もぎたて語りおろし(2004/1・8出荷)



「言語ゲーム論」を考える 〜『「心」はあるのか』(橋爪大三郎 ちくま新書)をめぐって

 
……西研  
……犬端(管理人) 


「言語ゲーム論」のカナメにあるものは……

 

犬 今日は、橋爪さんの『「心」はあるのか』(ちくま新書)をめぐって話してみようよ、ってご提案いただいていたんですよね。

この語りおろしで、哲学の、自分自身の感触をていねいに確かめながらものごとの普遍的な意味や価値を追求しようとする「内側の視点」と、「そうしてものごとをとらえている自分」も含めて、人々がおかれている状況を客観的に分析、検証しようとする社会科学の「外側の視点」を、きちんと結び合わせていく方向を考えたい、ということを繰り返しお伝えいただいていましたよね。特に、いま、「客観性」を任ずる社会科学が、対象を分析する自らの方法や、そうした視点から現状を分析しようとする動機そのものについて、「内側の視点」から反省的にとらえなおしていくことが、とても必要なんじゃないか、……そんなお話をしていただいていたと思います。

 

で……橋爪さんが、ヴィトゲンシュタイン解釈などを通して打ち出されている「言語ゲーム論」のなかに、そうしたことを考えていく糸口を見出していこう……ということで、本日のお題をいただいたのかなーと思いつつ……読んでまいりました。

 

研 そうですね。で……この橋爪さんの本を読んでみて、はじめてわかったことがあるんです。ヴィトゲンシュタインって、数列の例をやたら出してくる人なんです。『哲学探究』の中に何回も出てくる。何で数列なんだろうかなって思っていた。

それで、要するに、僕らが言葉を学び覚えるというのは、数列を与えられて、その並び方のルールを「ああ、こうなっているんだ」と気がつくのと同じではないか。基本的に、人が……言葉を知らないまっさらな状態があったと仮定して……言葉を学び覚えるというのは、そんなことなんじゃないか。今までヴィトゲンシュタインを読んでいても、もうひとつよく分からないところがあったんだけども、今回のこの本を読んで、とてもはっきりしたように思う。これは、ヴィトゲンシュタインの思想の核心にある部分だと思います。

 

それまでのヨーロッパの近代哲学は……ヴィトゲンシュタイン自身にしても最初期の『論理哲学論考』の時代はそうだったんですが……言葉を「現実を写し取るための道具」であると基本的に考えていて、言葉自体を問題にするという意識、つまり、「言語が世界を分節している」という意識はすごく弱かったと思うんです。

 

そういう見方を大きくひっくり返した人が、ソシュールですよね。ソシュールは、言語を、世界分節を可能ならしめるものとしてとらえている。『哲学探究』以降のヴィトゲンシュタインも、ソシュールと非常に似ている。ただ、違うのは、ソシュールの場合、言語を「出来あがったところ」から考えている。つまり、われわれが喋っている言葉を整理してみると、差異の体系であるラングとして描けるよ、という発想ですよね。ヴィトゲンシュタインの場合も、ソシュールと同じように、言葉が差異の体系として、他の言葉と連関を保ちながら機能していることや、世界分節そのものに密接に関わっていることを発見するわけですが、でも、彼の場合、ソシュールのように、言語を体系として考える、というのではなく、「言語を人はどうやって身につけていくのだろう」という場所から考えていこうとすることが、発想の根幹にある。つまり、外国人だとか、赤ん坊だとか、そうした、一つの言葉をまっさらな状態から身につけようとする場所から考えているんです。

 

そうした視点からみると、数列の例というのが、ヴィトゲンシュタインの言語観のいちばんカナメの部分をあらわしていると思いました。

 

犬 数列の並び方のルールが、「ああこういうことなんだ」ということがわかるのと同時に、そのゲームに自分も参加できるようになる、その言語が使えるようになっている………というような感じですかね。

 

研 そうですね……こういうことだと思う。1・2・4と数が並んでいるのを見て、「ああ倍になっていくという規則で、並んでいくんだな」と思う。そして、「次は8だ」と、言ってみる。つまり、「喋ってみる」ということなんですよね。言葉についても、人の喋っているのを何回か聞いているうちに、こういう意味を持つんだろうというように思って、自分もそう言って試してみる。で、周りの人が、変な顔をしなければ、「ああ、OKなんだな」と思う。でも、変な顔をされてしまう場合がある。あるいは違うよと言われて訂正されたりすることもある。例えば「わんわん」という言葉を、ちっちゃい子が覚える。あるとき、キツネをみて、「わんわん」と言ったら、「違うんだよ、あれはキツネっていうんだよ」というように教えられる。訂正が加えられるわけです。でも、そうした訂正が加えられない限りは、本人はその理解のままでいるわけですよね。

 

言ってみれば、人間は「有限回」から「無限回」を読み取っているわけです。つまり人が喋っているのを、3回とか5回とか10回とか、「有限回」耳にしていると、そこから、ある一般的な、つまり「無限回」適応可能なルールをつかみとる。実際にそれを、自分でも試してみて、齟齬が生まれない限りは、そのルールでOKっていうことですよね。

 

で、そうしたヴィトゲンシュタインの把握は何をもたらすかというと、「人のもっている了解はたまたまのものだ」という感覚になる。つまり訂正されない限りは、ひとつの言葉に対する理解が維持されるわけだが、でも、ひょっとしたらそれは、あともう1回使ってみたら実は違っていた、なんていうこともあるかもしれない。だから、ヴィトゲンシュタインのもっている含意としては、「言葉はこうやって使うんですよ」という正解がもともとあって、その正解に人はあるとき到達する、ということではないと思う。いままでの言語使用の実例に基づき、「こうだろう」と思っていて、訂正されない限りは疑いを入れることなくそれを使い続けている。でも、ひょっとしたらあるときに、お互いのもっている了解の違い……了解という言葉をヴィトゲンシュタイン自身が使っているわけじゃないけれども……が顕在化することもある。そんな感じの言語観だと思うんですよ。

 

ソシュールの「ラング」という考えでいくと、例えば、「日本語の体系」というものがまずもってあるということになりますよね。個々の理解のしかたに違いはあっても、基本的にそういう日本語の体系自体はあるんだ、というようにとらえる。でも、ヴィトゲンシュタインからすると、そうではなくて、たまたま「有限回」の諸事例から一人ひとりが理解をつくっているということになる。もちろん「ラング」のような体系を取り出すことが不可能というわけじゃないんだけど、それは、あくまでも事後的にそうしたものを見出そうとしているだけの話。一人ひとりがその人なりに、いままでの言語行為に基づき、ある了解を形づくりながら「言語ゲーム」を営んでいるという姿のほうこそが、まずもってある。そういう像でしょうね。

 

で、ここからどんなことが導き出されるかというと……。例えば……橋爪さんのこの本だと……「色や痛みなどの感覚を共有できるか」という論点がある。わたしたちはふつう、感覚、色や痛みを共有していると思っている。つまり、誰かが、腹が痛いと思えば、その痛みについてはおよそ見当がつくものだというように思っている。しかしそれは厳密には証明できない。むしろ「ふるまいの一致」によって、「感覚が共有されている」という信憑が生まれているだけなんだ、という考え方が出ている。「色の逆スペクトル」っていう例なんかが出されていましたよね。

 

犬 「『青い』空」「『赤い』ポスト」というように、「呼び方」として理解が一致していれば、日常的な場面で齟齬が生じないんだけれども、だからといって、『青い』『赤い』という感覚そのものが共有されているということではない。「お腹が痛い」という場合でも、そうした人のしぐさや、ふるまいを通して、「ああこの人『腹が痛い』んだな」ということが理解できる。しかしその「痛み」が、自分が体験している「痛み」と同じ感覚のものであるかどうかについては論証しようがない……そんなような話でしたね。

 

 そうですね。ふるまいの一致があるからこそ、お互い同じものを見ている、同じように感じているのだという確信が生まれている。

 

それと同じで、日常的なさまざまな行為においても、たまたまふるまいの一致があるから、本当はお互いのルールが微妙にずれている場合でも、顕在化しないままでいる。でも、それがあるときにおいて、顕在化することになる。例えば仕事なんかでも、「あれ、君はこれを今まで、こういうふうにするもんだと思ってやっていたわけ?」なんて場面が生じることも、けっこうありますよね。

 

犬 橋爪さん、この本では、アスペクトっていう言葉を使ってそのこと説明されていましたよね。言語ゲームという、「共有性へと開かれる場」に参加することで、個々の人間の認識なり、さまざまな社会的な行為なりが可能になっている。だが、同時に、ゲームに参加している個々人は、おのおのの視点(アスペクト=様相=「このわたしには〜のように見える・思える」という視点)をもちながらゲームのプレーをしている。ときに、その視点の違いが顕在化し、「これまでのルール」をそれぞれどのように了解してきたかを確認しあう必要や、「これからのルール」を編成し直していく必要が生まれてきたりもする……そうしたことを述べられていましたよね。

 

研 そうそう。個々のズレが顕在化してくるときに、了解の形を変えたりする必要が起こってくる。その動機が起こってくるよ、という感じの考え方になりますよね。これがヴィトゲンシュタインの、数列的言語観というか、「言葉をどうやって人が学び覚えていくか」を起点にしたモデルから出てくる、一つの帰結になるよね。

 

 

「世界内存在」は「ゲーム内存在」〜「言語ゲーム」に「欲望論」を重ねてみると……

 

 

研 ……で、いろいろ話してきましたが、言語を「言語ゲーム」として見たときのポイントを、橋爪さんのこの本と、僕のヴィトゲンシュタインへの理解とを合体させてまとめるとね、以下のように整理できるんじゃないかと思います。

 

「野球」みたいに、あらかじめだれかによってつくられたゲームというのはルールが明示化されている。けれども、「言語」のルールは、一人ひとりがたまたま信憑しているものにすぎない。「有限回」の発語からルールを読み取るわけだから、最初はつじつまがあっていたが、ずいぶんあとになってズレが発覚して訂正されるということもある。ルールというものがどっかにゴーンと存在しているという像ではないですよね。それがまず一つとしてある。

 

その次に、言語のルールはスポーツのルールのように設計されたものではなくて、絶えず動いている。一人ひとりの間にもズレがあるだろうし、大まかに全体を見ても大きく変わっていっている。絶えず動いている。そのルールは、絶対の根拠をもたない、慣習的なものである。

 

それと……これがちょっとポイントになってくるんですけれども……自分の従っているルールを完全に意識化することはできない。ルールは絶対の根拠をもたない慣習的なものであって、かつ、自分の従っているルールを完全に意識化することはできないという論点が、橋爪さんの本では非常に重要なポイントになってきていると思います。

 

そのことについて少し話をしておきたいんですけれども……この『「心」はあるのか』の中で、ゲームには「内的視点」と「外的視点」がある、という話が出てきますよね。ゲームを行っている当事者の視点が「内的視点」、「ああ、これはこういうルールにもとづくゲームをやっているんだなあ」と、冷静に分析・判断するのが「外的視点」です。

 

まず、「内的視点」、当事者の立場からみると、ゲームは、ゲームが行われることによってある前提的な……というか当然疑われることのない信念をその内部に作り出してしまうということになります。

 

橋爪さんは、『仏教の言説戦略』(勁草書房 1986)で、「悟りをたずねるゲーム」として仏教のことをとらえています。「悟り」が何かというのは明確には分からない。でも、「悟り」というものはどうもあるらしい。一人ひとりが、そのための修行をいろいろしていて、悟っている人がいると聞くと、その人のところに行って教えを乞うたりする。そういう「悟りをたずねるゲーム」が行われるからこそ、「悟り」が、あたかも実在物のようにとらえられていく。悟りがあるから修行があるというよりも、ゲームがあるから悟りがあるという信憑が生まれるんだ、という考え方ですよね。

 

つまり、当事者自身は、あるルールを前提にして行動しているわけなんだが、そのルールは、当人にとってはあまりにも自明なことなので、ことさら意識されることがない。ところが、「ああ、こういうゲームを営んでいるんだな」という「外的な視点」からとらえると、そこで前提とされていたルールが見えてくる。つまり、外から反省的にとらえる視点をとる、ということですよね。「言語ゲーム論」としてものごとをとらえよう、とすることは、すなわち、こうした「外的視点」に立つことを意味する。で、橋爪さんはそうした視座から社会理論を構築することをめざしている。

 

橋爪さんは、言語ゲーム論とは「真理の信を支える形式的な条件を探ること」(『仏教の言説戦略』p.72)と言っています。そうした点でいうと、言語ゲーム論は一見、ポストモダンや構造主義につながる側面ももつようにみえる。つまり、どんなものでもその外にたって反省できるし、そうしてみるとどんなゲームも、それぞれに相対的なものになる。そういう感覚を言語ゲーム論は導き出すことになる。でも、橋爪さんのこの本の面白いのは、「そうは言っても人間というものは、すべての言語ゲームの外に出ることはできない」ということを強調しているところですよね。

 

どんなゲームに関しても、反省的な態度でその前提を分析していくことは可能だ。しかし「すべての言語ゲーム」の外に出ることはできない。反省的に外側から語ること自体も、「自らは自覚しえない前提的ルール」のもとで繰り広げられる、言語ゲームの一つである。たとえば僕が何かの話題について、こうして分析しながら喋っているときだって、僕はいま使っている言葉のルールを当然の前提にしているわけですし、それだけじゃなくて、さまざまなことを、ある種「当然でしょ」みたいに受け入れていることで、はじめてこうした発語が可能になっている。すべてのことを、完全に相対化することはできないわけですよね。

 

橋爪さんはそうしたエッセンスを、ヴィトゲンシュタインの中から読み取ることで、ポストモダン的な相対主義から抜け出ていったのだなあ、と思いましたね。

 

でもね。僕自身はヴィトゲンシュタインの論に対して、どうなんだろうかなあ、と思っているところもある。彼の最晩年の著作に、『確実性の問題』というのがあるんですが、……そこで彼は、どんな懐疑論でも一定のことは必ず前提にしている、ということに力点をおいて語る。地球が存在していることや、自分自身の身体があるのだということであるとか、そういうことを前提としたうえでしか懐疑というものは成立しない。だから、絶対の懐疑というものは成り立たないんだ、と考える。でも、彼の場合そういう前提というのが……あくまでも慣習的なものなんだよね。

 

犬 この『「心」はあるのか』では、言語によって何かが理解しあえるということ、自分自身がそれによってものをとらえたり、表現したりしている「言語ゲーム」という地盤そのものに対する信憑自体は、まずもっての前提となっている。『確実性の問題』でヴィトゲンシュタインは、それを懐疑論から抜け出すよりどころとして見出していったんだ……というような説明がされていましたよね。それについては、西さんもさきほど言われたように、「なるほどなあ」と思ったんですが。

 

研 そうですね。でも、『確実性の問題』を読んでいると、われわれの世界像はいくつかの、「これは当然で疑うことを入れない」という一群の前提的信念によって成り立っているんだということ、さらに、それは究極的には慣習の問題なんだということが、けっこうはっきりと言われてしまっている。例えば、僕が慣習的に身につけてしまったある言語ゲームが、僕の世界像の根本、疑い得ないような基盤を作っているんだ、みたいな感じです。つまり、慣習が、ルールというものを支える、最終の基盤だというような主張ですね。

 

それは……多分そうなの。そうだとは思うんですよ。でもね、やっぱりさ、そういうものを基盤にしながらも同時に……ヴィトゲンシュタイン自身そういうことを言っているわけなんだけどもさ……お互いのふるまいの中にあるズレに気がついたり、そこからルールを書き換えて、そこからまた新しい共通理解をつくりあげたりという営みが、言語ゲームのなかでは同時に展開されているわけですよね。で、そういうことって、「そうじゃないと不便じゃない」だとか、「お互い余計な争いが増えるだけだよ」ですとか、すごく素朴な言葉で言うと、生活の必要という面から生まれていますよね。あるいは、こんなルールのままでは面白くない、こういうふうにしたらもっと面白いんじゃないかという、具体的な動機からですとか。やっぱりそういうことに結びつけて考えていくことが、大事なんじゃないかって思えてならないんですよ。

 

つまり何を言いたいかというと……ハイデガーが「世界内存在」という言葉で呼んだように、人って、いろんなものごととのかかわりのなかで生きてますよね。たとえばこうやって喋ったり、パソコン使って文章まとめたりしながら生きているわけですが、それは全部、究極的には自分の可能性を配慮するなかで生じている。自分のかくありうる、かくありたい、ということを、はっきり自覚していなくても、絶えず配慮している。人間っていうのは、そういう自己了解的な存在だというのが、ハイデガーの世界内存在の考え方ですよね。

 

竹田青嗣さんは、それを欲望論という形で言いかえている。人間が欲望する存在だということがゲームを動かしたり、作り変えたりすることの究極の動因だとしている。そういう観点がないとね、「すべてが慣習的なルールによって可能となっていることです」という見方だけだと、「たまたまそうなってしまっているだけのことです」みたいな話で、終わってしまうじゃないですか。

 

もちろん「あるゲームがなぜ存立しているのか。このゲームじゃない別のゲームだって可能じゃないか」というような視点でものごとを考えていくこともできるし、そうした考え方が必要とされる場合もありますよね。でも、あるゲームが現実にこうして成立している、ということの背景には、そのゲームが、その中で生きている人たちに、ある種の必要を満足させたり、ある種の快楽を与えていたりするということがあるからでしょう。ヴィトゲンシュタインの場合、欲望論的な視点がないので、そういう問題が抜け落ちているんじゃないかと思うんです。

 

で……昔、和光大学で「実存とゲーム」という講義をやっていたんです。そのときに、ヴィトゲンシュタインのいう「言語ゲーム」と、ハイデガーのいう、世界内存在の「世界」というのにはかなり重なる部分があるな、ということを考えました。

 

言語ゲームというのは、ルールを自覚化しないまま、それを前提として、あるゲームを営んでいるということですよね。一方の世界内存在の「世界」というのも、自覚しないまま、そこをもとに行動している「了解」の束なんですよ。世界内存在というときの「世界」には、「大きい世界」から「小さい世界」に至るまで、いろんなレベルがある。例えば、「会社の世界」というのを考えてみると、それは、どういうことをする場で、そこにあるパソコンはどういうために使うものだ……というような了解が、いちいち問題にしなくても自明の前提になっている。だからパソコンの前にすわってパッと仕事が始められたりもする。具体的な仕事やものごとにかかわるとき、そうした世界が必ず前提になっている。暗々裏に一群の……なんていうのかな……場の了解があって、はじめて具体的な活動が可能になっている。これが世界内存在の一つの面ですよね。さらに、そのことを通して、ある種自分の「かくありうる」が暗々裏に必ず配慮されている。そういうのが、ハイデガーの考え方になります。

 

ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論も、ほとんど意識はしなくても、さまざまなルール、つまりいろんな場面での了解を前提にしたうえで、ある行為がなされているのだ、という見方をしている。そう考えるとね、ハイデガーの「世界」という概念と非常に似ている。というか、ハイデガーが「世界」と呼んでいるものを「ゲーム」と置き換えたほうが、より動的な感覚が生きてくると思います。そのつどそのつど、その場でのルールがあり、そのなかでさまざまな活動が営まれている。何かの必要や何かへの欲求と結びつきながら、いろんなゲームが展開されていく。また、そうしたゲームを営むということが常に自己への配慮を含みこんでいる。つまり人間というのは「ゲーム内存在」なわけですから。

 

さらに、そのゲームがつまらなかったり、いやだったりすると、「俺っていったい何をつまらないと思っているのかな」って考えて、「ああ、こういうことが納得できないんだ、ほんとうはこうしたいと思っているんだ」ということが分かってくると、「じゃあこれからはこうしてみよう」っていうように、自分のスタンスを新たにつくり直したりしてますよね。

例えば会社に勤めている場合でも、仕事に対する自分自身のスタンスを変えるときってあるでしょう。スタンスを変えるというのはある意味で、会社の全体のルールを変えているわけではないけれども、自分にとってのゲームの意味合いを作り変えているわけですよね。

 

ヴィトゲンシュタインとハイデガーは、ほとんど無関係に……同い歳らしいんですけれどもね……それぞれの思想を築いているわけなんだけど、それぞれの思想のエッセンスを、そうやって結びつけていくと面白いと思う。実存としての人間の行為を言語ゲーム論的にとらえたり、あるいは、言語ゲーム論に、そこで前提とされているルールの根拠や、そのルールを新たにつくり直そうとしていく動機などを実存論的にとらえたりする、という発想をもつことで、いろんな可能性がみえてくるんじゃないかな、と思っています。いまのところ、まだその大枠しか考えられていないんですけど。

 

 

「現象学」と「言語ゲーム論」。その共通するところは?

 

研 あの……ずっと僕ばかり喋っちゃったんですけど、犬端くんどうでした。この橋爪さんの本を読んでみて。納得できるところですとか、微妙な違和感をもったことだとか、いろいろあったに違いないと思っているんですが。

 

犬 いまの、言語ゲーム論に、実存論、欲望論的な観点を織り込んでいくというプラン、すごく面白いですね。これまでの語りおろしでの、「外側の視点」と「内側の視点」を、いかに実りある形でつなげていくか、というお話にもストレートに結びついていくように思います。すごく可能性を感じますね。

 

……って感心してばかりでもあれなので……。この本を読んでの感想なんですけど、確かに、西さんがおっしゃられたように、橋爪さんが、言語ゲームを動的なものとしてとらえようとなさっていることは感じました。言語ゲームのルールは、そのルールを前提にゲームしている個々の「プレーヤー」の事後的な了解によってしか見出しえないものであるし、かつ……先ほどの話題にも出ましたように……個々のプレーヤーの、視点の違い(アスペクト)を抱え込みながら展開されていくもので、その違いが顕在化されるなかで、改変されていくのだ……というようにですね。

 

でも、同時に、「言語ゲーム」は個々の人間の認識や行為に先んじて、まずもってあるものだ、むしろ「言語」という「形式」によって、個々の人間の認識や行為が可能になっているんだ、という主張を、むしろ前面に出されているようにも感じたんですね。

 

で……それに対して、違和感をもつかというと、それはなかったですね。というのは、西さんもおっしゃられたように、橋爪さんの場合、人間の認識や行為は、ある慣習的な、恣意的な形式によって可能になっているものにすぎないんだ、というように、価値相対化そのものを目的とする「ポストモダン的」懐疑論とははっきり一線を画していくような動機をもっていますよね。さまざまな社会生活の様相においてゲームを営みつつ生きる人間、究極的には「言語ゲーム内存在」であることを方向付けられた人間が、自分自身の認識や行為なりを考えていくのだとすれば、自分がそこに基づいて行動しているゲームのルールを、いわば外側の視点から、反省的に取り出していくことが必須の条件となるはずだ。「ゲーム内存在」である人間が、より納得いくかたちで、自己の生を形づくっていこうとするならば、自分がそこで自明なものとして受け取っている前提的ルールを、いったんつきはなして確かめ直していくことが必要なんじゃないか。そういう動機が明確に伝わってきます。

 

この本のテーマである「心」についてもそうですよね。たとえば、いま「心の教育」なんていうことが、けっこうよく口にされていますよね。

 

 そうだよね。「心のノート」(註:文部科学省が小学校と中学校の全員に使わせようと配布している、道徳の副読本。ひどいものです)なんていうのができちゃうくらいだものね。

 

犬 でも「心」を教育するっていうのであれば、……この本で橋爪さんがおっしゃっているように、そもそも「心」というものを人々はどのように了解しているのだろう、ということや、「心」を改善する教育を施さなければいけない、という要請は、どのような必要や要求のもとに生まれているのだろう、ということをしっかりつかんでおかないと、具体的な方向性が見えてこないように思います。

 

研 そうだね、「心の時代」といわれ、「心」という言葉が頻繁に口にされているこうした状況の中で、そうした論点を示すことって大きな意味があると思います。

 

犬 ですよね。で……個々の人間の認識や行為は、言語ゲームという動的な関係性を抜きにしては語れないんじゃないか、という橋爪さんの基本的な発想は、「心」のとらえかたそのものにもつながっているように思う。たしかに、「わたし」という場所は、「このわたし」にとって、世界そのものを対象化する動かしがたい中心点としてある。そこから「このわたしの中に実在するこの『心』」というような感触も生まれているように思います。でも、「心」を「一個の主体の中に厳然としてあるもの」というイメージのみでとらえられるかというと……それだけでは十分ではないと思う。それこそ「言語ゲーム」そのもののように、他者との関係性に開かれた、さまざまな行為やふるまいの連続性を通して自分自身を了解してくことや、そうした自己了解を、他者の視点から突きつけられる自己像と照らし合わせていくというような……そうした動的な関係性のもとに「心」をとらえていく視点も欠かせないように思います。

 

いま、「心」が問題視されている背景には、一人ひとりの人間が、安定した世界像をなかなか抱くことができず、「わたし自身が納得できるわたしのありよう」をつかみ取ることができない、という時代状況がまず一つとしてはありますよね。そうした一人ひとりのなかにある存在不安のようなものが、「心」を問題視していこうとする地盤を生んでいるんじゃないか、と思います。でも……そんなときに……「他者とのゲーム的な関係性のなかで行為する自分」という視点から自分自身のことをとらえなおすことが意識的にできれば……「承認の欲望のもとに生きている自分」というふうに言い換えることができるかもしれませんけど……何からはじめればいいか、どんなようにやっていけばいいか、ということへの具体的な手がかりが見えてくると思う。

 

あと……特にいま教育の場で、「心」が問題視されていることの背景には、ルール感覚……というか、他者への感度、公共性への感度のようなものが、だんだんと弱まりつつあるんじゃないか、という危機意識がありますよね。で……それはみんなで信じられるもの、共通に目標とできるものが失われてしまったからではないか。ならば、「輝かしい国家の物語」のようなものをもういちど再生して、みんなで共有する必要があるんじゃないか、などという論も出てきたりしている。

 

他者性、公共性への感度は、たしかに必要なものだと思いますが、それはあくまでも「このわたし」が生きていくうえで、よいものである、必要なものであるという実感を伴うものでなければ、内実あるものとして育っていかないように思う。「国家の物語」なるものを外側から接木するようにもってきても、いまさらなんでだよーという感じしかしてこないんじゃないか。

 

そうした状況のなかで、橋爪さんが、この本で呈示されている……この「わたし(の意識)」は、ただ単独で成立しているものじゃない。言語という、慣習……というかこれまで人々が生きてきた「実践」のなかでつくりあげられてきた(そして今後の実践のなかで改変可能な)ルール、言語という、だれしもが公平に、自分の実存を表現しあえる「公共財」によって「わたし」は形成されているし、形成されていくものなんだ……というとらえかたにはとても説得力を感じたし、「わたし」という場所から社会的な関係性を考えていくに際して、一つのきちんとした方向性を示しているように感じました。……うーん、なにか全然具体性のない話になってしまって申し訳ないんですけど。

 

けれども橋爪さんは、「現象学」に関しては、「意識がものごとを構成する働き」に絶対の根拠を置こうとする独我論だ、というようなイメージをもっていて、かなり批判的な態度をとっておられますね。そうしたとらえかたは、僕自身が、竹田さんや西さんのお仕事を通して自分なりに理解している(つもりの)現象学の像とはずいぶんかけ離れているように感じました。むしろ、橋爪さんの発想に、僕自身が竹田さん、西さんの「現象学」から受け取ってきたものと、通じ合う部分がかなりあるように感じています。

 

まず、さまざまな人間の社会的な行為を、「外側の視点」に立って「ゲーム」としてとらえる中で、そのゲームを可能にしているルールがどのように機能しているかを見つめ直していこう……という橋爪さんの基本的な方法と、ものごとの自明視されている価値をいったん遮断し、そうした価値が成立している意味や根拠を「内側の視点」から、より確かだと思えるように記述し直してみよう……という現象学の方法は、出発点は違うかもしれないけど、めざしているところはかなり近いように思えてなりません。

 

それと……現象学の基本的な方法となる「本質観取」ですが、なるほどそれは「そう思っている・感じてしまっているわたし自身」の内側に入り込んでいくこと、つまりは、このわたしの意識体験に立ち返ることがベースになるわけですが……でも、それって、意識の中にこそ正しい認識、判断を構成する契機が潜んでいるからだ、ということでは全然ないですよね。端的に言えば、ものごとの意味や価値を(自分自身が)確かだと思えるようにつかみとっていくためには、そういうルートを通っていくしかないから、そうしているんだ……という感じだと思います。さらに、こうした意味や価値への確信は、独我論的な構えのもとではおとずれない。他者からの視点による確かめが、「確かさの確信」が成立するために欠かせないものとなってくる。……つまり、そういう……それこそ人間が先構成的に与えられている「確かめのしくみ」を、自己了解して取り出してみたのが「本質観取」の方法ではないかと……自分的には勝手に理解しています。

 

そもそも「本質観取」って、「自分がそのように感受してしまっている」ものごとのありようを、いってみれば言語的に了解していく作業ですよね。徹底して内側を掘っていくような方向性をとりながら、言語という普遍性をもったベクトルに開かれていく。そういう、それこそ「言語ゲーム的」感覚に通底する一面をもったものだとも感じています。

 

さらにさらに……「本質観取」って、「そう思っている・そう感じている自分」をいったん突き放すようにして、いってみれば外側の視点を自らのうちに繰り込むようにして、反省的にとらえかえしていくことが基本になりますものね。

 

研 そうですね。ある意味でいうと「外的視点」とでもいえるような、自分の感覚していることをあらためて、「どうだったけ」っていうふうに見てみる、という感じがありますよね。それは、本当の当事者視点とは違うものだよね。そのとき体験している自分を、あのときの感じってこうだったよなーというように、冷静に見ている、ということだから。そうだよね。反省しているわけだからな……。

それでもやっぱり、現象学が「意識」という地点からはじめようとすること自体に、橋爪さんの場合抵抗があるのかもしれないね。

 

犬 まずは「意識」の側からはじめてみましょう、というのと、「意識」を前提にしないで、そうした「意識」を可能にしているものは何かを極力客観的なベクトルでとらえていきましょう……というような違いでしょうか。

 

研 ……そうそう……でも、やっぱり……了解するということでいうと、「わたし」の場には特権性があると思います。

 

犬 僕もそう思います。例えば、いま、西さんがなさっておられるような……みんなに共有可能な「正義」をどのように形づくっていけばよいか……という、共有可能な価値を、今後に向けて積極的につくり出そうとする局面においては、「このわたしにとって」ということを基盤にしたうえで、普遍性をめざしていくような言語ゲームを展開していくことが欠かせないように感じます。

 

研 そうですね。橋爪さんは、やっぱり社会学の人だから、そうした視点の違い、方向性の違いがあるのかもしれませんね。そのあたりのこと、もうちょっと明晰にしたいですね。こんどもうちょっと準備して、突っ込んでお話してみましょう。

 

 

世界像を検証しあう言語ゲームをめざして……

 

 全然別な話になるんですけど。……でも今までの話にも少し関係してくると思います。
大学の授業の関係で、佐藤卓己さんの書かれた『現代メディア史』(岩波テキストブックス)という本を読んだんですね。すごくいろんなことを調べたうえで書かれている本で、こちらも学ぶことが多かったんだけれども、……そこに描き出されている世界像に関しては、ちょっと問題だなあと思ったの。

 

彼のメディア論はどんなものかというと……第一次大戦、第二次大戦と、女も子供も全部巻き込んで、同一の国民として「鬼畜米英」と戦う、といった総力戦体制がとられた。そのときにトーキー映画や、ラジオが戦争をニュースで流したりして、いかにその総力戦体制をつくるのに役立ったのかということが、出てくるわけです。……それは多分正確な事実を伝えている。

 

さらに……彼は、「総力戦体制」を「システム社会」という概念に連結させていくのです。昔の分権的な社会だと、治外法権的なところがあるじゃないですか。名主さんが自分の土地でどうやるかはその人の自由だよ、みたいな。ところが、現代社会では、いろんな人たちや、さまざまなメディアが、ものすごく相互に依存しあっている。それを「システム社会」と言っているわけです。それで……そうした、あらゆる人間や情報が緊密に結び合わされているシステム社会は、第一次大戦、第二次大戦のとき「総力戦体制」のなかで形成されてきた。そして、それは、戦争が終わったときも残された。たとえば高度成長期には、みんなを「豊かになる」という共通の目的のために駆り立てていった。ところが80年代くらいからそれがちょっと変わってきた。情報は多様化していく。みんながみんな、ゆく年くる年を見たり、紅白を見たりするようじゃなくなった。国民としてのまとまりがなくなった。いろんな選択肢、いろんな多様性が出てくるようになった。……ここまでもまあよいとしましょう。

 

ところが、彼は、そうした価値観の多様化した社会は、実はシステム社会がいわば進化した形なのだ、ととらえようとするんです。どういうことかというと、それまでは国民という形に向けて一方向に統合しようとしていたものが、多文化主義的統合に変わったのである。マルチカルチャーというのは、要するに個々人のいろんな趣味のことですよね。そういうように、一見自由な選択肢をどんどん増やしながら、実は反体制をも取り込むような形で触手を広げ、すべての人間をシステムに回収するような、そういう社会として展開しているんだ……そんなことをおっしゃっているんです。

 

犬 それって、先回の『自由を考える』にでてきた、「環境管理型権力」の考え方と似ている。

 

研 たいへんよく似ていると思います。でもさ、システム社会の概念がさ、何をやっても完全に取り込まれてしまうというのなら、あなたの書いているこの本はどうなの、ということになるよね。システム社会の概念規定も、かなり粗略だと思うし、しかもなによりまずいのは、それが検証不可能な一つの像になってしまっていることだと思うんですよ。どんな新しいことを考えようとしても、逆らおうとしても、すべてシステムに回収されてしまう。自分たちの意欲で動いているように見えても、全部システムに選択肢を与えられてしまっているのだ、というような。

 

そう言うもんだと思い込んでしまえば、すべてがそういうふうに見えてしまう。でもそうかな、と思ってみればさ……だって映画だって、露骨に売れ線を意識してつくられた映画だってあるけれども、それだけじゃつまらないよって思いながら、自分なりの表現をめざしていろいろ工夫しながら新しい映画をつくっている人だってたくさんいるわけだよね。それすらもシステムが個々人を取り込むための策略なのだといっちゃうのって……じゃあ、その策略しているシステムっていったいなんなんだろう、って話にもなるでしょう。

 

要するにまったくの一つのイメージにすぎないものを、検証しないまま出している。それは、ちょっとまずいと思います。それに、そうしたものを読む学生たちは、だんだん意気消沈してしまう。あらゆるメディアはシステム社会に回収するための道具になっているという像をいきなり与えられてしまうというのではね……。

メディアには確かにいろいろ問題もあるとは思う。でも……たとえばインターネットなんかにしても、今までの社会になかったような問題を引き起こしているのかもしれないが、でもそれと裏腹に、ある可能性を開いているということも事実だろうし、そのへんはフェアーに見なければいけないと思う。

 

犬 そういう考え方を出してくる、そもそもの動機は……いったいなんなんでしょうかね。

 

研 「この社会はよくない社会なんだ」という自分のなかの漠然とした感触なんでしょうかね……。で、そうした「社会システム」の考え方は、社会に対する閉塞感を感じている人たちには、フィットするものなのかもしれない。

まあ、こうしたシステム社会という見方にしても、考えてみれば一つの世界像なんでしょうね。でも、それにしても、……そもそも歴史記述ということ自体が純粋客観ではないんですが……なぜ、自分はこういう見方をしようとしているのか、システム社会として世界をとらえようとする理由はなんなのかということが、この佐藤さんの本ではほとんど明示されていない。明示されないまま、すべての記述が、国民的統合から多文化主義的統合へと至り、システム社会はより完成に近付くという、佐藤さんの中にできあがってしまっている世界像をひたすら傍証するためのものになってしまう。すべてそこに回収されていってしまう。たから、せっかく個々の記述については、よく勉強しているし、こちらも発見させられたり、気づかされたりすることもあるのに、最終的に残る像は、たいへんつまらないものになってしまっている。

 

これ、大学の一年生に与えたとしたら、ほんと暗くなっちゃいますよ。もう、メディアは一切信用できなくなっちゃった、というように。それは、とても罪なことだと思います。彼らは、いままでの生活を通して、自分なりの世界像をもっている。そして、大学に入って、さまざまな書物を通してさまざまな世界像と出会っていくわけですよね。そのことを通して自分自身の世界像をさらに磨きあげていく……でもいちばん最初にこうした像を、「世の中ほんとうはこうなっているんだよ」っていうふうな形で与えられてしまったら……多分ほんとうにそうなんだろうなって思っちゃいますよ。

 

犬 なんかこう……フーコ型の「汎権力的図式」を、そのまま検証せずに踏襲している感じがしますね。その「システム社会論」というのは。システム、構造によってすべての行動が可能になる。しかもそのシステムは、すべからく、個々人の自由を抑圧する形で機能していく……そうした方向性のもとに近代は形成されてきたんだ……というような。

 

 でも、「システム社会」的なものを問題視できるというのは、そもそも近代人だからなんですよね。もっと自由に考えたい。もっと自由に他人との関係を取りたい。自分なりの生き方をしてみたい。そうした近代的な価値観をもっているからこそ、それが実現されていない社会が、「システム社会」としてみえてくる。そういう順番だと思うんですよ。それはフーコにしても一緒だよね。「監獄の誕生」というものを語っている君自身は、しっかり近代人だよ、というふうに。

 

そういうような自分自身に内在化された視点に関して、無自覚であるというのは問題ですよね。自分が生きてきたリアリティと、書物などから与えられるリアリティのずれや共通するところはなんだろうか、そもそも、自分はどういうふうに社会を感じてきたんだろうとか、そういうことにきちんと立脚したうえで世界像を組み立てていくというふうでないと、思想としては非常に問題だと思う。


犬 そうしたこと踏まえてあらためて考えみると……同じように「外側の視点」をとるにしても、橋爪さんの言語ゲーム論は、その「システム論」のように、一つの世界像を無検証にバーンと出してしまうのではなくて、社会的な様々な場面においての現実的な行為を可能にするルールを、「すべてのルールの外にでることはできない」自分自身の視点をよく自己了解したうえで取り出していこうとする……、きわめて実存的な感度に満ちたものですよね。


研 まさにそうですね。また、ゲームっていう言い方をしてみると、他者との動的なかかわりのなかで一つの社会が形づくられていく像がはっきり伝わってくるし……やっぱりゲームという言葉自体が面白いよね。そういう意味で橋爪さんが、「言語ゲーム」という視点を打ち出されたのは大変意味のあることだと思う。どうやって新しいふるまい方をつくっていけばよいのかということを含めて、考えさせてくれるきっかけを与えてくれていると思います。