…… 多摩丘陵からもぎたて語りおろし(2003/1・17出荷)



『大人のための哲学授業』がめざしたことは?


 
……西研  
……犬端(管理人) 


「意識に定位する哲学」の出発点にたって……


 

 えーと。先回の語りおろしのときに、『哲学的思考』では、「考えることは共有できることを見つけることだ」ということを、あらかじめ前提にしているような書き方をしていて、そこは少し問題があったんじゃないかな、という話をしたんでしたよね。


 

犬 現象学的の基本的な姿勢は、「(みんなに共有されている)客観的世界」をあたりまえに「ある」ものとみなさないで、「なんで『このわたし』は、そういう世界を『ある』ものだと考えているんだろう」というように、意識のうちで「確信」されているありようを見取っていくことですよね。それで、僕自身は、『哲学的思考』にしても、非常に明確にそうしたことを語っておられるように思っていったのですが、この本ではじめて西さんの思想に出会う人たちには、「『共有』だとか普遍性なんていうものを簡単に立ててしまうのか」という誤解をまねく書き方になっていたところもあるんじゃないか、というお話をされていたんでしたよね。もっと、だれもが、それぞれの場所から入って来られるよう書き方を工夫できたんじゃないかって。

 


 そうそう。共有なんていうことを意識はしていなくても、すでに共有してしまっているものはあるじゃないかということを、「自分のこと」を考えて見ると確認できる。そういう語り方がもっと必要だったんじゃないかということですね。以前の語りおろしでも話題に出たけど、例えば「知覚の構造」にしても、とくに「事物」の知覚の場合、「今自分自身に見えているものはほかの人にも同じように見えているに違いない」とだれもが暗々裏に思ってしまっている。あるいは、もっと価値的なものを含んだものの見方、考え方にしても−−たとえ「自分は自分だよ」と思ってはいても−−ある局面になれば、何かの価値を共有していかなければならない、共有しうるものを求めるたいという動機を持ちうるものだということは、たしかにある。そんなふうに、「共有」というのを、いったんそれぞれの「個」の意識に立ち返りながら考えていく、そうした方向付けをもっとはっきり打ち出していくべきだったかな……という話をしたんですよね。

 

で、今回の……これは(『大人のための哲学授業』)ですね。で、そういうことを意識しながら書いたかというと、とくにそうしたわけでもなかったなあ。ほとんど考えてなかったかも。


 

 ?…………


 

 でも少しはそのことが出ていると思う。



 今回の本では、思想は「バリアフリー」であることが大切だ、と明言なさっていますし、「なるだけ前提を置かずに入り口を広くして」ということをとくに意識していたのかな、と思ってたんですけど。「ねらってはいなくても、おのずとそうなっていた」という感じなんですか。


 

 そうそう。そういうことだとおもいます。


 

 哲学の営みの根底には、「なるべく前提をおかずゼロ地点から考えてみよう」ということがあるんだよ、というお話を、もうずいぶん以前からうかがっていたように思うんですよ。そうした方向からつきつめて考え抜かれている結果として、おのずと前提のないところから出発するような書き方になってきている…………ということでしょうかね。


 

 そんなたいしたものでもないかも。たしかに今度の本の場合、デカルトの「われ思う・ゆえにわれあり」を、そうした、「無前提な学としての哲学」の出発点として読むことができるんじゃないかということを強調しています。だれもが自分の意識に問いただしてみると、少なくとも今、コーヒーを飲んで、苦味や甘みを感じている、このことはもう疑いようがない。自分で自分を振り返ってみると、「世界はある」ことは疑えるかもしれないが、「世界はあるのかな・どうなのかな」と疑っていることは、もう疑えない。デカルトはそういうところを、前提を置かずに考える学の出発点として置こうとしたわけです。


今、あきらかに、あらかじめ前提を立てたところから議論を進めようとする人がいる。たとえば「国民国家」というものを認めた段階で「×」だとか。その逆もある。「国家」の悪口を言えばそれだけでだめだとか。あるいは、「今の社会は抑圧的な『男性社会』だ」という前提を認めないと議論に入れないとかね。そういうように、あることが当然の前提であって、それに乗らない人は端から相手にしないという議論がたくさんある。


でも、そうじゃない形での議論が、どうしたら可能になるのかを探っていくことが、哲学の一つの大きい課題だと思う。だれもが認められる、だれもが入ってこられる最低限の出発点をどこに置くのか。それを考えたとき、デカルトの言う「われ思う・ゆえにわれあり」はやはり哲学の模範といえると思うんです。ではなぜ、デカルトがそんな出発点を置く必要があったのか。それは自然科学では解決できないような問題にぶつかったからですね。

 

近代になると自然科学がでてきて、それまでの世界像を駆逐するような影響力で受け入れられていった。なぜそれが受け入れられたかというと、「だれもが、自分自身で実証できる」点にあったわけです。たとえば、カミナリさまが太鼓たたいて雷を起こしている、というような「物語」で自然現象を説明しようとしても、だれもが共有できるものにはならない。でも自然科学の場合は、実験や観察をして、これとこれには一般的な法則が成り立つよ、少なくても今のところはそれに反する事実は出ていないよ、というように、たしかめることができる。その仮説を「本当かな」と思うのなら、自分自身で同じ実験をして、たしかめることができる。

そういうことで、自然科学はたいへん大きな勢いをもった。近代の学問でいえば、数学を別にすると、まずは自然科学が、共有する知を作り出すいちばん最初の方法として強く出てきたんだと思うんですよ。しかし、あらゆるものがこうした科学の方法でやっていければよいかというと、そうはいかないものも出てくる。人間の生きる意味だとか、何がよくて何が悪いんだとか、どういうものを人は目指せばいいんだとか、という問題、一言でいえば「意味」や「価値」の問題ですよね。それに関してどう考えていけばいいかということは、自然科学の方法では足場を作ることができない。

 

言い方をちょっと変えてみましょうか。自然科学の発想で世界が全部とらえられるんだと思う立場もあるわけですが、その立場からすれば、人間の心も脳の産物であるということになる。すると、人間の心は、自分では自由に発想しているつもりであっても、結局は肉体やいろんなものから因果的に規定されているということになる。そういうように因果的に決定されていることになると、自由というものはもはやないんだ、ということになりますね。「しかしそれだと変だ。人間は自由の感覚にもとづいて行動しているし、自分自身にとって大事な価値を希求していったりもする。そういうことがすべて抹消されてしまうのはおかしいだろう」−−そう思う人たちもいたわけです。


そこから、「自然科学とはちがった知の形」が要請されてきたんだと思うんです。いくら実証の方法で進めていっても、意味や価値の問題には迫れない。いくらデータをあげて、観察してもつかめない。では、そうした意味や価値の問題を問いつめていくための足場はどこに見出せるのか。これがデカルトが「われ思う」から出発した理由の一つです。


もう一つありますね。そもそも自然科学にそれなりの客観性があること、そしてみんながそれを受け入れる理由を深く理解すること、一言でいうと「学問の基礎付け」をしていくという課題もでてきた。自然科学の方法はどんなことに対しては有効なのかということを、あらためてつかみなおしていくことが必要になってきた。こうして、自然科学の方法では立ち行かない問題が自覚される中で、もういっかいその方法の意味と根拠を求める要請が強く生まれてきたわけです。

では、何をよりどころにしていくのかといったときに、近代哲学の出発点であるデカルトはの「我思うゆえにわれあり」が出てくる。『大人のための哲学授業』では、デカルトを「意識に定位する哲学」の土台を作ったものとして、もう一回つかみなおしていく、そしてその延長線上に、カントやフッサールやハイデガーを論じていく、というふうに、書いています。

さっきも言いましたが、「知覚って、こういう構造をしていますよね」というふうに、だれかが命題を出したとすれば、ほんとうにそうなっているかどうかを、各個人がそれぞれの意識に立ち返って確かめてみることができる。「意識に定位して」考えてみると、やはりそうなっているとしか言わざるをえない。それは、共有しうる知の基盤・出発点となるものですよね。近代哲学の核心となるモチーフは、そこにあるはずだ。そのいちばん最初にデカルトの「われあり」がある。これはつまり、前提をあらかじめ立てるのではなく、「だれもが自分に立ち返って考えてみればそれは認めざるを得ない」という足場を明確にしたうえで共有可能なものを探っていく、そういう方法の始まりだったんじゃないか。……『大人のための哲学授業』では、それを一つの柱として書いたんですよね。


 

 「デカルトから出発した、主観を絶対視する近代以降の視線が、人間中心主義の世界観を生み出した。それこそが、たとえば環境破壊であるとか、現代社会の抱える諸問題の根源になっている」……そんなとらえ方が一つの定型のようになっていますよね。でも、それでは今後のことをどう考えていくのかという足場は、なかなか明確になってこない。ともすると、「既存の制度や体制には問題がある、それはすべてよくないものなんだ」という「あらかじめの前提」を立てて、それをいかに意匠をこらして批判していくかという、閉鎖的な言語ゲームに終始していることすらある。そんなときに、……既存の価値観や共有可能な世界像が崩れ、もう一回それを根底からつくり直していくことが、求められているときに、実は頭から否定されていた「近代哲学」にこそ可能性が見いだせるのではないか。そもそも、デカルトの「われあり」がめざそうしたのは、けっして「主観中心・主観絶対」の姿勢を打ち出すことではなく、「これだけはたしかだ」というミニマムかつ確実な足場を確認して、そこをもとに新しい価値を一から積み上げていくことにあったのではないか。そこに、現代の問題を正視し、これからを考えていくための導きにもなる最良のエッセンスが汲みとれるんじゃないか……そんなことを、今度の『大人のための……』では、いっそう明らかに打ち出されていますよね。

 

僕自身としては、今回の本を、「自分という場所でよりたしかな世界像を作り上げていくために、自分のものさしに即してより納得のいく世界との関わり方を築いていくために、哲学という方法はどのように展開されてきたか、また、ひとりひとが、どのように哲学の方法を生かしていくことができるのか」というような、『哲学のモノサシ』にきわめて近いモチーフを感じながら読ませていただいたのですが、「近代哲学」のもつ意味と価値に照射したことが、『大人のための哲学授業』の……なんというか……一つの「肝」になっている感じなんでしょうかね。


 

 そうそう。この本は、「近代哲学論」とうたっているわけではないですが、近代哲学のモチーフ、今でも絶対に生きなければいけない核心はどこかにあるのかということを、大きい柱にして書いていますよね。





 「わたし」と「普遍性」は、どのようにして出会えるか


 

 でも、おもしろいですよね。……今『哲学のモノサシ』に触れてくれたんで、少しそっちの方向から考えてみたいんだけれども。『哲学のモノサシ』では、「自分の中の虫を認識・育成するのが批評の方法だ」という小林秀雄の話を出してますよね。「自分はこれが好きだけれども、何で好きなんだろう。」そんなことを言葉でとらえなおしていくと、「ああ、こういう感じがあるからだ。自覚してなかったんだが、自分ってこういうことが好きで大事にしている奴なんだ」ということが見えてくる。そういう面での自己認識の方法が批評の核心にある、という小林の考えに共鳴しています。

 
哲学もこの小林のいう批評に非常に近いとことがあると思う。あえて違いをいうと、「このわたしは何が好きか」という自己認識をつきつめていくよりも、「このわたし」がひとつの材料になって、「他の多くのわたし」たちにも通じる基礎的な構図を考えつめていくのが哲学だと思うんです。「どんな人でもそれなりに善悪の秩序を持っているのはなぜか」というように、この「わたし」を入り口にして、「主観一般」をねらっていく。ほんとうに、それが一般といえるかは、自分の考えを書いてみて、他の人がどう思うのかを試していかなければならないけれども。
 
哲学の「よさ」はそこにあるんだ思うんですよ。まずは「自分の中でたしかめる」ことを基盤したうえで、一般性をめざしていくということにね。でも批評の人たちだって、自分のこの感覚は一般性があるのかなあと、実は暗々裏に必ず考えていますよね。わたしだけの個別的な好みとしか言いようのないものだとしたら、そもそも文にして、その感覚をとらえ直してみたり、人に読んでもらおうとしたりはしないでしょう。まず、「僕はこの作家、この作品が無性に好きだ」ということ、つまり「自分のなかの虫が騒ぐ」ことが出発点なんだけど、「こういうところが自分の心には響いてきた。でも考えてみたら、これは僕だけの問題じゃなくって、今の社会に生きている多くの人の心にも、ほんとうは響くことなんじゃないの」というようになっていかないと、していかないと、批評としては成立しないよね。

そう考えてみると、批評だって、自分自身がこの対象になぜ引きつけられるか、あるいは反発するのかを書きながら、同時にそれを、時代に通底する問題、たとえば「現代を生きる人間の生の
条件とは何か」という形で一般化したり、あるいは、「どんな時代においても人間として生きている限りは、こうした問題を抱え込まずにはおけないはずだ」というように一般化したり……つまり、自分自身がどう感じているかということに常に立脚しながらも、どこかでそれを、「このわたしを越えたものとどうつないで示すか」ということを念頭においているはずだよね。

 

逆に言うと、他の人が書いたものを読者として読むとき、たとえば「この時代には一般的にこういったことが言えるんじゃないか」と書かれているのを読みながら、その「一般的なもの」をもういっぺん自分自身の感覚、自分自身の体験にひきつけてとらえ、そこから自分を照らし直していくということを必ずやっていますよね。そういう意味でいうと、「哲学のモノサシ」でも書いたように、「わたしから一般へ、一般からわたしへ」という動きの中で自分自身をとらえていく、ということを、たとえ自覚はしなくても多くの人がやっているはずなんですよね。

 

哲学の場合は、さっきもいったように、「わたし」から「一般」へというベクトルが強いんだけれども、実はその「一般」について書かれたもの……たとえば、バタイユのいう「エロティシズム」や、ハイデガーのいう「世界内存在としての人間」にしても、ある一般性をめざしたテーゼですよね……を読む場合でも、「ほんとうにそうかな」と、自分の意識に照らし合わせて考えていく作業、それを通して「自己了解」を深めていく作業を抜きにしては成り立たない。逆に、そうした一般性をめざす言葉と、自分で自分を掘っていくような、自己了解への方向性が結びついていくとき、それは着実な手ごたえを与えるものになるし、けっこう気持ちよく進んでいく。……うーん。もっとうまくいえないかなあ……

 

犬端くんの場合は、どう? 自分で自分のことを了解していくときに、一般性から自分を了解していく、自分のものをまた一般化してみる、というようなことに関しては、どんなふうに考えてます?


 

 ……うーん。「自分自身に内在して考える」ベクトルと、「一般性、普遍性をめざして考える」ベクトルがどのように重なるのか…………というようなことでしょうかね。


まず、「自分にとってそう思える」ことを安易に「だれにとってもそうだろう。一般的にあてはまることだろう」と、簡単にいってしまうことはできないですよね。後者のほう、つまり「人にとって……」という部分は、「果たしてほんとうにそうなのか」、という疑わしさが残り続けるものだから。


ただ、……そうだなあ……。自分にとって何かが「たしか」だと思えるとき、その確信はどのような契機によって生まれるかということを、自己了解してみると……まず、「われあり」の部分、つまり自分自身の中で、これは疑いようのないという確実な手ごたえがあることは前提になりますよね。しかし、それだけでは十分ではない。人と語り合ってみて、たしかにそうだと承認されるプロセスも欠かせないと思う。あるいは、直接語り合うというのではないけれど、まったくちがった場所からその問題をみているはずのだれかが、「自分自身もそうとしか思えない」ような見解を示していることに、その人の著作を通じて触れられたりですとか。そんなふうに、「自分でないところからの視点」をたしかめの根拠として求めている部分は着実にあります。それをイコール普遍性へのベクトルといってしまっていいかというと……少し抵抗感はあるのですが……自分の場合、ときとして自分の思い込みをただ補強してしまっているということもままありますから。

……でも、いずれにしても、ある具体的な他者からの承認を基盤にしながらものごとをとらえてくことで「たしかさ」への確信は強まっていくし、「自己了解」にしても、それが普遍性につながっていく感触をえられたときに、大きな歓びを伴ったものとなる、ということについてもまったく同感ですね。

 

 

 そうだよね。『大人のための哲学授業』では、フッサールについて述べたところで、こんなふうに書いたんです。……だれかある人の本を読んで、「これは言えている。正しいな」と思ったときに、薄ぼんやりとではあっても「他の人もそう思うんじゃないのか」という意識が背後にある。「他の人はそう思わないだろうが、私だけはそう思っている」というような形で確信がおとずれることはない。だれかの意見に「動かされる」ときには必ずそうなっているはずだ、と。

 

……うん、要するにこういうことだな。自分の確信が成り立つとき、そこにはおのずと共通理解されるだろうというぼんやりとした確信が伴われている。でも、それが絶対化されてしまうと、「みんながそう思うはずだ。思わない奴は馬鹿だ」というふうになっちゃうと、頑ななスタイルになっちゃうわけだけど、他の人もそう思うんじゃないかな、と思うから、「だれだれの本を読んだら、こんなことが書いてあったんだ。なかなかこれはいいと思わない?」と、人にも言ってみるわけだよね。ただ、実際にやってみるとそれが全面的に肯定されるとは限らない。「それは分かるけれども、この点はぬけ落ちているんじゃないかな。こういう見方だってできるんじゃない。」というようなことを言われて、「む!」と思いながらも、そうした面からも考えていく必要があるな……と思う場合もある。

 

……そうだよね……「この考え方はいい考えだ」と思うとき、必ず一般性の確信を暗々裏に伴っていて、それがあるから議論もできる。一方反論を返されると、確信がいったんは崩れるけれども、もういちど議論しながら、確信を再建しようとする。「他人は関係ない。俺は俺だけのために考えているんだ」というつもりの人でも、つまり自己理解の形としてはそうなっている場合でも、基本的にはその構図を持っているんじゃないかと思うんですよ。『哲学的思考』でも書いたけど、自分固有の問題、自分自身の実存の問題が全てだ、と思いながらも小林秀雄やドストエフスキーの作品を読みながら、そうした問題を考える手がかりを得たりしているわけで、つまり、「自分の実存とそうした人たちの実存との間に共通の問いが成り立つ」ということを前提にしているわけですよね。

本人が他人と共通了解をしたいと望んでいるかどうかは別にして、僕らが本を読んだり考えたりして、自分の問題を煮つめて考えようとしているとき、どっかに自分以外の多くの人も、やっぱりそういうことを考えるはずだと薄ぼんやりと思い描いている、そういうレベルを僕らの意識自体がもっているというのかな……

 

うん。ほんとうは『哲学的思考』の中で、そういうことを決定的に上手に言いたかったんだけれど、それが思うようにはいかなかったので……、『大人のための哲学授業』のフッサールの項目で、もういちどトライしてみた部分もけっこうあります。


 

 そうですね。僕自身の場合……たとえば「客観的な事物存在」ですとか、「自分を超えて(普遍的に)あるもの」への「確信」が、意識内でどのように成り立っているのかを(自分という)意識の場所に徹底することで見取っていこう、というのが現象学での「超越論的問題」なんだ……ということが、『哲学的思考』を通してはじめて自分の中で明確に整理できたのですが、この問題は何度でも言葉を重ね、噛み砕いていく必要があることなのかもしれないですよね。現象学のことを、「主観の働きを透徹したレベルに純化していけば、そこに刻印された普遍的な真理が克明に浮かび上がるはずだ」という「主観絶対主義」だと見なす誤解ですとか、あるいは、閉じられた「このわたし」という意識の、ひょっとしたら「思い込み」にしかすぎないことを、普遍的な真理であるかのようにとらえる「独我論」と見なす誤解は、根強くあるわけですから。

 



 
「構造主義」のモチーフを現象学的にさぐる

 

 今の話に関連していくと思うのだけれども………

和光大学の授業で、このところフーコーをやっていたんですよ。で、問題も多いんだけれども、非常に面白いところをもっているな、と感じました。「ある言葉の中身、なにがしかの主張の内容が正しいかどうか」を考えるのはやめて、「この言葉はいったいどのような社会的な力の中で発せられ、効果や影響をあたえているのか」ということを、見てみようじゃないか、というのが彼の基本的な方法ですよね。その力を彼は権力と呼ぶんだけど。


これはもともとニーチェが言っていたことですよね。「神はいる」ということの、言葉の中身が事実かどうか問うことには意味がない。「神はいる」とだれが言うのか。僧侶が言うんだ。僧侶は何のために言うのか。「神はいるのだ・神の言うことを聞かないと地獄に落ちる」と言うことによって、自分たちの権力を高めていくためだ。僧侶の権力意志が「神がある」という言葉の背後に動いている力なんだ。ニーチェはそういうことを言うんだけれど、フーコーはそれを言説……科学的言説といっていいかな……科学的言説一般にまで拡張して、それ自体が正しいかどうかと問うのではなくて、どういう影響力のもとでそういうものの見方が形づくられているのか、それを見とっていこうじゃないか、としている。

 

昔はね、「それってマルクス主義的だなあ」って思っていた。社会的な言説を上部構造と呼び、それが下部構造である経済からどうやって作られていくのかということを見取っていく、というような。たしかに、フーコーはアルチュセールにも教わっているから、マルクス主義も入っているんだけれども、フーコーの中の最大のモチーフは、おそらく「政治的なロマン主義」への批判だったと思うんです。「これが正しいはずだ、実践すべきだ」というふうにを素朴に考えて運動やってみても、どこにも道は開けないよ、っていう実感だったと思うんですよ。


戦後のフランスは共産党が強くて、マルクス主義の考えも強かったんですよね。「資本主義は人間疎外をもたらすので、これをどう転換できるか」ということが大きな命題だったわけでしょう。そういう方向で、正しいこと、社会正義を求めることは当人にとっては真理だし、大切なことだし、ロマンがかかっているんだけれど、でも、そういう理想を抱いた人が実際に他人に対してやっていることはなんだろう。真理の名のもとに人を抑圧しているだけかもしれない。実際に「社会主義イコール社会正義」だった時代に、実はソ連東欧ではとんでもないことがおこっていたわけだし、おそらくフランスでも、セクト間の争いというのはあったと思うんですよね。

 

そうした背景もあって、……素朴に、意識の立場から、わたしにとって正しいことを問うているだけではだめなのだ。そういう自分の理想はどこから来ているのか、社会的な構造や力のうごめきの中で、どのように出てきて、どういうふうに方向付けられているのか。そのことが、どういう影響を他人に与えるのか。そういう社会的関係の場で言説を一回洗わないと、正義は力のないものになったり、かえって抑圧性をもつものになってしまう。だから、まずいったん自分も含めて、どんな言説もいわば客観視して、この言説はどういう力関係の中で、どういうふうに動いているのか、をとらえかえしてみよう。……そんなまなざしを取ろうとしたと思うんです。フランスの構造主義の場合。

 

一言でいうと、「意識の立場ではなくて、言葉がどういう社会的な脈絡の中でどう動くのかを考えないと、思想はもうだめだ」という直観があったんだと思う。これは……加藤典洋さんの言う、「内在」から「関係」へというのと同じことですよね。小林秀雄は、「血の通わない理屈」を嫌って、その人が、本当に信じているものでなくては信用しないという言い方をしていた。でも、吉本隆明の場合、「みんながこの皇国日本を、アジアをなんとかするんだと信じて、そこに真心をかけたのだが、それは誤っていた。だとすれば思想というものを、具体的な関係の場で検証し、鍛えなければいけない」という態度をもったと思うの。純粋に「内在」=心の実感という場所から考えるだけでは足りないんだと。

 

でも、加藤典洋さんはいいことを言っていてね。「関係を考えるというのは、もともとの内在を生かすためだ」と言っている。もっとよい社会であってほしい。公正な世の中であってほしいというロマンがある。そのロマンがほんとうに生きるためには関係という場所で検証しなければいけない。でも、いちばんの出発点はやはり、「ロマンを求めようとする意識」の中にこそあるんだ、というとらえかたをしている。僕もそれにとても納得するわけです。

 

だから、サルトルを批判して、レヴィ=ストロースからフーコーというフランスの構造主義が出てきたことと、小林を批判して吉本が出てきたことには並行関係があると思うんです。フーコーには吉本と同じ非常に正当なモチーフがあった。でも、フーコーがその批判のなかで形づくってきた社会像、「近代以降の社会は、それ以前の権力とは違い、内面を支配する形の権力になってきている」というような像を、あとを継ぐ人たちはみんな、「あらかじめの前提」のようにしてしまっている。そうしたフーコーの見方自体も、いったどういう価値観に立脚しているのかを洗わないといけないんだけれども、それを非常に素朴に実体化してしまっている。

 

だから、構造主義は非常に大きい意味を持っているんだけれども、構造主義が「思想のモチーフを鍛える方法」という形ではちゃんと自覚されていなかった、ということがいえると思う。「自分の考えはひとりよがりではないだろうか」というように、意識を外側から見る方法は大切だと思う。でも、そうした意識を外側から見る方法とらなければいけない根拠は、意識の内側にあるのでなくてはならない。

現象学の本質を、そうした脈絡につなげて伝えていけば、けっこう通じるんじゃないかと思うし、それはとても重要なことだと思う。というのは、ポストモダンを経過した多くの人たちは、現象学は意識の中でしか考えない、社会関係を無視する思想なんだ、というふうに頭から決めつけてしまっている。実際に歴史的に見れば、現象学に続いて構造主義が出てきたわけだから、もういちど現象学に戻る? なんで?……っていうことになっちゃいますよね。

 

でも、否定されちゃったほうの、主観の中に閉じこもる(カッコつきの)「現象学」とちがって、フッサール現象学がもともともっていたモチーフには……フッサールは構造主義も何も知らないけれども……「客観的にものごとを見る、意識を外側から対象化して見る、ということはもちろん必要だ。しかしそれもあくまでも一つの見方であって、その見方の根拠は何かということ自体を洗い直していかなければいけない。そうでないと客観性ということが、絶対化されてしまう」ということがあって、それは構造主義的なとらえ方をさらに一歩先へ進めていく可能性を秘めている。

フッサール自身は社会学などにはあまり通じていなかったし、社会科学的な思考との関係で自分の思想を展開しなかったんだけど……ぼくが『哲学的思考』で「社会の現象学」という章を書いたでしょう。あれは、現象学の方法を突きつめていけば、社会を考えようとするまなざし自体をも、意識経験ととらえてていくことになる、社会を考えようとする根拠も、意識のうちに求めていくことになる、ということをはっきりさせたかったんです。

 

ですから、僕や竹田さんの現象学は、ほんとうは、構造主義を否定するものではなく、むしろ、構造的なものの見方が、非常にいい形で働くためにはどうすべきなのか、どういう位置をもつのがよいのかということをむしろ明確にしようと思っているわけです。

そのあたりのことが、僕も今までの本でなんとか言おうとしてきているんだけど、まだ上手に言えていないなあという思いがある。

 

繰り返しになりますけど、フーコーのモチーフ自体は非常に正当なんですよ。構造主義が出てくるのも当然だと思う。それはヘーゲルがめざしたことと非常に近いんですね。主観的な理想だけではだめで、その理想を他者関係や社会関係のなかで鍛えなくてはならない、というモチーフがヘーゲルにはあって……それはマルクスにも受け継がれているんだけれども、フーコーも、まさにそれと重なるモチーフをもっている。

でも、その「構造主義」がまたひとつの客観認識として、世界認識の型となり、それを可能にしている価値観が問われないようになることは非常に問題です。そこにもう一回、「超越論的な反省」が必要になってくる。

フッサールは自然科学の妥当性、自然科学が生み出される動機と根拠を問題にしたけれども、同じように、「社会」に関しても「客観的な見方」は必要なのだが、それは「純粋客観性」ではなくて、あくまでも動機のもとで生み出されるもの、たとえば、「社会の一員として、単に「このわたしの理想」にとどまるものではなく、現実性をもち、多くの人が受け入れられようなる理念をどう構想していくか」というモチーフの中で形づくられているものなんだということを、「超越論的反省」というか、意識の場でもう一度考え直すことが要請されている。だから、「構造主義」に続くものとして、現象学の最良のエッセンスをもう一度明確にして、伝えていく必要があると思う。


 

 そうですね……たぶん関連した話になると思うのですが、「他者」ということに関しても、最近「主観はだめ。他者の視点に立つことが大事」と再三再四同じような言説が繰り返されるので……


 

 うん。そうそう。だから、「他者」といわれるだけで……


 

 ええ。辟易してしまうこともあるんですが……でも自分の「内在」の部分からとらえ直してみると、たしかに、「他者経験」は動かしがたいものとしてある。自分の中からだけでは形作ることのできないものの見方、とらえ方を「だれかの言葉」との出会いを通して輪郭づけられていくことがある。また、……先ほどの話の繰り返しになるんですが……「だれか」からの反応によって、はじめて自分のものの見方を確実なものだと感じられることもある。そういった意味では、他者という経験は得がたいものだし、他者性への感度というものはものすごく大切なものだと思います。でも、だからといって、主観に定位しようとすることは誤りなんだ、全ては他者を出発点にしなければいけないんだ、と言われると、それはまったく違っていると思う。そもそも、他者というものは、この「わたし」にとっては、わたしの意識の中で、わたしの知りえない部分を着実に含み込んだ「だれか」という形でしか出会えないものとしてあるわけですから。


 

 そうそう。あくまでも自分の中でも「他者経験」なんだよね。

 

犬 主観の中での「他者経験」というのなら、それはもう自分にとって大切なものだし、そもそも自分の意識世界は、「他者経験」を前提にすることで成り立っている、とすら感じる部分がある。


 

 うんその通りだと思います。うん他者性への感度というのはあるよね、それは面白いなあ……


 

犬 ただ、やはり自分にとっての「他者」は、あくまでも自分自身の中での「他者経験」であるということをふまえないと。


 

 そうだね。「自分にとって」という部分を切り捨てて、「他者」こそが絶対だとしてしまうと、とっても抽象的な正義の場所ができてしまうことにもなるものね。

 

うん……何で「今さら古い」といわれる「意識の哲学」にもういっぺん立ち戻らなければいけないのか、ということを、いろいろ言葉を変え、いろいろな角度から語り続けているわけなんだけれども、そうし続けることで、こちらもやろうとしていることがはっきりしてくる部分があるよね。現象学には、もっともっと語り継いでいかなければいけない大きな意味があるはずだ、ということは直観としてあるわけなんだけれども、どういうふうにすればそれを、核心をつく言葉で表現できるかということを、続けているような気がするね。『大人のための哲学授業』にも、そうしたところがあると思います。

 

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