もぎたて語りおろし(2005/8.23出荷)



「社会構築主義」と「考えあう喜び」について(2005/6・19収録)

 
……西研   
 犬……犬端(管理人)


「社会構築主義」の問題はどこにある?



 ここは新宿ルノアール。昨日西さんは新宿朝カルで竹田青嗣さんとの講座のために上京。今日はちくま新書として刊行される、社会学者・菅野仁さんとの対談本の打ち合わせがこれからあるんですよね。いそがしいスケジュールをぬっての語りおろしです。


 菅野さんとの話では、社会学というものはわれわれが生きるうえで、どのような必要性や意味をもっているのかということがずっと主題になっています。で、それとも関係するんですが、今日は「社会構築主義」についての話を少ししてみようかなあと思っています。

いま「社会構築主義」といわれる一つの考え方のスタイルが、社会学や歴史学など社会科学や、心理学の領域なんかで非常にもてはやされている。もとはウィトゲンシュタインやデリダやフーコーなどの考え方が後ろ盾になっていて……一言でいってしまうと「言語の外の現実はない」という発想を基本にしているんですよね。

たとえば児童虐待というような社会問題があったとします。でも、「社会構築主義」では、もともとそうした社会問題が客観的にあるというのではなく、「これは問題である」とクレームをつける人がいて、それがマスコミや、学者や専門家たちのなかで受け止められ、さまざまな言葉のやりとりを生んでいくなかで「問題化」されていくのだ、というとらえかたをしていく。で、どのような発言がどんな媒体――雑誌なりなんなり――にどんな形であらわれ、それに対する応答がどんな形でなされてきたのかというようなことを追跡の対象としていくわけです。

たしかにこれはおもしろいですよね。問題が客観的にあるというのではなく、それが問題とされるプロセスに着目することは、意味がある。たとえば、子どもに対するある種のふるまいは、かつては虐待ではなかったかもしれない。人びとの“感じ方”の時代につれての変遷や、言説のやりとりの過程を経て、虐待とみなされることになっていったのかもしれない。そういう点に着目することは、ひとつの有効な社会学の実践になりえます。

でもなんていうのかな……ぼくら、普通は「言説のレベル」と同時に「言説を可能にした社会的な事情」ということを考えますよね。「言葉にされて問題化されている」というレベルのほかに、そうして問題化されるような社会的な現実そのものというか……現実的な事態があるというように思っているわけじゃないですか。

つまり実証的な社会学者だったら、「どこまでを児童虐待とするのか」ということの定義の困難はあるとしても、なんらかの形でその範囲を限定するならば、実証的な社会調査の方法をとることで実態としてその数が増えているのか減っているのか等々についてそれなりに確定できる、というように考えているはずです。

でも「社会構築主義」というのは、そのような実証的な方法を使うことでだれもがそれなりに納得する水準の現実認識をえられるんだ、という考え方そのものに対して疑念をもっているのです。「“問題”はあくまで言説のやりとりのなかで形作られる=構築されるのであって、客観的に問題があるのではない」ということになるからです。

確かに、「統計」という方法についても昔からよく疑問が出されてきています。アンケートの作り方ひとつで全然結果が違ってきてしまう、調査する人の仮説や調査手法によって事実が捏造されてしまうのに近い、というような話がよくされる。そういう面はたしかにあるでしょう。でも、それでは社会調査という実証的な方法をぼくらがそれなりに受け入れてきたことに根拠がまったくないかというと、そんなことはないはずです。

「実験」と「観察」といった自然科学的な厳密な実証とは違うとしても、アンケートをしたりいろいろ統計的な手法をとったり、という社会調査の手法を通して、われわれが生きるこの世界について一定の共通なことがらを確定=共有できるはずだということは、社会構築主義の人たちにしても、ほんとうは無意識的には前提にしていると思うんです。

現象学的に考えれば、それは明確なことです。〈さまざまな人がいてそれぞれの見方は違っても、同じひとつの世界、ひとつの現実を生きている〉という「確信をだれもがもっている、と現象学は主張します。フッサールのいうところの「世界の一般定立」ないし「世界信憑」のことですよね。きのう朝カルの講座でちょうどそのことやったよね(犬端も受講していました)。

「いや、そんなことはない、『ひとつの現実』などというものはない、それぞれの見方や言説があるだけだ」と言い張る人もいるかもしれない。しかし、じっさいには、「一つの現実があって、そのなかを各人は生きている」と必ず考えているはずです。

少し説明してみますね。なんでだれもがそういう「確信」をもっているのか。いちばん大きい理由は、『哲学的思考』(筑摩書房)でも書きましたけど、“知覚事実に関してはだれとでもほぼ一致が得られる”ということにもとづいている。たとえば、「ぼくはこのテーブルがクリーム色に見えるけど、犬端さんはどう?」と聞いたら、犬端さんは、「はい」といってくれますよね。

 そうですね。ただ、「同じものを見ている」という前提のもとで、ぼくにはクリーム色というよりは白っぽく感じる、と言ったりするかも。


 ですよね。それぞれの見方のちがいはあるとしても、しかし、同じものについてのそれぞれの感じ方のちがいがある、というふうに私たちは思っているはずです。

ただ、クリーム色という言葉が通じない場合もありますね。つまり言語が異なった人間どうしで一つの事実を確認しあおうとする場合には難しいこともある。たとえば、こんな話がありますね。〈「あれはなんだ」と聞いたら、相手が「カンガルー」と答えた。「なるほどカンガルーという動物なのか」と思った。でもじつは、相手のいうカンガルーという言葉は「知らない」という意味だった〉というような。

でも、たとえばジョン万次郎が、アメリカに流れ着いて、英語をまったくしらないんだけど、身ぶり手振りで子どもたちと意思疎通をしながら言葉を覚えていったなんていう話もあるよね。


 それはもう、ジョン万次郎ときたら有名です。



 えーと要するにですね、何を言いたいかといいますと……言語を共有していない場合には確認するのにいささか困難はあるかもしれないが、「同じものをみている」ということ自体は疑っていないわけですよね。それぞれに見え方は違うとしても。たとえば文化によって虹の色の見え方が違ってくるという話なんかもあるけれどもね。

だって犬と人間の間でもそうした信憑が成立しますからね。家の外で犬がほえて、何があったのかと思うと、人が来てたりだとか。つまり、犬は話せなくても、その「挙動」を通して同じものを見ている、同じ現実を生きているんだ、という信憑が自分(人間)のなかに成立する。

ところで犬って、人間と同じように色が見えるのかな?


 そうですね……犬との間で色のことが重要になる局面ってあんまりないじゃないですか。「赤い首輪と青い首輪のどちらが君の好みかな?」なんてことにはならないし。だから、そうしたところはお互いの事実認識を確認しあう必要が求められない部分なのかもしれませんね。でも、もろもろのことに関して「同じ世界」を前提としながらコミュニケーションを成立させているという実感はありますよ。悲しそうにないているので何かと思ったら、飲み水の皿が空になっていたり、えさをカラスに食べられていたりですとか。


 でしょ。だから犬との生活が成り立つわけですよね。そういうふうに、見えているものや状況に対してどう反応するかということ通して、同じ世界を生きているんだということを疑いようのないものだと思っている。で、そうした知覚事実に関しては、とくに言語を通して確かめ合えればほぼ共有できるということがある。そういうことが「わたしとあなたは同じ世界に生きている」ことの信憑をつくっている。これはひとりひとりの中でもう根深いものであるわけですよね。

そういう同じ世界を生きているという前提があるからこそ、歴史学にしても「事実」を無視できない。なるほど歴史はひとつの解釈なので、それぞれが異なった歴史像を織り上げるようなこともあるわけですが、「これこれこのことは一定もう認めなくてはいけない事実だ」ということが打ち立てられ、少なくともその事実に基づいたうえで考察していかなければいけないということが要求される。それはやっぱり、皆が同じ一つの世界に生きている(生きてきた)、という信憑があるからこそです。

ところが、「社会構築主義」のように言語内的にすべてが構築されるということになると、多様な歴史観が出てきたとき、どっちが正しいかということは結局言えないということになってしまいかねない。「わたしの場合はこの立場のほうを選びます」みたいな話になりかねない。歴史の見かたとしてどちらがより妥当であり、ほかの多くの人々をも納得できる包括性をもったものであるのか――見方の対立があるならばその対立がどこからきたのかを解明しつつ共有できる歴史像の構築をめざす――というような議論が展開できなくなってしまうわけです。


でも、そうした「社会構築主義」を標榜する人たちが、実際には自分自身が選んでいる立場こそが正しいという信念を抱え込んでいることが往々にしてある。そうすると、対立する価値観を解きほぐしながらどうやって共通了解しうる歴史観をつくりあげるか、ということよりも、自分の正しい立場を政治的に実現するためには、いかにして多数派工作、ヘゲモニー闘争をするかが大切、というような結論になってきてしまう。理論的には相対主義の立場をとろうとするのに、実際には、われこそは正しいという真理主義がそれに奇妙にくっついてしまっている。そういう実態があると思います。社会構築主義を唱える人がみなそうなっているとは思いませんが。


 「相対主義」と「真理主義」がなんでそんなに都合よくくっついちゃうんでしょうかしら。


 うん……もともと、弱者や被抑圧者といった苦しめられたものをどう解放するか、という関心が強くあるからなんでしょうね。そのいっぽう、構造主義やポストモダン思想を通過するなかで、たとえば歴史学なり社会学なりといった知の営みは、そもそも、基本的に対等で自由な判断する力と意欲をもった人たちがより説得力のある考え方を競いあいながら、共有しあおうとする、そういうものなのだ、という大前提そのものが壊れてしまっている。なので、自分自身はこの立場を選ぶ、これは正しいのだから、必要なのは多数派を獲得していくための政治的な抗争しかない、という感じになってしまっている。


  最初に「社会構築主義」は、ヴィトゲンシュタインの言語ゲームの考えを背景にしているというお話をされましたよね。これまでの西さんとのお話を通して、言語ゲームという発想は、多くのひととの間に営まれていくフェアな言語ゲームを基盤にしてより普遍的な価値を構築していこう、という具合に展開されるとしたなら非常に有効性をもつものだという像を自分の中にもっていたんですね。で、そういう発想がなぜ相対主義や、いわんや真理主義的な考え方に接近してしまうんだろうと不思議に思いながらお話を聞いていました。でも、考えてみれば、それはいわば現象学的に最良のエッセンスをくみあげた形での言語ゲーム論であり、もともとのウィトゲンシュタインの考えには、客観的であるとみなされているようなものは、実はすべて言語ゲームの結果としてたまたまつくりあげられたもの、いわば慣習的なものにすぎない、とするような視点があったんですよね。そういうところには問題があるし、もっと実存論的な視点と重ね合わせていく必要があるんだよな―というお話を西さんがなさっていたことを思い出してきました(過去の語りおろしをご参照ください)

そうすると……その「社会構築主義」が、主観に定位した内省によるものごとの本質的理解を禁じ手にしてしまう構造主義の発想と、すべては慣習によって形成されているものにすぎない、とする言語ゲームの「負の発想」を重ね合わせているのだとしたら、それはもうどんどん空しい方向につき進んでいってしまうような気がする。


 ですよね。社会構築主義のすべてを否定するつもりはないのです。それはウィトゲンシュタインやフーコーが人文社会科学全般に与えた反響であって、そこには新しく有効な発想や手法も含まれているからです。だがしかし、「主観客観問題」ないしは「相対性と普遍性の関係」についてきちんと考え詰めているとは思えないんですね。もともとのウィトゲンシュタインやフーコーもその点を考えつめていないわけですが。ともあれ、この話は、いずれどこかできちんと文献に即して論じてみたいですね。

ぼく自身は、これまで近代哲学をおさらいするなかで、そもそも社会をめぐるさまざまな思考が生み出されるようになったのは、「わたしもあなたも彼も同じ一つの世界を生きる同じ人間だ」という発想が大前提として成立したからなのだ、ということが見えてきた。生まれや身分が違えば別の人、ということではなくて、どんな身分であろうと文化が違おうと同じ人間である、という基本的な発想ですよね。「同じ」人間の「同じ」というのがどこまでをさすのかというのは確かに難しいことかもしれないけど、少なくとも泣いたり、笑ったり、喜んだりして生きていて、馬鹿にされれば悔しく屈辱に感じるということに違いはない。近代社会になって、そういう「同じ」人間たちが社会をつくりあげているのだという考え方がうまれたときに、はじめて社会の秩序というのは、王様がいて貴族がいて民衆がいてというような固定的なものではなく、お互いどうしがそれぞれの自由を認め合いながら競いあい、形成していくものなんだという像が出てくるようになった。そういうふうに社会の見かたそのものが変わっていくようになった。

そのことと社会科学の成立というのは基本的に密接に結びついているはずです。ひとりひとりが対等で自由なはずであるかぎり、なるべく公正な社会であってほしい。一部の人だけが非常に有利で、ほかの人たちが非常に不利な条件に置かれて続けているということはアンフェアではあるまいか。そういう感覚をぼくらのなかにもたらしているわけですよね。それがあるからこそ社会批判ということが成り立っている。

「マイノリティーは抑圧されている」という言い方そのものにしても、「マイノリティーもマジョリティーも同じ人間なのに、なんでこの人たちはこんなひどい目にあっているの」という感覚がその背後にはあるわけです。
社会というのは、現実には完全にフェアなものではありえないとしても、それぞれの人が生きている場であり、“生存の条件”であるからには、なるだけフェアなものであってほしいという思いが、社会を変えようという運動なり思想なりの大前提になっているわけです。

だけども、さっきも言ったように、構造主義やポストモダン思想なんかを通過するうちに、多くの人たちの中でそういった前提そのものが消えてしまっているので……消えているというか、無自覚になってしまっているので、「社会構築主義」のいうような、「世の中には権力というものが働いていて、そのつど強者と弱者というものがつくられていく」というイメージになってしまって、そもそも社会を論じることじたいのなかに「人間の対等」といった理念が孕まれていること、そしてその理念はあまり自覚されないとしても確かに“生きて”いること、が見失われてしまう。しかも、人々を説得して社会を少しずつよい方向に動かしていくことができる、という感覚が薄くなっているので、個々人の道徳的な問題として「いかに自分自身は権力的でない生き方ができるか」ということに終始したり、あるいは「社会は結局は力と力のせめぎ合いなのだから、弱者を有利にできるように力をそちらのほうにもっていく戦略が必要なだけだ」ということになる。

もともと、哲学というのは、基本的に自由な人間たちの集まりということを前提とした言語ゲームなので、この考えはよいとか悪いとか深いとか、充分にいえているとか、そういうようにひとりひとりが判断できる形で考えを提出しようとするわけです。そういうしかたで納得できる考え方をお互いにつくりあげていこうとするのが哲学の、もっとひろくいえば学問一般における理念だと思う。

もし人を説得し、お互いに納得しあっていこうとする必要がそもそもないのであれば、別に何も考えなくてもいいんですよ。ある立場を正しいと決めたら、あとはもうそれをどのように人に印象づけるのかということになり、プロパガンダやレトリックの技術を鍛えればいいということになってしまう。

でも、僕らが考えようとするときって、これは僕だけじゃなくて、いろいろな人間から見ても普遍性や一般性をもつものだろうかということや、ほんとうにこれをいろんなものごとを考えていくうえでの起点としてよいのだろうか、その資格をもっているんだろうかというようなことを、自分の中でつねに吟味しているわけですよね。そういうように自己内対話を重ねているわけです。

なんでそのようなことをするかというと、ほかの人にしてもそうした作業をたどりながらものごとを確認していくのだということが想定されていて、そうした吟味に耐えうるかということを自分の中で前もってやってみているわけですよね。

そういうことがなければもう哲学をやる意味はない。自分ひとりで物語をつくって自己満足するか、ないしはある政治的な立場なりに多くの人を巻き込んでいくための効果的な戦略をつくればいいということになってしまう。

でも考えるということは……「社会構築主義」の人も含めてね……自分だけではなくてほかの人々もこういう考え方ならば納得できるだろうという線をめざしているということが絶対にあるはずなんですよ。それがなくてやっているということはありえない。けれども、そのことが自覚されていない。自覚されないまま、「自由に考えあう人たちの共同体があって、そこで合意がつくられていくというのは近代の夢物語だ」みたいな言い方がされてしまっているわけなんですよね。

でも考える現場で、本気になって考えようとするならば、そのときは、自己内他者というか、自分の中で想定されるさまざまな人たちからみても、自分の考えが妥当性をもつかどうかということの検証をしているはずなんですよ。


 基本的に言説という場において考えるんだけれども、開かれた言語ゲームの中でものごとのよしあしや普遍性をもつ考え方を吟味していこうというのではなくて、常にそうしたゲームの外側に立つことを意識して、一つの言説が、背景にあるどのような権力関係のもとで可能になっているのかということをみとっていこうとする方法なわけですね。社会構築主義というのは。


 そういう面がある。それはフーコーの悪しき遺産ですよね。フーコーの発想というのはさすがにとても鋭いもので、端的にいえば、どのような場面において、どういう言説が許され何に焦点があたるようになったのか、逆に言うとどういうタイプのことにかんしては許されないようになったのかを調べることによって、その言説を取り巻く権力関係を取り出せるようにした。それはたしかに新しい方法だったわけです。でも、その発想だけでいこうとすると、自分の考えないしは言おうとしていることは、どういう権力関係のもとにあるのか、かつそれはどういう政治的効果をもつのか、というような視点しかでてこなくなってしまう。もちろん自分の言うことがどのような政治的効果をもつのかということに対して一定程度敏感になることは大切だと思いますよ。この言葉がどのように人々に受け止められるかということを考えようとする発想をもつということでいえばね。

でも、考えるという営みそのものが、基本的には他の人も納得できる考え方をつくろうとすることを絶対に含んでいる。その限りでは、理念的には「考える人たちの共同体」というものを必ず想定しているわけですよ。それぞれの人たちが自由な、考える主体なんだという想定のもとで、思想(考える営み)は実際には営まれている。そういうことへの自覚がまったくないままでやっていくんだとすると……なんか、もうつまらなくなると思うんです。自分自身が政治的に正しいことをしていると思えることにしても一つの快感かもしれないですけど、でも「これはどう考えてもおかしい」という自分自身の思いを意をつくして語ってみて、それが他の人たちから「なるほどたしかにそのとおりだ」と深く理解され、そのことによって自分自身の中でもほんとうに納得できる強い考え方になっていく……というようなプロセスのなかで得られる喜びというのが、やっぱり知の営みにおいてはすごく大きいものだと思うんですよね。

そういう、お互いに元気の出る考え方をいっしょにつくっていこうとするようなロマンが死んでしまうと、やっぱり全体としてはすごくニヒリズムに陥ってしまうと思うんですよね。

で、こういう「社会構築主義」が、いま人文社会科学をやろうとする人たちにとって必ず通っていかなければならない道、になってきている。そうなると、本気でものを考えていこうとする人にとっては、なかなかしんどい状況なんじゃないかな、と思っています。



『考えあう技術』と「考えあう喜び」

 「社会構築主義」の話ばかりだと少々めいってしまいそうなので、ちょっと話題を変えて3月に出た苅谷剛彦さんとの対談、『考えあう技術』の話もしてみません?

読ませていただいてまず心に残ったのは、「自己」と「個人」を仕分けて考えていけるような発想をもてるようにしよう、というところでした。自分自身の実存を、みんなと同じように生を営み、社会生活を営んでいく「一個人」なんだという視点から見つめなおしていけるようにする。そのことで、素朴な自己主張が対立しあうというのではなく、フェアなルールのもとでそれぞれが「自己」の可能性を追求しあっていけるゲームを展開できるようにしていく。……そうした発想って、それぞれの「実存」を「社会」というステージにつなげていくうえで非常に有効性をもつものだと思いました。

いまの教育現場では、「個性を大切に」という主張と、「公共性への意識を高めることが大事だ」という主張が激しく対立しあう場面がよくあるように思う。たしかに、他者の視点から自分自身の考えやふるまいを見つめなおしていくトレーニングを積ませないで、ただ素朴な自己中心性を開放すればよいという考え方は問題だと思う。でも逆に、公共性への感度を植えつけていくことが大事だということばかりを強調して、個々の実存的な部分を軽視するような考え方にも反感をもってしまう。そうしたなかで、「実存」と「社会」を架橋していくための具体的な指針を見出していける発想を示していただいたように思っています。

同じところに関連して、実存的な部分と役割関係的な部分を峻別して考えようとする発想って、いまの教育現場にはほんとうに必要だと思う……という感想をもった友人もけっこうたくさんいました。


 そうですか、ありがとう。それでまたそうした実存のことにかんしても、社会的な役割に参加するという方向とは別の次元で、それ自体を表現しあい問題にしあっていくというゲームに乗っけることで、ある程度共有可能なものにもなっていきますよね。そうした表現のゲームを展開できる力をもつということも、社会的な能力をつけることとはまた違う側面として必要なことだと思っています。


 そうですね。個々の実存を役割関係、社会関係にどうつなぎあわせて生かしていくかということだけではなく、それに収斂しえない部分についても語りあい、了解を深めあっていけるということが、それこそひとりひとりが喜びをもってそれぞれの生を営んでいくうえでは欠かせないことだし、そういう意味では教育という場での育成が求められる、現代人にとって必要な力ということになる。それって、これまでも西さんが「実存を語り合うゲーム」ですとか、あるいは竹田青嗣さんとの対談(『よみがえれ、哲学』NHKブックス)のなかでは「文化のゲーム」という言い方を通して打ち出してきたことにつながると思うんですが、そうした考え方ってこれまでの教育論のなかではあまり語られてきたことがなかったんじゃないかと思います。

いずれにしてもあの本では、教育を今後どのように営んでいくべきなのかということが、人間存在に対する根底的な理解にもとづいたうえで打ち出されているように思いました。


 そういうふうに読んでもらえればうれしいです。やっている本人としても非常に手ごたえのある対談でしたしね。

苅谷さんとは、バッググラウンドも違うし、これまでそれぞれが取り組んできたことも違うのに、なぜか深い部分で通じ合えるところがある。いったいどうしてなのかな―と思ってたんですが、今回の仕事を通してお互いに共通する部分がみえてきたように思います。

学生時代にしてもぼくらは意外に近いところにいたようです。社会学の先生で折原宏さんという、マックス・ウェーバーの研究で世界的に知られている方がいるんです。ぼくが大学にいたときに(東大の)駒場の社会学の先生として、見田宗介さんや折原さんがいらっしゃった。苅谷さんはその折原さんに師事していたんですね。

折原さんは、ぼくが学生だった七十年代、大学で自主講座というのをやっておられていました。市民が参加できるような自主講座、というのをね。ぼくもいってみたことがあるんですが、そのときはデュルケームの『自殺論』という本を読んでいました。それはたんに昔の社会学の古典を理解するというような講座ではなかった。折原さんの場合、社会学的な視点を身につけることは、市民として自立していくために欠かせない条件だという考え方をもっていて、そのひとつの実践例を先達に学ぶ、という目的でデュルケームをやっていたんです。


で、苅谷さんはその講座の手伝いをしていたと聞きました。いろんな年齢の人たちや、さまざまな政治的な考えをもった人たちなんかも集まっていくるわけですが、そうしたなかで、「相手に通じる言葉をどのように語っていけばよいのか」ということを本気で考えさせられたと言っていました。彼としてもいっしょうけんめい考えたうえでものを言うのだけれども、さまざまな人生経験を積んできた人たちから、「あなたのいうことは理屈としてはわかるけれども、こういうことに関してはどうなんだ」という意見がすぐに返されてくる。そうしたなかで、どうやったらひとびとがほんとうに納得できる考え方や言葉をつくっていけるのかということを、真剣に考えさせられたそうです。

そういう経験もあってか、苅谷さんは、ひとびとからきちんと了解してもらえるような考え方や言葉をどうつくるかということに対してものすごく自覚的なんですよね。で、彼の場合、社会学の「実証」の方法がそのことに直接かかわっている。彼の著書の『教育改革の幻想』(ちくま新書)にも、そのことはすごくはっきりでていると思う。

ところで、あの本を読んで、「ゆとり教育」のなかにみられるポジティブな要素をほとんどとらえようとしていないじゃないかという感想をもった人がけっこういるみたいなんですよね。


 「ゆとり教育」の理念というのは、知識偏重の教育を見直し、実践的な場面も視野に入れた体験型、問題解決型の学習を重視していこうということですよね。ぼく自身も、それ自体はまっとうな主張じゃないかと思っていましたよ。で、その流れのなかで教科の枠組をこえた「総合的な学習」というのが導入されるようになったんですよね。


 そうですね。いまの苅谷さんは、いざ「総合的な学習」をやることに決まった以上、ではそれをどう活用したらよいかという発想になっている。今度の『考えあう技術』の中では、もうそういうような話になっています。というのも、もともと苅谷さんは「総合的な学習」をまったく無意味なことだといっていたのではないんですね。ただし、国のレベルでそれを一律にやるというように決めてしまった場合、それをほんとうに生かしていくだけの条件が学校や教員にそろっているのかということを問題視していたわけです。そういう現実的な条件を無視して導入してしまうのはどうだろうか、ということを基本的には言おうとしていた。

そのほかにも、『教育改革の幻想』では、「『ゆとり教育』が語られる背景には、ひと昔前の過酷な受験競争が多くの子どもたちを苦しめていたというイメージがあるのだが、実際の統計調査の結果では、受験勉強が苦しくてたいへんだった時代では、客観的にみればすごく勉強させられたにもかかわらず、それを苦しいだとか無意味だとか考えていた人はかえって少なかったことが分かる。その事実をどう考えればよいのか」という指摘もされていましたよね。


 そうでしたね。で、そうした事実に立脚した検証から、問題はむしろ勉強することへの目的がはっきりもてないような社会状況にあるのではないか、ということが見えてくるようになる。『考えあう技術』ではそうしたことが明確な視点で論じられていましたよね。


 そうですよね。で、何を言いたかったかというと、苅谷さんの場合、昔の統計などを引っ張り出してきたりしながら、ひとつひとつの考え方がほんとうにたしかなものなのかどうかということを検証しようとしているわけなんです。それは彼の中の、「どのようにしたらほんとうに人を説得する言葉がつくれるのか」という思いに重なっているのだと思う。実証そのものに価値がある、という「客観信仰」からの実証ではなく、実証という方法をとることによって自分の考え方を検証しつつ、より説得力のあるもの根拠のあるものにしていくんだということがちゃんと自覚されているんです。


 自分自身の問題意識がまずきちんとあり、それを人々との間で共有可能なものにしていこうとする動機もはっきりしている……ということですね。『考えあう技術』の中でも「追体験可能性」という言葉がキーワードになっていますが、ひとつの問題に対して、ひとりひとりが自分自身の道筋から確かめなおし納得できるというプロセスを大切にしたいというモチーフは、西さんと苅谷さんのなかで一致しているように思います。



 そうですね。ぼくのやっている現象学……というか哲学一般にしてもそうなんだけれども……は、実証的な学問ではないんですね。いってみれば、ひとりひとりの“追体験的な理解可能性”のみを柱にして成り立っているものですね。


 現象学や哲学は、ものごとの本質、つまり普遍的な意味や価値を、自分自身の実感に根ざしたかたちでつかみとっていくことをベースに展開されていくわけですけど、同時に、他のひとも自分と同じようにこのことを理解し、納得できるのかなという視線は当然繰り込まれているわけですよね。それがクリアーされないと、自分自身の中でもほんとうの確信へとは至らない。

それと同時に……今日の西さんのお話や、昨日の朝カルのフッサールの講座でのお話からそう思ったんですが、……「世界の一般定立」、つまり「一つの世界・現実の中にこのわたし自身も、他の人たちも属している」というごく自然のうちに形成されている世界信憑を、「そういうのは主観的な確信にすぎないものなんだ」というように棄却してしまうのではなく、むしろそれぞれのうちで世界像を再構成、再確認していくうえでのベースにしていこうとする発想が必要なんじゃないかなあ、というようなことを考えたんですよね。そういう世界信憑というのは、それこそイデオロギー対立を招き入れるような共同体的価値観という意味での世界像とは別の位相で成立しているんじゃないかというような気がする。むしろ、価値対立が生まれたとき、そこに還元していくことで妥当性を検証し直せることもあるような、だれにとっても共有可能な「事実」という地平をひらいていくような……そんなもののような気がしています。で、そうした「事実」を「事実」として再確認していくために、実証という方法が要請され、積み重ねられてきたんじゃないかなというようなことを考えたりしています。

いずれにしても、「ひとりひとりが自らのもとでそれぞれの生を形成していく」ことを基本的に条件づけられている近代人にとって、何らかの現実的な問題や互いどうしの意見対立が生じたとき、それぞれどのような形でそうした現実意識なり考え方なりを形成してきたのかということを一から巻きもどして確かめ直していくことで、共有可能なものにしていくことが求められる。西さんと苅谷さんでは、そういう基本的な部分での世界理解と自己了解が共有されている、ということなんでしょうか。で、その反対に、今日のお話に出てきた「社会構築主義」にはそういうことへの自覚がまるでない。


 そのとおりですね! 苅谷さんは政治的にはリベラルな人ですけど、ただ「人権が大事」と言っているのじゃなくて、ひとりひとりがきちんと納得しつつ考え方をつくっていったり、社会的な合意を形成したり、ということを本気でやろうとしている人だと思います。そこのところは絶対に外してはならない、と考えている。それがいってみれば彼の思想の核にあることだと思うんですよね。で、そういう姿勢はぼくと共通していることをすごく感じました。だから、対談やっていても、もともとの出自が違うにもかかわらず、あ、それ分かる!だとかね、すごい勢いでお互いの言葉を応酬することができたんですよね。毎回毎回の対談がすごく刺激的で楽しかった。この本をつくっているとき、犬端さんにもよくそういう話をしていたでしょう。この前苅谷さんと話をしてすごくおもしろかったんだよ、だとか。


 うん。よくおっしゃってました。


 編集者の方もとってもおもしろがっていたしね。


 そうだろうな―と思います。本を読んでいてもそういう躍動感や高揚感が伝わってきますし。そう考えると、タイトルの通り「考えあう技術」について具体的な示唆を与えてれくれる本なんだけれども、同時に「考えあう喜び」についても実感させてくれる一冊になっているのかもしれないですよね。『考えあう技術』というのは。まだ読んでいない人がいたら、ぜひおすすめです。