W  現代の私たちがめざすべき“公共心”って、どんなものだろう?

     「新しい公民教科書」の主張する公共心 について検証してみる


 扶桑社の「新しい歴史教科書」が話題だが、その姉妹編の「新しい公民教科書」のほうを読んでみた。国家と個人の関係についてどのように書かれているか、調べてみたかったからだ。

 この本も他の教科書と同様に、まずは「民主主義と人権」の思想が現代の基本的な価値となっていることを述べ、さらに日本国憲法の条文を詳しく説明していく。しかしそのさい、以下の点を強調しているのが特徴となっている。

 @「民主主義と人権」の意義よりも問題点が強調される。――他の教科書では、これらを歴史的に人類が獲得してきたきわめて重要な価値と認めた上で、人権の思想を社会生活のなかで生かすべきこと(たとえば故なき差別の撤廃)が述べられるのに対し、「新しい教科書」では、それらの価値を認めつつも、人権の思想が私的利益のみを追求する結果になりがちであることや、民主主義が衆愚政治になりがちであることがくりかえし指摘される。

 Aそこから、「私」よりも「公」を重んじる必要が強調される。そして、公共的精神をもつ「公民」になるためは、自国の歴史を学ぶ必要、国旗・国歌に対する愛着(=国に対する愛着)の必要が語られる。

 この考え方によって、公共心は育つのか。そもそも「私」を押さえて「公」を大切にするのが、現代の私たちがめざすべき公共心 といえるのか。このことを今回は考えてみたい。

 まず、人権の思想が公共心の解体を招く、という見方に反論したい。近代の人権思想は、人が私的な幸福を自由に追求することを「権利」として認めるところから出発する。そして、私の自由と幸福のためには、他者のそれを認めねばならなくなり、相互に自由が衝突しないように一定のルールが必要となる、という順序で考えていく。

 つまり、「公」(地域や国家)のために「私」の自由を押さえるのが公共心だ、という考え方をとらない。むしろ私の自由のためにこそ他者の自由もルールも尊重しなくてはならない、という考え方をとる。近代的な公共心は、自由や平等の権利が社会の至るところで実現されているかどうか、また社会の法律が「対等な人々の共存」にとって真に必要なものであるかどうかを配慮するような心構えなのだ。それはまた、ただ法律に従うのでなく、不都合な法律があればそれを改変してよりよいものにしようとするような心構えでもある。

 ぼくが見た他二社の教科書(展示会本)は、「ルールの必要性」とともに「ルールを適切に変えていく必要」についても述べているが、「新しい教科書」はその点の言及がなく、「自分の自由をある程度までは犠牲にしてもやむをえないという心構え」(市販本p.34)だけが述べられる。大日本帝国憲法における「公益優先」の危険を身をもって体験したのが私たちの歴史なのだから、法律が自由の制限を求める場合、そこに十分な理由があるかどうか考える態度が大切であることを教えるべきなのに、と思う。

 また、「新しい教科書」が、公共心育成のためには歴史に学べ、といっているのも、よく理解できない。明治維新の元勲たちの献身的行動を想定しているのかもしれないが、しかし、公的な事がらへの「献身」はあくまで個人の自発性にまかされるべきものであって、教育の場面で重要なのは、基本的なルール感覚を実感的に体得できるかどうか、のほうである。

 不必要なルールを廃し新たなルールを提案して皆を説得する。その過程を通じて、自分たち(クラブ、クラス、学校等)が気持ちよく活動するためにはルールが必要であるという実感が得られる。このような実感のうえに、地域の問題や広く社会の問題に関心をもつような心構えが育っていく。――こうしたことが教育においては本筋であるべきだ、と考える。