もぎたて語りおろし(2005/8.23出荷)


 うん。3年くらい新聞をとるのをやめちゃった時期がある。へんなひとですよね。

 

 

 ぼくもへんなひとかもしれないし、新聞もほとんど読んでいないに等しいですけど、いちおうとるだけはとっていますからね。当時は、「もう新聞を見る気もおこらない」みたいな感じなんですか。

 

 

 うん……こんな感じですよね。社会というのは別に触ることもできないし、よく考えてみればあるのかないのかわからないようなものじゃないですか。目の前にコップがあったり、人がいたり、友達との関係があったり、というのはリアルなものだけれども、社会というのは全然リアルじゃない。そのリアルじゃないものについて、これが正しいだのあれがまちがっているだのというのはナンセンスだ。そういう変な考えに陥っていたんですよね。

なんでそうなったかのというには、それなりに理由はあったんです。ぼくらより少し上の世代までは「この社会を変革しなくてはならない」という思想があったんですよね。世の中をちゃんとよくするために生きていくのが正しい生き方である、というような人々がたくさんいた。そういうひとたちが信じられなくなってしまったというのが個人的にはあまりますね。

 

でも、個人的な理由ということだけではなく、時代状況もかかわっていると思う。ぼくが新聞を読まなかったのは80年代のはじめなんだけど、そのころはちょうどある種の豊かな社会、消費生活のはじまりの時期で、「おいしい生活」っていう言葉が流行ったりしていた。それと同時にポストモダン思想も入ってきていた。テレビ番組では「ひょうきん族」が話題になったり……「おれたちひょうきん族」は見ていました?

 

 たしかに流行っていたけど、あんまり見ていませんでした。なんかあんまりなじめなくて。

 

 最初はぼくもなじめなかったんだけど、そのうちけっこう面白くなってきた。「お前はほんとうに正義の為に生きようと思っているのか。そんなのうそだろう。ほんとはお前だって楽しいことをしたいに決まっているじゃないか」という声がね、あの番組からは聞こえてきたような気がする。それはとても率直な声だったと感じた。

そういう時代の流れと、ぼくが社会に背を向けるようになった時期とは、考えてみればぴったりと連動していたんじゃないかな。当時はあんまりそういうふうに自覚していたわけではなかったけどね。ただ、「社会をよくする」ことを掲げた運動とかが、「自分が正義の人だということを信じ込みたいためにやっているんじゃないの」と思えちゃうようなしらけた気分があったし、それと「社会を変えることよりも、自分自身の考え方や、直接であっている人たちとの関係をちゃんと見つめていくことのほうがよほど切実だし、大事じゃないか」という気持ちが入り混じっていたように思うんですよね。

 

で、そのあたりから……ぼくの場合また極端なので……問題を外側に立ててしまうのはだめだ、自分の内側から立てていかなくちゃいけない、自分自身の実存の場所から考えなければいけない、と思いつめるようになったんですよね。自分自身が困っていたり、痛みがあったりするからこそ、それについて考える根拠がある。そういう根拠がないところで、ただ世の中をよくしたい、こうするのが世の中をよい方向に導いていくことだ、みたいに語ろうとするのはとても空疎で、おろかなことだ。そういう感じになってしまった。それで極端な実存派になっていったんですよ。

 

でも、そういう極端な実存派という立場でいくとね、たとえば差別なんかの問題をテレビや新聞なんかでたまたま目にして、「これはひどいことだ」「なんとかしないといけない」という気持ちになっても、なにも語れないんですよ。自分自身の公準からすればね。だって、自分自身が直接そのことで痛んでいるわけではないですから。でも、所詮新聞やテレビのいっていることは虚妄だと思い込もうとしても、「そういうひどいことが世の中にはあるんだ。それはまずいよ」という気持ちはどうしても自分のなかに湧きあがってくる。そんなことが重なっていくにつれて、自分の公準のほうに無理があるんじゃないかな、と思いはじめるようになった。社会なんて自分が生きるうえでは何の意味も持たないものだ、実存という場所から内在的に問題をとらえなければならない、と考えていたけれども、それこそ内在的に考えてみても、「社会」というものには意味があるんじゃないかな、という感じになってきたんですよね。

 

そのあたりの経緯については自分でもはっきり覚えている。まず、ふだんじぶんがやっている「本を読みながら(自分自身の)問題を考える」という行為自体が、すでに「直接の関係」を超えているんですよね。たとえば、いまここでぼくと犬端さんが、「ニーチェの思想って『生の肯定感』が伝わってくる。それがいいと思う。」「でも、あの『強者の思想』はちょっと危ういところもあるよ。」なんていうようにしゃべっているとしますね。そのとき、現実にそういう会話を交わしているのはぼくと犬端さんの二人なのだが、そのとき、ニーチェという人が歴史上ちゃんと実在していて、ニヒリズムの問題を考えつめていったということ、そしてその問題は、世界像の危機といわれるようなこの時代を生きる自分たちにとっても切実なものであるということが前提になっている。そして、「ニーチェというひとはこういうふうに考えようとした。じゃあ、それに対して僕らはどう考えるんだろう」というように言葉を交し合っているわけですよね。

 

そのように、ニーチェやドストエフスキーなどの思想家や作家たちにしても、それぞれの実存の場所で、いま自分たちが切実に感じているのと同じ事態に向き合い、同じような感触をもちながら、その問題を突き詰めていったのだということを前提にしたうえで、彼らの著作を読んだり、読んで考えたことを語り合ったりしている。つまり、「内在に定位して実存の問題を考えていく」場合でも、過去現在のさまざまな思想家たちをも含めたいわば想定上の「議論共同体」というようなものが念頭に置かれている。カントはこれについてこういっているけど、ヘーゲルの場合はこうだ。さて、おれ自身はどう考えるのか、とかね。そういう議論共同体の中で自分自身の考え方をつくっているわけです。

 

それでふと考えてみると、「社会」というものも、そうした“想定された議論共同体”とほとんど同じようなものじゃないか、と思えてきた。ある社会問題が話題になる。ぼく自身が直接そのことで苦しんでいるわけではないし、現実に苦しんでいる人たちに会ったわけでもない。ひょっとしたらメディアからの情報によってその存在を想像しているだけかもしれない。それでも自分の中の信憑としては、同じルールなり制度なりのもとでみんなが暮らしているという人間たちの共同関係が思い描かれている。そして、そのなかで、何も責任がないのに不利益を被っている人たちがいるとすれば、同じ社会を構成する人間として、「これはやっぱりちょっとおかしい」「もっとフェアーにしようじゃないか」という思いが湧きあがってくる。そしてそのことを、実際に口に出してみることで、いろんな議論の輪が広がっていく。

 

社会というのは、たしかに直接のリアリティーを超えた「想像の共同体」のようなものですね。でもそれを念頭におきながら、だれもが公正に気持ちよく生活していける一般条件の向上を願い、それについて語り合っているわけです。そういう意味では議論共同体と似たようなものではないか。そんなことを考えたんですよ。

 

で、そのときに、やっぱり社会というものは必要だなと思ったんですね。実際に、これは社会的な解決が必要とされる種類の問題もあります。例えば、あるひとたちが、たまたまなんらかの条件に置かれているだけで、他の多くの人たちがもっている権利を認められていなかったとします。そのことは、だれからみても不公平であり、おかしなことだったとする。だとすれば、みんなでそれを問題として取り上げて、社会のルールを変えていくしかない。

 

 そうした、いわばある視点でマイノリティーの立場におかれている人たちにしても、ひとりひとり実存の部分で抱え込んでいる問題は多様で、一概に括ることのできないものかもしれない。でも、そうした人たちが、自分自身の希望に即して生を組み立てていくための一般的な条件を向上させていくためには、社会的な視座から問題を解決していくことが必要になる。個々の実存を生かしていくためにも、そのことが求められる……ということですかね。

 

 そのとおり! で、そのとき重要なのが、その問題の当事者や、あるいはその問題を近くで見届けてきた人たちが「これはおかしい。こうするべきだ」とあげた声が、他の社会の成員に聞き届けられ、その結果としてルールが改正されていくという、そうした“言葉のやりとり”が成立することだと思う。現実にルールが改正されるまでには時間がかかることもあるかもしれないけど、少なくともその前段として、まず言葉が聞き届けられるということが大切だと思います。それがないと、たまたま不遇な状況に置かれてしまったひとたちは、もう絶望するしかないんですよ。自分たちの言葉が、けっしてみんなには届かないし、受け止めてももらえないんだとしたら、できることといえば、究極的にはもうテロしかなくなる。

 

 そうですね。もし言葉という形で届かないんだとすれば。

 

 そう。言葉という形で届けられないんだったとしたら。

だから、「社会」という共同性について積極的に考えられるためには、「お互いがよい形で共存するための努力がこの社会には確かにある」という信憑が成り立つことが非常に重要だと思います。そういう努力が全然成り立たないことになると、社会はもう、檻のように自分を拘束するものとしか思えなくなる。耐えがたい状況を打開していくためには、もうテロみたいな行為に走るしかなくなってしまう。ないしは、そうした社会の中でもそこそこ生活が成り立っているのなら、関心のもてる対象は家族や友人たちと自分の趣味だけということになりますよね。砂漠の中で、ここだけは自分のオアシスをつくるんだ、みたいなことになってしまう。

 

もちろん、日常的には、自分の仕事のことだとか、家族や友人たちとの関係などのほうが大切なわけであって……ぼくにしてもそうだし、だれもがそうだと思うんですけれども、でもそうした個別の生を支える条件として社会というものがあるわけです。だとするならば、この社会の中で、どこかにおかしなことがあったら、声をあげたり助け合ったりできるんだという感覚が生きているということは必要なことだと思う。

 

 

今どきの若者たちと「社会」

 

 だいたいこうしたことが、ぼくの基本的な問題意識ですね。それを『哲学的思考』では、自分自身の体験に基づいて、「実存派」と「社会派」の対立という形で書いてみた。その問題意識自体は変わらないんですが、今回は、いまの若い人たちのおかれている時代状況にも踏み込んで書いていきたいと思う。

 

 社会問題に対してリアリティーを感じることができない、関心が向かない、ということ自体はいまも当時も共通しているけど、その背景にあるものには若干の違いがある、という感じなんですか。

 

 そうですね。……犬端さんは大学入ったのは何年ですか。

 

 1982年です。

 

 じゃあ、ちょうど大学に入学したころポストモダン思想が入ってきて、大学に入った2年目に浅田彰の「構造と力」がでたわけだよね。あれはたしか1983年だから……

 

 そうですね。社会や政治のことですとか、あるいは自分自身のことなんかにしても、まじめに考えたり語りあったりすることをあんまりよしとしないような雰囲気があった。

 

 そうそう。ポストモダンって最初のうちはアンチ社会思想という形で展開されたんだよね。

マルクス主義的な社会運動の理念や、正義を求めるようなありかたを壊しちゃえというような……

 

 そうですね。『構造と力』の少しあとで、『逃走論』という読みやすく書かれた本が出たように記憶しています。で、「『本質』やら『真理』やらというものは、社会の中で形成されているひとつのものの見方によって形成されたものにすぎない。ひとの生というのは、そんなものに縛られずにもっと生き生きと展開していけるはずだ。そうした生の喜びを味わえないのは貧しいことじゃないか」というようなメッセージが、そうした本から伝わってきたように思う。それに加えて、さっき西さんもおっしゃいましたけれども、いいものを食べて着て、いい車に乗って……というような消費への欲望が駆り立てられていく雰囲気が、社会全体のなかに強く出てきたように思います。浅田さん自身の論は高度消費社会を単純に肯定するものではなかったと思う。でも全体としては「社会正義」という理念≒「タテマエ」が「おいしい生活」という「ホンネ」に取って替わられるような時代だったんじゃないかしら。

 

 そうだね。犬端さんたちのころがちょうど変わり目なんだと思う。

それと、「オタク化」というのもたぶんそのころからはじまっているよね。ぼくは犬端さんよりも6才年上だけど、「自分は日本社会の中の一員だ」という意識はまだごく自然にあったように思う。だれもが聞いている流行曲もあったし、国民歌手といわれるような人がいたものね。ぼくのころでいえば、山口百恵さんでしょ。犬端さんのころだと松田聖子かな。 ぼくの感じでいうと松田聖子が最後の国民歌手という感じがするんですけど。

 

 そうですね。そういう意味では一定程度だれとでも話題が共有しあえる時代ではあったのかな。

 

 そうそう。そのころまでは、共通の話題とかそういうものも、とりあえず存在できていた感じがあるんですよ。ところが82年辺りがちょうど境目になって、だんだんそれがなくなっていったように思う。いま、ものすごくヒットしている曲があったとしても、それを聴いている層はある年齢層に限られているし、上から下の世代までみんなが聴く曲というのはなくなってきているでしょう。

 

 一人一人の興味が拡散しているということは、昔と比べたらたしかにあると思います。いろんなところで、いろんなブロックごとにそれぞれ興味を共有する人どうしで集まっている。そして、それぞれのブロックの中では、もう相当に濃密な内容の情報を交換しあったり、お互いのよしあしの感覚を語り合い、確かめ合ったりしている。そんな感じでしょうかね。

 

 そうですね。もちろんインターネットの発達がそのことに寄与しているだろうし、雑誌にしてもほんとにいろいろな種類のものがあって、「こんな世界にも雑誌があるのか」と思うこともあります。さまざまな興味のもとにそれぞれが生きている。だけど、それをつないでいくものはない。そういう状況になっているんじゃないかな。

 

それがまずひとつとそしてありますね。あと、それにも関係すると思うんですけれども、歴史的な意識、感覚というのが、いまの若い人たちはすごく後退していると思う。

 

18才から20才くらいまでの学生の話を聞いてみると、彼らは生まれたときから生活の条件がほとんど変わっていないんですよ。ケイタイは小学校のころはあんまりなかったみたいだし、パソコンの急激な普及というも大きな変化といえるかもしれませんが、それくらいです。テレビゲームにしても、ものごころがついたときからありますしね。社会の基本形はすでにできあがっていた。だから、社会が変化する・動いていくという感覚が希薄なんですよね。

 

ぼくの場合は、ちょうど育っていく過程が高度経済成長期なので、いろいろな生活の変化を記憶している。はじめて冷蔵庫がうちにきたのが幼稚園で、「氷がうちで作れて万歳」みたいなね。

 

 そういうのはありましたよね。白黒だったテレビがカラーになったとか。エアコンがはじめてうちについて「涼しくて万歳」みたいなね。

物価なんかも、どんどんあがっていきましたよね。一杯100円くらいだったラーメンがごく短い間に何倍にも値上がりしたり。でもそれに応じて父親の給料もそこそこあがっているらしく、もらえるお小遣いも少しずつ増えていったりですとかね。

 

 ですよね。そういう変化というか、生活のレベルが向上していく、進化していくという感覚を国民全体がなんとなく抱けていたように思う。そういうのがもう完全になくなっちゃっているわけですよね。これからもっとこういうふうになればいいなとか、きっとこんなことができるようになっていくよ、という想像力が全般に欠けちゃっている。

 

音楽なんかにしてもね、ある意味ではうらやましいんだけれども、これまでの音楽がすべて等価に広がっているんですよ。その中から自分の感覚に会うものを集めてきて、好みにあったものを選んで聴いている。

この間、びっくりしちゃったことがあって……犬端さん「ソフトマシーン」って知ってる?

 

 ……?(全然知らない)

 

 60年代から70年代初頭に活躍した、イギリスのプログレというか、ジャズロックのグループなんですよ。ぼくは名前くらいは知っていたけれども、あんまり聴かなかった。ところがそのソフトマシーンがいま人気があるらしい。そのグループの人たち以外にも、カンタベリー地方を中心に人脈をもちセッションなどをやったりしていた「カンタベリーミュージック」とよばれる一群の人々がいたらしい。いろいろ話を聞いてみるとキングクリムソンとか当時メジャーだった人たちともそれなりのつながりはあるそうですけれども。「カンタベリーミュージックの特集」なんていう本も出ていて、卒論でそういうのをやってみようかなあといっている学生がいる。

あと、イエスですね。イエスは知ってます?

 

 それは知ってます。

 

 イエス、いまけっこう人気あるみたいですよ。若者に。

 

 へえええ。

 

 ただ「若者たちに人気がある」といっても、ロック聴く若者自体がもうだいぶマイナーになってきていますからね。

 

 自分の知っている範囲のことをいえば、このあいだ20代前半の知人に、ロバートジョンソンという1920年代のブルースミュージシャンを教えてもらった。「山崎まさよし好きならこれも好きでしょう。おすすめです。」みたいな感じで。その知人にとって、「アコースティックギター1本で信じられような演奏をする」という点で2人が「等価」なんですよね。楽器が進化したり、演奏方法が進歩したりというような像はもっていない気がする。

 

 進歩っていう感覚が全体に消えたことによって、ちょうどレヴィ=ストロースが文化人類学でやっていたのと同じようなことがいまの日本でも起きている気がする。どの文化も等価である。音楽でいえば技術的にどうのこうのいうことは関係なくて、CDに録音さえ残っていれば、どれも等価にアプローチすることができるわけなんですよね。ある面ではいいことでもあるんだけれどもね。でも、歴史的な進展の感覚が失われていることを伝える顕著な一例ではあるよね。

 

それともう一ついえるのはね、80年代は全体に景気が良かったので、わりと能天気な雰囲気があったでしょう。

 

 そうそう。バブル手前の時期ですからね。

 

 犬端さんくらいのときから、大学生でもけっこうおしゃれなかっこうしてましたでしょう。

 

 同年代の人にしかわかんない話だろうけど、イタカジ(イタリアンカジュアルの略?)とかいう言葉が流行って、そのあたりのブランドだと「そりゃただのジーパンでしょう」みたいなものでも信じられない値段で売られていましたね。物価全体がいまよりも高かったし。で、学生でもけっこう高いものを無理して買っていました。わたしも含め。丸井の分割払いなんかで。「高いものほどかっこいい」っていう雰囲気があったように思う。

 

 うん高けりゃいいっていうのはあったよね。でも、いまはあまりそんな感じじゃなくなったよね。あいかわらずブランド品は売れるし、そういうブランドもの買う人もいるけれども、学生なんか金ないなりに、けっこうおしゃれしているよね。

 

 ものに対する感性については、昔よりも……というより昔の自分よりも、はるかによいなと思うことが多いですね。自分なりの意味づけや価値づけがちゃんとできているというか。同じようなジーンズとかシャツ着ていても、それぞれ自分らしいニュアンスを出していますしね。そういうように、自分たちのころよりもはるかにセンスがいいな、と思い始めたのは1990年の後半くらいからだったような気がします。

 

 おしゃれすることが自然だよね。高いものも買うかもしれないけれども、みんな自分なりにおしゃれができている。そういうのはいい面ですよね。

で、それはそれとしてですね、何がいいたかったかというと……

あのころはすごいバブルで、バブルが崩壊するまでは景気よかったじゃないですか。でも、いまの1820くらいの子たちっていうのは、もう気がついたらずっと日本は景気が悪かったというような世代なんですよね。

それで、どの程度事実として階層化が進展しているかははっきりしないけれども……たまたまある人は恵まれている。家庭も豊かだし、友達も多くて楽しそうにしている。でも、自分の場合は、たまたまなんの理由もないのに、お金もないし友達も上手につくれない。

そういうように、どうしようもない偶然性のもとに生きているんだという人生観がけっこう強くなっているんじゃないかな。

 

 自分の境遇を自分自身の努力で変えられるという実感がもてないということですか?

 

 うん。そんな感じになっていると思うんですよ。

ぼくの「社会の現象学」の基本テーゼからいえば、社会はいっぽうでは客体的な環境としてあり、自然環境と同じように生の条件を形づくるものとしての側面をもつ。でもそのいっぽうで、社会は「われわれ」が主体的に形成していくものでもあり、必要があれば「われわれ」の力で改編していくこともできる。……そのはずなんですが、個々人が多種多様な趣味や価値観に即してライフスタイルを形づくっていくことが定着し、さらに歴史意識も希薄になっていくなかで、「われわれ」という感覚がどうしてもなじめない。問題があればみんなで力をあわせて解決できる、ということも実感できなくなっている。いまの若い人たちは、そんな状況におかれているんじゃないかな、と思います。で、そうした状況をふまえて……

……といいながら、時間を見てみると。あら。

 

 そろそろ(合宿の集合場所に)行かないとまずいですね。おしいな。

 


「社会の現象学」の二つのねらい

 

 ……なので、ここでいったん話をまとめてみましょう。「社会の現象学」は、まず、「現象学」でありますので、「社会」というものが実存一般に対してもつ本質的な意味を取り出していくことが基本になる。でも、今回の連載では、それだけにとどまるのではなくて、そうした作業をしてくこと自体の意味を考えてみたい。とくに現代の若者のことを念頭に置きながら、実存にとって社会という項目が、どういう形で必要であり、どんな意味があるものなのかということを明らかしていきたいと思っています。きょうの話の最初に、だいたい二つのねらいをもって連載に臨みたいといいましたけれども、それがまずひとつめになります。

 

それともうひとつ考えていることがあります。そうした現代の実存にとっての社会の意味をふまえたうえで、いま、社会に関する言説、社会思想が果たしてどういうものになっているのかということを見てみたい。実存にとっての社会のポジティヴな意味をきちんと育てるようなものになっているのかということを考えてみたい。その中に、この前の語りおろしで話題に出た社会構築主義も入ってくると思います。社会構築主義を含めて、いまの多くの社会思想の源泉になっているのは、デリダやフーコーであり、あとはヴィトゲンシュタインですね。ポストモダン+ヴィトゲンシュタインという流れが、人文社会科学全般に広がっている。

 

ぼくは、これまでもフーコーの思想に対して、「こういうところはまずいんじゃない」ということを、断片的には語ってきました。でも、『監獄の誕生』だとか『性の歴史』ですとか、そうしたフーコーも著作にきちんと内在したうえで、その功罪をきちんと整理してみたいと思う。彼があのような語り方を作り出したことにはなんらかの積極的な意味があると思います。それをきちんと取り出したうえで、それでも、ぼくらが社会を考えるときのツールとしてみたときに、こういうようなところはまずいんじゃないかというのをはっきりさせたい。それをなるべくフェアーにやりたいと思っている。ぼくはフーコーという思想家に対しては敬意をもっています。でもこれまでは、批判面のほうを先にいってきたきらいがある。だから、今回の連載では、功罪の両面をちゃんと見取りながら、フーコーの論をきちんと検討してみたい。それをふまえたうえで、現代の社会思想のいくつかの論の検討に進んでいくということを考えています。それがもう一つの柱になるかと思います。

 

 ……もうほんとに時間ぎりぎりですね。ごめんなさい(結局昼食をとる時間がなくなってしまいました)。ありがとうございました。

(そして、ダッシュで合宿会場へ)

 

2日目)

ナショナリズムとニヒリズム

 

 ほとんどオールナイトで議論、という感じで盛り上がったフッサール合宿も無事終了しまして……昨日と同じ、川崎駅ビル内の喫茶店に来ています。もう少しきのうの話の続きがしたい、というわたしのわがままな願いを快く聞き入れてくださった西さんです。いまごろ竹田さんたちと、おいしいお昼ごはんをがっちり食べていたかもしれないのに(ふたりでスパゲティーを食べています。それはそれでけっこうおいしいけど)。ありがとうございます。

 

さて。「ウェッブちくま」で新しくはじまる「社会の現象学」の構想についてのお話でしたよね。若者たちがおかれている現代社会の状況をふまえたうえで、「社会」について考えることの意味を明らかにしていきたい。そして、生産的な議論を生み出しているとはいえないいまの社会思想を、その源泉にあるフーコーの思想を吟味しなおしながら、再構築していくことをめざしたい……というお話をおうかがいしていました。でも、現代の若者たちをめぐる社会状況のことをいろいろお話しているうちに時間が来てしまって、あ……おもしろいのに残念という感じでした。そのあたりのこともう少しだけお話してみたいです。

 

 ほんと一夜明けて……っていう感じですねー。

えーと。昨日はぼくがであっている学生たちのことを実例にして、ぼくたちのころと似ているところや、少し違っているんじゃないかということを話したんだよね。今日は犬端さんが出会っている若い人たちのことも聞かせてもらえます?会社で出会っているいちばん若い人たちの場合はどう?でも……教育関係の出版社ってそもそもまじめな人たちが多そうだよね。

 

 そうですね……仕事のうえで、ある程度社会的な視点から考えることが求められる場所でもあるので……若いひとたち一般の状況からは少し離れているかもしれないです。大上段に立って政治とかの話をあまりしたがらない傾向はあるけれども、そのことは、昨日のお話にもあったように、ぼくたらの世代にしても同じようなものだし。それに、必用な場面では、教科書問題ですとか靖国問題ですとか、一定の歴史的な知識をふまえたうえできちんと話せる人もいます。自分自身の日常的なよしあしの感覚に立脚したうえで社会問題を考えていく姿勢をごく自然にもっている人もいて、共感したり感心したりすることが多いかもしれない。

 

ただ、直接職場のなかに限ったことではないけど、むしろ同世代か、ないしはもっとうえの年代の人たちの社会をめぐる発言の中に、「なんだよそれは」と感じてしまうものが混じりこんでいる機会が増えている。……いまの若い人たちには公共的な感度が欠落している。だから、教育によって「われわれ意識」を注入していくことが必要だ、というような。例の「あたらしい歴史教科書をつくる会」の動きなんかにしてもそうだと思うし、自分たちの日常的感覚から乖離したところで「われわれ意識」を無理矢理打ちたてようとする粗雑な議論や、精神論みたいなことを耳にすることが増えている。

 

 なるほど、わかりますね。愛国心だとか、そういうところから「われわれ意識」をむりやりにこさえていこうとする動きがある。あれはたしかにむかつくものだよね。

そういうように、愛国心をもちだせばいまの状況がもうちょっとまとまるんじゃないか、という動きもでてきているし……逆に左翼は左翼で、アメリカを中心としたグローバリゼーションを批判し、それに追随する日本を叩くという「あらかじめの前提」のもとで同じような議論を繰り返している。

 

そういう状況で、多くの人たちが、こういうところでならば納得できる、という社会に対する考え方の道筋をだれも示すことができていないことがあって、それは深刻な状況だよね。

 

そのことにも関連するんだけれども、最近、高橋哲哉氏の『靖国問題』という本を読みました。とてもよい本だと思った。事実をきちっと調べて整理して書いてあって、現代思想的な言葉を持ち出すこともしていないですね。

……靖国神社は弔うための施設というよりも、むしろ戦争ためにいのちを失った軍人たちを顕彰するための施設であり、いわば戦争へのモチベーションを高め、維持し続ける装置として機能してきた。近代国家は、絶えず侵略戦争をし続けるものであり、日本以外の国も無名戦士の墓などという施設をつくっている。そうした施設と同様のもとして靖国は存在してきたのだ。靖国が死をいたむための施設であるということ自体が誤解であり、したがってA級戦犯を分祀すればよいという問題ではない。……だいたいそういう筋であったかと認識しています。

で、そこから……近代国家は常に侵略性と切り離せないものとしてある。だから、今後、そうした近代国民国家をこえるあり方を模索していかなければならない。そのためには、憲法9条に掲げられた非戦の誓いをもう一度確認して、自衛隊を含めて軍備を放棄し、「戦争をしない」ことしっかりと打ち出して行かなければいけない。かつ、そうした歴史的な認識を、みんなできちんと共有していかなければならない。……そういう結論が導き出されている。

 

靖国神社がそういう施設として機能してきたという点に関しては、基本的にはその通りだろうと思います。いろんなことを教えてもらったし、いい本だった。でも同時に違和感も残りました。

というのはですね……明治維新後、日本が何度も戦争を重ね、まず台湾を征服し、韓国を併合し満州をだんだん自分のものにしていったということが、植民地支配以外のなにものでもないとはぼくも思います。でも、当時戦争を闘った人たちには、自分たちの国を守るために闘っているんだという意識があったと思う。実際に日本に開国を迫り、不平等条約を押しつけてきた西欧列強が非常に強力であったからこそ、それに対抗しようとして明治維新という改革をなしとげ、近代化を遂行してきたわけですものね。なんとかして自分たちの国を守らなくてはいけないということで。で、安全を確保するためには、清やロシアが、韓国とか満州あたりにすごい力をもつことになるとまずいという状況判断があったのだろうし、そうしたそれなりの日本人としての戦争に対する意味づけがあったわけですよね。

もちろんそんなことをいったからといって、侵略されたほうの側が許すわけがないですよ。たしかに客観的にみればやったこと自体は侵害ですから。でも、それをやってきてしまったことにも、それなりの背景なり理由なりというものがある。それをよく了解したうえで、やはり問題があったのではないかというふうに語っていかないと、対立する歴史観をもつ人たちとの議論が成り立たなくなる。ナショナリストたちは、日本はそれなりに理由があって戦争をしたのに、負けてしまったので一方的に東京裁判で裁かれ、ある種の人びとはA級戦犯にされてしまった。憲法も押し付けられた、という歴史像をもっている。そういう考え方を根強くもっている人たちが実際にいるわけです。そうした思いがどのように形づくられているのかということをよく理解しないまま、ただナショナリズムはいけない、近代国民国家は侵略戦争を招きいれる悪です、という主張を繰り返すだけでは、互いの対立が深まるばかりだし、生産的な議論が展開する場が生まれてこないようにと思います。

 

 高橋哲哉さんの本はぼくも読みました。衒学的なところがなく、表現が分かりやすくて主張も明快だし、好感をもちました。ただ、いま西さんもいっていたように、ナショナリズムが生まれてくる心情的な背景をもう少し踏まえていくことが、歴史観の対立を解きほぐして議論を一歩前に進めていくためには必用なんじゃないかな、という印象は残りました。



よみがえれ、「社会思想」

犬 それに関連しつつ、少し話をもどすんですが……昨日からのお話で、現代の若者たちが、自分自身が直接触れている身の回りの世界にしかリアリティーを感じられない、社会一般というものと、自分の実存をどう関係づけるかということに対してイメージがもてない状況にある、ということが出ていましたよね。

でも、自分自身のまわりにいる20代前半の人たちをみてみると、昨日も話題に出ていたように、音楽だとか、あるいは映画とかアニメであるとか、対象そのものは特殊だし限定されたものかもしれないけれども、そうした興味対象を共有し合える仲間たちとのあいだでは、けっこう互いどうしのよしあしを語り合い、深く思考し合うゲームを展開しているように見受けられることもあるんですよね。

 それは会社の若い人たちとしゃべっていて感じること?

 

 そうですね。音楽ですとか、映画とかアニメですとか、自分たちが興味をひかれていることを話題にしながらそのなかで、人やものごととの関係についてけっこう本質的な思考を取り出しているなあと思うことがけっこうあります。それに、さっきも話したように、それが求められる場面では、社会問題についても自分なりに語る言葉をもっているような人もいますし。

たぶんこうした若者像は、たまたま出会い、好感をもちながら接している何人かの知人を通してできたもので、一般性をもつものとはいえないかもしれない。でも……あらかじめ前提にできる価値観や通念を共有できない時代、相対主義的な気分が蔓延している時代のなかで生きてきたことで……まず自分自身の内在を足場に考えてみることにしか出発点はないし、しかも人と語り合うプロセスを通さないと自分の考えに対する確信は生まれない、という「現象学的な発想」を、ごく自然に深いところから受け止められる感性を身につけているということも、けっこうあるんじゃないかな。竹田さん、西さんの朝カルの講座なんかで出会う若い人たちを見ていても、そういうことを感じてしまう。ぼくが講座に通いはじめた10年くらい前と比べても、みんなの理解のレベルが格段にあがっているように思いますし。

ですから「社会」についての考察にしても、きちんと考えていける場所やきっかけがあれば、今後よい形で展開していく可能性もあるんじゃないかなと思うんですよね。

 

 そうですね。考える場所やきっかけがあれば。

例えば、9・11テロからアフガン戦争やイラク戦争などにしても、いま自分はとくに食うのに困らず、直接戦争のおそれはないとしても、同時代のこの世界の中でそうしたことが起こっていて、日本という国もその秩序の中に組み込まれている、ということはありますし……どう考えたらいいんだろうということが、けっこうそれなりに気になっている若い人たちもいると思うんですよね。

環境問題なんかにしても、ほんとにこのままの生活をずっと続けていけるのかなとかね、そういうレベルでなにかを感じていることはあるだろうし、そういうこととまったく無縁に生きているはずではないと思います。

ただ、上の世代の人たちが、そのことをどう考えていけばいいのかということについての語り口や考え方を示すことができていないよね。たしかに。アメリカが悪いんだとか、グローバリセーションに問題があるんだとか、そういう、ある種の左翼的な、定型化された語りじゃない方向をどうつくっていくかということが今後の大きな課題になると思う。

 

ポストモダン思想以降、マルクス主義のように世界を包括的に説明する「正しい世界認識」が壊れちゃって、そういう信仰がもう成り立たなくなってしまっている。それでも、「これはおかしい」だとか「こうあるべきだと」とかいう思いは、人の中にあるわけですよね。そのとき、自分自身の考えを、肯定否定を含めて応答できる形で出して、そのことによってより納得できる考えをつくりあげていこうとする発想をもてないとしたら、この間話題にした一部の社会構築主義者たちのように、自分の「正しい」考え方をどうやって広めて、多数派を獲得するかということになってしまいますよね。

 

 「社会構築主義」はいかにもポストモダン的な相対主義の語り口をしていながら、その実で真理主義的な自分自身の心情を自己了解できていない……というようなお話をしましたよね、前回。

 

 そうそう。世の中わからん連中が多いけど、わしらがいちばんわかっている。じゃあ、もうどうやって多数派を獲得するかということだけが問題だ、みたいにね。

 

でもそれでは、社会思想というか、社会について考える意欲がそがれていきますよね。「社会の問題なんて所詮なんとでもいえることなんだ」「結局人の数をどうにかすることしかないんだ」という考え方になってしまうんだとしたら。

「社会についての大事な考え方を、こういうふうにしていけば合意がつくりだせる可能性があるんだ」という実感がもてないとすると、社会思想はごく一部の人しか入れない狭いゲームになってしまう。「社会学の中にも、こんなにさまざまな面白い見方がありますよ」という姿勢で、「知のおもしろさ」を競うゲームに逃げ込むか、ないしは、他者との共通了解や普遍性を顧慮することなく、どうやって多数(ヘゲモニー)を獲得するかとるかという発想になってしまう。社会思想のゲームが痩せ細ってしまうわけですよね。いま、けっこうそういう面があると思うんですよね。

 

 で、そのように、それぞれの内在に定位しながら、社会に対する語り口をつくりあげていくことができていないものだから、愛国心教育みたいなのが上からストンと降りてきてしまったりもする。

 

 そうだね。ああいうのは制度を握っているひとたちが出してくるものだから。ぼくもそれに対しても本質的な批判をしなければいけないなと思って、考えてみたことがあるけど「教育をテツガクする」の関連記事をご参照ください)。

そうしたことをいろいろ考えてみても、やっぱり社会思想の建て直しは、いまほんとうに必用ですね。「社会の現象学」ではそれをやらなくちゃいけないと思う。実存の場から社会の意味を考えることを土台にして、社会思想そのものを原理的な編みなおしていく。その作業がほんとに必要だと思います。