『自由を考える』(大澤真幸/東浩紀)について

 

Tこころざししか伝わってこないのはなぜ?

 

80年代の日本の言論界を彩ったポストモダニズム、つまりマルクス主義を継承し、記号論や精神分析を中心に組み立てられた難解な『理論』は……90年代前半のあいだに、すっかり鳴りを潜めてしまった。」「論壇的な言葉というのは、現実とは離れた一種のゲームとなってしまっている。」

 

思想は、現実とのつながりを真摯に考察することのない、閉鎖的な言語ゲームになっているのではないか。思想の言葉を、多くの人びとがリアリティを感じられるものに、自分たちが今おかれている現状をとらえ、これからのありかたを考えていく手がかりを与えるものに再生したい。冒頭の言葉に込められた、こうしたふたりのこころざしには共鳴する。言葉を弄しながら、ただただ既存の価値を相対化していくことのみを目的に展開されているとしか思えない「ポストモダン」の言説に、辟易した経験は自分のものとしてもあるからだ。

 

ただ、以降展開されていく論は、現状を把捉するうえで少なからず示唆を受けるものの、総体としては自分自身の芯にどうも響いてこない。ともすると、ふたりが表明するこころざしとは裏腹に、闊達な思考の展開を競い合う、鮮やかかつ空虚な言語ゲームを傍観させられているというような印象すら抱いてしまう部分もある。こうした違和感を、「自己了解」できるように整理してみようと思う。

 

U 現状分析の方法と方向性

 

「不自由」の感触を権力論からとらえる

 

超越的な存在=「神」や、究極の世界説明=「マルクス主義的世界観」への信憑が潰え、規範の拠点となる「第三者の審級」(大沢氏)「大きな物語」(東氏)が失われた。人々は自分たちの生きる方向性を、あらかじめ設定されることなく生きることができるし、生きなければならない。一方で「何にでもなれる」自由をもちながら、「意味ある何か」を見出していくのが困難な状況におかれている。「社会的関係」に開かれていくことの意義や手がかりが見出せない。20世紀末の情報技術の飛躍的な発展がこれに折り重なる。一人ひとりに、自分自身を拠点として多くの情報を得、発信する機会が与えられたのだが、同時に、それぞれの小さな世界=「島宇宙」(東)に閉塞し、社会性・普遍性への道を閉ざしてしまうような生のあり方を産み落としている。また、情報システムに依拠するような生活形態が、「どこかのだれかに操られているのではないか」という不安、不全感を生じさせている。

この本において素描される現代社会の相貌は概ねこのように輪郭付けられると思う。そうした時代認識は、自分自身にも共有されているし、一般性をもつものでないかと思う。

 

しかし、東、大澤両氏は、「権力論」の枠組みに基づいて、問題を焦点化しようと試みる。なぜ「権力論」的な見方をとる必要があるのだろうか、と思ってしまう節があるのだが、ひとまずはその論を追いかけてみたい。

 

「規律訓練型権力」と「環境管理型権力」

ふたりは、近代社会における権力のありかたを「規律訓練型権力」「環境管理型権力」の二極においてとらえていく。

 

まず一つは「規律訓練型権力」。フーコーの「パノプティコン」で知られるように、「規範を司る権力の監視する視点」を、一人ひとりが自らに内在化し、その視点のもとで「徹底的に自己反省」して自分を律していくことにおいて展開されていく。つまり、社会に共通の規範を内面化し、そこをもとに自分の行動を(権力の側の意図に合致するように)自ら主体的に批正するように仕向けていく。必定、人々に、徹底的な内省(およびそれによる罪の告白、すなわち「わたしが浅はかでした。以後改め、よりよい人間になりましょう」的自己理解)を通して自己形成しようとするような精神的生活を促していく。

 

もう一つは「環境管理型権力」。「規律型権力」と違い、個々人の内面をコントロールすることはしない。規範の共有化を押し付けることはせず、多用な価値観を許容する。しかし、個人の情報を徹底的に管理することで、自分の意志を抑制されているような印象を与えないうちに、行動可能な範囲をあらかじめ設定しまう。例えばマクドナルドなどのファーストフード店が、堅い椅子を用いたり、BGMを不快なほどの音量にしたりすることで、客が知らず知らずのうちに早く食事を済ませてしまうように。(近所のドトールは爆音でBGMを流すので、笛をならされた人造人間キカイダーのようにあたまがぐちゃぐちゃになるんだけどもっていわれてもわからないだろうけれどめげずに居座って本を読んでいる。それとも「環境管理型権力」などということをいわれたものだから、一方的に被害妄想に陥っているのかもしれないけどね。店員さんに「これって、わざと?」と確かめる勇気はないです。)人の「精神的側面」からコントロールするのが「規律訓練型」だとすると、こちらはきわめて身体的・「動物的側面」からコントロールしようとする権力といえる。

 

現代において、権力は後者の「環境管理型」を主に展開されているのではないか、というのが彼らの見解である。

 

例えば「住基ネット」などの情報管理に対して、「表現の自由」「個人の自由」を剥奪していくものだという見地から反論が企てられる。だが、ふたりは、それは正しい現状認識ではないと考える。「権力が個人の自由を抑圧する」という(「規律訓練型」をベースにした)古典的な権力図式は、もはや成立していない。「自由」が「明らかに邪悪なやつに、何かをしたり考えたりしたりする自由が抑圧される」というように「わかりやすく」コントロールされることはない。もし「表現の自由」が阻害されている具体的な場面を指摘すれば、権力(当局)はシステムを「改善」し、そうした不満を解消することくらいは悠々してしまう。システム=現代における資本主義にとって、「表現の自由」=多用な欲望を前提に社会が展開していくのは、むしろ意に叶ったことだからだ。

 

だが、こうした情報の徹底管理は、実際に、何かしらの不全感、違和感を生んでいる。その「何か」を輪郭付けていくためには、古典的権力図式にとらわれない、新しい枠組みのもとに現実をとらえようとする営みが要請される。「環境管理型権力」が奪おうとするものが、例えば「表現の自由」など、「主体的に何かを企てる自由」ではないのだとしたら、どのような「自由」が、あるいは旧来の自由の概念からはとらえきれないような「何」が、そこで阻害されているかを明るみに出さなければならない。それは、ゆくゆく「自由」という概念そのものを刷新することにつながっていくかもしれない。

 

ふたりがここで主張していることは、概ね以上のように整理されると思う。(ひょっとして全然違う?)

 

自分自身、「一部の邪悪な権力者が市民を巧みに懐柔している」という硬直した世界観から「正義」を語ろうとする、「ありがちな姿勢」に辟易することが多い。セキュリティを強化しよう、情報処理を円滑にしよう、という社会の動きを、全て「実は市民をコントロールしようとする、隠された悪意」によるものだと考えるのはナンセンスだと思う。自分自身の不全感を、外部に仮想した「悪」に投影してしまう思考スタイルは、現実を見えなくさせるし、生産的な議論の場を生まない。

 

その点で、現在の情報(管理)社会の問題を、単純な権力図式からとらえることの非現実性と不毛性を直感する彼らに同意する。

 

だが、あくまでも「権力論」の視座に固執し、従来の主体的な自由とは別種のものであるにしろ、本来失われてはならない「何か」が、「環境管理型権力」を軸とする新しい権力図式において「奪われて」いるのだ、ととらえる以降の展開については、どうも違和感をぬぐえない。

 

たしかに、一見「自由」が与えられているようでいて、実際のところは「己が納得のいくように己のありようを選べる」という自由の「本質」(という言葉自体をふたりは好みそうにないが)を、内実ある形で実感しにくくなっている状況はあると思う。しかし、それは、外部の権力から何かを「奪われている」からというよりは、一切の超越的なものから、あるべき姿を「与えられなくなった」ことが生んだものではないか。自らの選択や決断のもとに生を形づくる条件が与えられながら、他方では、後ろ盾がないところで、一からそれを成し遂げる難しさに直面させられているからではないだろうか。そう自分自身は感じている。

 

とはいうものの、現在の情報システムに正対し、権力論的な視座のもとに批正しなければならない切実な理由が、そうした分野に疎い自分の視野には届かないところであるのかもしれない。とりあえず、先に進んでいこう。

 

 

「匿名性の自由」「根源的偶有性」を「回復」する

 

さて、それでは環境管理型権力が奪おうとしているものは何か。東氏は「匿名性の自由」という概念を通してそれに迫ろうとする。

「言論の自由」「表現の自由」という(近代の主体性に基づく)「伝統的な自由」は、あらかじめ意識することのできる自由である。つまり、自分自身の潜在的な可能性のなかに含まれている積極的な選択肢として、指し示すことができる。それに対して「匿名の自由」は、言ってみれば「無意識の自由」といえる。それは、「何をする自由」「何である自由」とあらかじめ特定できない自由である。もし(権力により)奪われたとしても、何が奪われたかと具体的にいえるようのものではない。しかし、強いていえば無為である自由(正直このあたりは理解に苦しむ)というべきものが、明らかに排除されている。

 

人間には重要なことが二つある。一つは「所与の条件」(ラカンの言葉でいうと「主体の刻印」)、つまり個人が個人として与えられる取り換えのきかない生の条件を受けとること。もう一つは、同時に、(「わたしがかくしてある」というのは偶然の所産であって、)そうした条件が交換可能なものなのかもしれないという想像力をもてることである。後者が欠けてしまうと、社会を形勢する基盤となる共感が生じない。だが、これまでの哲学は、こうした交換可能性や偶然性を比較的軽視してきたのではないか。

誰からも見られていないし、自分は、群集のなかのただ一人でしかない。このような匿名的存在になれたときこそ、人はアイデンティティから解き放たれ、交換可能性をもっとも強く意識できる。しかし、コンピュータによる情報管理のもと、「あなたはだれだれですね」と個人認証がつねになされてしまう社会では、この主体の交換可能性に対する意識(ほかのだれかでもありえるというような感覚)が削減されてしまうのではないか。

 

大澤氏は、自分自身は「根源的偶有性」というタームを用いて、東氏のいう「匿名性」の問題を考えてきた、という。「わたしがわたしでしかない」という「単独性」と、「ほかのだれかでもありえた存在なのだ」という「根源的偶有性」のふたつが、不足不離なものとしてひとりの人間を支える。たとえば地震で「わたし」は助かったのに「夫」は死んだとする。「ここに生きてしまっているわたし」を実感しつつ、死んだのはたまたま「夫」のほうだったが、その運命はもしかしたら私のものであったかもしれないという思念が心を貫く。「わたしがわたしである(でしかない)」という単独性の感覚は、「ほかの運命もあり得る(なかであえてこのわたしだった)」というような偶有性への意識が後ろ盾となっている。(正直このあたりも理解に苦しむ)。そのような、二つの相補的な関係が、社会関係のもとに生を営む人間の根底にあるべきものだ、とする。

 

東氏が、「環境管理型権力」によって、他者との共感を支える「匿名性の自由」が奪われていく危険を指摘するのに対して、大澤氏は、「環境管理型権力」は、人間の「根源的偶有性」なり「匿名性」を逆用することで展開しているのではないか、と少し違った角度から問題提起をする。

人間には(「根源的偶有性」「匿名性」にもとに生きている存在であるので)自分にとって疎遠なものでも引き受けてしまうような本質的な特徴がある。(少し違った文脈で、他者とのコミュニケーションを通して、他者から与えられる自己像を受け取りながら、自己の「固有性」を形成している、という言い方がされている場面もある。)権力はそこを利用して、「これまでのデータからすると、あなたはこういう人なんです。ですからこうしてください」というように「客観的」自己像をおしつけようとする。それが主観的には納得できないものであっても、それを受け入れざるをえなくなってしまう局面が生じる。こうしたことを、今後の情報化社会において、憂慮すべき点の一つであるとする。(「ゾーニング」「フィルタリング」という言葉からその様相を克明に追っているのだが、言わんとするのはだいたいこうしたことではないかと思う。全然違っていたらごめんね。)

 

動物的身体と政治的身体

環境管理型権力がコントロールするのは、理性的な判断のもとに行為する主体(精神)ではなく、行為のベースとなる身体的環境、動物的なレベルでの生環境である。そして、それは管理の対象となる人間のあり方(身体性)そのものに呼応している(ということなんだろう)。第二章「身体に何が起こったのか」では、「権力」から「人間」のほうに視座を移し替え、その現況が素描される。

 

東氏は、現代社会において人々が「動物化」していく様相を次のようにとらえる。「第三者の審級」が失墜し、「超越論的欲望」の次元が消えうせてしまう。「みんなにとって/社会にとって」意味や価値あるものごとを成し遂げるために欲望を仕向けていくことが難しくなる。「環境を否定する精神の営み」(つまり、望ましい社会像などのもと、主体的に環境を改変しようとする営み)が後退し、「動物化」したように身体的快楽を享受する事態が生じている。例えば「オタク」がゲームに耽溺するさまは、与えられた刺激に対する、受動的な条件反射に近い。「薬物依存」とほとんど変わらないものだ。

 

大澤氏は、アガンベンの理論にもとづいて人間が抱え込む生の形を、二極へと分類する。ひとつが「生物的身体」、すなわち「剥き出しの生」「動物的な生」をあらわす「ゾーエー」、もうひとつが「政治的身体」「社会的なネットワークのなかに登録された人間としての生」を意味する「ビオス」である。そして、(やはりアガンベンの理論から)、「ゾーエー」が「ビオス」を取り込まれようとしていることに着目する。近代が目指してきた、主体的な意識のもとに自己と社会の関係を構想しようとする生の形は弱まり、きわめて動物的なものに近い欲望/反応のもと、政治的・社会的関係へと短絡的につながっていってしまうような事態に、現代社会の特徴を見とろうとする。

 

東氏は、この二つがそのように短絡的につながってしまう現状を認めつつも、二つの距離が「離れている」ことにあえて照射する意義を語る。一方で「政治的身体」はどんどん「バーチャル化」していく(要するにメディアから需要しているアニメ的な虚像の延長線上に国家観、世界観を形成してしまう、というような事態をいっているのだろう)。他方で「剥き出しの生」(情報技術によって管理される層)のコントロールはますます強くなる。それぞれが不調和のまま、乖離したまま、ラディカルに突き進んでいるのが現代の特徴ではないか。そうした実感を以下の言葉で語る。

 

従来『人間的』と考えられていた領域はいま(ゾーエー/ビオスの)どちらにあるのかと問うと、これはどっちにもないわけですよ。一方に剥き出しの身体があり、他方に機械的なコミュニケーションがあり、どちらにも『人間』はいない。その状況に苛立ちあがいて生まれたのが、オウムだったり酒鬼薔薇だったりすると思うんです。多少極端に言えば、従来の『人間性』を真剣に回復しようとすると狂気や犯罪につながってしまう。108

 

近代社会は、超越論的欲望のもと、「生物的身体」を「政治的身体」に編み変えていくかことを主眼に方向性を定めてきた。思想もこれに呼応して、主体的な理性のもとで、動物的な身体の層を取り込んでいくことに腐心してきた。そうしたあり方こそが、人間の本質的な姿であるという固い信念をもっていた。しかし、そのような「人間的本質」は、単に時代状況の中でかたちづくられたものにすぎないのではないか。現代社会における人間の「動物化」は、資本主義社会、情報化社会を突き詰めた結果生じてきているものであり、それを(過去の遺産のような)「人間的本質」「人間性」に無理やり取り込もうとすることはできない。また、(たとえば理性によって身体性を方向付けしていくような)旧来の思想の枠組みで、この「動物化」の事態をとらえていくことはできない。この現状をより深く了解していくために、思想の言葉を再生させていく必要がある。そのような認識(……とこれまたこの要約がまた全然違っていたりして)を以下のように述べる。

 

20世紀の思想は、経験的な身体性から超越論的位相がいかに結晶化し、社会秩序のなかに組みこまれるのか、その理論構成を一所懸命やってきた。しかし、今出現しているのは、そんな過程はそもそも機能しなくてもよいのではないか、剥き出しの生は剥き出しの生として管理すればよいのではないか、という荒々しい社会です。」138

「おそらく20世紀の思想は、そういう社会の到来についてほとんど考えてこなかった。……社会について考えるときは、ゾーエーをビオスに、つまり生物的身体を政治的身体に変えることばかり考えてきたのではないか。」

20世紀の思想は、生物が政治的身体に、つまり動物が人間になった後の社会のことばかり考えてきた。その果てがシミュラークル化であり、ポストモダンなわけだったけれど、ところが今や時代の針はぐるっと回って、秩序編成の頂点はシミュラークルどころか、剥き出しの生の管理(セキュリティになってしまった。)これはもはや哲学の領分ではない。こちらについて語るのは、哲学の洗練された言葉よりも、フィールドワークやカウンセリングの言葉のほうが適している。」

 

 

V なぜ内省を禁じ手にしてしまうのかしら?

 

「今の社会で、人々は主体的な自由を奪われることはない。だが主体性の背後にある『無』(としかいいようのないもの)が、『匿名性の自由』『根源的偶有性』とでも呼ぶべき何かが、強力な管理のもとに置かれている。これこそが他者への共感、社会的関係を形成する基盤となるものだ。こうした深刻な事態をよく認識しなければならない。」

「『第三者の審級』が潰え、(だれもが認める・社会的/精神的に)価値あることへと欲望を編成することが困難になった。人々は環境に依拠した受動的な、身体的な快楽のみを希求するような「動物化」へ向かっている。それは確かに問題ではあるのだが、「動物的」状態を主体的、理性的人間性へと弁証法的に解消するのは不可能かつ、意味のないことだ。(無理にそうしようとしたときに、オウムなどの問題が発生している。)この現況をまずはよく理解していくことが必要だし、そのために思想の言葉を改編していく必要がある。」

 

そうとう乱暴ではあるが、両氏の現状認識と問題解決への方向性は以上のようにまとめられるだろう(またまた全然違っていたりして。)

 

東氏が、身体的・受動的な快楽に依拠した「動物化」を、『島宇宙的』生き方に閉塞してしまう危険性を指摘しつつも、それを、所与の人間的本質から逸脱した非本来的なものだと一蹴したり、(バーチャルな)「政治的身体」に取り込んで解消してしまおうとしたりすることの危険性を指摘する点には、同意できるところが多い。氏の言うとおり、「動物化」が、ある面では「自由」が行き渡ることから生じていることは十分認識しておく必要があると思う。浅薄な言い方ではあるが、コンピュータゲームやプログラミングに没頭する生き方が、「非人間的だ」と糾弾されるような社会は嫌だと思う。必要なときに社会的な感度を発揮できることが必要なのであって、それ以外の場面で好きなことや趣味に没頭できることに何ら問題はないはずだ。むしろ、東氏が指摘するように、現代人に失われた「本来的な」ものだと称される国家へのシンパシーを基盤としたナショナリズム的神話が、もはや(メディアを通して呼吸しているバーチャルな物語を通して形成された)「虚構」としかありえないことを自覚できずに、とびついてしまうような事態のほうがよほど問題となるように感じる。

 

だが、そうした現実への直観は、具体的な構想へとは展開していかない。せいぜい語られるのは、「匿名性の自由」「根源的偶有性」に立脚する、徹底した他者性への感度を回復することぐらいだ。

こうした問題整理・ビジョンについては、どうしても釈然としない。「匿名性の自由」なり「無」が「奪われている」というとらえかたは、「主体的、意識的活動からはけっしてとらえられないところにこそ、根源的なものがある。」という、(雑駁な言い方で申し訳ないが)東氏自身が批判する、ポストモダン思想の典型である「否定神学」(「意識」のおよばない「何か」が「意識」を支えている。その「何か」は積極的な形では表出できないものだ……というような)の枠組みをなぞっているのではないか、と思えてならないふしがある。たしかに、情報によって生活環境そのものをコントロールされている「ように」感じられる場面は多々ある。しかし、それは「何かしらの主体的自由を阻害されている」不全感として、意識の側から了解されるとき、はじめて生じてくるものではないか。それを、あえて意識の側からとらえようとすれば「無」としかいいようのないものが、「奪われ」「回復しなければならい」事態であるという認識は、そうした認識をうながす「理論的枠組み」なり「概念」なりを前提にしない限り不可能だろう。もちろんそうした「理論的枠組み」「概念」が、現実的な実感をよく掘り下げたものならば、時代状況を考察する有効な視座となるだろう。両氏にしてもそこを目指しているのだとは思う。しかし、残念ながら自分自身としては、それが単なる「論理の綾」から派生したもののように感じられてならない。

 

同様に「匿名性」こそが、「交換可能性」への想像力に不可欠で、それがなければ社会の前提となる共感は生まれない、という主張も、腑に落ちてこない。情報機器の発達がもたらした、「自我を削られる」ような部分をも含めた他者との日常的交流(日常的相克)を回避し、「バーチャルな全能感」に包まれた「島宇宙」に閉じこもりきりでも生活できてしまえる生活環境が、他者への想像力を弱体化させがちになる、という現状認識ならば自分のなかにもある。また、他者の視点を想定しながら自己像を形成すること、公正さの感覚に立脚して社会を構想していくことが大切であるというのであれば、大いに賛同する。しかし、「わたしという主体性」を取り払ったところにこそ、他者への想像力、共感は生まれるのだ、という問題把握は、やはりポストモダン的「他者論」の図式を想定しない限り出てこないように思う。主体的なコミュニケーションとは違った位相で働く、他者との身体レベルでの共振などもあるだろうが(もちろん彼らの「交換への可能性」は、このようなことを言い表そうとしたものではないだろうが)、自分自身としては、他者性への感度というのは、具体的な相手との交流を(主観という場所で)重ねていくなかで磨かれていくものではないかと思う。大沢氏が文中に例に挙げた、「震災で夫を失った婦人」にしても、亡くなったのが長年の歳月、体験を共にしてきた「夫」であるからこそ、かけがえのないものを奪い去った運命の理不尽さを痛感するのではないか。より日常的な場面においても、思い通りにコミュニケーションができない痛みを積み重ねていくなかでこそ、他者の視点からものごとをとらえられる想像力が育まれていくのではないか、と感じている。

 

また、東氏が、「他者への共感の回復」=「社会性の回復」というような構図を描いているのだとすれば、あまりに短絡的すぎるような気がする。なんらかの「社会的な関係」を構想していく以上、我執から開放されるところに生まれるような他者への心情的共感だけではなく、(東氏がその価値を認めない)ヘーゲル哲学のエッセンスである、「わたしという主体性(欲望)」を前提においた「相互承認のゲーム」という着想を踏まえなければ、語れないのではないか。

 

であるのだが、本文中、東氏はヘーゲル哲学に関して以下のようなことを述べている。

「プロザックという有名な抗鬱剤がありますね。これは、フクヤマの要約によれば、他者から承認される欲望を脳化学的に代替する薬です。そして彼によればこれは人間の本質にとってきわめて危険である。なぜならば、このような薬が蔓延すると、ヘーゲル哲学における『人間性』の定義を支える主と奴の弁証法、つまり、他者からの承認を求める『欲望の弁証法』が働かなくなってしまうからです。未来社会では、奴隷はもはや主にならなくても、プロザックを飲んでいるだけで満足してしまう。それでは、人間社会は崩壊してしまう。プロザックの例にかぎらず、『人間の終わり』という本は、このような状況に対する危機感で書かれた本なんです。

 この指摘は、二重の意味で面白い。ひとつは、このフクヤマの議論が、おそらく彼の意図とは逆に、近代哲学が『人間性』と呼んでいたものがいかに動物的なものにすぎず、したがって脆弱なものだったかを暴いている点です。

 フクヤマの主張はよく考えてみるとおかしい。……ヘーゲルの言う欲望の弁証法がプロザックごときで代替できるものだったとしたら、それは人間の形而上学的な本質とはまったく関係がない現象だったということになるはずでしょう。だとすれば、バイオテクノロジーの制限を主張するにしても、人間の本質云々の主張を出すことはできないはずです。」

 

これには納得できない。たしかに抗鬱剤が開発されることで、心の問題に苦しむ人が救われるのはよいことだと思うし、そうした面から「科学的人間理解」が進展していくことも必要だと思う。だが、ここでの東氏のように、ヘーゲルの「相互承認への欲望」を「人間(の欲望の)本質(原理)の実証的・科学的レベルでの説明」であるかのようにみなしてしまうとき、そこに内包された「可能性」は死んでしまう。(現象学的な見方をすると、「本質学」を「事実学」と穿き違えた錯誤ではないかと思う。)確かに、ヘーゲル哲学の根底にある精神一元論的世界説明は、もはや価値をもたないものかもしれない。しかし、自分なりに感じ取っているヘーゲル哲学のエッセンスは、超越的視座(=神)を自明な前提にはできなくなった人間(近代人)が、他者との関係に喜んだり苦しんだりしながら生きるというごく日常的なありようを基盤に、社会的関係を内実ある形で構築することへの可能性の原理を、自らの実存的感度のもとに描き出しているところにある。そして、彼の言葉が、この「わたし」自身に、「関係の喜び」に少なからずの力を与えられ生きているという「自分自身のありよう」への深い了解感をもたらすとともに、そうした自分の「立ち位置」から社会への「つながり」を積極的に見出していこうする希望(及び具体的な手がかりを)を与えてくれるところにある。

 

そもそも、他者の承認への欲望の一切が、科学的薬物によって代替されていくとは思えない。なるほど他者との「相互承認のゲーム」はときに、(場合によっては医学的治療が必要な)心の病に至るような苦しい相克の場を生む。しかし、それは同時に、この「わたし」という価値を、他者との関係のなかでより確かなものとして築いていく喜びの源泉となるものでもある。東氏にしても、(オタクたちの)薬物依存のような受動的快楽への没入を、「それだけでよい」と見なしているわけではない。そして、もちろん、「空虚な言葉遊びではなく、現実の問題に正対できる思想を形作っていきたい」という(普遍性へのベクトルをもった)「自我の欲望」「承認の欲望」のもとに、こうして著書を著し、発信しているのだろう。であるので、ひとたび内在的な視点から考察すれば「人に認められる、よりよい自分でありたい」という欲望が、(社会的存在であるところの)人間性の本質をきわめて的確に言い表したものであるという了解は自ずと生まれるはずである。そして、現実に社会を構想しようというのであれば、こうした人間のベーシックな欲望から「切れない」ようにしない限り、どこかで必ず無理が生じてしまうだろう。

 

「ひとたび内在的な視点から考察したならば」という言い方をしたが、両氏はこうした内省的思考をストイックなまでに回避する。なぜだろうか。確かに、他者性への感度を欠いた内省―自己了解はひとりよがりなものになってしまう場合もある。ある種の時代的な発想の枠組に、素朴に取り込まれてしまうこともある。また、誠実な自己反省が、硬直した価値尺度におのれをしばりつけ、可能性を奪ってしまうような局面も、ないとはいえない。しかし、それはやはり(そのときどきに生じた違和感を契機とした)内省と了解の方向から、乗り越えられていくことではないか。

もし、彼等が「内省は権力の仕向ける罠である」というフーコーの論を、内在的了解を抜きにしたまま所与の前提であるかのように見なし、それに立脚して思考スタイルを築いているのだとしたなら、「論壇的言語ゲームに収斂しない、現実に届く思想」への道筋は最初から塞がれている。

大澤氏は、いま、哲学・思想が力を失っているのは、これまでのように「第三者の審級」としての効力をもたなくなったからだ、と述べる。その通りだと思う。超越的な「第三者の審級」を不動の地点に定め、そこをもとに安定した構造を形づくろうとする試みは、もはや意味を持たない。フーコーやデリダの思想にしても、「フーコーやデリダの思想だから」というだけで「第三者の審級」の位置に据えることは不可能なはずだ。(両氏ともそうした意図をもっているはずはないのだが、そうとしか思えない印象を受けてしまうことは往々にしてある。)

「第三者の審級」が失墜した今、個々人が、おのれの動かしがたい内在的感触のもとにものごとをとらえ、その了解を他者と語り合い、やはり内在的感触に立脚しつつより確かだと思えるようにそれを刷新していくというプロセスを抜きに、普遍的な思想をめざしていく方向性は見出せないのではないか。そしてそれは、西さんの言う「実存を配慮しあう言語ゲーム」として、確かな喜びのもとに展開しうるものであると、わたしはわたしの内在的了解のもとにとらえている。