危険なのかということを、まずきちんと冷静に考えないといけないんじゃないかなと思う。……そこらへんのところ、犬端くんの場合はどう思いますか。
犬 うーん。そうですねえ……。こうして、ホームページの管理人などやってはいるものの、実はあまり、パソコンですとかネットですとか、詳しく分かっていないし、それほど活用しているほうでもないんですよねえ。ネットで買い物をすることもほとんどありませんし……本くらいでしょうかね。ちなみに僕はアマゾンではなく、「本やタウン」というのをよく使うんですが、いまのところ悲しいかな嬉しいかな「お勧めのリスト」というのを送っていただいたことはありません。
ですから、「ネット社会の問題」に、切実に立ち会わされたような経験はないです。けれども、ネットを使って何かをすれば必ず記録が残ってしまうし、それをもとに自分の行動が管理されたり、あるいはその記録をもとに、「あなたはこういう人です」的な像を押し付けられたりしたら、たしかに気持ち悪いよなー、ということは十分に想像できる。ですから、今後のネット社会の問題を輪郭づける、という点ではこの本から示唆を受けることも多かったです。
ただ、そうしたネット技術を駆使した「環境管理型権力」なるものが、「実は」人間のあり方を規定しようとしているのだ、という論の立てられ方をしてしまうと、「それ、やっているのはだれ?」というような素朴な疑問を感じてしまう。また、そうした権力によって、「匿名性の自由」……というのが東さんの言い方で、「根源的偶有性」……というのが大澤さんでしたよね……といった、積極的な形では規定できないんだけれども、それでいて他者への共感や、想像力の地盤となる「何か」がダメージを受けてしまう、という全体の論の構図にしても????という印象を受けてしまいました。
ネット上のコミュニケーションは、自分の好きな形で、好きなように人と接することができる。価値観の全く違う人と、ときにはお互いの自我を削りあうような過酷なやりとりを通して、なんとか意思疎通をめざさなければならない、というつらい場面を意識的に回避することもできる。また、掲示板などで、自分の生身の部分は傷つかないまま、言いたいことを好きに主張できる。……新しいメディアがもたらしたそうした環境が、ときに自己意識を肥大化させ、他者への共感、想像力を欠落させるような事態をまねくことがあるんじゃないか、というような話だとしたら理解はできます。
ただ、それにしても、ネットを通して、お互いの興味の違いや価値観の違いを積極的な形で論じ合い、いい意味で刺激を与え合えるようなコミュニケーションを形作っていくことだって十分に可能ですよね。実際にそうしている人たちだっているわけだし。むしろそういう方向へと、ネット社会を構想していく視点を明確にもっておくことが大切なような気がする。
新しいメディアがもたらしている環境、影響力を、「外側」から見取っていく視線は大事だし、ときにはその負の側面を冷静に判断していくことも大切だと思います。でも、それが、「権力がメディアを駆使して、人びとをコントロールしている」という図式を描くことに終始してしまうんだとすれば、意味をもたないと思う。……これって先回の、「メディア論」についての語りおろしで、西さんがおっしゃっていたことですけど。
その点でいえば、旧来のような、……たしか「古典的な」っていう言い方がされていましたが……権力観からいまの現実をとらえようとすることはナンセンスじゃないか、というふたりの直観はとてもするどいものだと感じました。でも、結局のところ、新しい権力図式を立て、そこから現実を把握しようとする姿勢は変わらない。
「匿名性の自由」「根源的偶有性」というような概念化にしても、現代思想の文脈から時代の問題をとらえる、という側面から見れば、きっと鮮やかなものなんでしょうが、「他者への想像力が弱まっているとしたら、それはなぜか。どのようにしたら回復できるのか」というように、現実的な問題を考察していくうえでは、具体的な手がかりを与えてくれるようなものには……僕の場合は感じられませでした。
研 そうですね。東さんは、「匿名の存在」つまり、何者でもないものであるとき、人ははじめて「わたしは、かくかくしかじかの者なんだ」というアイデンティティから解放されるという。で、今の社会は、その「匿名性の自由」という大切なものを侵害している、これはまずいぞ、という主張ですよね。
「匿名性」という感覚は分かるし、僕も、そうしたなんでもないボケッとした感じというのは好きです。でも、東さんは、こうした「匿名性の自由」が他者への共感や想像力を支えているし、共感というものが最低限成立しなければ、社会そのものが壊れてしまう、という言い方をしている。それ、全然まちがっていますね。
人間にとって他者への共感や想像力が必要だというのはその通りです。「彼も自分と同じような人間であって、僕と彼は違うけれども、同じ立場に僕も置かれたら、ひょっとして同じことをやってしまったかもしれない。」そういう……東さん、大澤さんが「交換可能性」とか「偶有性」とかいう言葉でいっているようなものがなくなったとしたら、確かにまずい。例えば、オウムみたいなのが出てきたとしても、「あれは自分と違う、変な人たちなんだ」というだけで終わりでしょう。「もし、僕がそういう立場だったら」という可能性を想像できなくなったとしたら、非常に問題ですよね。社会が成立しなくなるというより、「不都合な奴、お前出て行け」という社会になってしまうわけだから。ですから、彼らの主張が、そうした事態をとらえようとしているんだとすれば、きわめて正当なものだと思います。
でも、「匿名」で「何者でもない」ときに、そういう想像力が育つかというと、そんなことはありえない。「ああそうか、彼と僕は違う。でも、彼がそう生きねばならなかった理由は分かる」という感度は、他の人たちと実際につきあう中で、はじめて育っていくものだからです。それが「匿名性」から出てくるというのは根本的にまちがっているよね。
犬 そうですね。「他の人も自分と同じように、一つの世界を定立する独立した主観なんだ」という想像力をもてることが、社会的な関係を築いていくための前提になるということに関しては、その通りだと思いますが、そうした想像力って、具体的な相手との交流の中で、自分とは違う価値観と出会い、そこから自分のありようを見つめ直していくということの積み重ねの中で生まれていますよね。そうした経験を通して、「自分は、この自分でしかない」ものでありながら、同時に「他の多くの人たちと同じようなものなんだ」という想像力が育まれていくのであって、「根源的偶有性」なり「交換可能性」なりというものがまずもって基盤としてある、とは考えられないです。
研 だよね。ただ、それを踏まえた上で、ネット技術の進展というのが、いったい何を犯しているのかということを、彼らの路線に乗らずに考える必要はあるな、ということは感じています。
そうすると……ログが残るということはすごいことかもしれないよね。かつては、喋り言葉しか存在しない社会があったわけですよね。そういうときに、人々の言動というのは、ほぼその場で消えていた。ときに人々の記憶の中にうっすら残ったりすることがあるくらいで。
でも次に文字が出てきて、何年にだれだれが何をしたかということが、記録に残ってしまうと、それをなかったことにはできなくなる。メディアというものは……文字をそのいちばん最初のものだとすると……そのように、生活の前提条件を大きく変えてしまうわけですよね。文字がない時代は、かつて誰かが誰かを殺したことがあり、この家とこの家との仲が悪くて、というようなことがあったとしても、30年、50年経てばいつのまにか風化してしまう。場合によっては伝説に姿を変えることもあるかもしれないけれども、基本的に、ものごとは忘却されていく。そうしたことが前提となる社会なのですね。
ところが文字ができると、文字に残ったものは、一つの事実として同定され、それは覆されない……というか忘却されなくなる。
でも、文字の場合、人間の生活を覆い尽くして、逐一を記録することはありません。政治的に重要な行為であるとか、犯罪であるとか、ごくごく狭い部分しか記録には残らない。
ところが、ネット技術のすごいところは、……例えば僕が犬端くんに出したメールは、僕のパソコンには全部残っていますから、或る人に対して、どういうことを考え、語ってきたかということが全部辿れてしまうことになる。すべて記録に残ってしまうんですよね。もちろんふつうの手紙だって後に残るものではあるけど、どこかにしまい忘れちゃうことがあるし、ないしは捨てちゃったりすれば終わりだし。
そういう意味で言うとメールだとか、僕の場合だったら今まで纏めてきたレジュメやら、本の原稿やら、そうしたログがハードディスクに全て記録されるというのは、いまだかつてなかった条件だと思うんですよ。
で、そういうデジタルデータは、だれかが、僕のパソコンに外からアクセスできれば、引き出せてしまう。自分の全ての記録が、自分の知らないうちに、人の手に渡ってしまうかもしれない。そういう怖さが生まれてきているわけです。
でも、便利さということについてもすごい。僕なんかだと、これくらいの小さなメモリー、クリップドライブという名の商品なんですが、250メガぐらい入るんですよね、そのなかに今まで書いてきた、全ての文章が入ってしまう。これをぼくは必ず持ち歩くようにしています。地震なんかがあって、自分のうちのパソコンだとか、大学のパソコンがおじゃんになっても大丈夫なように。
で、それをもっていて、必要なときに検索すれば、ああ昔こんなレジュメをつくっていたんだということが……忘れているのもありますからね……すぐに分かる。その便利さというのは、ほんとうにすごいと思わせるものがある。
パソコンを使う以前に、ノートに書きためていたようなものって、自分でもほとんどアクセスしないんですよね。どこに何が書いてあるのか、すぐには思い出せないでしょう? でも、デジタルデータになって残っているものは常にアクセスできる。自分が思わぬレジュメをつくっていたり、何かの話題に対してコメントを書いていたりするのが、検索するとさっと出てくる。
ですから、ものごとの考え方としては、便益の部分と、それによって犯されているものを比較考量することが大切だと思います。ネット技術によって、ほんとうに侵されているものがあるとするならば、それは何であり、それを守るために僕らはどのような工夫をしなければいけないか、というように問題を輪郭づけていく必要がある。
そうした方向で考えなければならないと思うんだけど、この対談ではね……ネット技術の進展は危ないぞ、というような「感じ」「雰囲気」は伝わってくるんだけど、その進展が一体何をもたらし、反対に何を脅かそうとしているのかということについては、慎重に考えられている感じがしない。具体的に考察を重ねていくということをしないまま、「匿名性の自由」というような抽象的な話にさっとすっとんでしまっている。そこは議論として荒い、というか、ちょっと粗雑な感じがしてしまう。
実感を検証する「内省」
犬 彼らの……というか大澤さんに対して特に強く感じるんだけれども……論の組み立てって、権力の「構図」ですとか、社会全体の「構図」をまず先に描き出しておいてから、それとの相関関係で、個々の事象や、人間のあり方をとらえようとすることが基本ですよね。そうした「構図」が、ときには、時代の置かれている状況をくっきりと描き出したものとして感じられる場合もある。例えば、東さんの「大きな物語」の消失、大澤さんの「第三者の審級」というような状況把握は、価値観が多様化する一方、共通の意義や目的を簡単に見出しにくくなっている社会の現況をよくとらえているように思います。また、そうした状況は、「自由」がある程度行き渡る中で生じてきたものでもあり、本来的なものが喪失された事態であると嘆いたり、「輝かしい国家の物語」的なものを再生し、生きる目的を「外側」から方向付けていこうとしたりするのは、不可能だし意義をもたない……というような東さんの主張にも、僕自身は同感します。
でも、逆に、彼らの描き出す「構図」が、ポストモダン思想の枠組みにいきなり直結してしまうような印象を受けることも往々にしてある。例えば、「匿名性の自由」という、意識からはとらえられないもの、あえていうなら「無」としかいいようもないものが、実は社会的な生を営むうえでの基盤となっている、というような言い方にしても、東さん自身が批判してきたはずの、ポストモダン思想の「否定神学」的枠組をそのままなぞっているような気がしてしまう。読む側としては、どのような論理の筋のもとに、そうした主張が展開されているのか、ということをアタマで何とか「理解」はできるかもしれないけれども、状況に対する内在的な了解へとは結びつかない。
また、「環境管理型権力」という見えない権力が、人々の生を席巻している、という論の立て方というのも、「隠された悪」が人々をコントロールしている、それに立ち向かわなければならない、というような……ちょっと、乱暴な言い方ですけれども……SF的な想像力のようなものが背後に透けて見える感じがしてしまう。
もっとも、彼等は……たとえば、さっきいった「国家の物語」なんかにしてもそうですが……価値観が多様化・複雑化する一方で、SF的な、バーチャルなイメージによって形成された「わかりやすい」物語に、人びとが吸引されてしまうことの危険性を、この本の中では再三指摘しています。ですから……ものすごく意地の悪い言い方ですが……意識的には批判しようとしているものに、どこか似てしまっているような印象を受けてしまう。
研 そうだね……。人間がコンピュータによって管理されるというのは、SFの世界ではよくあったけれども、ある意味でそういう像だよね。簡単に言うと。
その像が、かなり先行的に頭の中に入っていて、そこから物を言っている感じはするね……。それでいうと「動物化」だってね、そういう言葉があてはまる人もいるとは思うけれども、「そんな動物化してないよー」っていうのが僕の実感です。
東さんの場合、ネット社会の最先端を生きている人だとか、オタクと呼ばれているような人たちのことにも詳しいと思うし、ほんとうに「動物化」しているなーっていう人たちとよく接しているのかもしれない。でも、それが現代の若者の、基本の姿とはとても言えないと思う。ネットにはまっている学生っていうのはいますよ。けっこう。でも、どういう人たちでも、生身の人間の愛情は欲しいし、いっしょに考えたり、何かをやったりする仲間は欲しいし……将来おれどうしたらいいんだろうかな、と考えたり、死ぬまでの人生、どういう生き方をしていけばいいかな、と悩んでみたり、そうやって生きている。そういう姿は全然変わっていない。
でも、東さんはオタクの世界に親しいから、彼にとっては「動物化」という現象はとてもリアリティがあるのだと思う。それと、SF的な想像力がビタっとくっついちゃっている感じがします。だから、冷静に、ネット社会のどこがどのように危険になっていくのかということを、ちゃんとクッションを置いて、考えられていないという感じがすごくするなあ……。
さっき言ったように、徹底的にログが残ってしまうことや、どこに行ってもその人が同定されてしまうという個人認証の問題ですとか、それは確かにいやだというようには感じます。でも、そういう場合にできることというのは、たとえばある局面においては技術を制約していくような取り決めをつくる、というふうに、なんらかの形で対策を立て、具体的な手立てを考えていくこと以外にはないわけですよね。
これって基本的には脳死の問題と似ていると思う。今までできなかった臓器移植が、技術的に可能になった。でも、それには新鮮な臓器が必要である。じゃあ、脳死という概念を作ってしまえ。でも、体が温かいのに、死んだといわれても、納得できない人がいる。……というのが脳死議論だったわけですよね。
新しい技術が生み出されると、それまでの常識というか、前提条件を壊してしまう面がある。ネットの問題にしても、文字のない世界に文字が出てきたほどは変化しないかもしれないけど、たしかに僕等の生活の前提条件を、大きく変えるようなことが今進展していると思います。論者によっては産業革命に匹敵する変化だ、という人もいる。そのとき、何をどうコントロールすることによって、私たちのこれまでの生活とバランスをとればよいか。基本的には、そういう問題として考えるべきだと思う。
僕自身は、今ここでネット社会の何が危険で、ということを明確には言えない。さっきから言っているように、ログが徹底して残っちゃうことの不気味さくらいしか思い浮かばない。けれども、ネット社会における技術水準がいったい何を可能にして、その一方で何を脅かす可能性があるのかを、丁寧に、かつ冷静に考えていかなければならないことは感じています。
そこのところがね……どうも東さんは、「動物化」の進展という、たぶん自分自身にとっての実感に、管理技術がソフトにかつ巧妙に人間を支配するという、かなりSF的な想像力がくっついて、それがまた「匿名性の自由」という話へと全部つながっていってしまい……論のつくりが、性急というか……直観でものを言っている感じがするんだな。
犬 直観という面ではとてもすぐれているとは思うんですよね。『存在論的・郵便的』以来おっしゃっている、「誤配可能性」を大切にしたい、なんてことにしても……論理展開自体は難渋でほとんどついていけないのだけれども……要は分析的・合理的な思考に収斂し得ない実存的な感覚を生かしたい、という動機から言っていることなんじゃないかな、と思わせる節もあり、なるほどなーと思わせられるところも多い。
研 そうだよね。ぼくは東さんはちゃんとモチーフがあって語っている人だと思う。
犬 ですよね。だけど、そうした直観を反省的にとらえかえして、より普遍的な考察へと押し広げていくというような思考を、ストイックなまでに禁じ手にしてしまうので、その直観が、自分が学問的に追究してきたポストモダン思想の枠組にいきなり直結したり、やはり自分の中に出来上がっているSF的なイメージに結びついてしまったりする。そうしたことが、東さん自身もめざそうとしている、現実をみすえた思想への展開を阻んでいるんじゃないかという気がします。
「動物化」ということについても、コンピュータゲームに埋没するような生活、身体的な快楽を受動的に享受するような生き方を生みやすくしている環境、時代状況というのたしかにあると思います。ですけれども、西さんのおっしゃるように、「動物化」が一般的な現象だとは思えない。他の人から認められる、よりよい自分でありたい、というような欲望はやはり基本的なものとしてあると思います。東さん自身も、「動物化」することで、社会的な感度をまったく失ってしまうような事態はよくないなー、という実感を口にしている。でも、同時に、主体的な姿勢で自ら生を方向づけしていく、という人間のあり方は、近代社会のなかで形づくられたものにすぎない、というポストモダン的な前提があるせいか、そうした主体的な人間像とは逆向きにある「動物化」を肯定的にとらえようとしているような感じもする……。そうなっちゃうと、やっぱり、先への展開は止まっちゃいますよね。
研 うん。東さんは、自分自身の肌感覚、リアリティを大事にしている物書きだと思うんですよ。そこが信用できるところでもありながら、同時に弱さでもあると思う。なぜかというと、自分の実感を検証していく、ということをしていかないと、実感は絶対化さてしまうから。彼にとっての「動物化」は、自分自身にとってはリアリティがあるものだと思う。でも、その実感が、自分の場合はどうやって生まれているのかということや、この世に生きている他の多くの人の実感と、どのように通じたり、ずれたりしているのかということを検証していかないといけない。それがないと、自分自身の実感というのは、もう無前提に正しくなってしまうわけなんですよ。自分の実感にたよって物を言っている分、自分として絶対これに芯があると思っている。ある意味では確かにあるわけですよ。でも、それと違う世界観が出てきた場合に、別の実感からたってきたものとは、バッティングして、通じ合っていく可能性がなくなるでしょう。
で、「内省」は、実感をただ肯定するのではなく、実感を掘っていくことであって、いわば実感を検証する作業なわけですよね。
内省というのは、二つの方向から自分の感受性を検証していくことだと思う。一つは、自分自身の「奥」に入っていて、自分自身がもやもやしていることの核心を取り出してく。もう一つは、自分のこの感触と、他の人が生きている感触との間には、いったいどれくらいのずれがあるのか、あるいは同じところがあるのか、ということを検証していく。そうした作業がないと、自分がものをいうときのリアリティは、簡単にいうと独断的になるわけですよ。
だから、東さんには、内省という方法をもういちど見直してほしい。内省の視点を繰り込まなければ、この先思想が展開していかないと思います。非常にいい感度をもっているだけに、もったいない。
「動物化」という切り口にしても、ある面では鋭いと思う。でも、自分のそうした実感をいったん突き放して、世間を生きている多くの人と実感とどのような関係にあるかという視点を繰り込んでいかないといけない。思想というのはそういうものだと思います。
……などと、批判すべき点はきちんとしなけば、と思ったんで、けっこう厳しいコメントになってしまいましたが、あの本読んでみて、東さんについては僕、好感を抱きました。自分でちゃんと考えていて、自分の場所から喋っているという感じがよく伝わってくる。いちど、ちゃんとしゃべってみたいなあ、と思いました。
犬 東さんが、西さんと論じ合うような機会があったら、展望が開けていくんじゃないかという感じはしますね。
研 かなりの論争になるかもしれないけれども、少なくても空理空論を振り回して、空中戦をやっているという感じにはならないとは思います。