Ken toKen and F…… 多摩丘陵からもぎたて語りおろし


T. 『哲学的思考』を巡って

〈1〉 そもそも「哲学的な思考」ってなんだろう〜「本質観取」について@


 ……西研  ……犬端(管理人) F……古川敦子(『哲学的思考』P392L11〜参照)



……話は「舞の海さん」からはじまってしまった


 『哲学的思考』って、「たとえ」が面白いんですよね。


 ん……?


 たとえばね「向正面の舞の海さん」とか


F  あ、分かってくれたー。それは嬉しいな。

(注: 『哲学的思考』第五章「いかに現実は形づくられているか」P228L15〜より
……たとえば相撲の判定で、二人の力士のどちらかの足が先に出たかが問題になるとき、アナウンサーはしばしばこのようにいう。「私たちのほうからは、寺尾の足が一瞬先に出たように見えましたが、
向正面の舞の海さんからはどう見えましたか。」自分の知覚を絶対化せずにあくまでも一つの見え方としてとらえ、他者からの知覚をつきあわせながら、事態を確定しようとする態度がここに現れている。)

……テレビ見てたんですよね……寺尾そろそろ引退するだろうし、……土俵の中に寺尾がいて、しかも向上面にいるのはなんと、舞の海さん。このごくわずかな時期にしかありえないことをね、言語表現として残しておこうと思ったんですよー。


 うーん。リアルすぎて怖い。…あれは……たとえが面白すぎて、そもそもなんのたとえだったか忘れちゃいそうなんだけど……「知覚を通じてものごとを確かめること、互いの知覚経験を通じてさらに確かにしていくこと」……っていうような脈絡でしたっけ。


 そうそうそうそう。「寺尾の足が出た」ことを舞の海さんに確かめようとする背後には、「自分が見ている像はあくまでも『自分が見ている像』だ。『相手からどう見えているか』とつき合わせることによって、はじめて客観的な像がえられる」という思いが働いている。見えているものは私が見ているにすぎない、というとらえ方が根底にあるわけなんですね。

ふつうに生活しているなかでは、そういう見方をすることは少ないと思いますよ。いちいちね、「このコップはわたしのなかで生まれた一つの像にしかすぎないんだ」というような意識はもたない。でも、いったん、ものごとをより確かなものとしてとらえたいという思い、人との間でも「これは確かだ」といえるようにしたい、というような思いが立ち働くときにはね、「いま見えているのはあくまでもわたしなかの像にすぎないんだ」ということが意識されてくる。

で、自分は今何を見ていて、そこからどんなふうにものごと全体を想定しているのか、「確かに見えている」ことと、そこから思い描いている「全体のイメージ」の間にほんとうにズレはないのかを確かめようとする。しかも、それだけじゃなくて、他人からはそれがどう見えているんだろうかということを、語り合ってね、さらに確認していく。

そこには、自分の見ているものと、相手の見ているものは同じなんだという確信があるし、「全体のイメージを思い描きながら何かを見ていること、今ありありと見えているものから、全体のイメージを確かめようとしていること」っていう意識の動きのしくみ自体も同じなんだということが、「このわたし自身」のなかの確信としてある…………

……あ、いや、そういうようなことなんですけど、ちょっと細かい話になっちゃいましたかねえ。……つまり、あの、僕、相撲が好きなんですよ。


 あ……ごめんなさい。いきなり「舞の海さん」なんて僕が言い出したもんだから。


F でも「舞の海さん」分かってもらえて嬉しいな


 でも……無理やり話をつなげようとするわけなんだけど、今の「寺尾の足」の話なんかでもね、多くの人がフッサールの「イデーン」を読みながら「知覚直観?」 「超越論的問題?」なんて言葉のまわりをぐるぐる回りながら、わかるような、でもなんか釈然としないようなところを、端的に噛み砕いてくれているんですよね。「たとえ」にしても、「ああそんなこと確かにあるよね」って、誰もが自分の体験から確認できるように、おもいきり「平たい」ところから掬い上げてくれているし。
 
この『哲学的思考』にしてもそうなんだけど、僕自身、西さんが伝えてくれる「現象学」に惹かれているのは、そういうふうに、自分の中で……っていうか、多くの人たちもそうだろうなって確信も同時にあるのだけれども……知らず知らず、ふつうにやっているものの見方、考え方をきちんとたどり直していけば、かならず理解できるような道筋を開いてくれていることなんですよね。

あとね、たとえば、フッサールが「知覚」を論じるとするならば、そもそも、なんでそんなことが「問題」になるのか、それは自分自身の「問題」となにかしらつながりがあるのかっていうことが、……こう、見えてくるんです。より確かなものごとの確認が必要なとき、あるいはね、自分の中でものごとの確信がゆらぎはじめたとき、人はどのようにしてそれを確かめなおそうとするのか。それは……すごく煎じ詰めていくと、「このもの」自体が、なんでこういうふうに見えているんだろう、その確かさの根拠ってなんだろう……っていうようなところまでいくのかもしれない。

たしかに、さっき西さんもおっしゃったけど、ふだんの生活の中で「果たしてこのコップは……」っていうことにまではならないけど、僕自身、個人的な資質として「当たり前のことが、当たり前のことと思えなくなっちゃう」タイプでして……


 うん、そうみたいだよねー。


 はい。でね、そういう「現象学」の考え方を必要とするところは大きかったと思うんです。「自分というこの場所から、普遍的で確かな意味をつかみ直す」思考のありかたを明確にすることがね……

……それでまず……『哲学的思考』で西さんが明快にしてくださった、フッサール現象学の「知覚直観の位置づけ」や「超越論的」問題、そもそも「超越論的主観性」ってどんなことをいい表したことなんだろうとかいうことも、ゆっくりお話を聞きたいんですけど、そうした煎じ詰めたところの問題に先立って、その地盤にあること、「そもそも哲学的な思考って何だろう」っていうことから、お話をうかがえればと思うんです。現象学の考え方の確認ですとか、その核となる「本質観取」のことですとか。……あの、前置きが絶望的に長くなってごめんなさいね。



「壊れ」から、より確かな根拠を握り直す


 うん。「本質観取」からはじめるっていうのはいいかもしれないですね。
「哲学的な思考」の核にあるのは……『哲学的思考』では「本質観取」ですとか、いろいろな言い方をしているんですけど……まずは「意味と根拠を理解する」ことですよね。ひとつのことの意味が自明であれば、それを問う必要はないけれど、はっきりしなくなってきたときに、その意味と根拠をもう一回自分に問い掛けて、作り直さないといけない。哲学の営みっていうのはやっぱりそこからきている面があるんですよね。

この本の中でも、……例のソフィストの時代に……「どんな観点からでも理屈というものは作れてしまう、どんなことでも疑える」とソフィストが言いはじめて、「それじゃ認識それ自体がもう、人それぞれのものにすぎないんだろうか」という事態になってきて、善悪の規範もどんどん壊れてきて……というか……それまでの規範がもう素朴には信じられなくなってしまった……そういうときにソクラテスが出てきた、という話に触れています。

やっぱり哲学の起こりからいっても、世界像の壊れを修復するという動機があったように思う。でも、単に修復するだけじゃなくって、より深いところから根拠を握り直すことなのかなー、と思うんですけどね。

たとえばメノンとの対話編で、ソクラテスは、「徳とは何か」と問い掛ける。これに対してメノンは「男の徳は国事をよく処理し、友を利して敵を威圧すること、女の徳は家をよくととのえ、夫に服従することだ……」と答える。でもソクラテスは、「男の徳は……」、「女の徳は……」っていうように、徳目をあげてみても、それでは答えになっていないよ、という。そもそも「徳とは何か」を問うているんだよって。

「男は国事を為し、女は家を守り」という規範が自明ではなくなったとき、規範の根拠がみえなくなってきたときに、規範の根拠ってなんだろう、義務とか規範とかいわれているものの根拠ってなんだろうっていう問いが生まれてくる。そのとき、「男は国事を為す」という個々の徳目、個々のありかたをただ取り上げるんじゃなくって、それらに通底していくものをとらえようとすることになる。

たとえば、この「徳」というのは、「役割」っていう言葉でいいかえることができますよね、男は男としての役割を果たして、そのことによってその社会とのつながりを持っている。女の人も、女の人としての社会的な役割を果たしていく。こうして「役割」っていう言葉を使うと、少し抽象度があがるし、より普遍的なとらえかたができるでしょう。
でも、もっと抽象度を上げてみると……人間が社会生活を営んでいるとき、そこには共同的な領域がある。人間はもちろん、まず自分のために生きている。どんな人間もね。でも、それだけではなくて、同時に共同的な領域を生きる。そして、そのなかで、役割を果たし、まわりから認められ、そのことで喜びを得て、ということをしながら生きていく。そうした人間の生のあり方と、さっきの「徳目」は折り合っていることが分かりますよね。

近代以降の人間の場合には、単純に「男は政治」「女は家」ということはいえなくなりますよね。でも、自分の役割を担う、しかもそれを選んで担うっていうことが生における重要な要素になっていることは同じですよね。そうした役割を自分自身で選ぶんだっていうことが大切なんだけども、役割を果たすことで人びととつながるという点では、古代ギリシャにも近代以降の人間にも共通する形が見えますよね。

そういうところまで「『徳』とはなんだろう」っていう問いを煎じ詰めて考えていくと、「自分は徳とされるものごとはこうだと思う」っていうだけじゃなくって……もちろん、まずはそこから考えていくわけだけど……「徳とは何か」という問いは、具体的な個々の「徳」のありかたに縛られるだけじゃなくて、もっと深いところで、人間が生きていくことのなかで「徳」とか「義務」ということが言われてきたことはどのような生の在りようと関わっているんだろうというように、了解の形がより深いところでつかみ直されるんですよね。そういうのは、哲学の思考法の重要なところである気がしてます。

……うまく言えているだろうか。僕のいうことわかる?


F つまり……「徳」でいうならば、自分にとって「徳」って思える個々の事柄だけじゃなくって、それがどのように人びとに受け止められているか、それをどのように言葉でつかみなおせば、より普遍的な了解が得られていくかと思考をつきつめていく。そうして取り出されるのか、つまり、それが徳の「本質」っていうことでしょう。


  うん。そういうことだね。
ある意味でいうと、自明性が失われていくっていうのは、それこそ生きにくいし、大変なことなんだけれども、でも、そのことを深い根拠でとらえ直すことで、ある面では自由な面がでてきますよね。自分自身がほんとうに納得して、態度がとれるという自由がね。



貧しくても、自分の言葉からだよね……


 「壊れからより確かな根拠をつかみ直す」ことは、『実存からの冒険』以来西さんの思想の一貫したテーマとしてありますよね。先ほど、「素地として自明性が壊れやすい人間です」って、自分自身のことから話題にしちゃいましたけど、自明性の壊れや価値観のゆらぎっていうのは、西さんも著作のなかでふれておられるけど、おそらく時代に通底していく問題なんだと思います。

学生時代、「ポストモダン思想」が流行って、僕もそれにのせられました。単に流行していたから、みんなが話題にしているからという部分も少なからずあるんだけども、「既存の価値観をくつがえす」というあの雰囲気に惹かれるものがあったように思います。何ていうのかな……自分が信じられもしないし、おそらくはみんなも本気で信じてはいないような規範だとか価値尺度が、ふだんの生活の中でけっこう重荷になっていた。ああすべきだ、こうすべきだとかいうように、プレッシャーになってた気がする。ですから、そうした規範なんていうのは、ある恣意的な観点による解釈にすぎないんだ、その根拠のなさはいくらでも暴き出せるんだ、というように、いったんおしゃかにしてしまうのが爽快に思えた。

でもそれだけでは、やはり救われない。実際のところ、人というのは……っていうか、少なくとも僕自身は、何かを心の底板に据えて、そこから自分自身の行為や判断を支えているところがあると思う。でも、当時、ポストモダン思想っていうのは、いかにそうした底板を取り外していくかっていう感じで機能しているように思えた。たとえば、うかつに「実感」なんてことも口にできない……たとえば小説なんか読んで、「この登場人物の心根のやさしさに感動した」的なナイーブなものいいをすると、すごくたくさん本を読んで勉強しているような人から、「そんなふうにして、お前なんかがついつい口にしてる倫理観自体、社会的に構造化されているものなんだぞ、そうしたことに無自覚でいると、権力構造の中に取り込まれていくんだぞ」、なんて言われたりして。


F 「君は気づいていないかもしれないけどね……」っていうふうにね。


 ええ。そう言われるとね、こっちはあんまりもの知らないという自覚があるから、「そうなのかもしれないな」って考えちゃう。でも、一つの作品を読んだとき、それをなにかしら実感が伴うかたちでね、感受しちゃうのは、それはそれで動かしがたさをもった経験なわけで……


F たとえそれが社会的に枠取りされたものであったにしてもね


 ええ、そうなんです。そうしたね、「何かを感受している場所」を踏み外してしまったら、出発点なんてもうどこにも見出せはしない気がする。それに、たしかに「別にそんなんじゃなくてもいいんじゃないの」的な堅苦しい価値観や規範はいっぱいあったけど、「全てが恣意的な観点からの解釈です」で済ませられるものばかりじゃない、という直観があったような気もする。
そんななかで、竹田青嗣さんや、西さんの言葉と出会って、自分の中で漠然としていたものがしだいに明確になってくるきっかけとか、明確にしていく手がかりをいただいたと思います。


 ぼくの場合もよく似た状況があって……そう……ポストモダン思想に先駆けて、岸田秀さんの「唯幻論」の影響は大きかったですね。一切は幻想だっていう考え方。それは……なんていうのかな……正しい生き方をしなければいけないって一生懸命思ったり、社会に貢献する立派な生き方をしなければいけないって思ったり……そう思いつめてしまう自分の感覚を緩めてくれる力があったと思う。「絶対の生き方がどこかにあるわけではない」というメッセージを与えてくれることで。

でも、「一切は幻想なんだ、自分が何を考えても、すべては自分の中の思いに過ぎないんだ」という、ただそれだけでは、むなしい感じがしてくる。
そうした、「一切は幻想なんだよ」っていうのと、あと「あなたの考えは社会的に構造化されている」っていうのがポストモダン思想の根底にあるよね。でもさ、そうすると、どっから、何を足場にしたらいいのかわかんなくなっちゃう。

僕が大学入った時代は、まだ、社会変革だとか、反体制的な雰囲気があって……この世の中には、公害問題とか、具体的には水俣病の問題とかがあって、歪んでいる。大企業と官僚が結託してこの世の中を悪くしている、という「世界像」が残っていた。そうした悪に抗って、もっと解放的な社会を作んなきゃいけないっていうようなね。……でも実際にいろんな運動家や左翼の人たちの話を聞いていると、だんだんと、この人たちは「反体制」を標榜したいがためにものを言ってんじゃないかという感じがしてきてしまった。つまり、自分たちが正義の心情を持っていることを裏付けんがために、そうしたことを言っているだけじゃないだろうか、というようなヒネた気分ですね。七十年代の後半、真摯に考え実践しようとしていた人たちもいたはずで、そういう人には申し訳ないんだけど。そんなときに、ポストモダン思想と出会ったわけなんだけど、ある意味でポストモダンの感覚は、当時の僕の気持ちに通じることがあったんですよね。


 「反体制的世界像」の無根拠性を暴くというような感じですか?


 そうですね。でも、やっぱりしばらくしたら、何を頼りに、何を足場に生きていけばいいんだという……そのことが、すごくひっかかってきたんですよね。


 ポストモダンにしても反資本主義的な運動にしても…………なんていうかな……ポストモダンが流行った時代でいえば、「ポストモダン的な考え方」っていうのは、それはもうすばらしいいものだ、その考え方をみんな学べば、もののとらえかたがすごくレベルアップしていくよ、という……そんな受け止め方をされていたような気がするんです。


 そういうところはたしかにあったね


 そうしていくと……ポストモダン思想自体は、「価値を相対化」していくもののはずなんだけど、実際のところ、それは、「ポストモダン思想教」っていうと言いすぎかもしれないけど、ある一つのものの見方・考え方を絶対化するような流布のされ方がして……


 デリダやフーコをちょっとでも齧っていないと、恥ずかしくてものがいえないような雰囲気あったよね。


 ええ。そうすると、こう、何か自分の生の実感と関係のないところにあらかじめステージが設定されていて、そのステージの上から人を見下したり、あるいは見下されたりするような、なんか居心地の悪い感じが……ほんとうに「平たい」ところからね、自分に必要な、自分にとって切実な問題を考えることとは無関係に、何か外側からコントロールされる居心地の悪さが、感じられてくるようになった気がします。たぶん、西さんのおっしゃった「運動」なんかにしても、「平たい」ところから、目の前にある、「これはフェアじゃない」とか、「不公平じゃないか」とかいう出来事から出発して、それをどう改善するかということなら違和感なく受け止められるんでしょうけど……「運動体」とか「主義」とかになると……


 そう、「反資本主義」とか……そういうふうに、ある全体を鳥瞰する大きい枠取りができてね、しかのその枠取りそのものの確かさは、自分自身では検証できないんだけれども、「えらい人がいうからそうなのかな」、という感じで外側から押し付けられるとね……


 ええ、それでまた、そうした枠取りのなかで、「運動や思想を理解し、熱心に取り組んでいる人」と、「理解できないで取り組む気にもなれない人」という感じで……


 またランク付けされてしまうと……


犬 「平たい」ところからの実感からはどんどん切り離されてしまうような……


F そうね。それともう一つ、実感から切り離された、「外側からの枠」っていうのは、もう歯止めなく拡がっていくことになる。「お前の考えていることは、実はこういう社会的な枠取りに仕組まれていたんだよ」ってだれかがいうとする。そうすると今度は、また他のだれかが、「この間あいつが言っていたことだって、それはこういう枠取りに縛られてのことなんだ」っていうふうに、「より大きな枠取り」をどこかからもってきて、批判できる。果てしなく大きく、果てしなく外へ外へというふうにね……。うん、
そういう感じをもった時期がわたしにもあるなあ


 ええ。実感とか、いわゆる「内在的な場所」から断ち切れた「枠」って、どっからやってきて、どこまで拡がっていくのかわかんないもどかしさや不安がある。


 そうだよね。自分の実感を伴いながら確かめている感触がないとね……いきなり立派そうな思想を持ってこられて、自分のほうが無知なのかなって思ってしまうと、それに抗うのも難しいし。なかなか困ったもんですよね。


F そう。それで、一番外側の枠に立てる人は、常に一番正しい人で、一番本を読んでいる人で、一番最先端にいる人で……そういうイメージがくっついてくるんだよね

 そうだね。今話しててもそう思うんだけど、いっぱい勉強して、最先端の知識つめこんでないと物が言えないような構造に抗うことや、まず自分自身の感触にこだわって、そこからはじめることが僕の出発点だったし、出発点だけじゃなくってずっとこだわっていることのような気がするな……

今度のフッサールの本でも、それは根っこにあると思うな。そういう「平たいところでものを考える」ことをフォローする部分がね、思想の営みにないとすごい苦しいですよね。もちろん自分の感触や実感に居直っちゃって、人のいうことは全部無視していくっていうんじゃまた変だけど。

うん……でも、どんなに貧しくても自分のところから言葉をつむいでいけることって大事だと思うな。拙くても、貧しくても自分のところから考えていける場所があることは大切だと思います。



(……この章続きます)