もぎたて語りおろし(2003/8・13出荷)



生の条件として「メディア」を考える(2003/5・16収録)

 
……西研  
……犬端(管理人) 



どんな生活をおすごしですか

 

 朝日カルチュア―での講義や、対談のお仕事、研究会などのご用事で上京された西さんをつかまえての語りおろしです。タイトなスケジュールでものすごくたいへんそう。なのに、ほとんど寝る間もないまま、こうしてつかまえられていただき、ありがとうございます。

さて。精華大学に着任され、川崎/生田から京都/岩倉へお引越しされて3カ月。その後どんな生活をおすごしでしょうか。……なんて話から始めちゃったりして。


 

 子育てと、学校での授業と準備とで、まるで暇のない生活を送っています。

 

授業では、講義を二コマもっていて、一つは「社会メディア論」……着任した社会メディア学科の必修授業ですね。

もう一つ、「哲学の歴史」っていうのをやっていて、こっちは、竹田青嗣さんたちとつくった『はじめての哲学史』(有斐閣)をテキストにしています。

 

自分たちの作った本を教科書にするというのは、少し罪深い気がしないでもありませんね。基本的に、今まで自分が出してきた本というのは、「これいいなあ」という自由意志で、選んでもらってきたと思うんですが、テキストにすると、この授業をとった人は、有無をいわずに買ってください、ということになるでしょう。そういう体験って今までしてこなかったんで、なんかこう微妙な違和感がわいてくるというか……

 

で、なるべくそれにそって、と思っていたんだけど、やっぱり、授業に向けて、新しくレジュメは作っちゃいます。いざ授業やるとなると、これも付け加えたいな、ということがどうしてもでてきちゃう。古代ギリシア哲学からはじめるわけですけど、パソコン検索してみたら、ピタゴラスについて昔作ったことを忘れていたレジュメなんかが見つかったりして……。

 

 なんか面白いですね、パソコンが自分の「無意識」みたいで

 

 ねえ。自分の無意識貯蔵庫みたいでね。それで、そうしたレジュメをもと、授業に向けてまた新たにストーリーをつくってみよう、みたいなことをしてしまう。まあ、しょうがないんでしょうねえ。

 

 「そうしてしまうわたしがいる」みたいな感じですか。

 

 うん。……あと、20人くらいの学生さんたちの、基礎ゼミというのを持っています。ですからトータルは3コマですね。新任だし、「社会メディア学科」そのものが新設学科で今年は1年目なので開講されていない科目も多いんです。だからコマ数的にはかなり少ないですよ。

 

 でも、それだけに、1からカリキュラムを作って授業を組み立てていかなければいけないわけですよね。

 

 そうですね。学科の必修科目である「社会メディア論」は、ひさびさに社会科学系の視点で授業を組み立てている……というより、社会科学そのものの授業を行うこと自体初めてかもしれません。今までも、哲学の授業をやりながら、マルクスやウェーバーの話をしたりしてきたけど。

 

必修科目であることを考えると、もちろん基礎知識としてマルクス、ウェーバーなどがどんなことをしたかというイメージをもってもらうのも必要だけど、それ以上に、人間と社会を考えるうえで、とっても大事なセンスみたいなものをまず伝えていきたいと思う。ものを考えるセンスをやしなってもらいたいと思います。

 

テーマはいちおう、「近代とは何か」ということにしています。哲学からみた近代というと、「自由」がキーワードになりますよね。ルソー、カント、ヘーゲルという人たちによって、どのように「自由」を基盤にした思想が育まれ、深められてきたのかということから、まず近代をとらえたい。同時に、近代的な生活のあり方ですね。分業と交通が広がり、資本主義の経済システムができあがっていく。政治的にいえば国民国家というシステムが形作られていく。そうしたことも含め、近代的な生活のありかたをあらためて考えてみると、そこにはこんな特性があり、ぼくらそうした中で生きてるんだよね、という話をしようと思っています。

 

そうすると、けっこう調べなければいけないこともある。それに、どのように伝えたら効果的なんだろうか、ということも試行錯誤しています。力んじゃう面もあるし。あまり力むと、濃厚になりすぎてかえって学生さんたちもたいへんだろうし……

 

でも、こうして、社会科学の視点で授業を考えるのって、自分にとっては面白い体験ですよ。ずっとこの語りおろしでも言ってきましたが、哲学は「内省」の方法を使いますよね。自分の世界経験を内省していって、そこから一般性を取り出していくという、というやり方を取る。

 

 現象学的にいうと、本質観取(この言葉になじみのない方は過去の語りおろしをご参照ください)ですよね。

 

 そうですね、本質観取。一方、社会学は、意識を外から見る方法、外部から見る視点をもって行う。人間と社会を考えていくうえでは、両方とも必要な方法です。その両方の方法でいうと、今まではずっと内省の方向に力点をかけてきたように思う。今回、この授業を構想していくことが、あえて意識を外から見ていくこと、客観視してみることの必要性や動機、意味を考える契機となるように感じています。社会学や、社会そのものに対して、久しぶりに、内省とはちがった方向からせまっていく思考を辿っているという感じがあります。

 


「外側から見る」ことが可能にするものは?

 

 これ(といってプリントを渡してくださる)、有山輝雄さんという方の、「歴史の中の現代メディア」という、あるメディア論の入門書(『現代メディアを学ぶ人のために』世界思想社)の冒頭部分です。「口頭の文化」すなわち文字のない文化に、文字が入ってきて、さらに大量印刷による活字メディアが入ってきて、ジャーナリズムがでてきて、テレビなどのマスメディアが出てきて……というように、メディアの歴史を一挙にとらえていく。短い文章だけども、よくまとまっている。テキストとして使おうとしているんですよね。

 

面白いなと思ったのは……例えばヘーゲルの場合、人間の精神の展開をもって世界のありようをとらえていきますよね。人間の意識、人間の精神は、対象を意識すると同時に、「そうして対象をとらえていること」自体を意識できる。「対象意識」自体を意識できる。そういう精神が、さまざま概念をつくりながら世界をとらえる見方を生み、それが幾重にも折り重なり、累積していくなかで、複雑な織物のような人間的世界が形つくられている。その累積をとき解きながら示していくのが「精神現象学」なわけですよね。

 

 ああ、そういうことなんだ……。(じつは「精神現象学」をそうとう苦労して読んでいるだが、そのエッセンスがこのように端的に整理できることに感心して、一瞬「とまって」しまう。)

 

 人間の精神に、「ある対象をとらえている。そのあり方自体をも反省できる」能力がある。それは自分の意識体験を内省してみると、まちがいなくそうなっている。でも、「メディア」という視点からあらためて見直してみると、気づかされることがでてくる。そうした反省能力は、文字メディアによって、圧倒的な力で発揮できるようになるんですよ。声だけのメディアだと……ふつうぼくらの日常感覚では、声をメディアとはいわないけれども、声もそれを通して自分の意志を伝えるメディアとして考えれば……話したことに対して相手が、「おお、わかった」とか「うーん面白い」とか、反対に「そこが分からないよ」「納得できないよ」とその場で反応してくれれば、それでこと足りる。しかも、そのつどそのつど消えていってしまう。でも、自分の考えや、獲得した知識を文字で表現すると、不特定多数の人間が、時・場所を越えていつでもそれを参照できるようになる。書かれたものを参照しながら、「でもそれってこういう考えもできるよね」とか、「これってここがおかしいんじゃない」とかというように、冷静な理論的な反省を加えられるでしょう。

 

人間に反省能力があるのは、言語をもっているからというのが竹田青嗣さんや僕の説です。でも、ただ言語を持っているだけでは、その反省能力は十分に発揮できない。文字という形で、ある命題なり、人の言葉を記録することで、それに対して態度がとれるようになるんですね。

 

いつごろから文字を使うようになったかは定かでないけれど、文字があったので哲学が成立し、深まっていったということに、ほぼ間違いはないと思います。しゃべりながらお互いに考える、というのももちろんありますが、それを書き留めておくことで……ソクラテスは自分の考えを文字として残さなかったみたいですが、プラトンがその考えを書き残したわけですし、アリストテレスは、それまでのギリシア哲学の人たちの考えを集大成して書き留めておいたわけですよね。……前世代が考えたり発見したりしたことに対して、批判的な態度が取れるようにもなる。ということは、こういうことがあって、そこからこういうことになって、というような「歴史」の意識も出てくるだろう。

 

このように文字というメディアが入ってくることで、人間の精神のありかたは明らかに変容していく。もともと潜在的にもっていた反省能力が、文字というメディアを手にすることで花開く。さらに大量印刷を可能にする技術が生まれてくると、印刷メディアを通して、共通のテーマをめぐり、それまで対面でしか成立しなかった「議論」する空間が、遠くに離れていても形成される。お互いに批判的な、ある種クールな立場を持って、お互いの論理をたしかめ合うことができる。いわゆる公共圏の成立ですよね。

そう考えると、思考という人間の営み自体が、印刷メディアの発達に支えられている、というところはありますよね。

 

あとね、面白いと思うのが……ひとりで黙読する経験が個の自覚を生む、ということがよく言われるんですよね。基本的には大量印刷が可能になってからの時代、ということになると思うんですが。

「読む」ことイコール音読だった時代は長かったみたいです。そうした時代、読むということは基本的には「読み聞かせる」こと、つまり、社会的活動であり、人々がいるところで読む、ということだったんですね。

 

 大量印刷が、一人ひとり、それぞれの本を手にすることを可能にし、黙読の機会を人々にもたらすようになった、ということかしら。

 

 そうです。で、ひとりで黙読するというのは、自分だけの心の世界を獲得することにつながりますよね。まわりの人たちとの現実的な関係では、みなそれぞれの役割を担って生きるわけだけれども、それとは違う、いわば「自分だけの世界」を育てていくことができる。

ひとりで本を読むことって、自分の中にある、これ変だなあという思いや、人に言えないような思いに向き合っていくきっかけになるものね。例えば、小説を読みながら、「ここには自分がいる……」とか、「自分が人に言えないで抱え込んでいたのは、こんなことだったんだ。この人は自分と同じ思いを言葉にしてくれている」って感じること、あるでしょう。

 

 本を読むことの動機って、そういうことが大きいように思います。

 

 そうだよね。本を読んで深く共感したり、励まされたりすることがあるから、自分の中にある微妙な感覚や、苦しみ、人には言えないことに焦点を当てることができる。「みんなはそう言うけど、ぼくはどうしても納得できない」というところに踏みとどまって、考えを深めていくことができる。だから、自分の内面世界というのは、活字メディアがまったくないと、すごく育ちにくい気がするね。

 

そう考えると、メディアに着目してみるというのは、「外側」の視点から、意識を可能にしている条件を問うていくことですよね。もちろん、メディアが分かれば人間の精神が全部解明できるとは思いません。でも、ぼくらが、ごく自然に自分固有の感覚を大事にしたり、それを育てようとしたりできるのは、一つには小説などの本がいつでも手に入り読めるという、近代社会の基本的な生の条件が前提となっている、ということは言えると思う。

 

 活字にしろ、マスメディアにしろ、それを生み出し機能させている精神的活動……というか、人々の必要や要求と不即不離なものとしてあると思うし、内在的な考察をぬきにして、その本質には迫れないような気がします。でも、たとえば「大量印刷可能な本」というメディアが、具体的にどのように機能しているか、ですとか、ある時代にどのような本が、どんな人にどれだけ読まれ、人々のどうした活動を誘うことになったのか、ということを、客観的な視点で考察することが……精神的活動というか、意識体験というか、そういうことを枠付けしている条件をとらえていくためには、必要かつ有効だ、ということでしょうか。

 

 そうですね。ぼくは、外からの見方というのが絶対だとは思っていないし、人間がどういう生き物かということは、内省しないとわからないと思っている。そうではあるのだが……例えば、マルクスという思想家は、それまで哲学者たちになかった視点をもって出てきたと思う。ヘーゲルまでの哲学者は、基本的に内省を通じて考えてきた。だから、意識そのものを可能にする条件、たとえば自給自足的な形で経済的な営みを行う社会から、さまざまな分業があり、貨幣がそれを結んでいるという社会に移行することが、人々にどのような生活の条件を与え、それがどのような意識のありかたに反映されていくのか、というような発想は、マルクスがはじめて、自覚的に出したんだと思うんですよ。

 

マルクスはそれを、「『精神の自己展開』としての形では、歴史は描けない」という言い方で表現する。つまり、ヘーゲルの場合、精神が自分の自由を自覚していくストーリーとして歴史を描いたわけですが、マルクスは、「人間の精神が大きく変化するのは、それを可能にしている生の条件が何かをきっかけとして変化するからだ。人間の精神が、自動的に、自由を求めて変化していくわけではない」とする。これは、ヘーゲルの考えに対する反措定を出しているわけです。

 

ヘーゲルだって単純に、人間の精神が自動的に変わっていくと言っているわけではない。ぼく自身は、ヘーゲルの言っていることには、相当の利があると思っている。でも、人間をとらえるとき、その人間が置かれている生の条件というものは必ずある。それは、自分たちには自明なものなのでなかなか気がつかないけれども、この生の条件というものなしにその人の世界像は成立しない。そういうことを、われわれが人間と社会をとらえるときに見逃してはいけない重要な要素として、非常に明確に呈示したのがマルクスの功績だと思います。

 

マルクスの場合は、彼の生きた時代が抱え込んでいる困難を生み出したのは、経済のシステムなんだ、というところから発想する。だから、経済システムの問題点を洗い出し、その変革をやらなければいけない、経済システムを変えなければ人間の精神は変革されない、そう考えないと未来社会は構想できない、という道筋をたどっていくことになる。

それがわりと単純に思えるところもあるので、「社会変わればみんなハッピーになれるのかよ!」という反論も当然でてきてしまうことになる。でも、僕らが、より公正な、よりのぞましい社会を構想しようとするならば、僕らの生を可能にしている条件が、いまどうなっていのか、ある不均等なり不公正さが生まれているならば、それはどこに原因をもっていて、どんな形にすれば修整できるのか、ということを考えなくてはならなくなる。そうしたとき、実証科学としての社会科学の方法は、やっぱり必要になってくると思うんですよ。

 


内在を抜きには語れない

 

研 ただ、『哲学的思考』(2001 筑摩書房)で何度も強調したように、社会科学の見方自体がひとつの世界像に支えられ、そこにはある価値観が無自覚のまま織り込まれているということが非常に多い。例えば、「この世界は不公正だ。それは、国民国家のせいだ」という世界像がまず先にあった上でなされる研究、つまり実証的な研究の顔をしながら、実はそういう世界像の傍証をしているだけの研究や理論も見られる。当たり前ですが、理論は絶対的な客観の写像(コピー)ではないのであって、その理論がどういう価値意識、価値理念に基づいているのか、そうして理論化することの必要性はどこにあるのか、多くの人を説得しうる根拠はなんなのか、といった考察を抜きにして、「社会科学の見方、社会科学の方法はすばらしい」とはとても言えません。

 

でも、今回「社会メディア論」を構想しながら、実証を含めた社会科学を、どのように展開すれば人間と社会を考えるうえでほんとうに有効なものでありうるのか、哲学的に位置付けていく必要性をあらたに感じています。『哲学的思考』の「社会の現象学」(第7章)でも取り組みはじめてはいるんですけど、もっと具体的な話題に即して、そのことを考えていくきっかけにもなるんじゃないかって、思っています。

 

「メディア論」についても、さっき言ったような、ある世界像をまずもって立ててしまう考えかたに出くわすことって、けっこうありますよ。例えばね、さっきの「印刷文化」のことに引きつけて言えば……人間の反省能力は、活字メディアによって可能になったものだ。人間の内面というもの、「個」の意識などというものは、そうしたメディアの効果で作り出された、いわば幻像のようなものにすぎない……そんなことを言う人がけっこういる。そういう論に対しては???と思うんですよね。

 

 そういうことをいきなり主張されると、「ああ、そうなんだ。今まで気がつかなかったけど、実はそういうことだったのか」って、捲き込まれてしまう場合もあるでしょう。自分も大学に入ったばかりのときだったら、着実にそうなると思う。(事実学生のころは、流行のポストモダン思想にしっかりはまった。)

 

 だよね。たしかに印刷文化、文字文化があって、はじめて自分の中で動いている微妙な違和感のようなものをはっきりさせることができるし……日記をつけるなんてことも大きいかもしれないよね。……日記をつけたり、本を読んで人の考えに出会ったりできることが、「このわたしの内面性の世界」をつくるうえでの大きな条件であるとは思う。でもね、そんなものはせいぜい印刷文化の効果が生んだものだよ、みたいな言い方で、僕らが内面世界で模索しながら、新たなる価値をつくりあげようとする営み、他人ともそうした思いを交換しながら、独特のコミュニケーションをつくりあげようとする営みを軽んじてしまうとするなら、それはとても貧しい発想だと思う。

 

竹田青嗣さんが、この間出した『哲学って何だ』(岩波ジュニア新書)の最後のほうで、「理解」というとても印象深いことをいっている。僕なりの考えにひきつけていうと、こんなことだと思うんです。

 

人が生きていくうえで、愛情の関係は重要だ。愛したり、愛され受容されたり、という関係がないと生きていけない。小浜逸郎さん風にいえば、「エロス的関係」ですね。それに、「社会的関係」も必要。自分がある集団の中で、役割を担っている、人から認められるいい仕事ができているということも、生きるうえでの支えとなる。でも、その二つは、近代以前の社会でも当然あるわけですよね。家族が拡大部族だった時代では、二つが両方一緒になっていたことも考えられるけど……そこでは家族は、愛情の関係であると同時に役割の関係でもあるだろうから……。

 

でも、近代人というのは、やっぱり、自分の中で、「これってどうなんだろう。変なんじゃない?」「むしろこうするのが、ほんとうによいことなんじゃないの?」というように考えるわけですよね。考えながら、自分としていい道を選び取っていこうとする。自分の中だけじゃなくって、ある特定の親しい人たちとは、そうしたことを語り合い、お互いに理解し合おうとする。もちろん反論される場合もあるし、「きみとぼくでは、こうした立脚点の違いがあるね」というようなことを確認しあう場合もある。でも、自分が世界に対してどうふるまおうとしているかという方向性や価値のあり方、なにをすべきか、なにがよいのかということを言葉にしてやりとりし合いますよね。
そういう、よりよいものを求めている部分を語り合い、理解し合える関係を築こうとすることが、自由の感覚につながるし、それは近代社会の特色としてあると思います。

 

つまり……何をいいたいかというと……「親は自分を愛するが、自分を理解するとは限らない」でしょう。ぼくの場合、親が自分を愛していること自体を疑ったことはない。それは幸福なことかもしれません。でも、仲がよかったかというとそうでもない。親たちは僕の考えようとしていることを理解する気がない。愛情はあるけれども、理解しようとはしなかった。逆に言うと、僕も親たちのことを理解しようとしなかったのかもしれないし、どっちもどっちなんですけどね。けっこう親子の場合、どういう価値意識をもち、どういう方向性を見いだそうとしているのかということを語り合い、理解し合える関係つくりにくいように思います。

 

また、たとえば会社の中で、責任ある役割を担い、自分の存在を承認されるということは、たしかに誇りになりますよね。ヘーゲルもいうように、市民社会の中では、ある仕事を得て、そのことを通じて承認されることは重要だと思う。でもね、仕事をこなしていく中で、これ、ほんとうにやっていいことなのかな、とか、このことにどういう意味があるのかな、とかね、そういう問いを抱え込むことってありますよね。

 

 ええ。非常によくあるように思います。

 

 あるいは、自分が責任ある役割を担うことは、誇らしいことであるけれども、同時にプレッシャーで苦しかったりする部分もある。そういうことって、必ずしも会社の人間とはコミュニケーションできないかもしれないよね。もちろんできる人もいるかもしれない。会社にもいろんな人がいるわけだから。

 

 そうですね。会社の中にも、自己を表現しあい、理解しあえるような人たちはいるでしょうが、そうした人たちとは、「ある役割を果たすことで全体の利益をあげ、評価を得る」という「社会的関係」とは別の部分で出会っているわけですから。

 

 そうそう。そう考えると、「エロス的関係」も「社会的関係」ももちろん重要だけれど、「自分はこのことを、このように考える」という価値の意識を表現したり、自分の内側で自分自身を方向付けようとするありかたを語り合える関係がないと、やはり息が詰まるわけですよね。

 

 そうですね。

 

 ね。僕らそういう生き方をしている。そうじゃない生き方ってできないわけですよ。それなのに、「個というのは、内面というのは、メディアによって作られた近代的な産物にすぎない」といって、それで済むと思っているんだとしたら、おいおい何をいっているんだよと思ってしまうよね。

 

 うん、そうですね。(先ほどから、「頷きマシーン」になっている。)

 

 自分の内側をあれこれ掘り返して悩んでいる人が、「君がグジュグジュ悩んでいるその『内面』というのは、メディアが作り出した近代的産物にすぎないんだよ。」といわれたら、一瞬は逃れられるような気はする。でも、実のところ、逃れられはしないと思う。

 

 このわたしという「個」を抱え込みながら生きることって、悩みや苦しみと同時に、喜びを得るための条件にもなっている気がします。より納得できる自分であろうとすること、そうあり得るのだということが、生きることを支える基本的な動力になっているように思う。

でも……そうかあ。「自分というもの」を抱え込んで生きるのって、苦しくてたまらないよ、という人には救いを与える場合もあるんですね。「内面は社会的な構造が生み出したものにすぎない」という言説が支持されることには、そういう背景があるんだ。

 

 うん。自意識の病に取り付かれていて、いつも自分のことをぐるぐる考えている人にとって、「内面や個なんてたいしたもんじゃないよ」っていわれると、一瞬は救われたような気持ちになると思うんだ。

 

現象学のような「内省」を方法とする学問が好きになれない人は、たぶん、自意識のぐるぐる回りに入っちゃう恐怖感があるんだと思う。自分の内面なんて見たくないよ、と思っているんじゃないかな。個人の悩みとか、そういうことは全部取り払ってしまい、社会の構造について語っているほうがずっとすっきりする。そういう人もいるんですよ。

 

 なるほどね……自分の内面、自分が感じたり考えたりしているその場所に徹底して、どうしてもこうとしか思えないこと、こうしたほうがよいと思えることをつかみとっていく。それを人と語り合い、よりたしかに表わしてくれる言葉と出会ったり、あるいは今まで意識できてはいなかったが、言われてみればその通りだとしかいいようのないような強い、本質的な考え方と出会ったり。そうした体験を通してより深い自己了解を得ていく……そうした現象学の方法は、西さんもおっしゃるように、人間(近代人)の生の、そもそものありかたの延長線にでてくるものだと思います。そのこと自体をきちんと了解できて、喜びの感覚とともにそれをできるタイプの人にとって現象学は……

 

 そうそう。非常にしっくりくる。でも、自分というものにこだわり、そういうこだわりかたの中で、いつまでもぐるぐるまわりしているのは苦しいなあ……と感じている人には、それこそ「外からの見方」「外部の思考」は自分を自由にしてくれる気がするんだと思う。そういう人は、社会科学や、フーコーなどの考え方にすっとひかれていくんだろうね。たしかに、自意識のぐるぐる回りから抜け出すことは必要です。でも、それには自分の足場をしっかりさせなけいといけないし、外側からもってきたものでなんとかしようとしても、きちんとした足場にはならないように思います。

 

 「下品」な言い方になってしまうんですが、竹田青嗣さんにしても、西さんにしても、「喜びをもって生きる」ことの具体例を示してくれているように感じています。人と語り合うことを通して、自分自身のあり方が見えてくる喜びや、ものごとのとらえかたがよりしっくりと「落ちていく」感触ですとか。以前の語りおろしでも、思想とか文学って、「実存を配慮しあう言語ゲーム」かもしれないねって、おっしゃってましたよね。……今日の「理解」の話にもつながるようにも思うんですけど。それは、おおよそ「知識を積み重ね、より真理(だと思い込まれたもの)へ近づくことを競い合う」というようなものじゃなく、自己了解を深めあう喜びを味わう姿勢が基盤となっているように思います。実際、こうしてお話をうかがうことが、(その後こうしてテープを聞き直しながら、「西さんこういうことを言おうとしてたんだな」とあらためて気づいたりすることが)自分にとって喜びになっている。 

でも、「内面」や「主観」を、「外側にある何かによって構成されたものにすぎない」、と考えるスタイルを貫く人、いわば「ストレートにポストモダン」な人たちって、単純にいって不機嫌そうに見えることが多いです。「わかっていないな、ほんとうは……」という姿勢で、ものごとに接しているように見えてしまう。また、ある局面になると、「聞く耳もたぬ」ような激した感情を表出することも見受けられる。なぜ、「外側からの思考」を自分は求めているのか、それはどのような内在的要求によって形づくられているものなのか自己了解することが必要だ、というさっきほどのお話を伺いながら思ったんですが、自分に内在する志向性や、情動のありかたに向き合おうとしないことが、コントロール不可能な感情を、無意識的な部分に抱え込ませてしまうのかもしれない。

 

 自己了解されていない分、恨みのようなものを無自覚に抱え込んでいるし、「これが正しいんだ」と自分が信じている考え方を認めない人間には、まるで敵であるかのような頑な態度になりますね。本人の中にはこれが正しいんだという強固な確信が成立しているから。

 

また、ポストモダンのほうには、「内省は危険だ」というフレーズが用意されているからね。「内省という罠にはまるんじゃない」というような。でも、なぜ内省は悪いのか、なぜ外側から見ることが必要なのか、ということが、ほんとうに納得されてつかみ取られているかというと……一つの時代的な感受というか、流行の文句というか、そういうものでしかない。「いまどき内省なんてダサイ」というような感じで伝えられているでしょう。

 

東浩紀さんは、自分の頭で考えられるとても優秀な人だと思うし、『存在論的・郵便的』(新潮社)は、自分自身の言葉で書かれていて、とても好感をもちました。それでも最後のあとがきに、「なぜ、自分がデリダの思想にこのように引きつけられたのか、考えてみようとしたけど、内省の罠にはまるんでやめたと」というようなことが書かれていた。そういうのって、ポストモダンの類型的なあるパターンだなあと感じてしまう。

 

たしかに内省ですべてがわかるわけではないし、主観は誤ることもある。でも、まずそこを足場にしないと、自分自身をとらえなおし、よりたしかだと思える考え、納得できる考えをつくりなおしていく作業そのものができなくなってしまう。だから、内省にバッテン付けるのってすごくよくないなあと思います。

 


自己了解としての「社会メディア論」

 さきほどからの話の繰り返しになりますが、外側から見とっていく方法、社会科学の方法は、僕たちの生の条件をたしかめ、このことは不可避なものとしてあるが、努力の方向としてはこういうことがありうる、ということを取り出して行くものとして働けば、かなり意味があるように思います。

だから、「社会メディア論」にしても、メディアを考えてみるのって、こういう意味があるよねえ、ということを実感できる授業をやりたいと思います。ただ、自分自身でも発見しながら、ということになるから、うまくやれるかどうか分からないですけど。

 

この「課題」っておかしいでしょう。(授業のために作ったばかりのプリントを見せてくださる)

「『読書が個の自覚を促す』『読書は地縁を離れた同志的結合を生む』……そのどちらかについて、あなた自身の過去をふりかえってみて、おもいあたることはあるか。あったらそれはどのようなものか、述べよ。……」

 

 こういうの考えるのって面白いです。

 

 ね。僕はこれで思い出すのが、中学時代、通学のとき、汽車でずっとSFを読んでいたこと。学校生活が苦しかったり、家も雰囲気悪かったりしたので、家でも学校でもない「解放区」を、SFを読むことを通してつくっていた。それが「個の自覚」といえるかは分からないけど、自分だけの世界を繰り広げていたなあというような思いが残っている。

 

高校時代、ロックを聴いていたころは……アメリカやあっちのほうにも、新しい生き方をしようとしている人間がいるんだなあとかね……身の回りの関係を越えたところに、仲間がいるんだという感覚を得ていたように思う。

 

みんなにもそういう体験はあるのかなあ、と思って。もしあったら書いてみてくれない、っていう課題です。

 

 こうしてメディア論を、あるメディアが、自分自身にどのような体験を与えてきたか、人との関係を形づくるうえでどのような契機を与えてきたかという、いわば内在的視点からはじめることって、斬新ですよね。大概の場合、まず「メディアありき」というところからはじまるでしょう。書物なり、テレビなり、インターネットなりというメディアが、実はかくしかじかの機能、影響力をもつものなんだよ、というように。

 

で、世の中には権力をもった強くて悪い人がいて、そういう人たちがメディアを駆使し、人々の心をコントロールしている。それに気づいて抗わないといけないんだ、という方向にいってしまうことが多いでしょう。さっきほどの話にもでましたけど、そういう像を最初にあたえられてしまうのって、やばいですよね。

 

 やばいよねえ。

 

 テレビをみる、新聞を読む、というような体験が自分自身にとってはどうなのかまずきちんと踏まえ、それは自分→人間の意識にどのような条件を与えるものなのか納得したうえで、自分としては、これからどのようなメディアとのかかわりをもつことが望ましいか考えていく。そうした、思考の道筋が必要だと思います。

 

 そうそう。最初から、一つの世界像とともに「メディアを疑え!」というようになると、つまらないですよね。

 

そうなんだな。メディアという角度から考えることも、やっぱり、ひとつの自己了解の手段にしようとしているんだ。ぼくの場合は。……なんていうのかな……自己了解、自分自身の生のあり方を了解することの一貫に、「メディアという角度から見る」ことを組み込もうとしているんだね。そういうのって、いわゆるメディア論にはあんまりないスタンスなのかな。でも、ぼくの場合、もともとすべてのことは自己了解なんだ、と思っているふしがあるから。

 

そうか、いま自分がやろうとしていることは、自己了解の一つの方法として、メディアを、生の条件としてのメディアのありかたを考察しよう、という、そんなことなんだな。少し、はっきりしてきたように思う。

でもだいたい、哲学者がねえ……って自分でいうのも何だけど、メディアのことやるっていうの、変な話かも。

 

 変ということはないかも。何でも哲学的に考えるのが哲学者なわけだと思いますし。

逆に、今、メディアを哲学的に考える必要ってすごくあると思いますよ。知らないこと承知で、思いきりえらそうなことを言いますが、「メディア論」的なものを読んでいて、「要はなにが言いたいの? テレビとかインターネットをなくしたいわけ? 本気でそう考えているの?」って思うこと、頻繁にありますもん。

 

今日、西さんのお話を伺って、「社会科学」のもつ外側からの視点って、自分の与えられた生の条件を自己了解していくための一つの方法なんだなあっていうことが、すごく納得できたように思います。「社会学」の意味と根拠を、内在に立ち返ってもう一度とらえなおしたい。そうすることで、「社会学」がほんとうに生きたものとして展開されていくようにしたい。そういう、今まで西さんが重ねておっしゃってきたことが、すごく具体的な形で見えてきたような気がします。

「社会メディア論」の今後の展開、すごく楽しみですね。(精華大学で公開されているページ、あわせてご欄くださいね。)