もぎたて語りおろし(2004/6.27出荷)



ここがおすすめ 『よみがえれ、哲学』(2004/6・19収録)

 
……西研   
 犬……犬端(管理人)


近代社会の像をさらに煮詰めて……


 『よみがえれ、哲学』いよいよ刊行ですね。この間、お忙しい大学の仕事と平行しながら、ものすごく根つめて執筆されていましたよね。楽しみにしてました。あの……いきなりで恐縮なんですが、今回の本のおすすめのポイント、読む前に聞いちゃってもよろしいですか。


 たしかに、えらく苦労してできあがった本ですね。いきなり裏話からはじめちゃうと、第2章に「21世紀の哲学再興」というのが入っているんですが、これ、今年の1月末に朝日カルチュアセンターで竹田さんとやった講座が下敷きになっています。そのとき竹田さん、あんまり寝ていなかったせいかかなりハイで、「しゃべりまくり」状態だったんです(笑)。それで、ぼくのほうは、受講者のみなさんのために竹田さんの話をあらためて整理する、という役回りをしていたんですね。それで、いざテープおこししてみると、発語量の差があまりにも違う。それでは対談本としてバランスが悪いので、鬼のように書き足したんです。

でも、竹田さん自身、もともと鬼のように書き足す人なので、やはりどんどん加筆するわけですから、もうどんどん膨れ上がっていって、えらく長い章になってしまった(笑)。今回、この第2章から作業をはじめたんですが、ぼくは以降その癖がすっかり身についてしまって、すべての章にわたって鬼のように手をいれて書き足してしまった。もうまったくしょうがないよね…というわけで、えらく手の入ったものになってしまいましたけど、その分手ごたえを感じる内容にはなりました。

そもそものきっかけはですね、(竹田さんと西さんが主催している)現象学研究会のメンバーで、『はじめての哲学史』(有斐閣アルマ 1998)を出したんですね。あの本で、近代哲学の価値をもういっぺん見直してみようよ、ということをはじめて打ち出したのが始まりです。それでさらに、近代哲学の意義をもっと突っ込んでとらえると同時に、現代思想はどうもそこから後退しているようにしか思えないところがあるので、そのあたりのこともはっきりさせてみよう、ということになった。それで、竹田さんと二人で1999年から2000年にかけて、朝カルで「哲学たいらげ対談」というタイトルの講座をやったんです。まず、近代哲学の話をして、それからポストモダン哲学、分析哲学などを話題にしていった。そのとき、これを本にしようなんていう話があったんですが、お互いに忙しくて、そのままお蔵入りになっていたんです。

そのあと、ぼくは『哲学的思考』(2001筑摩書房)を、竹田さんは『言語的思考へ』(2001径書房)『近代哲学再考』(2004径書房)、群像に発表した「絶対知と欲望」(2003 8月号)などを書いていったわけですから、この99年から2000年にかけての対談が、『はじめての哲学史』を別にすれば、近代哲学の基本的な発想や近代哲学の中にある考え方の核心を取り出していくことのきっかけにもなったように思います。
で、今回の本は、その「たいらげ対談」を最古層におき、この1月の対談の内容も加え、二人で“鬼のように”加筆してできあがったわけです。

そんなわけで、近代哲学の果たしてきた役割ですとか、近代社会そのものがどういう意味をもっていたのかだとか、ポストモダンや分析哲学が、それぞれ存在理由はあるにしても、どこでうまくいかなくなっているのか、ということをかなり鮮明に打ち出せていると思います。もちろん、竹田さんは『近代哲学再考』でもそうしたことをかなり明確にはしているんですが……なんていうのかな、近代に対してぼくら二人がもっている像を、今回はかなり煮詰めることで、より新しくすることができた手ごたえがあるんですね。

たくさん論点があって、簡単にはまとめられないんだけど……例えば、資本主義というのはたいへん悪い印象のもとに受け取られていて、そうした像は、マルクス主義から現代思想にかけて受け継がれていますよね。でも、人間が自由であることの条件として、「市場経済」というのは不可避なんですよ。たとえば、ぼくの作ったものを買ってくれる人が「犬端さん」という人だけだとすると、その犬端さんが、「もういらない」といったら、ぼくは生活できなくなっちゃうわけでしょ。つまり、そういう閉じた人間関係の中だけで経済が行われているとしたら、どうしても、相手の顔を見て御機嫌を伺いながら、というやり方でしか仕事ができなくなる。ものすごくシンプルな言い方をしてみると、そういうことになります。

でも「市場経済」の場合、特定の誰かに対してではなく、不特定多数に向けて商品をつくることになる。もちろん不特定の誰かが買ってくれなければだめで、売れるようなものを作ろうとしなければならないということはあるわけですが、でも売れるものを作れた場合には対価が得られる。つまり、市場全体には依存しているが、特定の個人に依存することがなくなるんですよ。個人の支配下におかれることがなくなる。さらに、そこで得られた貨幣でいろいろなことができるようになる。勉強会活動をしたければ、そちらにお金を使えばいいし、旅行したい人は旅行にお金を使うこともできる。要する貨幣でもって、ぼくはぼくなりの生活設計ができる。ライフスタイルがつくれるんですよ。そういうように、自由に自分のライフスタイルを設計することは、市場経済があって、そこにさまざまな財貨が存在し、それを貨幣でもって入手できるという構図がないと、事実上ほぼ不可能に近い。

もちろん市場経済になれば、もうけのための生産活動が行われることになる。自分のうちで商売をして、そこそこ食えればいいやっていう人もいるけれど、多くの場合は企業・株式会社となって、利益を出して出資者に配分しなければいけなくなるわけですから、最大の利益をあげることをめざすようになる。さらに、巨大な力をもつ企業になれば、政治にも経済にも影響力を与えるし、そこから批判されるべきことも起こってしまうわけですけれども。

それでも、市場経済の中で、特定の人にしばられずに仕事や商売ができることや、いろいろな職業を選べるようになったというのは、自由を実現していくうえで非常に大きいことだと思う。多くの資本主義批判には、そうした視点がすっぽり落ちちゃっているんですよね。たとえば犬端さんは会社勤めをしているわけですが、そこをやめてどこにでも勤められるかといえば難しいけど、同じような仕事をしている会社だったら移れますよね。


そういうふうに思いたいものですけれども……


 そういうふうに思えてないと、つまり、この会社と心中するしかない、ということになったら、それは、そうとういやですよね。


 どうしても納得できないことでも無理にしなくちゃならない、というようになっちゃいますものね。たしかに、原理的には仕事を選べる自由が与えられている、ということがありますね。


 そうですよね。市場経済、貨幣経済というのは、特定の人間や組織に対して原理的には依存しなくてすむシステムなんです。事実上は取引先とかに依存する局面があるとしても、相手を変えることだってできるわけだし。そういう仕事のしかたという面でも、自分自身がさまざまなライフスタイルをつくっていくという面でも、市場経済がなければ、自由な活動は成り立たない。これって、すごく当たり前のことですが、意外と意識されていないように思う。今回の本では、そういうことがかなり明確にいえているような気がする。もちろん、その上で資本主義をどうコントロールするかという課題は重要です。それをなしに、手放しで市場経済万万歳だ、と言っているわけじゃない。
でも、近代は、そのように個々人が自由に職業を選べたり、自由にライフスタイルを築けたりするようになった社会を生んだ時代であるわけだし、ルソーやカント、ヘーゲルなど近代の哲学者たちの、自由をキーワードに社会をとらえていこうとする見方は古びていないどころか、非常に本質的だと思う。そういうことがかなり上手にいえた感触があって、それが今回の本の一つのポイントかな。



「文化のゲーム」を展開できる社会をめざして

研 そうそう。面白いところいえば、竹田さんがこういう仮説を出していているんです。
……経済の自由、要するに商売が自由にできて、仕事が自由に選べてということももちろん重要だけれども……全体としてみた場合に、その経済システムが、社会的分業を産み出し、生産力をすごく高めていくんですよね。アダム・スミスなんかも、工場内の分業もふくめて、分業がいかに生産力をあげるかということを言っています。で、そうしたことを通して富が多くの人に行き渡るようになった。でも、そのこと自体が決して近代社会の最終目的ではない。そうだとしたら、マネーゲーム、つまり経済の世界だけが近代の本質だということになってしまう。むしろそのことを土台に、「文化のゲーム」を展開できるようにしていくことが近代の目ざしたところではなかろうか、というのが竹田さんの仮説なんです。


文化のゲームというのもまあいろいろですよね。例えば職業とは別に、朝カルに人が集まって一緒に哲学を考え合ったり、仲間と自主的に勉強会をしたりするのも文化のゲームだし、スポーツなどを営むサークルなり場面なりを作ってもいいわけです。そういう文化のゲームを自由に繰り広げられるということが、近代という時代の自由がもたらしたものであり、最終目標はそこにあるんだというように考えてみたらどうだろうか、という提案なんですよ。

……で、ちょっといきなり「教育」のことを話題にしてみますが、話はちゃんとつながっていくと思うんで、安心して聞いていてね。


 はい。(安心しきって聞いている。)


 現代思想で近代以降の教育をどういうイメージでとらえているかというと、まず代表的なのが、フーコーが『監獄の誕生』で出している像ですよね。学校教育というのは、監視されなくても自分から進んで勉強したり、決められたことをちゃんとやろうとしたりできる人間をつくりだす場であるという。


 目的に応じた行動が効率よくできるように、立居振舞の細々にいたるまで、人間を規格化していくんだ……というようなことが書いてありましたよね。

 うん。そういう人間を調教するシステムとして学校のことをとらえていますよね。そうしたシステムを、微細なレベルに至るまで作り上げていったのが近代の教育なんだと。これ、近代が自由を実現していく時代だという、ロック、ルソー、カント、ヘーゲルという流れに対するアンチを示しているわけですよね。でも、フーコーの言っていることは、非常にあたっている面もある。


 そうですね。フーコーが言っているみたいに、学校って非常に窮屈なところだったなあっていう体験をしてきた人もいっぱいいると思います。


 そうそう。たしかに、フーコーの言っているような面が学校教育にないとはいえない。特に後発近代だった日本の場合、ものすごく急いで富国強兵をしようとして、それぞれの地域社会でくらしていた子どもたちを、軍隊とか工場とかで働ける人間、つまり集団行動できる人間につくり変えようとした。そういう人間改造をやろうとした時代なわけだから、明治とか大正の学校の実情を調べると、フーコーの言っていることを裏書するような事実、もろにどんぴしゃりだっていうような話がたくさん出てくると思うのね。

だから、その意味でのフーコーの言っていることにもリアリティはあると思うんだけれども……でも、別な見方をすれば、人間が地域共同体のもとに代々の仕事を受け継いで生きていくというのではなく、自由に職業が選択できたり、自主的に文化的なサークルをつくって活動できたりするためにも、基礎的な前提条件を身に付けることは必要だし、それって実は簡単なことではないわけですよね。職業を自由に選択できるといっても、会社に入れば、時間を調整軸にいろんな仕事を組み合わせていくわけですから、いちおう決められた一時間なりをちゃんと坐って働けたり、時間にそうは遅れないで来れるようにしていかないと、そこで活動することが本人自身にとっても、かなり厳しくなるわけですよね。

ですから、社会の中で個々の可能性を活かせるための基礎的な条件をもてるようにする、という視点から見ても、昔だったらそんなに神経質にならなくてよかったことに対して、訓練を施さなければならないようなことも出てくるわけですよね。ある種の資質の子にとってはそれ自体がけっこう大変なことで、すごく抑圧的に受け止められることもあるとは思う。でも、時間という基本軸を設定できるからこそ、さまざまな人間が自由に集まって、自分達の組織なりを作っていくことが可能になる。同時に、やはり一定程度共通の知識をもつことも必要ですよね。歴史の知識から、自然科学のごくごく基本的なことですとか、そういう共通基盤がないと、個々人が自由に集まって組織を形成していくことは難しい。それに、自律した個人どうしのコミュニケーションが求められていくので、一定のルールに即した読み書き能力だとか、言語的な交渉の能力が、ますますもって要求されるということにもなりますよね。

そうやって考えてみると、近代の学校では、ある意味で調教の部分があることは否めません。ですが、なんのための調教か、とあえていえば、人が自由にいろんな職業につけたり、不特定多数の人間が集って場面をつくっていけたりできる、その能力を育てるためである、と考えることもできるわけです。その能力がなければ、マネーゲームにしろ、文化のゲームにしろ、自分達自身でゲームをつくってそれを享受していく土台ができないわけですよね。いわば、“自由であるための強制”とでもいうべきものがあるんだ、というふうに考えればいいと思うんですよ。そのうえで、本当に必要なものは何か、不必要に抑圧的に働いているものはないだろうか、ということを見極めていくことが大切なんじゃないかと思います。

ところが、フーコーの場合だと、すべての教育が抑圧的で困ったものだ、ということになりかねない。でも、近代社会の本質である「自由」を柱に考えれば、個々人が自由にさまざまな場所を選び、場面を考え、関係をつくり、そこからエロスを引き出しうるという、そうした能力の基盤を作るものとして学校をとらえてなおすことができる。そういうふうに原理的に押さえるならば、そこから具体的に学校をどうするかという具体的な構想も生まれていくようになると思う。

そういうふうに考えていくと、学校教育のいちばん基底にあるのは「言語能力」を育てることだと思うんです。まずは、読み書き、相手に必要なことを伝える能力ですよね。国語っていうのは、自由に活動する能力のいちばん土台になるもの、という意味でものすごく重要になる。

いま国語の授業って、コミュニケーション能力がすごく強調されていますね。実際にぼくも小学校の教科書の編集にかかわったんだけども、テーマを決めて調べ、賛成と反対に別れて議論する、というディベートの練習のような教材があったり、作文にしても自分の身辺雑記的な感想文ではなく、あらかじめねらいを定めていろいろ調べ、その結果得られたものを書くというような「調査型」が増えてきている。そうした実践的な部分が、ものすごく強化されてきていますよね。

でも……たしかにそうした実践的な能力というのは必要だと思うけれども、その半面で、近代社会の本質から考えてみたとき、国語の担うものってそれだけで充分なんだろうか、という思いがあるんです。それで、このあいだ、神奈川県の高校の先生たちの国語部会というところで話をする機会があったときに、そんな話をしてみたんです。


 そのときのレジュメを読ませていただきました。国語科というのは、自己理解、他者理解を深めあう言語ゲームの場として機能してきたし、それは非常に大切な側面としてあるんじゃないか、というお話をされたんですよね。すごく納得しました。自分にとっても、国語が、自分の実存を見つめ直したり、他者の実存に触れたりということにつながる唯一の教科だったような気がします。


 そうですよね! 『よみがえれ、哲学』でもちょっと触れましたが、人間のもっている関係を単純に分けると、まず、ともにいること自体が目的の「愛情の関係」がある。小浜逸郎さんの場合、それをエロス的関係と呼んでますよね。あと、会社でもなんでもいいですが、それぞれ役割を担い、それを果たしながら一緒に何かを作り上げていくような関係がある。それを「役割の関係」と呼ぶことができる。この二つは、人間が生きるうえで多分基本の関係となると思います。でも、近代以降の人間はそれだけでは満ちなくなっている。もちろん役割関係にしても、近代以前だったら、たとえば家長であればこうするものだというようなことが一義的に決められていたのに対して、役割そのものを自分で選べたり……職業を選べるわけですからね……そのやり方にしてもいろいろな工夫ができたり、あるいは、なんのためにこれをやっているのかを再定義したり、またそれに関して人と語り合ったりもできるようなフレキシビリティのあるものになっていますから、近代以前と同じではない。でも、会社の仕事が役割関係の代表だとするならば、それだけでは満たされない、という部分が出てきていると思うんですよね。

自由が解放されたことの意味は、要するに、いつかは死んでしまう一度きりのこの人生を、どのように生きようかということが、一人ひとりに課題として与えられるようになった、ということですよね。「自分はどうしたいんだろう」だとか、「どうも不安なんだけど、いったい何で不安なのかな」だとか、そうした、自分自身とどうつきあうかということに対して、自分なりに態度をとれるし、とらなきゃいけない。「こういうのはよくない。悪いことだと思う」「もっとこうしてみたいなあ」ですとか、そういうのを考えることが必ず出てくるし、そのことが語り合える場所がないと、つまらない。激しくつまらないですよね。


 近代というのは……役割関係に回収できないような「自分」を抱え込み、そうした「自分」とどうつきあっていけばいいのかということを、多くの人が共通の問題として抱え込むようになった時代なんだ、ということですよね。


 そうそう、犬端さん、うまい言い方ですね! 文学とか芸術だとか、思想もそうだと思いますが、そういう「文化的なゲーム」は、生きることに対してある態度をとろうとすることそのものを考えあうゲームになっているわけですよね。「これでいいんだろうか」「これじゃまずい」「こういうのがカッコいい」「それって、ちょっと醜くないだろうか」ですとかね、そういう問題を考えあうゲームなんだと思う。そういう文化のゲームを豊かに展開できないと、近代の「うまみ」はないんじゃないかと思います。そうでないと、逆に、孤独と不安の中に突き落とされるだけになってしまうもの。


 ほんとうにそうですね。そう思います。


 ですよね。それで再び国語の話にもどしますが、言葉というのは自分を理解したり、それを他人と共有したりということに関して非常に重要な役割を果たしている。もちろん必要な情報をちゃんともれなく伝える、という実践的な側面での力も必要だけれども、国語ってそういうことだけに解消されない言葉の働きを養ってきたんじゃないかと思う。国語という科目は、自分と他人の生き方の形を考えあうという、そういう機能を担ってきたと思うんです。その部分を落としてしまったら、非常につまらないじゃないですか。

そういうことをなんで考えるようになったかというと、「日本語練習帳」っていうのがある所から送られてきたの。僕が大学で、そういう関係の授業をやっているので。見てみたら、失礼にならないメールの書き方だとか、そういう練習問題がずっと続いているわけです。何のために書くのだとか、どのように書けば相手にとって失礼でないかとか、必要事項は何だとか……要するに、メールとか手紙とかは他者との関係に関わることだから、そこをどう意識させるかということの訓練なんですよね。それはやっぱり役に立つとは思います。若い子たちにこれにやらせることの意味は一定あるだろうと思った。でも、それは役割関係を上手に営むことのトレーニングにはなっても、お互いが言葉でもってそれぞれのことを表現し合い、文化のゲームを営むという発想にはつながっていかない。


 深い喜びにつながるような、表現し、理解し合うという側面での言語活動ではなくて、しかられないための表現のトレーニングになってしまっている、ということでしょうか。


 うん。お互いの活動を調整する、という点で、そうした側面も必要だということは分かるんですけどね。でも、やっぱり、近代の本質を考えると、自由を獲得した人間が、自己理解と他者理解……というか、生き方に対する態度を考えるという課題を持ち、「これって素敵な生き方だなあ」というように、「よいもの、好ましいもの」を求めて生きようとする社会なわけですよね。そういうことをきっちりおさえることができれば、国語にしても、ただ役割関係的なことをスムーズにこなせるだけではなく、自分自身のありかたをよく見つめ、理解し、よりよく自分自身の生を展開していく文化的なゲームを営むために必要な力を育てていこうとする方向が見えてくるように思う。そういうのを、高校までにある程度準備しておいてくれないと、本人自身がなかなかそうした発想をもてなくなってしまいますから。


 そうですよね。ほんとそう思います。(感動している。話が見事につながってたことにも感心している。)


 そういうように、近代の本質をとらえたうえで、われわれが生きている現代社会をもういちど眺めてみると、例えば学校教育にしても、ポストモダン思想が描いたのとはまた全然違った像が描けるし、現状の課題だとか、今後どうしていくべきなのかということが具体的に見えてくると思います。

こんどの『よみがえれ、哲学』は、ただ単に昔の近代哲学は偉かったというのではなく、現代思想をただ批判しようとするのでもなく、近代以降の社会の核心を取り出したうえで、そこから今の社会のありようをどうとらえるか、これからの社会をどう構想していくのか、という方向をかなりはっきり出せているんじゃないかと思うんです。そこがけっこういけているのではないか、と思っております。……あああ、なんか宣伝をしてしまったな。


 いつもながら、読むと元気が出る一冊になりそうですね。


 竹田さんもぼくも、かなりいけているんじゃないかな、とは思っているんですが……自画自賛していてもしかたないので、犬端さんにも読んでもらって感想なんぞをいただきたいところでございます。


 どうもありがとうございました。さっそく読んでみます。あ、ヘーゲルの講座、もういかないと遅れちゃいます……。