…… 多摩丘陵からもぎたて語りおろし(2002/7・12出荷)



思想が活力を与えるとき

    〜「無前提な学」としての哲学をめざして
  

 ……西研      
……犬端(管理人) 


「歓び」の感触がつかめなくて……

 

 すみません。「語りおろし」またご無沙汰しちゃいました。ほんとうに怠け者ですみません。ここまでくるとほとんど不管理人ですね。それはそれとして、最近、西さんもとても忙しいんです。近況報告のほう、あらためてしてくださいまし。

さて、去年……あ、もう一年たっちゃうんですね……出された『哲学的思考』を巡るお話を踏まえて、ここしばらくは「歓び」と「正義」をテーマに、「価値」を抱きながら世界を生きる人間のありかたにストレートに迫る部分を追究してみたい、というお話をしていただいていたんですよね。

で、その後、「人間学アカデミー」では「歓び」についてのお話をされて(※「樹が陣営」ホームページ で内容が詳しく紹介されています)、「正義論」を「朝日カルチャーセンター」で(※こちらは現在進行中です。Information をご参照ください)展開されているわけなんですけど、その「中間まとめ」的なお話をしていただければ、などと思っております。

 

 そうですね……今、思っているのは……「手前」を考えることって大切なんだなあ……ということですね。

 

 「手前」ですか?……

 

 うん。ちょっとこれを、見てみてね。(といって、プリントを渡してくださる。) 

和光大学でも、「歓び」について、この前「人間学アカデミー」で話していた内容の講義をしたんですよ。

最初、宮台真司さんの「意味から強度へ」というテーゼについて話しをしたんです。自分の「生きる意味」がよくわからないで苦しんでいる人が増えている。宮台さんはそれに対して、〈生きることにもともと絶対の「意味」があって、それが分からなくちゃいけない、「こうすべきだ」という目的に向けて、自分を犠牲にしてがんばらなくちゃいけない考え方そのものが、今の社会に見合わない古いあり方だ。そういう「意味」を求めようとする姿勢自体が人を苦しくさせている。そうじゃなくって、今このときの充実感を求めること……「強度」という言い方がされますが……が大切なんじゃないか〉という言い方をしている。

宮台さんのいう、「生きること」にはあらかじめ「意味」が与えられていると考えて、それを探して苦しむようなことは変だよ、ということには、僕も全く同感します。生きる意味を自分の「外側」に求めるというんじゃなくって、歓びそのものを求めて生きようとする姿勢へと、時代としても大きく変化していると思う。

でもね、「意味」だとか、「〜に向けて、〜のためにする」というのを全部否定できるかというと、それは違うんじゃないか。人が生きていくうえでは、「〜のためにこれをやってみよう」という部分はなくせないと思う。たとえば、バンド組んで音楽やるときなんかでも、一つのことを共に行う歓びというのはもちろんあるわけですが、それだけでなく、もっとうまく演奏できたら楽しいとか、もっとこんなふうな音をだしたい、そのためにもっと練習しようよということが必ず出てくる。

ボランティアのように、何かの集団や場のなかである役割を担って何かをするということもありますよね。自分にとっても、たぶん、みんなにとってもなにかしら「よい」ことをやれている、という手ごたえを感じてみたい。じゃ、そのためにはもっとこうしてみようかなあ……とか、そういうふうに自分の生をある形で方向付ける、ということは、あったほうがよいことだと思うし、それをめざす努力自体も「歓び」としてある。

ですから、「もともとどこかにある意味」じゃなくて、「歓びそのもの」を生きることの根拠とするのならば、その生きる歓びというのを人はどんなふうに得られるものなんだろう、ということをもっと考えていく必要があると思うんです。

そんなことを踏まえて、人が歓びを得ている場面を考えてみると、まず愛情関係……小浜逸郎さんのいうエロス的な関係によるものがあり、また一方では、ある種の役割を担う関係、社会的関係の中で得る歓びもあるよね……という流れで話しをしたんですよ。

それで、ひとしきりそんな話をした後、感想や意見を書いてもらったのですが、「歓びって、ほんとうに生きることの根拠になるのかなあ」、というその「手前」を問うような、「歓びがほんとうに生きる理由になるんだろうか」というような意見が、いくつか出てきたんですよ。それをまとめてみたのが、このプリントなんです。

 

 「生きることの意味」を「外側」に求め、それを自分の支えにしようとするあり方はもう成り立たないんじゃないか。むしろ「歓び」という「内側」からの感触から、自分なりに生きることを形作っていく方向で考えていこうよ……ということは、おそらく多くの人に共有される「前提」としてあるだろうと、僕も思うのですが、それをまず自明な「前提」として立ててよかったのかな……ということでしょうか?

 

 そうそう。ちょっと読んでみるからね。例えば……この人。

 

「社会のために生きるなんていうのは、馬鹿らしい。しかし、『自分のために生きる』というのは、自分の何のために生きるのかというと、難しい。自分のために生きる意味は何だろうと問われたら、生を受けた一人の人間としての義務とでも言えばいいのだろうか。それでも自分自身に価値があると思えなければこの理由は答えにならないと思う。」

……つまり外側に絶対の「何か」があり、たとえば、「社会」 のために、だとか思っては生きられないし、「(ほんとうの)自分」のために生きるんだと思うことも難しい。みんなも、そういうふうに思って生きてはいないだろう。……そういう感じがこの人の中にも確かにあるんですよね。続きを読みます。

「歓びのために生きるというのは、今の人に最も当てはまると思う。私も歓びがあれば生きていけるなあと思う。しかし歓びは一瞬で消えてしまう。悲しみや苦しみに比べて歓びは持続しない。」

……これって、言い換えてみるとね……〈「歓び」が生きる根拠だという言い方は、なるほど今の人にとってふさわしい言い方だと思う。歓びがあれば自分も生きていけるなあと感じる。でも、歓びって一瞬で消えて、持続はしないものだ。自分自身のことを考えても、歓びが少ないなあ、楽しくないなあって思って生活している時間が多い。それでも「歓び」以外に確かな生きる理由が見いだせるわけではないとしたら、いったいなんなんだろうかなあ〉……そういう問いだと思う。

続けます。「『義務のみ多くて歓びが少ない。感謝されたり評価されたりすることがない、前進することなく磨り減っていく感じ』(これは講義のときに、僕が用意したプリントに書いてあった言葉ですね)というのは私自身によく当てはまる。」と。

 

……次のは別の人のものなんだけど、近いことを言っているなあって思う。

「何のために生きるか、というのも大事だと思うが、それよりも個人的に、何で生きているのかの方が気になる。言い換えると、何で死んでいないのかということ。死にたいわけではないが、自分が何で生きているのかが不思議である。」

何かに対して、すごくワクワク、ドキドキした歓びの感触があり、それを生きがいにできている感じはしない。かといって、死にたいわけでもない。自分が何で生きているのかが不思議である。……こういう意見なんですよ。

この人、「いくつか暗いことを書きましたが、本人は至って元気なので気にしないでください」って書き添えてくれている。周りから見ればそれなりに元気で、人との関係もちゃんととれていて、別段問題なく生きているようにみえる。本人としても、とくに大きな苦悩を抱えて生きているわけでもない。でも、自分に正直に振り返ってみると、生きなきゃいけないというすごく積極的な理由があるという訳でもなく……あえて考えてみると、なぜ生きているのかなあ、自分でもよくわかんないやっていう……死にたくはないんだけど、あらためて不思議だなあっていう……感じなんだろうね。

 

 うーん。……「生活の味覚障害」状態に陥ることってありますよね。風邪ひいているときにもの食べても味がしないのと同じように、気持ちの状態が基本的にダウンしていているときって、ものごとに対して「楽しいな」とか「嬉しいな」とかいう感触が湧いてこなくなる。味がしなくなってしまう。

「歓び」の感触、高揚していた気分の感触というのは、とても嬉しいし、非常にありがたいものだとは思う。でも、そうした「味がなくなる」経験が日常的であったりすると……「歓び」が生の根幹にあって、そこから自分のありようを形作っていくことが基本になるんだよ、と言われてもピンとこなかったり、ひょっとして、自分の場合そうした条件を与えられていないんじゃないか……という気持ちが起きることもあるような気がする。

基本的には……確かな価値観や安定した社会像が、自明なものとして外側からは与えられない今の情況で、そもそも人はどうやって生きているのか、生きていくのか、ということを確かめ直していく必要をものすごく感じるし、「世界像」をもういっかいみんなで構築していくんだとしたら、「歓び」という、一人ひとりが世界へ抱く「楽しい・嬉しい・よい」感触をまず基盤にしていこうという考え方に対しても、その通りというか、それ以外の方法はないんじゃないかと思います。とは、思うのですが

 

 うん、思うのだが……

 

 でも、どっちかっというと最近自分自身が、……さっきの言葉に重ねていうと……「磨り減りモード」なんですよね。楽しい、嬉しい、いいなあ、美しいなあ……というような「歓び」を基軸に生活が成り立ってはいない。そういうときって、世界に対する肯定的な感情が、こう……生き生きとしてこないんです。「歓び」をもって生きたいんだけど、そうできない自分って情けない、やだなあ……というような感じですね。頭でその通りだと思う「考え方」と、自分自身の現実生活とのズレを意識してしまう。 

でも、思想の言葉によって考え方の道筋が明確に示されること自体に「歓び」を感じて、それをきっかけに気分が「前向きモード」に切り替わる場合もある。自分自身の場合、思想にそうした活力を与えられるときの「条件」っていったいなんだろう、と思ったりもするんですが。……あう。自分でも全然整理できないまま口はさんでいますね。ごめんなさい。

 

 いえいえ。僕もね、ニーチェの思想を例にひいたり、時代による生き方の変化を挙げたりしながら、今、世界像を、生き方を作っていく原理は「歓び」以外になくなっているんじゃないかという言い方をしてみたわけですが、そのこと自体が間違っているとは思わない。でも、学生たちからの反応をみて、その言い方だけでは足りないんだなと思ったんです……

それで、そのこと、考えてみたんですよ。そうすると「いきなり結論」じゃないんですが、実は授業の中で学生たちには、こういう答え方をしたんですね。

……確かに人は、いつもいつもワクワクして、沸き立つような気持ちで、歓びや充実感を味わって生きられるわけじゃないですよね。「磨り減っていくモード」のときだってあるしね。じゃあそれでも何で生きているのか。「神様」もいないのに。「わたしの一生を与えたのは神様で、この一生を心正しく生きることを神様に試されている」というふうに考えて、自分を支えることもできない。「神様」を信じることができなければ、そういう超越的原理も成り立たないわけですよね。

じゃあ、「なぜ生きていられるのか」というように問題を立ててみると……これは正しい答えかどうかはわからないし、フレーズとしてもあんまりよくないかもしれないけど……「世界に対する愛」が自分の中に生きているかどうかではないかと。

確かに磨り減ることもある。でも……たとえば空がきれいに晴れていて、そういうものを美しいなという気持ちがちょっとあったりだとか、この人は好きだなあだとか、……それは恋愛に限ったことじゃなくって、この人って、こういうところがすごくいいなあって感心できたりだとか……また、自分に対しての愛もあってね。こういう自分は嫌じゃないなあと思えたり、ということだけど。

多少きついことや嫌なことがあったとしても、この人のこと好きだなあとかね、世界に対する、ある肯定的な感じが自分の中に生き続けていると、やっぱりそれで生きていけるような気がするわけですよね。

確かに、人はいつもそうした肯定的な感情のもとで生きられるわけじゃない。いつのまにか磨り減ったり、「なぜ自分だけがこういう目に……」というように自分だけに世界が閉ざされてしまったと思うこともある。それでも、自分の中に、いろんな人や世界の物事に対する愛情がどこか生き続けていて、また蘇ってくることがあるのなら、自分自身としてもなんとか生きていける。自分や世界に対して否定的になってしまいそうな感情との間で、押し合いへし合いしながらもなんとか生きていける。そんな気はするんですよ。うまくは言えてないんと思うけど。

 

 つまり、「歓び」を基軸に論を展開するのに先だって……つまり「手前」の段階で……生きていることを支える、基盤となる肯定的な感情の感触を、自分自身はどのような形でもっているんだろうか……ということを、めいめいの実感に即してつかみとれる道筋をひらくことが大切なんだ、ということでしょうか。ワクワク、ドキドキしながら何かを体験していることは、確かに、ものすごくはっきりとした「歓び」の形ではあるんだけど、そういう、めったにない、人によっては自分に縁のないものに感じられてしまう輝かしい出来事や体験を伴ってのものだけではなく、もっと日常の中でふつうに立ち返ることができる、人やものごとに対しての肯定的な感情を伴う向き合い方はある訳だし……そうした部分に支えられながら生きているということは、きっと多くの人が自分の中で確認できるし、そこは出発点にできるんじゃないか……ということでしょうか。

そういえば、「まず『歓び』からはじめよう」という論を展開しようとするときって、「『歓び』なんていうエゴイスティックな感情を出発点に、共有可能な世界像を作り上げていくことなんかできないんじゃないか」という、また違った角度からの反論が返されることもありますよね。こうした場合なんかでも、まず立脚点となる「歓び」という言葉の語感の違いが、そこから先への理解を阻んでしまうことなのかもしれないですね。「歓び」を本質観取( この言葉に馴染みのない方は過去の語りおろしをご参考ください )してみれば、それは必ずしもエゴイスティックなものだけじゃなくて、むしろ「関係志向」的な部分が強いことは取り出されてくるはずだとは思うんですが……

 

 うん。そのあたりのことですよね。

歓びにもいろんな歓びがある。憎らしいと思う相手をいじめるのも歓びとはいえるだろう。復讐という行為にも快はあるわけですから。でも、その復讐の快に「愛」はないし、自分を肯定する感情にも結びつくとはいえないよね。そのときは「ざまあみろ」って気持ちいいのかもしれないけど、自分が他人と世界を生きているということを、まあ祝福とまではいわなくても、肯定できるというところへはつながっていかないですよね。

ですから、「歓び」という言葉はそれこそいろいろに分節できるとは思うのだけれども、ぼく自身としては、自分や他人が、生きてることをどこか肯定することにつながるような、「愛すること」と言ってもいいんだけど、そうした歓びが、豊かになっていく方向でこれからを考えなければいけないだろうと、まずは考えているわけです。つまり、そこが僕にとっての原点/ゼロなわけです。そうしたことをまず確認できたうえで、そうした歓びには、愛情関係、エロス的関係があり、また社会的な関係もあり、という順番で説明するべきだったんだなあ……ということに気づいたんですね。

 

 

思想の言葉に活力を与えられるとき

 

 そうですね。さきほど、思想から活力が与えられるときって、どんなときなんだろうな……と口にしたわけなんですが、たぶん、自分自身の中で漠然としていたものが言葉によって輪郭付けられていくとき、というのが大きいんじゃないかなと思います。今、西さんのお話された、原点/ゼロ地点は、多くの人に共有可能なものだと思いますし、そうしたことが踏まえられたなら、この「歓び」の話は多くの人の「芯」に響くものになるだろうと思います。

あと、自分自身の現実生活との間に具体的なつながりが見えるということも、思想によって示された「原理」が力を与えるものになるかどうかの岐路になるようにも思います。で、そこに関係するのですが、今回のお話では……今の若い人たちは、人との関係にストレスを受けやすくなっているんだが、その背景には、家族的な愛情関係が中心になる中で、社会的関係に対する感度が弱くなっていることがあるんじゃないか。ある一定のルールのもと、価値ある自分をそれぞれ競い合う「自己承認のゲーム」を楽しむ感覚、そうした社会的関係の中での「歓び」の感覚を身に付けていくことも大事なんじゃないか……ということを一つの柱に出されていましたよね。

その通りだなあと思うんです。そうした自己承認のゲームをよい形で楽しめることが、社会的関係の中では必要だと思います。でも、頭ではそう思いながら、そうはできていないことが多い。会社づとめをしながら、「歓び」とは遠く離れたところで、「そうしなければいけない」ことを、味気なくこなしている時間がけっこう多いなあ、という自覚がある。

もっと若い人なんかでも、そういう社会的関係が大事なのは頭では分かっているんだけど、どうも体のほうが適応しない、ついていかないという場合もあるんじゃないかと思う。ですから……なんていうんでしょうか、そうした「原理」と現実を近づけていくためのより具体的なイメージを作っていく必要は感じます。

 

 そうですね……自己承認のゲームというよりは、ある種制度的に作られたものとして、社会的関係の中で決まった役割を求められる場と出会う、ということが実際には多いわけですよね。会社の仕事につけばそれなりのルールがあるわけです。それになじめて力を発揮できる人もいれば、どうしてもそうはできない人もいる。社会的関係は、ときとして非常に人を抑圧するものでもあって、いつでもよい承認のゲームにはなっているとは限らない。ですから、それがいい形の承認のゲームになっていくためには、どういうことが大事なんだろうかっていう気がするわけ。考えるべきこととしては。

まず、承認のゲームをどのように営めばいいかということに、一つは課題が設定できる。あとは、それでもやっぱりなじめない人はどうするのかという課題も出てきますよね。この二つだと思うんですよ。

 

 うん、確かにそうですよね

 

 それで、ゲーム自体をどうするかということですが……まず、大学のサークルモデルで考えてみましょうか。よくあるのが……みんなの中に、「なんか違うんだよな」「もっとこうするべきじゃないか」という不満がたまってきているのに、なかなか口に出して言うことができない。雰囲気がどんよりと重たくなって、すごく悪くなる。そんなときに誰かがぶちきれて、少し危険で乱暴な言い方もふくめてワーワー言い始める。それがきっかけで、他の人も言いたかったことをあれこれ言えるようになる。それがうまくいくと、場が再び活性化されていくことって、ありますよね。

「これはおかしい、これは不満だ、こういうふうにしよう」というのが言えて、そのことが周りから受け止められるというのは、決定的に大きいことのような気がするんですよね。受け止められるというのは、けっして自分の意見を丸呑みされるということじゃない。「君の言うやり方では絶対うまくいかないよ」と、反論が返されることもあるかもしれない。でも、なにしろ、ちゃんと受け止められたということ自体がとても大切なんですよね。

実は承認ということの核にあるのは、そういうことなんじゃないかと思うんですよ。最終的に、「じゃあこうしよう」「これを目的にしようよ」という結論に対して、たとえ自分の意見が結果としては一割くらいしか反映されていなくても、自分の言ったことがちゃんと受け止められたという感じがあれば、お互いどうしの信頼感がすごく増すじゃないですか。

一つの組織の中で立場が上になる、偉くなるということも「承認」と言えるのかもしれないけど、立場というのは結局役目にすぎないわけで、必ずしも自分自身がそれで受け止められているとはいえないわけでしょ。いちばん重要なのは、あくまで受け止められたという感覚だと思う。よく努力して仕事をしたこと自体を人から受け止めてもらったり、ないしは、ここはよかったけれども、ここはもっとこうしたらという形で批判を返してもらったりとか。そうした「動的な形での承認」がどのように生き生きと形作られるかということが問題だと思うんです。承認というのはそういう動的な過程を含んでいる。だから、どうやれば必ず承認されます、っていう公式は作りにくいね。

でも、会社というケースを考えると、実際にはもう少し難しいかもしれないね。例えば、スポーツなんかの場合だと、ある程度割り切れるところがある。基本的にはやりたい人が参加するわけだし、しかも、勝つことのためにさまざまな工夫をしたり、努力をしたりしながら、「おお、あいつやるなあ」というようにお互い認め合うゲームなんだという前提に立って、そこに入っていくものだからね。

でも、どうなんだろう、会社というのは……、ぼくは会社で仕事したことないしねー。どちらかというと歓びをもとめて積極的にゲームを展開する、という感じよりは、あらかじめ設定された価値観に自分をなんとか合わせていくことが求められたりすることが多い……という感じなのかな。工夫したり、努力したりしながらパワーアップしていく手ごたえを感じ、そうした自分がまた評価される歓びが味わえる、というような形でなかなか展開されにくくて、単に結果としての売上や成績で評価されるゲームになっていることが多いのかもしれないね。……だとしたら、それはけっして楽しいものじゃないだろうし。でも、会社でも上司がしっかりしていると、それなりにいい感じの職場を作れている人たちもいなくはないだろうとは思いますよね。

 

 そうですよね。目的集団で、結果としての利益が全てだとはいっても……

 

 人間が集まって動くっていうときに、それだけの原理しかない、っていうことはありえないよねえ。

 

 ええ。それだけだったら、多分成り立たないように思いますよ。「あの人は人としても尊敬できる/好きだ」「あの人となら、何かを一緒にやること自体に楽しさを感じられるし、お互いに力を発揮できそうだ」とか、どちらかというとエロス的な関係に近いものも入り込むだろうし。

 

 それは絶対あるよね。

 

 ですから、そうした部分も入ってきてしまうものなんだ、ということをあらかじめ前提にしておいて、ここではエロス的関係でかまわないし、むしろそれがよい方向に働くこともあるんだけれども、ここに関しては、もっとシビアでなくちゃいけない、というように意識的に仕分けることができたほうがいいようにも思います。

あと、西さんのおっしゃった、「動的な承認」によるコミュニケーションがないと、つらいですよね。たとえその通りにならないとしても、自分の意見に対して、手ごたえのある応答が返されるというような。それがないと、仕事に対するモチベーションって沸いてこないものだと思いますし。

会社という場は……自分自身の体験になぞらえて言うと、日常生活でのよしあしの感覚からは乖離した、独特な価値観を強いられることがままありますよね。利益をあげるためには「そりゃ汚いんじゃないか」ということをするのもしかたない、というか、この場ではそれが「よいこと」であり、逆にそうできなければだめなんだ、というように。でも、得てしてそれは思い込みで、結果としてもいい方向には結びついていないんじゃないか、ということも多い。さらに、組織が硬直していると、こういう事態は改善したほうがいいんじゃないかと「言挙げ」することもままならないことがある。

ただ、そういう硬直した体質では、価値観そのものが変遷する状況のなか生き残れない気がするし……今がちょうど過度期なのかもしれないですよね。

 

 最近あるところで、会社の人事部の部長さんたちの研修会でお話する機会があったんですよね。で、そうした研修会をコーディネートする会社の人で、企業のコンサルタントをやっている方に聞いた話なんですが、「企業理念、企業の存在理由みたいなものを考えなければだめだ」っていう話を、企業の人たちに必ずしているんですって。要するに、儲かればいいという考えだけで企業は成り立たないと。「こういうことを通じて社会に貢献するんだ」という「理念」が、けっして単なる建前ではなくて、社員に浸透している会社は本当に強いんだ、というんです。

そうした「理念」が、ほんとうに説得力あるもので、創業者なり、その理念を提案した人のふるまいに素適だなと思わせるものが伴っていて、かつ、この理念の枠に合わない人は出て行って頂戴ね、という頑ななものではなく、むしろ理念を実現するために組織として硬くなっちゃ駄目だよね、というように機能するものであれば、……それなりに生き生きとした会社になるのかもしれない、とは思う。

ただ、実態をあまり知らないからね。学生時代に、「資本主義は悪だ」という像を与えられて、会社に入ったら人生終わりだと思ってましたから。でも、実際のところほとんどの人が企業に入って生きていくわけだものね。そうである以上、企業がどういう形であることが、そこで働く人にとって、またその産物を買う消費者にとっていいのかなあという課題は、やっぱり出てくるよね。

 

 うん、自分自身にしても、会社という場で、積極的に自己実現していくんだぞ、という姿勢はまず希薄でしたね。会社に入るっていうことは基本的には挫折であるとか……とりあえずはそこで働いているんだけど、本当に大切なものは他のところ、そこではない生活の中で求めていくんだというような……感じは強かったですかね。

 

 70年代に「コミューン」の実験はあったかもしれないけど、少なくともリベラルや革新派の側で、会社をどのようにとらえ、どのような形で運営すればもっとよいものになるか。利益だけじゃなくって……もちろん利益があがらなくちゃ成り立たないわけだけど……中にいる人にとっても、関係する外側の人々にとっても、どうすればもっとよいものでありえるのか、ということに関して、本気で考えた人は誰もいなかったんじゃないかと思う。組織のあり方は、経営者の観点、つまりどうやって利益を上げるか、という観点からはすごく語られているけど。僕自身も二十代のころは、「企業の社会的責任」というような研究をしていた友人に対して、「企業がそもそも社会的責任なんて果たすわけないじゃないか」という目で見てしまっていたしね。「資本」というのは、もともとが汚いものなんだと考えていたから。でも、企業というのは確かに厳しい生存競争の面があるけど、企業の中で働く場合だって、こういう「よいこと」をやろうとしているんだよ、という部分があるわけだし、社員がそこを全然信じられないとするならばパワーも出てこないよね。

 

 それは着実にいえていますよね。……自分の意志だけではない部分に拘束され、そこに属すること自体に意味があるかどうかわからないのだが、意味があるようだったらいいね、というような集団の中に属して生きるということ、まあ実際に多くの場合は「会社」という組織に身を置いて生きていることが現実なわけだから、そうした組織にいかに歓びをもって参加していくか、運営していくかということをもっと積極的に考えていくことも大事なのかもしれないですよね。

 

 そうだよね。多くの人がそういう生活の条件をもって生きているわけですからね。

 

 

思想は、実存をつなぐコミュニケーション・ゲーム

 

 もう一つ別の話をしましょうか。それでも承認のゲームに入れない場合はどうするのか、ということ。

小浜逸郎さんは、家族の関係、つまりエロス的関係と社会的関係のことをとらえて、こんな言い方をしているんですよ。「自分の存在を受け入れてもらえている」という感覚と、「自分が他人によい影響を与えている」という感覚。この二つがあれば人は生きていけると。「受け入れられている」というのはエロス関係、「よい影響を与えている」というのが社会的関係になるわけなんだけど、これは真実をついているなあと思う。

でもそう思う一方で……社会的関係においてはそれなりにやっている。でも、それで自分の生きることを十全に満たしているというようには思えない。家族の関係もわるくない。でも、それで自分の生きることが満たされているとは感じられない。そういうように、たとえ両方の関係から極端にはじかれているわけではなくても、自分の生がそういう家族なり会社なりの活動の二つでは満ちないような、「余り」の部分を抱えてしまうというのは、けっこう普通じゃないかと思うんです。

 

 社会的関係の「承認のゲーム」に「入らない」部分が、そもそも人にはあるものなんだというようなことですか?

 

 うん。人はけっこうそういう部分を抱えもつもののような気がするんですよ。家族の一員でもなく、会社の一員でもないようなものとしての自分。そこに解消できないような自分というのかな……。

 

で、広い意味でこうした部分を掬い上げているのは……文学とか、音楽とか、思想とか、詩とか、そういうものじゃないかと思うわけさ。そういうね、家族であるとか、社会の一員であるとかいうことに収まりきれないような、余りものを抱えてしまっている自分という場所がどうしてもある。そんな中で、でもやっぱり、さっきの言葉を使って言えば「世界に対する愛」みたいなものをもとうとする自分もいたりしてね。そうした思いを表現したり、受け止めたりしていくものとして、文学とか、音楽とか、詩とか、あるいは思想の言葉というものがあるんじゃないかと。

……そういう言葉の領域って、家族の中である程度相互の了解ができる場合もあるけど、基本的には家族の中でも会社の中でも出てこない言葉の質だと思うのね。家族の中でも、お互い思いあったりいたわりあったり、自分は今こんなこと考えているんだよというような、いわば「実存」に関わる思いを共有できることもありますよ。でも、できないことがけっこうあるんだよね。会社というのは、そもそも一人ひとりが一つのゲームのプレイヤーとして存在しているわけだから、微妙な思いを伝える空間ではないでしょ。

そんなような余り物としての自分、僕の言葉でいえば、実存というか自己関係の領域……自分で自分に向き合っているような関係……吉本隆明さんだったら「自己幻想」というんでしょうね。「共同幻想」「対幻想」「自己幻想」という言葉で、社会的関係、エロス的関係と、この実存的関係と、ほぼ重なるようなことを言い表していると思う……、家族の関係、会社の役割には収まりきらない領域、ふだんあまり口にできないんだけど、自分の生に対して自分自身が確かにもってしまっている感触の中に、詩とか思想とか、芸術は場をもつものなんだと思う。そういう部分を言葉にしたり、作品化したりしながら、お互いどうしをつなぎあわせようとするゲームだと思います。つまり関係からこぼれてしまった余剰としての自分のなかから、もう一度、他人に対して心を通じ合わせようとして、表現をつくりだす。

だけど今、詩や、思想や、芸術や、音楽がどれぐらいそうしたものとして働いているのかという問題はあるよね。

 

今の話に関わってね、学生さんからの意見にこういうのもあって……なかなかいいなと思うんで、ちょっとまた紹介しますね。

……身体障害者の子なんだけど、〈私は『生きる』ということに価値がないと考えている。でも、死ぬ理由もないので生きてきた。同い年の子たちが大学生活を送っているというので、自分も入ってみた。そしたら大学では仲間ができ、まあまあ喜んでいる。もしかしたらこれが『生きている』ということ?〉と書いている。「まあまあ」というところがなかなかいいよね。そして、〈「生きる」とはどういうことか、で思い出したことがある〉というので、谷川俊太郎の「生きる」という詩を引いているんです。これがけっこういいんだよね。

「……生きているということ いま生きていること……それはミニスカート、それはプラネタリウム、それはヨハンシュトラウス……すべての美しいものに出会うということ……」

 

 知っている。小学校の教科書にのっちゃうくらい有名な詩ですよね。

 

 あ、そんなに有名な詩なんだ。

さっき、「世界に対する愛」なんていうことを言っていたわけですけど、それが何かって考えたら、こんなふうに、いろんなものが好きで、美しいなあ、ああ綺麗だなあ、いいなあって思えることじゃないかと思う。あるものとの触れ合いが嬉しい。ミニ・スカートやプラネタリウム……それは人によって違うけれども、美しいものに出会いたいな、という希望をもっている。世界に触れ合ってそれを味わって愛することができる、という希望。この「希望」をもっていれば人は生きられる。生きるというのはそういうことなんだというメッセージが、この詩にはある。

こういう詩を、心が閉じている時に読むと……「ふん、何言っているんだい」と思う場合もあるかもしれないけど……、閉じかけた心にスーっと入ってきて、世界に対する肯定的な思いが自分の中にもあるなあ、って気がつく場合もあるじゃない。そういう種類のコミュニケーションって、日常会話では、よほど特別な人としかできないよね。生に対する態度の取り方についてコミュニケーションを交わすのってなかなか難しい。だから、詩のような、ちょっと特別な、言葉に工夫した表現や、ないしは思想の言葉でそういうところを通じ合わせようとする、そうしたコミュニケーション・ゲームを人は作るんだろうな、と思う。この学生にしても、この谷川俊太郎さんの詩を読んで、ああいいなあ、という体験を得たんだろうしね。

 

 愛情関係というのではなくて、「社会的に意味あるわたし」というのでもなくて、たとえば、そういう関係に入らない、入れないで苦しんでいる自分そのものを語り合おうとする場を人間はもっている……

 

 うん、生きることそのものに対して人は態度を取っている。必ずね。人間ってとても不思議にできていて……ねえ、こういうのってありません? 例えばさ、いい音楽とかに触れて……「いいなあ」と思うときに、「いいなあ」と思って自分の気持ちが動いていること自体を、同時にすごく嬉しく思ったりするんですよ。ああ、こういうピュアな気持ちが自分の中にもあったんだなあ、とかね。

 

 ああ、ありますね。感動して泣けることが妙に幸せ、みたいなことが確かにある。

 

 そうそう。それまで自分の気持ちが世界に対して動かなくなっていたのが、……自分の中にも、こうやって動くものがあるんだということ自体が嬉しいとかね。そういう次元のことを人間はもっている。自分自身のあり方に自己関係しているというような。その領域の事柄に向けた言葉なんじゃないかと思うんだよね。詩とか、思想とかっていうのは。

 

 思想というのはほんとうにいろいろなレベルで言葉の体験を与えてくれると思いますが、場合によっては詩に近いような形で、世界に対する感触を輪郭づけてくれるということはありますね。普遍性をもったベクトルの中で、より妥当なもの、最善のものを取り出していくことが、哲学であり、思想であるとは思うのですが、それは同時に、個々の実存の中で取り換えがたい感触を与えるものをないがしろにはしない。むしろそこを出発点にできることが、すごく大事なことになんでしょうね。

 

 うん。それに思想家にもやはりタイプというのがあるよね。不遇なことも含めて、取り換えがきかない、他人とは代わってもらえない自分自身のこの生を生きていて、その生にどのような態度をとるかという課題に思想の主題が向けられているような……たとえばニーチェみたいな実存的な人と、この社会を人々が生きていくうえで、いい条件をどのように創っていけばいいんだろうという形に関心を当てている社会的な人たちもいる。僕なんかもともとはぜんぜん社会派ではないですね。それでも半分くらいは社会派的な視点が出てきたとは思うんだけど……

 

 西さんの場合、社会思想を展開する場合でも、自分をダシにして、自分自身が世界をどう受け止めているのかを、まず核のところで取り出すことに基づいてのものだから、自分のように「社会」に対する感度が立ち働かないタイプの人間にとっても、結節点が見いだせるんだと思います。

関係するかどうかわからないのですが、最近竹田青嗣さんの『意味とエロス』を読み返してみたんですね。で、基本的なモチーフは昔から全然変わっていないんだなあと思ったんですが、ただ、「このわたし」という場所からどう「超越」への感触、「外部」と言い表されるような体験の質を探っていくかということへの強烈な感度を、すごくストレートに感じたんですよね。最近、どうやって確信成立の条件を取り出すかですとか、共通了解をどのように内実ある形で見出していくか、というような側面から竹田さんの思想と触れる機会が多いからかもしれないけど、あらためてそういうことを感じました。実存感覚の強さというんでしょうか。

 

 うん、出発点にそうした世界への感触がある、ということが竹田さんの場合色濃く出ているんじゃないかなあ。

実はですね、去年出した『哲学的思考』の場合、どうやって共有できる足場を作るかということを先に立ててしまった感があって、ある意味でそれは失敗だったかも知れない、と思っているんです。うん……失敗というのとも少し違うんだけど……。語るときにどこを出発点にするかってあるじゃないですか。

僕の考えではなるべくだれでも入れるような出発点が根っこにあるべきだと思う。

つまり……さっきの、「歓び」の話で「手前」の部分が大事なことだったね、というのと全く同じなんですけど、語るときに、どこを原点にするかなんですよね。『哲学的思考』では、どこを出発点にしようかと考えたとき、「共有」はどのようにしたら可能か、ということを立てた。人が考えを通じ合わせていくことは大事だよということを言いたくて、そこにアクセントを置いたんだけど、ある意味では、そういうアクセントの置きかたをしたことで、かえって伝えたいことが伝わらなかった部分があるんじゃないかと思うんです。

だってね、「共有」ということがほとんどピンとこない人もいるわけなんですよ。そうするとね、そういう人からすれば「共有」という言葉を最初に掲げてしまった時点で、自分自身からすればなじめないスタートラインから始められてしまうことになるわけ。

だから、「共有」から始めるにしても、書き方の順番を考える必要はあったのかもしれない。まず自分自身の生のあり方を反省してみると、「他者性」というものが入り込んでいることがわかるし、「これってほんとだよな」と思ったときには、暗々裏に他の人もそう思うだろうな、ということが入り込んでいることがわかる。そうした、「他の人たち」に自分としてわかってもらいたいという気持ちはあるな、とか、「ほんとうだよな」という確信の中には「他の人にとっても」という視点が必ず含みこまれているよな、ということがまず自分の中で確かめられる。そこをもとにして、次に共有という課題に進む。そういう順番でやるほうが、たぶん、実存思想的にいうと、正しいんですよ。

でも、今回の本は、そういう書き方はしなかった。むしろ最初から、哲学というのは、最初から「自分で納得する」ことと「共有する」ということの両方を可能にしようとする思考の営みである、というふうに置いているわけです。そのかぎりでは哲学も科学も一緒なんだけども、狭義の哲学は、科学では答えが出ない事柄……認識そのもの問題だとか、「善悪」や「神」の問題とか、そういう諸問題……を、どうやって納得もでき、共有もできるような形にできるのかをめざすものだ、というふうに打ち出した。で、そのはじまりにデカルトがいる、というように。

それ自体は間違っていないと僕自身は思っている。でも、むしろ、「わたしはわたしとして、取り換えがたい生を生きている」という感覚があって、でもその中を見てみると、自分の中に他人と気持ちを通じ合わせたい気持ちがあることも認めざるを得ない、そういうのがあるんだなっていうのが分かってくる。そういう形で出発できるような書き方もできたんだなあって……思う。

ある人には、「共有っていうのは自分にはないモチーフだ、この人はそもそもそういうところから始まっているんだ、自分とは違うなあ」という印象を与えた可能性はある。そういう印象を与えてしまったことに関しては、もう取り換えしがつかないものね。

まあ、しかし、後から言ってもしょうがないから、今度はまた違う書き方をしてみようかな、と考えたりしています。

 

 うん……、世界像の壊れというか、そもそも価値観を共有することの難しさを踏まえたうえでの論だと思うし、そこのところはすごくわかりやすく伝えられていると思うんですが……初めて出会った人からは、そういう見え方をしてしまうことがあるのかもしれないんですね。うーん、書き方の問題か。

そういえば今朝日カルチャーセンターでやっておられる「正義論」の場合もそうかもしれないですね。いきなり「正義をどう形作っていくか」というところから始めると、「正義」とは一つの価値尺度を人に強制するものだ、という経験のもと今までこの言葉に出会ってきた人たちに対しては、入り口の部分で抵抗感をもたれてしまうし……。

 

 そうですね。「正義」なんてろくなものじゃないという印象があったとしても、自分の中に「それははずるい。それはひどいと思う」という感触はあるよね、ということが確かめられたら、はじめて次にいけるというのがあるじゃないですか。

だから、このごろそうした順番ってけっこう大事かなと思っている。誤解をおそれずにいうと、哲学とはなるべく無前提な学をめざすこと、だと思うんです。最終的な立場は人によって分かれてしまうかもしれないけど、可能な限り多くの人がそこに入って考えることができるような共有できる場所、プラットホームを作ることが大事なんですよね。この場所をどこに定めるかというのがとっても大切なことだと思う。

「社会正義は必要です・大事です」というところからいきなり始めてしまうと、それですっと乗れる人もいるけど、「正義」って言われてもなあ……という人もいるわけでしょ。そうすると最初の議論にもう乗れないじゃないですか。そういう人でも……自分のことを考えてみれば、「ずるい/不当だ」と何かを思うことは確かにしている。でも、世間で正しいと言われていることと、自分が正しいと思うことの感覚にはズレがあるように感じている……というようにね、どっかに出発点が見いだせることが大切になるんだと思う。「社会正義が必要です・大事です」ということからはじめちゃうと、論としては弱いし、哲学として弱いんだという気持ちがするわけ。

ですから、哲学で大事だと思うのは「当然でしょう」という前提を置かないで、ここだったら誰でも入れるという場所をどう作るか。これこそが「哲学的思考」の要かな、とこのところ思っているんです。そういうふうに哲学が展開されていくなら、例えば「正義」の問題に関しても、立場も違い、感度も違う人が誰でも入って、考えて、足場を確かにすることができるわけですから。そういう形で本を書けたらなあ……そういうふうにできたらいいなあって思いますね。


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