…… 多摩丘陵からもぎたて語りおろし(9・23出荷)


T. 『哲学的思考』を巡って

〈1〉 そもそも「哲学的な思考」ってなんだろう〜「本質観取」についてA


 ……西研      ……犬端(管理人) 


「自己了解」から「共通の構造」へ



えーと、本質観取の続きでしたね。本質観取というのは、まずはひとりひとりが受けめている個々の具体的な事例からはじまるんだけども、それをどのように言葉でつかみなおせばより普遍的な了解が得られていくかと思考をつきつめて、取り出していくこと……というように一応は定義したんだよね。

じゃあ、なんでそういうことをするのかというと、ものごとの自明性が失われていろんなことが自分ではっきりしなくなっちゃったとき、その意味と根拠をより深いところからつかみ直していく必要が生まれると。……そんなふうに、いったん壊れちゃったところから意味と根拠をしっかりつかみ直すことで、逆に自分自身がほんとに納得して態度がとれる自由が生まれるんじゃないか……そんな話をしてたんですよね。



はい。それで、個人的な資質として壊れやすいし、外側から「こうだよ」と与えられるものの見方を素直に受け取れないこの「変な奴」としては、竹田さんや西さんの本を最初に読んだとき、まず、「実感をもって体験しているこの場所からはじめようよ、そこから始めていいんだし、そこからしか始めようはないよ」というメッセージを感じて、「はまった」ように思います。


たぶんそれまでにも……自分がいてもいなくても、客観的な世界というのはあるんだろう。ものごとってそもそも自分の思い通りにいくものじゃないし、自分の道理で動いているものじゃないし、他人は他人でまたそれぞれ生きているんだという実感もある。でも、少なくともこの自分自身は、自分という場所でしか世界を感じ取ることはできない。自分にとって「確かだ」と言えるのは自分が見たり感じたりしているこの場所でしかない……という漠然としたとらえかたはしてたんだと思うんですね。ですから……「自分という場所」に徹底して、世界が、自分だけじゃない他の人たちもその中で生を織り成していく世界がどのように形作られているのかを見取っていく……という、竹田さん西さんの本から自分なりに読み取った考え方が、まさに「腑に落ちる」ように感じられました。


でも、そのときはまだまともにフッサールも読んでないし、現象学もよく理解できてはいないし、……どちらかというと「実存論的なものの見方」というふうに、自分の中で分節化されたように思います。ある気分のもと立ち会わされている、自分自身のこの体験、この世界を、どのように言葉でとらえなおして、了解していくかというような感じで。最初のうちは、そこから普遍性を目指して本質をつかみ取っていく感度が薄かったような気がしますね。




 うん、僕も同じような感じですよ……でもね、だんだんとね、自他に共通する構図は何かというのがね、出てきたんですよ。……だんだん出てくるというのは面白くて……ハイデガーの場合でも「情状性・了解・語り」なんていうふうに実存の形を取り出しているけど、あれも「どんな人間にも共通する構図」として出してるわけですよね。そう明言しているわけじゃないけども、そのことは間違いない。そんなふうに、自分にも他人にも共通するはずの生の構図を取り出せる、という感じがでてきたんです。もちろんそれは言葉によって確かめ合うしかないんだけど。


たとえば、「恐怖」っていう感情がありますよね。恐怖の対象は人によってずいぶん違う。僕の場合はゴキブリがまったくだめなんだけど、別に怖いとまでは思わない人もいますよね。でも、ゴキブリの恐怖の感触を「見慣れた世界に異質なものが侵入してくる不快感」と言い表すと、その感じが伝わるでしょう。少し了解が可能になってきますよね。そうした言葉に翻訳してみると、共通するものが見えてくる。具体的に何が怖いかということはひとりひとりばらつきがあるけれども、そのときに、どんな「感じ」がしているかということ、体験の核にあるものは何かということを言葉にして語り合ってみると、相当程度共通する感触はあるんだというのがわかる……というか、疑えなくなってくるんですよね。


だから、自分自身に自分の体験が何かと問いかけて、その核をつかみとっていくのがいちばん最初だし、基本だし、いつでもそこに帰るわけなんだけれども、お互い言葉にしてそれを語り合っていくと、生のあり方として同じ部分があるということが、はっきり見えてくる。


またそれが面白いっていうのかなあ。ある意味で自分は自分の世界を生きていて、他人もまたひとつの世界を生きているわけだし……他人もわたしが見ている範囲の他人にしか過ぎないわけだし……「共通するもの」を簡単に前提にできるはずがないんだけど……お互いに、自分の生のあり方を本質観取しようとして語り合ってみると……自他に共通する構造がはっきりと見えてくるし……それがけっこう快感だっているのかな……あ、やっぱりそうやって生きているんだ……お互いそうなんだねぇ……とか。うん、面白いんですよ。


また、お互いの「違い」もわかるんですよね。けっこう、語り口に出てくるよね。ちょっとした語り口の違いにね。ああ、なるほどこの人は、ここでは共通しているけど、あきらかにここは感触の違いがあるな。生き方の形が違っているんだな、とかね、そういうのも見えてきて、それがまた独特なコミュニケーションなんですよ。普段しゃべっているのとまた違ったコミュニケーションの質があって。これがまたなかなか妙に面白いなと。


……そう考えてみるとね、哲学というのも、プラトンの頃から、「恋愛の本質はなんだろうか」とかね、延々やりあっているわけですよね。まず、みんな自分をダシにして考えぬく。そして、自分をダシにして自他に共通するものを問い求めていく。……お、この部分はかなり共通してるんじゃない、そうとう「はまっている」んじゃない、とかね、それがね、違った場所から、ともに考えられることの嬉しさっていうのかな、そういうものを感じさせてくれてね……


でも、そういうのって、だいぶあとになってわかったのかもしれないなあ。一人で考えている時期はやっぱり長かったからね。




「哲学」の本質観取、やってみました



 「実存からの冒険」では、西さん、「自己了解」をキーワードにしていますよね。


……苦しいこと、つらいこと、いやなこと、がやってきたり、またぎゃくにすごく嬉しかったり感動したりしたときに、人間は自分の存在をあらためて理解しようとすることがある。この〈あらためて自己了解しようとすること〉。このことは、実存にとってすごく大きな意味をもっているとぼくは思う。……自己了解の営みそのものが人間にとって、新しい存在可能性=新しいエロスでもありうるのだ。



研 そうですね。自分で自分のありかたをつかみ直して、そこから自由とか可能性をつかみとっていくということですね。



 そこをベースにしながら、「みんなに共通する生の構造」を実感のもとに確かめていくと哲学的な思考になっていく……というような……ことでしょうかね……。



研 ええ、語り合って実感的に確かめ合っていくということですね。



  ……そうですね……「自分のありかたをもう一度言葉によって確かめ直す、そこから新しい可能性をもって世界に向き合う」ことは、僕なんかも「自明性が壊れ出した」とき無意識にやってきたし、やっていることなんでしょうが……そのときの「言葉による確かめ」というのは、もちろん自分自身の内側から出てきたもの、自分自身が納得できるものでなければしょうがないけど……同時に、「自分だけのものじゃない・自分だけにしか通用しないものじゃないんだ」という確信を経たときに、はじめて「確かだ」って思える構図はあるような気がします。着実にそこは自分じゃないっていう場所から、たとえば他人の口から「うん、そう思えるよ」っていうリアクションが帰ってくることで、「うん、やっぱり確かなんだ」っていう実感がやってくる。それは嬉しいことや楽しいことでもある。……そんなふうに条件づけながら生きているという感じはします。


 そうだよね。そうそうそうそう。『実存からの冒険』のときにも、ある程度はそういったことに気がついてはいるんだけれども、『哲学のモノサシ』(NHK出版)を書いたときにはじめて、はっきりと意識できた。哲学っていうのは、ある意味で「人間一般を問題にする」ものだっていうことが。もちろん「わたし」を無視してどこか高みに昇るんじゃないし、それはまさに自己了解を通じてでしかありえないんだけども、お互いに確かめ合う中で、人の生に共通する構図、「こういうのは確かにあるな」っていうのを確かめていく作業だっていうことがね、はじめて書けたような気がしています。


『哲学のモノサシ』のときに「哲学ってなんだろう」ということをあらためて考えたんです。『ヘーゲル・大人のなり方』(NHKブックス)のときまでは、一応哲学者って名乗ってはいたんだけど、「哲学って何だろう」ってあんまり考えていなかった。「ヘーゲル」終わってから「モノサシ」やるときに、「哲学の営み」ってどういうふうにしたらうまく言い表せるのかなって……いわば「『哲学の営み』の本質観取」をやってみたんです。そのとき、はじめて、「哲学の営み」は、もちろん「わたしがわたしについて考える」ことからはじめるわけなんだけど、そこから一般性を求めていくことであって、それは、他人と確かめ合うことではっきしてくるんだなって、そういう像がだんだんでてきたんですね。

ある意味では哲学でない自己了解というのもあって……ある話を聞いてとても楽しかった。家に帰って「あの楽しさって」いったい何だったんだろうと問いかけて自分の感触をもう一度確かめてみる。それは、自分の感触のいちばん核となるものをたしかめているわけだから、それも本質観取といえるわけなんだけれども、あくまでも「わたしは何を感じたか」を明らかにしているわけでしょ。自分の生き方を考えるときに「おれって結局何を求めてるんだろう」「自分の今のこの気分の悪さって何だろう」とか、自分の体験の核、本質をとらえようとする。これはわたしの中の反省なんですよね。他人と話をしなくても、自分の中で明証性が得られるんです。「あ、まちがいないよ、こうだよ」という感じがする。


これって、哲学の側からみれば「哲学以前」ということになるけれど、ある意味では哲学よりも大切なことかもしれないです。だって、自分の生き方を導くものは何か、ということでいうと、この自己了解しかないと思うんです。よく自分に尋ねてみる。自分は何を求めているのか、何が嫌なのか、そうすることで、自分の方向をつくっていくことができる。−−これが『実存からの冒険』の結論なんですね。どこかに正しい生き方があるんじゃない、生き方を教えてくれるものは自分のなかにあるんだ、ということなんですけど。ぼくはこのことをニーチェから教わったと思ってるんだけど、それからいつでも、「わからなく」なったときは、あらためて自分に尋ねてみることにしています。どうすることが自分を幸せにするか、自分はどうすることを求めているかって。


哲学の場合になると、そこからさらに、どの人の生にも共通していること、たとえば「恋愛」という体験のもついちばん重要な核はどう言い表せるだろうかとか、一般性、普遍性へと射程を向けていく。まず自分自身の体験から出発するんだけども、射程としてはどんな人間にも共通する一般性・普遍性のほうを目指して考えていく。例えば「なつかしさ」の本質について考える場合だったら、「わたしが感じている『なつかしさ』って何だろう」ということからはじめるわけなんだけども、ねらいとしてはどんな人間にも共通する「なつかしさ」の意味の地盤を明らかにしていく。そういうように、はっきりと目的を自覚してやると、それは哲学の言語ゲームになるんですよね。


ですから、人間という一般性を志向しない「わたしのこの感触」を確かめようとする本質観取もある。だけど哲学のゲームになった本質観取は、人間一般という水準を想定しつつ、自分の体験をひとつの実例として迫ろうというベクトルをもって行われる……そんな感じで一応僕は考えているんですけど。


これは、なんていうかなあ、自分のあり方を「人間一般」から見つめ直す、という新たな視点なんですね。「他人と自分の共通性と違い」という視点もありますね。これがまた面白さがあるんですよ。……でもやっぱりその場合でも、自分の感触、自分の体験の核を取り出していく作業がまず重要ですよね。




(→本質観取@に遡る)

哲学的思考を巡って〈2〉 「哲学的思考』の核心・今後への展開