…… 多摩丘陵からもぎたて語りおろし(2002/2・18出荷)


T. 『哲学的思考』を巡って

〈2〉 「哲学的思考」の核心・今後への展開


 ……西研      
……犬端(管理人) 



「哲学とは何か」をはっきりさせたかった



 管理人がふと冬眠に落ちちゃいまして、「語りおろし」、しばらく凍結させちゃってすみませんでした。
 さて、これまで二回の語りおろしでは、「本質観取」をキーワードに、「わたし」という場所に徹底し、自分自身の体験に基づきながら、誰もに届きうるものごとの普遍的な意味、「本質」をとらえていこうとする「哲学的思考」の根幹となる姿勢を……それはつまり現象学の方法でもあるわけですが……輪郭づけていただいたように思うのですが、それを踏まえて『哲学的思考』でいちばん伝えたかったこと、さらには『哲学的思考』を踏まえて、今後どのような展開を考えていらっしゃるかということなどを、お伺いできればと思います。




そうですね……『哲学的思考』では、まず、フッサールをダシにして、「哲学とは何か」をはっきりさせておきたかったということがありますね。前回にもお話しましたけど、哲学の存在理由ってなんだろう、いったい何を課題とするものなんだろうって考え始めたのは、『哲学のモノサシ』を書いたころからです。

それで、僕自身はいま、哲学の存在理由というのは、「自然科学では答えが出せない領域にまっすぐ向き合い、問い詰めていく」ことなんじゃないかって思います。もちろん科学はとても重要ですけど、人が実際に生きるなかで抱え込む問題に対しては答えが出せないこともたくさんある。たとえば善悪の問題ですとか、道徳だとか正義の問題ですよね。あるいは、美的なものやエロティシズムなんかにかかわること。そういう人間の抱く「価値」にかかわる問題に対しては、科学の方法では迫ることができない。

善悪とか、法とか正義などに関して、もし何かの基準があるとするならば、それはどのような意味や根拠をもつものなのか。……もし今後採用すべきなんらかの基準を見出していくとすれば、それをどのように考えていけばいいのか。

それに、人が何かを「美しい」とか、「きれいだな、かわいいな」と感じるあり方、人間がものごとに惹かれていくあり方には……もちろん、一人ひとり違っていて当然なんだけれども……何か共通する部分が取り出せないだろうか。「人が楽しく生きられるための一般的な条件」を模索しようとするときには、こうしたことについて、普遍的なエッセンスを取り出していくことも必要になると思う。

僕としては、哲学っていうのは、端的に言って、そうした「価値」を抱く人間のあり方を、一人ひとりが自分の実感に即して確かめながら、なるほどこれはそういうものだよねと、了解することをめざす共同の営みだと思います。


 あと、自然科学そのものの底板となる、客観的な世界、客観的真理そのものの成立根拠を探っていくこともありますね。自然科学、数学の普遍妥当性の理由を洞察していくこと。「客観的真理」の意味と根拠を理解することで、それが、どんな場面では必要であり有効なのか、どんな場面では、むしろそこから離れてものごとをとらえ直していくことが求められるのかを、見極められるようにすること。これも、いってみれば「価値を抱きながら生きる」人間のあり方に立脚して、科学をとらえなおしていくことなのかもしれませんね。

もちろん、「言語」の問題なんかも入ってくるとは思うのだけども……主に、こうしたことが、哲学の扱う基本的な領域だと思います。

でも、いま「哲学」と呼ばれている学問の中で、こうしたことを解明しようとする努力があまりにも希薄なように思います。分析哲学にしろ、ポストモダンにしろ、科学的、客観的な真理が絶対ではないということをさかんにいうのだけれども、そこからどう考えを進めればよいのか、人間の価値や正義をどうとらえればよいのか、どんなアプローチをすればそれに迫ることができるのだろうかという「問題」に向き合い、解明していこうというところが見られない。

 ですから、『哲学的思考』では、フッサールの思想の核心、つまり現象学のいちばんいいエッセンスを取り出すことを通して、そうした問題に迫る思想のあり方を明確にしておきたかった。哲学って、ほんとうはこういうものだったんじゃないの、ということをいっておきたかった。それが、やっぱり大きかったと思いますねえ。




「意識に定位する」ことの可能性


 フッサールの現象学の基本的な方法は、「このわたし」の意識体験の場に徹底して、ものごとが構成されていくありようを見取っていくということですよね。でもそうした方法に対して、これまで十分理解されないまま、批判が重ねられてきた。煎じ詰めていうと、「このわたしの意識という場所は、はたしてそんなに確かなものなのか」というような批判ですよね。……わたしの意識は、社会的な関係の中で編み上げられているものだ。だから、意識という内側からの視点ではなく、それを可能にしている関係……というか、構造というか、そういう外側からの視点でものごとをとらえていかなければいけない。意識に定位する哲学はもう古いんだ……というように「片付けられてしまった」感がある。それで、『哲学的思考』では、そういう誤解を解きほぐそうとすることも大きなねらいとしてあったように思うのですが、……そこのところをもういっかい整理できたらと思います。

 まず、フッサールの、意識からものごとをとらえようとする方法なんですけど、これはけっして、「意識=主観」が先か、「世界=客観」が先かという図式の中で、主観のほうが最初にあります、意識こそが絶対です、ということを言っているわけではないですよね。ものごとのありよう、なりたちを問い詰めていくのに際して、実際に人間は「このわたし」という場所で、「このわたし」の体験にひきつけながら、考えているわけだし、まずそこを考察の土台にしていこう……というようなことだと思うのですが。




 そうですね。意識に定位する哲学ということでいえば、フッサールは、デカルト、ヒューム、カントという、いわば近代哲学の王道を歩んでいるわけですけど、フッサールによって、その方法と意味とがはじめて自覚的に確立されたのだと思う。フッサールの徹底性は、カントと比べてみてもよくわかります。まずカントの前にヒュームがいて、一切はわたしにとっての認識でしかないとした。「わたしにとって」という場所を越えて、客観的世界それ自体を語るような視点はどこにも存在しない、「世界それ自体」と「私にとって見えている世界」を比較して合っている、合っていないといえるような立場はどこにもない。いわゆる「主観/客観問題」に対して、ヒュームはこのことを明確に語っているんですよ。それにカントが、ガガガーンとショックを受けて……いままで、自分は非常に素朴にものを考えていた。この「ヒューム・ショック」に耐えてがんばらなくっちゃっていうんで……最終的に考えたことは、客観それ自体は「ある」と。でもそれは認識できない。人間は客観それ自体から感覚が刺激されて、それを加工しつつ認識を作っていく。その加工のしかたに関しては、どんな人間にも共通する部分があるので、「客観認識」というのがある範囲では成立する……という把握のしかたをした。つまり意識の内部の現象としてみた場合には、どの人にとっても共通なものが成立するというわけです。こうしてカントは、「もの自体」と「現象」の二つの項を峻別したわけです。

フッサールが現象学という言葉をどこから作ったのかは、はっきりしないのですけど、僕のいまの考えでは、カントからとっているんじゃないかと思うんですよね。「純粋理性批判」をカントが構想したときに、ごく最初にはラテン語で「フェノメノロギア・ゲネラーリス(一般的現象学)」という名前を考えていたらしんですよ。要するに「現象にとっての学」とね。認識できない「もの自体」は置いといて、考察の対象として可能な「意識現象」を問題にしていくんだという姿勢がそこから伺える。

でも、フッサールは、そこをさらに突き詰めていくわけです。「自分が知ろうと知るまいと、意識しようとしまいと客観的に世界それ自体がある、もの自体がある」ということ自体も、実は意識の中で想定されていることではないか。そう考えて、「もの自体」を廃棄して、「現象」だけの世界にしちゃった。それが現象学ですね。これは一見ただの言葉遊びみたいにもみえるんだけれども、何が重要かというとね、……どんな懐疑論者でも、言葉のうえでは客観的世界なんて存在しえないよといいつつも、実生活の中では、やはり世界それ自体があって、それはある法則性のもとに展開されていて、という信憑をもって生きているはずなんです。そのことがある以上、これが事実だとか、これが客観的な真理だということも必ず出てくる。客観的な真理を相対化しなければ、という言葉が繰り返し語られるのに、他方では「事実」は一つだという素朴な客観的真理の概念がいつでも出てきてしまう。そういう対立をほんとうに克服するのは、世界の客観存在自体が意識の中の信憑であること、しかも、それはどんな人にとっても必ず成立してしまう信憑なんだというように問題をとらえていくことではじめて可能になる。

……うーん、もっと上手に言えないかなあ……こんな言い方はどうかな……『生物のみた世界』というユクスキュルという人の書いた本がありますよね……トカゲはピストルの音には反応しないけど、木の葉がさざめく音には敏感に反応するとかね……生物それぞれにとって環境世界がある……そういう考えって今は一般的ですよね。個々の文化を背景にした世界は違うし、個々人にとっての世界も違う。世界分節のしかたはそれぞれに異なるものなんだ……そういう考え方って、僕らにとって、いまやごく普通のものになっている。でも、それでいてね、それぞれが分節する「もと」になっている「一つの世界」ってやっぱりあるんじゃないのという感覚は、正直言って、みんなもっていると思うんですよね。……だから客観的な、「もの自体」というのも、意識の中でその存在を確信せざるをえないものとしてあって、それが絶えず再生産されていると考えることで、はじめてすっきりできると思うんです。



 カントの場合、人間にとって、世界が構成される場所、さまざまなものごとのなりたちを確認できる場所は意識体験、つまり「現象」なんだと設定することで、フッサールに通底していく問題設定がなされているのだけれども……その外側に「もの自体」を実体として立ててしまうと、「人間が直接には触れられないこと、直接には見えないことこそ『根源』なんだ」という姿勢を呼びこんでしまうし、すべてのものごとの「確信成立の条件」を意識体験の場から探っていこうとする感度は薄まってしまうと思う。例えば「道徳」に関しても、そのなりたちの根拠を内的な感触から確かめるのではなく、とにかく外側から「こうするべきなんだ」としてやってくるもの、「超越項」として呼び込んでしまうことなんかにも、それはつながっているような……気がします。



 そう、そう。「もの自体」を置いとくと「超越項」になるんだよね。ポストモダン系の思想が語っている正議論なんかにも、そうしたところがある。自分の見知っていることの外側から、何かがやってくるんですよね。「ほんとうのものは向う側にある。大切なものは向う側にこそある」というように。否定神学なんていう言い方もされるけど。具体的に目にみえるものを否定して否定して、そのかなたに予感されるものとして「神」というものがでてくる、というような形で、正義も天から降りてくることになるわけです。そのように予感される「神」や「正義」というのもあくまでも意識内の現象としてあって、そういうものを求めずにはおれない自分がいる、というところから考えていくべきなんじゃないかな。徹底した自己了解の方法が必要なんです。



外側の視点/内側の視点


 西さんが『哲学的思考』で明快にしてくださった「超越論的問題」にしても、いってみれば、「外側からやってくるもの、『超越項』として受けとめているもの」を、絶対化するのでも無視してしまうのでもなく、「内側」から考察していくための道筋を開こうとするものだと感じています。客観的、実体的なものとして受けとめている存在を正視し、考察の対象としていく方途というんでしょうか。僕ら、ふだん感じている、うけとめている体験としてしか「ものごと」と出会えるわけじゃないんだけど、この「ものごと」はただ自分の内側、意識が勝手に作り上げたものではないという感触も確かにある。ある客観的法則性のもとに展開され、そこに自分も組み込まれているような、「一つの世界」が確固として存在している感触は確かにある。でもその世界は、あくまでもこの「わたし」にとっては、たとえば内省を通して把捉される「知覚」の仕組みなどを通じて、「わたし」の中で動かしがたく成立した「確信」としてある。そこを離れて世界と出会えるわけではないし、ふだんあたりまえに自分たちが「そのようにしてとらえている・そのようにして考えている」場所からはじめよう。……というようにですね。



 すごく適切にいってもらって、うれしいです。カントみたいに「もの自体」と「現象」という枠組みだと、外側の何かを残しちゃうものね。「もの自体」という前提をなくすことで、はじめて、たとえば自分は「社会」をどういう像として見ているのか、どのような社会の「像」を自分の中でなりたたせているのか、というように「意識現象」としてみることができる。それによって、自己了解、自己検証がもっと十全に行く。自分が社会に対して取り結んでいる関係自体を確かめて、それがどのように作られているか、ということを確かめていくことができると思うんですよね。そういうふうに全部、内在に、意識現象に還元しないと、どこか「本当のもの」−−真理といってもよいのだけど−−それを隠しもってしまうことになっちゃう。
 ポストモダンの場合でも、とことん真理を解体しようとした結果、結局正義だとか倫理の問題を外部的に注入しなくちゃいけなくなった。すべて意識体験へ還元する現象学によって、はじめて十全に、自分の世界像つまり自分の了解のしかたを確かめ直しうる。フッサールの思想は、そういう骨をもっていますよね。そこがとても大切なことじゃないかと思う。しかも、哲学者とよばれる特殊な人だけができる特殊な方法じゃなくて、どんな人にとっても自分の世界像……自分が世界にかかわっているときの関係やその了解……をいつでも課題として扱い、掘り進めていけるわけですものね。



 で、あるわけなんですが、例えばポストモダン系の思想などから、意識に定立する哲学に対してなされる批判を再整理してみると、「意識はそれぞれの時代における社会関係によって制約されているが、意識はそうした制約に無自覚である」「意識にとってアプリオリで超時代的な本質と見えるものが、じつは歴史的な条件によって可能になっている」というようなものですよね。これは明らかに、「意識という場所にはすべてのことが明確に刻印されている。そこに還元すれば絶対に正しいことが判断できる」というように、現象学を「主観絶対の哲学」としてみなす誤解からきているとしか思えない。これに対して、西さんは、社会的な関係や構造を実証的に検証する、社会科学の意義をむしろ積極的に認めている。力点はむしろ、「でも、同じように、社会科学的な方法こそが『客観的な真理』の側に立つものだと『素朴』にはいえないはずだ」と指摘することにある。社会科学にしても、必ず特定の観点、人間の価値、関心を前提としてもっているはずであり、その理論的枠組みに対して、一人ひとりの「意識」がもつ現実感覚へと立ち帰り、妥当性を検討していく必要がある。……そのように「対立の構図」を解きほぐしながら、一歩先に進めるような答えを示しています……よね。


 そうそう。「意識が社会的な諸関係によって可能になっている」という考え自体はリアリティがあるし、僕もその通りだと思うんですよ。だから、僕は社会科学の方法をぜんぜん否定しているつもりはない。
 ただ、いけないと思うのは、社会科学的認識つまり「外側からの認識」が、悪い形で「制度化」されてしまっている点です。「人間を考えるためには社会関係から見なくてはならない」というように。そして、意識に定位する哲学に対して、意識という非常に狭いところにこだわり、意識という場に立てば真理が確保されると思い込んでいる、非常に古くてもう意味のないものだと決めつける。これが社会学をやる人たちの基本的な常識になっているわけですね。いま、社会学を勉強している若い人たちには、「内側の視点はとにかくだめなんだ。外側から見なくてはいけない」という像がハッキリとできあがっていると思う。

僕は外からの視点を否定しているんじゃないし、当然必要だと思っている。でも内側の視点も必要なんです。たとえば、僕があることをとてもいやだなあだとか、すばらしいと感じるとしますね。現象学は、この感触を絶対化するのではない。この感触が自分の中のどこからきているか、いったい自分の中の「何」がそれをいやだなあとかいいなあと思わせているのか、と自分の内側に向かって問うわけです。真偽、善悪、美醜の確信がなりたつ根拠を、自分の内側に向かって問うていく。フロイトのような無意識の仮説を用いたりすることなく、自分で自分の感触をていねいに点検することによって、確かめていくわけです。だからこれは、自分の価値観を自分で確かめて育てていくことになる。このような「現象学的な反省」は、だから、文芸批評や文学のセンスとつながっているのです。

他方で、この内的な感触を社会や歴史の文脈からとらえ直す「社会科学的な反省」もありますね。どういうところで育ちながらこうした「僕」が形作られてきたのか、たとえば現代の消費資本主義の中で、また諸階層の中で、どのように条件付けられながらこうしてものごとを感受している「僕」があるのかということを、突き放しつつ外側からとらえ直していく視点もある。そうした内側からの視点と外側からの視点というのがあって、人間と社会を考えるうえでは両方とも必要なものだと思うんですよ。
 マルクス主義にしても、それと関係が深い構造主義にしても、言語ゲーム論にしても、外側からの視点を取る見方ですよね。……言語ゲームっていう言い方自体がそもそもそうだものね。人と人とがさまざまに生活している様子を外から突き放して見てみると、どのような前提のもとでどのような「ゲーム」を行っていることになるか、というようにとらえていくわけですから。

橋爪大三郎さんなんかは、そうした「外側の視点」を突き詰めながら考察している。それはたいへんにおもしろいと思うし、大切なことだと思います。でも、その「外側の視点」も、究極的には内の視点とつながらなければ、意味がないんじゃないか、というのが僕のもっている感触ですね。

そもそも、なぜ外側からの視点をもつ必要があるのかということを、みとっていかないといけないと思う。例えば吉本隆明さんはこう言ってますね。……大戦中、自分たちは、植民地だった「大東亜」を解放する戦争だという大義を信じて生きていた。そういう世界観のもとに生きていたのだが、しかし戦争が終わってみると、それは自分たちだけの内側の視点でしかないことに気がついた。「自分にとってよい、すばらしい、すてきだ」という視点はとても重要だけれども、それだけでは必ず誤るのであって、自分たちの視点が、他者からはどうみえるんだろうかとか、他者との関係においてそれはどう働くんだろうかとか、そこに踏み込んで考えなければだめなんだ……と言っています。そこが彼の思想のエッセンスといえる。加藤典洋さんも『戦後的思考』でそこをとらえて、「内在から関係へ」というキーワードのもとに考察を繰り広げていますよね。

でも、その加藤さんも言っているんだけれども、「内在から関係へ」とはいっても、関係からみた視点、すなわち「外側からの視点」こそが正しい認識の場所なんだ、っていうふうになっちゃうと、またそれは違う。むしろ、外側から見る、関係という視点から見ることが、自分自身の生にとって意味があるんだという納得があってこそ、つまり内の視点とつながってこそ、はじめて生きたものになる。そこから切り離されて、外からの視点こそが客観的な、包括的な見方であるということになると、外側から、それ自身ある特定の価値観を担っているものにすぎない先端的な思想をもちこみ、それまでの考え方をローカルな価値観としてひたすら否定する、というような知のあり方になるわけです。ヨーロッパの思想をどんどん輸入しながら日本の学問はなりたってきたわけなんだけど、基本的にその構図の繰り返しですよね。「内側の視点はだめだ。遅れている。こんなものすら見ていない。偏狭なものに縛られている」というように。

そういう構図をどう破るかとなると、外の視点を否定するのではないが、そもそも外の視点が純粋にそれだけで成立するはずがないことに気がつかないといけないと思う。どんな世界認識を語る人でも、その人固有な生の領域をもっていて、つまり「内側の視点」というのがあって、それに無関係な「客観認識」なんてない。そういうように、外からの認識もやはり内からの認識に支えられているのだということが明らかにされなくてはいけない。

そうやって考えると、一見「意識の哲学」はとても古いように見えるけれども、外からの視点をもう一度吟味して、内からの視点とつなげていくためには欠かせないと思う。『哲学的思考』での僕の書きぶりは、フッサールの復権、ないしは近代哲学の復権という感じが強く出ていると思うし、そう受け取ってもらってもかまわないんだけれども、ある意味でいうと、「外からの視点を吟味するためには、内からの視点を大事にする意識の哲学が必要だよ、そのことによって外からの視点の重要性も限界もはっきりしてくる」というように、構造主義だとか、ポストモダンだとかそういったものを経過するなかで、もう一度超越論的哲学の必要性と意味が浮かび上がってくるというような、そんな気持ちで書いています。



「超越論的主観性」を巡って


 現象学は決して、「主観に還元すれば一切の真理が導き出せる」という単純な独我論ではない。あるものごとの意味と根拠を、「こうとしかいいようがない」という動かしがたい感触、「明晰性」の感覚に導かれながら、この「わたし」の中で、わたし自身の体験をダシにして考え抜いていく。そして、人と実際に言葉を交わして、より具体的で充実したものに、多くの人たちと共有しうるものへと練りあげていく。そんな、どんな人も参加できて、誰もが納得しうる既述を作り上げる方法こそが、つまり「洞察に基づく共有」をめざすことが、現象学の、ひいては哲学の本質なんだよ、ということを解き明かしてくださったことが、『哲学的思考』のキモですよね。そうした中で、「超越論的主観性」という、それこそ現象学が「主観絶対の哲学」とみなされる誤解をまねく一因にもなっている、フッサールのきわめて理解しにくい概念を、わかりやすく噛み砕いてくださったことも非常に大きなことだったと感じています。少なくても、僕自身も『哲学的思考』読んではじめて腑に落ちたような気がして、とてもあり難く思っています。で、そこらへんのことにも、あらためて触れてみたいんですけど。

 『哲学的思考』の、「何のための還元か」の章の中で語っていただいていることなんですが……フッサールは「純粋心理学」という形でまず問題をとらえようとする。従来の心理学のように、生物学的な説明だとか、科学的、因果的な法則性をあてはめようとするのではなく、心に生起する出来事を端的に見取っていくことから始める。そのことで、自然科学そのものを前提とする姿勢からは抜け出すわけですよね。ただ、この地点においては、世界そのものが実在し、それを人間の心がとらえているという枠組みそのものまで還元しようとするのではない。でも、意識に徹底して体験をとらえるなかで、ものごとのなりたちを確かめようとする現象学の基本的な姿勢は形作られることになる。

 で、そうした現象学は、自然科学的な説明からはとらえようがないものとして実感されている……なんていうか……きわめて人間的な問題を正面からとらえることができる思想として、多くの人をひきつけたことにも言及されていますよね。実存哲学や、生の哲学などにも影響を与えていったと……。

でも。フッサールが、世界そのものを生成する場所として、「超越論的主観性」ということを言いはじめたとき、けっこう多くの人が「ひいて」しまった……。



そうそう。彼が「イデーン」書いた段階で、……そのころは「純粋意識」という言い方をしているんですけど……一定数の弟子たちが「先生どうしたんだろう」という感じで「ひいちゃった」みたいですね。


 それは、「超越論的還元は世界から不透明さを奪ってしまう」、というメルロ・ポンティからの批判に顕著なように、せっかく生きた体験から生のありようをつかみとる方途を示しておきながら、「超越論的主観」「純粋意識」という、すべてがそこで構成されるような特権化された場所を作り出してしまった……という、理解というか、誤解からきている。

でも、西さんはこの本の中で……「超越論的主観性」は、決して「超越項」として「主観」を立てることじゃない。……さきほどの、カントの「もの自体」と「現象」の話にも通底していくと思うのですが……まず、「実在するもの・客観的世界」をとらえる心の仕組み、意識の働きへと照射する。そこからさらに徹底して、「実在するもの・客観的世界」という「信憑」そのものが意識の中で成立するありようをとらえる視点に立つ。「超越論的主観性」は、そうしたことを言い表そうとしているものなんだって、とても明快に解析してくださいましたよね。



そうですね。フッサール自身は「純粋心理学」と、「超越論的主観」へと還元していく「超越論的現象学」を峻別しているんだけども、僕自身は「そんなにうるさいこと言わなくてもいいんじゃないの」という感じをもってるんですよね。意識体験に内在し、そこから生の内的な理解を可能にしていくことで基本はよいと思うんです。ただ、「客観性」自体にしてもあくまで人間の信憑としてあるものだから、それはどのように可能になっているんだろうか、という問いに力点を置けば、「超越論的現象学」っていう言い方がでてくる、というぐらいに考えておけば問題ないと思うんです。

フッサールにしても、「客観性の意味と根拠を理解する」ために世界を還元しているのに、全然理解されなくて、わけのわからない観念論・独我論に陥っているととらえられてしまったことに対して、自分のモチーフを正確にわかってもらうために、そういう説明のしかたをとったんだと思いますよ。つまり、「心理学」という多くの人に理解されやすいイメージをまず出して、「内的体験を観取する」という感覚を伝え、でも、自分はそこからさらに突っ込んで、客観性の意味そのものも実は意識現象であることを問題にしようとしてるんだよ、というように、自分の立場を説いていったわけです。単純な独我論だ、唯心論だという誤解に答えていく必要性の中で、「純粋心理学」から「超越論的現象学」へという二段構えの構成で説明したわけです。ですから、この二つを根本的に違うものとして考える必要はないんです。だって、生のあり方を内的に理解をしようとすれば、自然科学の客観性を信じている部分にもおのずと突き当たることになりますから。

どうですか。犬端君もフッサール読みながら、あの二つを峻別してとらえていこうとか、そんなには思ってなかったでしょう。



正直言って、「純粋意識」ですとか「超越論的主観性」というのには、すごくひっかかっちゃいましたよ。「ものごとの存在を自明なものとしないで、自分という場所で確かめていこうよ」ということで現象学をまず理解していたでしょう。実際、フッサールの言葉は、自分の体験にひきつけて考えてみることではじめてよくわかるようになっている。でも、この「超越論的主観」というのは……どうやらこの自分の意識という場所に限定されたものではないらしい。そうするとね、それを自分自身の意識体験の中で、どうつかんでよいのかわからなくなってしまった。共通の一つの世界を定立するような、このわたしを超え出た大きな「意識の座」のようなものを言い当てようとしてるんだろうか、でもそれは、内在的な認識とどうつながるんだろうかって考えてしまったんですよ。その名の通り、「超越的なもの」というか……ごく日常的な、自分自身の意識体験との具体的なつながりが見えてこないように感じた。そんなこと簡単に言ってしまっていいのかなあって思いました。



 そうだよね、けっこう怖い言葉だもんねえ。



僕自身が、一つ一つのものごとを自分の中で確かめ直していくことや、自己了解を深めていくことへの希求が強い中で現象学と出会ったせいもあると思いますが、気分的には、「ひいてしまった」実存哲学の人たちへのシンパシーを感じた部分もあります。

でも、フッサールの「危機」を読み進めるうちに、「自然科学」が絶対視され、生の実感と乖離していくなかで、その意味と根拠をもういっかいきちんととらえ直そう、というフッサール自身のモチーフはつかめてきたように思います。そんな中で、『哲学的思考』を読んで、自然科学の底板となる、客観的世界そのものを定立する意識のあり方を考察の対象として焦点化するために「超越論的主観性」と名づけていくことには、なるほど意義はあるなあと、はじめて腑に落ちてきた感じですね。

 ただ、どうなんでしょうか。「超越論的主観性」というインパクトの強い言葉でそうしたことを言ってしまうと、なんとなく、「だから意識がそうなっているの・それで客観世界はなりたっているの」というような感じで、客観世界成立の根拠を、それこそ「超越的」に、外側からもってきてしまったような誤解は生みやすかったんじゃないでしょうか。



 ああ……なるほどなるほど。そうだよねえ。……ううん。そうですねえ。超越論的主観性の語感の問題か。それは面白いかもしれないなあ……

 「超越論的主観性」っていう場所があると……その場ですべてが決定されているような、あらかじめの枠組みが呈示されちゃうような気がするんだなあ。むしろ、フッサールが言っているのは……「超越」を可能にしているのは主観性だと考えましょう、意識の中ですべて確信されていると考えましょう……そうやっておいたうえで、じゃ、どのように確信ができているか、確かめていきましょうっていう……そういった方法であってねえ……確かに、フッサールの中でも、超越論的主観性の基本構造をなるべく明らかにしたいという思いはあるんだけれども、でもあくまでも方法なんだよね。

……『イデーン』にしてもあの書き方ではねえ、あそこでは「純粋意識」という書き方になっているんだけど、それにしても、こう……ものごとを純粋にとらえる場所そのものがあるみたいな印象を与えますよね。なんとかならんかったのかなあ。もっと簡単なことなんだけどもね。




その点で言うと、『哲学的思考』は、「超越」という言葉に纏いつきがちな「神秘的な絶対性」みたいなものを払拭する意味も大きかったようにも思います。事物知覚にしても、それを意識体験の中でみとっていくと、見ているのはあくまでも一部でしかないのに、その全体をあらかじめ想定しながらとらえている。この「あらかじめ与えられている」もの、直接には確かめられないのだけれども、確信として与えられているものを「超越」と呼ぼう。いっぽうで、意識体験の内部で、きちんと確かめられる範疇のものを内在と呼ぼう。フッサールの解釈を通じて、そうしたことを非常に明快に打ち出されていますから。そういうふうにして考えてみると、「超越」の「神秘性」のようなものは……



……まったくなくなりますよね。




 裏を返せば「神秘的・絶対的」と思われるようなものでも、意識内での「超越」としてとらえれば、それを考察していく道筋が開けていく。……そういうようなことは、フッサール自身にしても、イデーンで繰り返し言ってくれているわけだから、「純粋意識」「超越論的主観性」という言葉にしても、心を閉ざしてしまわないで、そのモチーフをちゃんと理解しようとする姿勢をもつべきでした。と、反省したわたしでした。



フッサールの原理はフッサールを超えて……



 でもね、フッサール自身は、主観そのものに対する信頼がかなり強いところがあるような気がする。感度としては独我論的なところもあるのかもしれないですね。

たとえば『デカルト的省察』では、主観一般を導くためには、他人を考えることは全く必要ない、ひたすら自分の体験に関する本質観取があればよいというわけ。そこから主観一般に共通する構造にいけますと、はっきり書いてあるんです。昔それを読んだときに、思わず「?」って書きこんでしまったね。

それはやっぱり、彼が数学出身だったということが関係してくると思う。数学というゲームをおこうなう場合、誰もが同じような、論理性をもった思考をしているという前提がなければそもそも成立しないから。

知覚の構造に関しても、実際に見えている部分から全体の形を思い描いているという構造を確かめるのに、他者の視点の必要性はそれほど生じてこない。

知覚や数学の領域に関しては主観の同型性がすぐに信じられるので、自分の場合はどうかというのを徹底的に確かめれば、みんなにも通じるだろうと、わりと単純に思える。でも価値にかかわるもっと複雑な領域……というか、ふだん生活の中で人間が立ち会う諸問題については、互いの場所からのとらえ方の違いや、それでも共通に言えることを「確かめ合う」ことが、どうしても必要になってきますよね。

でも、フッサールの場合は、数学と自然科学がモデルで、……なぜ数学や自然科学に関しては、誰もが共通了解をなしうるのかということから問題を立て、それを解明するには、自己反省、体験そのものの観取が基本だということを強調するあまりに……他人がとらえたことを自分にあてはめて考えてみるだとか、自分の中で確かだと思えることを人に言ってみて、「でもそれはこういうところもあるんじゃないの」という反応が返ってきて、それを受け自分の中でもう一度確認してみたりすることの必要性に関しては、あまり言及されない。

だけど、現象学の原理を突き詰めてみれば、おのずとそういうところにいくはずだものね。だって、実際に面白いのは、人間っていうのは別々の生を生きているようであっても、深いところでつながっている部分もあるんだな、というのがわかるときじゃないですか。



そうですね。……僕たちって、そもそも相対主義的な感覚が強い中で生きているように感じる。日常生活の中で、お互いどうしの価値観の違いを頻繁に実感させられる状況にいる。そうした日常的な感度が、普遍的な世界観なんてそもそも成立しうるものじゃないという考え方だとか、自然科学についても、それはある観点からの世界の切り取りにすぎないというとらえ方を、ごく自然に受けとめているところにつながっていると思うんですよね。


うん、僕らの生きる社会ってまさにそうだよね。いろんな人間たちと付き合って生きる社会だものね。限られた人間関係の中で、伝説の物語とか、価値観を共有しあって生きてるわけじゃない。いろんなところですれ違いや、価値観の屹立に絶えず晒されている社会ですよね。「これは僕のものの見方にすぎない。あの人にはあの人なりのものの見方がある。」ということを絶えず意識しながら生きる、そうした生の条件を与えられている。


「主観の同型性」にしても、もちろん実際にはそれを前提にして生活を送っている部分も多いのだろうけど、それを一から確かめ直してみないと、何かしら不安でたまらない……という気持ちはすごく強くありますね。自分だけのことかもしれないけど



 いや、それはあると思うよ。そうそう、何か根底のところからね、自分の世界観を確かめたいというのかなあ……たとえば僕の見えている、このミカンが他の人にも見えているだろうかとかね、そうした知覚に関する同型性をまあ疑ってみるような契機はあまりないかもしれないのだけど、……ある事柄にであって悔しかったり、落ち込んだり、でも何かの契機でまた生きる気力を取り戻していったりだとかね、そういう「人間が生きる」ということ自体がもっている「共通なるもの」を確かめたいっていう願望は、とても強いと思うな。ほら、去年僕ら『ちゅらさん』みて、よく話題にしてたじゃない。



 はいはい。




 なんでドラマみたりするかというと、そういう部分が大きいんじゃないかなあ。一人ひとりの状況はもうほんとうに個別的で、一人の人間が幾つもの顔をもっていますよね。会社の一員だったり、家族の一人だったり。そんな中、お互い重なり合うところは一部でしかないんだけれども、「人として生きる」ことには何かある共通の姿勢があるんじゃないか。ひとつの感じ方なりをもっているんじゃないか。ドラマに描かれたものごとの受けとめ方に共感したり、その共感を人と語り合ったりするのも、そのことを実感したいという気持ちが背景にあるんじゃないかなあ。

それで、またフッサールの話に戻るんですけど、彼にしても、人間の生にはさまざまな文化的相対性があるということに言及はしているけど、数学や自然科学をみれば、人間に共通の思考の様式があることは、疑うべくもないというのがまず実感としてあり、それをどう解明するのかというところからスタートしているのでね……僕らのように、「世界像の多様性」なんてわざわざ言葉に出してみる必要もないくらいに、いろんな価値観の人と日々出会っている時代からみればね、……「向き」そのものが違うっていうものはあると思うな。

ただ、僕らはフッサールの思想からいちばんいいエッセンスを取り出して先に進めようとしてるわけなんだけどね。



「哲学的思考」、今後への展開


西さん自身も、価値を含みこんだ人間的な世界、「欲望相関的」にあらわれる世界そのものを、フッサールによって基礎付けされた現象学という方法で、ストレートに迫っていきたいというのが、モチーフとしてはやはり大きい……という感じなんでしょうね。



そうですね。そっちのほうがやりたいですね。基本は。とりあえず、まずは「正義論」をやろうと思っています。それとね、「人間が生きる喜び」そのものに関して……人間の喜びというのはいろいろな層をもっていますよね。お風呂にゆっくり入るのが気持ちいいという、身体的な快に密着したところから、互いに役目を担いつつ一つのことを作り上げていく気持ちよさまで、多様な層がある。そうした「気持ちよさ」、つまり「喜びの構造」を論じてみたいという気は非常に強くありますね。でも、喜びをやるとしたら、同時に苦悩もやらなくちゃいけないのかもしれないけれども。

もし、時間がいくらでも与えられるんだとしたら、現代の自然科学、宇宙論がどうなっているとか、進化論がどうなっているかとか、数学や論理学が現代どういうところにきているかとかね。体が三つあるんだったらそっちのほうもやってみてみたい気はする。でもやっぱり体は一つしかないので、そうした学問の客観性の問題よりも、正義の問題や、喜びなど、人間の諸価値にかかわる問題をまずやっておきたいというのはありますね。

あと、社会科学には取り組んでみようかというのはありますね。現代の社会学が、どういうところにあって、われわれが生きていくうえでそれが本当によい形になるためにはどうしなければいけないかということね……それはやってみたい。歴史学や社会学の現状と、それがもっている方法を再検証するというのかな……それはやる必要があると思っている。

でも、ずっと思っているのは、もっとすごく単純なことで、……やっぱり人には伸びやかに、楽しく生きていきたいという気持ちがあるじゃないですか。そういうことに役立つような思考、考え方を作っていくことがやりたいんですよ。究極的にはね。

そうすると、「正義」というのはやはり一つの大きな問題です。われわれが日々立ち会わされる、「どう行動したらよいのか」という場面でものを考えるときに参考となるような「正義論」をまず形にしてみたい。

あと、これは現象学になるかは微妙ですけど、近代以降に、見田宗介さんのいう「情報化=消費化社会」が発達して、消費のための物資が次々と生産され欲望が刺激されて、そのことによってなおかつ資本主義が促されていく。そういう生の条件の中で、人間がどのような困難を抱え込むことになるのかっていうことを考えていくことも、やらなければならないなということを思いますね。

それはずっと考えていて……プレモダン、モダン、ポストモダンというような、それぞれの社会の形の中で、人間はどのような基本的な生きる条件を与えられるのかということを考えてみたい。そういう方向に行くんだとしたら、社会科学にも意味があるんじゃないかと思うんですけどね。ちょっと突き放して、「外側の視点」に立って、われわれ一人ひとりが生を織り成すうえで共通の条件を考える、ということですけど。


先ほどの話につなげていうと、現代の社会は、さまざまな世界像の違う人間とが出会い、付き合わなければならなくって、ある意味では相対主義の感覚がごく普通に出てきてしまうことがある。ちょっとしたことで、一人ひとりが、非常に孤独な場所に行ってしまうような、そういう生を生きていると思うんですよね。ある場面での「わたし」というのがあって、たとえば会社員としてわたしがいて、そこでは非常に承認されているとする。でもまた別の場面では、違った自分もいる。自分自身の将来とか、死ぬまでにいったい自分は何をしていくんだろうとか、そうした問題に向き合っている自分というものがいたりする。そういう、一つの役割に包括されない生の形を僕らはもっていますよね。そういう生というのは、ちょっと間違えると、とても孤独になってしまうものだと思う。どこかに、何かにつなぎとめるものがないと、誰かとともに生きているんだなという感覚が自分の中でなくなってしまうと、非常に生きるのが苦しくなる状況じゃないかと思うんですよね。

 若い人たちを見ていても、世界像自体を作り上げるのがもうしんどくて、たいへんだと思いますよね。カントやヘーゲルなどを読んでいると、ルソーにしてもそうだけど、「自由」というのが非常に大切な価値になっている。国王とか領主さまがいて、教会がある。これが二大権力ですよね。なかなか逆らえない。でも、自分でおかしいと思うことは、おかしいと言いたい。自分に納得できないことには従いたくないし、自分の考えを自由に言いたい、自分の考えで人生を形作っていきたいという希望が生まれる。「自由」という言葉が、とても大切な生きたものになるんですよね。近代哲学全体を見てみると、この「自由」が、いちばん中心的な概念となっている。

でも、僕らが生きている時代というのは、言論の自由は、もう相当に確保されているでしょう。それに、自分がその気になれば、海外で暮らすこともできるし、職業だっていろいろ選べるし、そういう意味で自由の条件というのは昔から比べればものすごく広がっている。

でも、「わたしはこれをやりたい」だとか「こっちの方向に行けばすてきなことに出会えそうだ」とか、そういう欲求がまずあり、それをめがけて生きていくことが自由の感覚を生み出すのであって、最初に希望の形というのがはっきりしないと、「さあ、あなたは何でもできますよ・何をしゃべっても罰せられることはありませんよ・何の仕事に就くのも自由ですよ」と言われても、実感としては「自由」という感覚が湧いてこないんですよね。

そういう意味で、近代人では、いろいろな抵抗や諸制度、家族制度などに抗いながら自由を実現するということ、それ自体が大きな魅力だった。僕らから見ると、ヘーゲルの思想はたいへん優れているんだけれども、この人の中には、「自由」に対する、素朴で素直な揺ぎない信頼がある。でも、今の時代では、「自由」を求めたり、「自由」ってなんだろうって考える以前に、自分自身の中身がわからなくなっている事態がある。近代哲学は僕も好きだし、現代に通底していく原理は取り出せると思うのだけど、そのまま復活させるわけにもいかないと思いますね。

今のこの時代に即した形で、人間の「喜びの構造」を考え、人というのはどんな形で喜びを汲みとってきたのかという原理を示すような、そういう仕事をしないといけないんじゃないかな、という感触をもっていますね。



 話がつながるかどうか……つながればよいのですが……ここしばらく、メルロ・ポンティを読んでたんですよね。それで、『眼と精神』を読みながら、ふと思ったんですけど……この人って、人間関係で苦しんだりとか、「わたし」と「社会」の関係の中で悩んだりだとか、そういうようなことに関する執着が、なんかふっとんじゃっている人だなあって、印象を受けたんですよね。「わたし」の前に開かれる、美しい世界との出会いというか、科学的、分析的な思考に歪められない、生き生きとしたナマの世界との触れ合い、世界の現出を、自分は「哲学の言葉」で表現したい。……絵で描けたらそのほうがよかったんだけど……。そんなモチーフを感じたんですよね。



 なるほどね。うん。生命の躍動した感じだとか、開かれた感じを表現してみたかったというのはあるのかもしれないよね。



 そう。そういうのも自分としてはいいと思う。確かにポンティの表現には美しいと感じられる部分が多いし……



 文章がものすごい上手だもんね。



だけど、自分が日常生活に帰って、現実にどれだけ、ポンティのいう、ナマの世界に触れ合おうとするような精神性のもとで暮らしているかというと……そこをベースに生きているわけじゃないです。正直言って。「人からこんなことを言われた・妙に気になる・何でだろうか」だとか、「人にこんなことを言ってしまった・それがどんなふうに受容されているんだろうか・気になる」だとか、そんなことに拘泥しながら生活している。そうした場面の中で、悩んだり、喜んだりしつつ生きているなというのが正直な感覚です。



おもしろい反応だね、それ。確かにね、子どものころ裸足でぬかるみのうえを歩いた感触とかさ……ある新鮮な世界とのかかわりの感触っていうのは……あるよねえ。それは……確かにあったし……なんかそういうところに行きたいという感じは、人の中にはあるのよね。

でも、そういうのを表現するということは、哲学とはまた別物という気がするなあ。僕の感じでいうと。それは、絵とか音楽とか、詩とか文学作品で表現されるべきものだと思うな。その表現によって、見る人、聞く人、読む人にそうしたナマの感覚が蘇ってくれるとすれば、それはすばらしい体験を与えてくれる名作なんだよね。

でも哲学は……ある意味でいえば「みもふたもなく」問いを解明することだっていう感じがしているな。……こんなふうにいえるかもしれませんね……日常生活から超え出た世界の始源との接触に「憧れる」こと自体が哲学ではない。「そういう憧れを人がもち続けるのはなぜか」と問い詰めていくのが哲学だ……というようにね。なぜ大人になってから、子どものころの、世界とのナマの触れ合いの記憶を思い出したり、大切にしようとするのか。それはやはり自分たちの日常世界の中で、なんか足りないものを感じていることに関係すると思うしね。そういうことを自己了解へと導いていくのが哲学だっていう感触がある。うん……「夢を夢として語る」のが哲学じゃないというように思っているなあ。「語るな」とはいいませんけど。「夢を語ろうとしている自分とは何か」と問うていくのが哲学の視線だというのが、僕の感触ですね。



うん、そうですねえ。現実的な必要とか要求とはまったくかけはなれたところで、純粋に存在のありかたそのものを既述しようとしているという感じがしますねえ。ポンティの場合。ただ、この僕自身にとって、ほんとうに切実な問題は正直言ってそうしたところにはないので、それを感受する感覚事態が発達していないのかもしれないと思うところもあります。

ただ、やはり、もし絵に描けたとしたら、よほどそのほうが伝わりやすい部分もあるんだろうなという気はどうしてもしてしまいます。言葉で表現すると、何か、一つのことを表現を変えながら繰り返し言っているなあ、と感じてしまうんですよね。



 うん。問い詰めて、掘り下げていくという感触よりは、ある同じようなことをいろいろな言葉で言っているという感じが強いよね。




 それで……ここからさっきの話につなげようとしています。ヘーゲルをはじめとする近代哲学について、自由に対しての素朴な信頼は、現代の感覚とじかに重なりえないところもある、というような話になったのですが、……ヘーゲルの思想には、人との関係の中で喜びを得たり、自分という場所に妙にこだわってしまったり、関係の中で自己を形作っていったりする人間のありようの原型は、とらえられていると考えていいんでしょうか。



 うん。とらえていると思う。そこがすごく大きいところだと思います。あの人の場合、一言でいうと、「わたし」という問題が大きいと思う。近代人は、他人とは完全に孤立した「わたし」というものを抱え込んで生きることを条件付けられている。他人との関係の中で傷つくということも含めてね。そういうようなことが、『精神現象学』ではいちばん中心になっているんじゃないかな。まさに関係の中で考えたり、また自分自身に立ち戻って考えたり、ということが原型になっていると思う。日常生活そのものからではなく、「歴史」という視座のもとで書かれているんですけど、基本的には非常にリアルな感触がありますよ。「関係」の中で生きるわたし、「関係」を切りたいと願うわたし。そういうことが大きなテーマになっているといえますね。

 『精神現象学』は、いろんな読み方ができる不思議な本なんですけど、僕の直観で言うとね、……近代という時代は、何者をも無化できる「わたし」、極端にいうと、世間の掟や、いろいろなものすべてを無化してしまって、この自分さえよければいいんだと、一切のかかわりを断ち切りうるような「わたし」を生み出してしまう。そういう響きが全体に流れていると思う。でも、そういう「わたし」が、よく生きようと願うときには他者との関係が不可欠だということを承認せざるを得なくなってしまう。単純にいえばそういうストーリーだと思うんだなあ。それはヘーゲル自身の内的なドラマでもあったんだろうと想像するのですが。

四月から、朝日カルチャーで、竹田青嗣さんと一緒に『精神現象学』の講座をやるんですけど、そうしたことが核になるんじゃないかと思います。やっているうちに、また違ったところに気づくこともあるかもしれないけど。



 西さん、自分はどちらかというとフッサールよりも、ニーチェの子なんだよって、以前おっしゃってましたよね。現代の状況の中で、のびのびと、楽しく、よく生きていくために哲学的思考を展開していきたいというお話も、そうしたことにつながってるのかな、と思いながら聞いていました。ヘーゲルについても、きっとそうした側面から照射されていくんでしょうね。でも、「喜びの構造」というのは、自分としても考えていく必要を感じますね。今年は、そこらへんを中心にお話伺ってみようかなあ。



(語りおろし貯蔵庫)

『哲学的思考を巡って』T〜「本質観取」について@

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