もぎたて語りおろし(2006/2.14出荷)



今を生きるためのニーチェ

 
……西研   
 犬……犬端(管理人)


共生感なき時代に生きることの困難

 今日は、ニーチェの話などをしてみようかなあと思っています。いま大学のほうで「現代の思想」という講座の授業をもっているのですが、その皮切りとしてニーチェのことからはじめているんです。

ニーチェは時代的には近代思想に入るのでしょうが、現代を生きるわたしたちが抱え込む問題に対して深く響いてくる言葉をもっている。そんなわけで、哲学って自分自身にいったいどんな意味をもつものだろう、と疑問をもつ人には、よい入り口になると思っています。

ところで、いま「ウェブちくま」で連載している「社会の現象学」でも書いていることなんですが……近代の市民社会が生まれたとき、それは人々に“希望”を与えるものだったと思います。それまでの職業や身分が固定化された共同体的な社会と違い、自分自身で自由に生き方を選んでいける。職業も選べるし、身分にかかわりなく伴侶も選べる。さらに、さまざまな人と出会って、自分の考えやお互いの考え方を述べ合い、心を通い合わるような場をつくることもできる。「自由」という希望ですね。そして、そうした一人ひとりが生きるうえでの自由が広がっていくのと同時に、「自分と同じように泣いたり笑ったりしながら生きている対等な人間によって、社会はつくられているものなんだ」という“共生”の感覚も生まれてくる。おかしなことがあったらみんなで社会を変えていけばいいじゃないかという気持ち、一つの社会のもとに一緒に生きているのだ、という実感。自由とともに、この共生感もまた、近代市民社会とともにはぐくまれていった。これは非常に大切なことだったと思います。

ところがそうした共生感が、現代の日本社会からは、もう相当になくなりつつあると感じます。
もちろんいまの社会というのはそれなりに食べていけますし、仕事も楽しく私生活も楽しくというふうに生きている人だってたくさんいる。でも、何か不幸なことがあると、すごく孤独になって、いわば穴ぼこに落ち込んだような状態になってしまう。なぜわたしだけがこんな穴ぼこに落ちて、ひとり苦しみの中に捉えられて生きているんだろう。世の中の人は街を楽しげに歩き、映画をみたり喫茶店で談笑したりしているのに、なぜわたしだけが……みたいな。

「共生感」が薄らいでいくこの社会では、このわたしの不幸が「共苦」ということにつながっていかない。そうした時代の中を生きていく苦しさを多くの人が感じていると思います。

ひとり穴ぼこに入ってしまい、そうした苦しみをずっと抱えて生きているということは非常につらいことです。でも、それにつける薬は簡単には見つからない。

昔でいえば、宗教が、そうした穴ぼこから抜け出るためのものとしてあったように思います。宗教は、自分の人生を、遠くの位置から――たとえば、現世で豊かになる・ならないということとは違ったまなざしで――眺めることができるようにしてくれるからです。「あの人たちは幸福なのに、なぜこのわたしだけがこんなに不幸な目にあうんだ」と思いを、そうした生活から離れて遠くから相対化する視点を与えてくれる。神からの視点というのは大切な働きがあったと思います。仏教にもそういう面があると思う。

ところが宗教なき時代に生きるということは、ある意味で自分の現世の生活しかないということになりますから、現世の生活の苦悩を相対化したり、客観視したりできる視点が非常に持ちにくいわけですよね。

ニーチェの話につなげますと、ニーチェはこうした「穴ぼこ」に落ち込んだ状態のことを「ルサンチマン」と呼び、そのルサンチマンにどう対処すればよいかということを考え詰めた人、であるわけです。



ルサンチマンを乗り越えるためには何が必要か……


 「ルサンチマン」をぼくなりの言葉で定義してみると、「自分の内側で反復する恨みや妬みの感情」ということになります。その根底には何があるかというと、「無力感」です。自分は何もなしえないという感情にとらわれて、その苦しさを復讐心に転化することで解決をはかろうとするわけです。「お前が悪い」というように何か悪いものを決め、それに対して恨みつらみをぶつけていく。――親を恨んだり、強者や運のいい人間を妬んだり。あるいは「こんな世の中が悪いんだ」というように社会を恨んだりする。あるいは運命を恨む。こんな親のもとに生まれなければよかったのに、とか。「もし自分があのときこうしていれば……」というように過去の自分の行為や自分自身を恨むこともありますね。

「ルサンチマンの根底には、無力からくる歯軋りがある。そうであった・そうでしかありえないこと、つまり自分が決して望まなかった過去や現在に対して復讐心を向けること、これがルサンチマンの本質である」――そんなことをニーチェ自身は言っている。『ツァラトストラはこう言った』の「救済」という節に出てきます。

その節ではさらに、こんな言葉も出てくる。「せむしからそのこぶをとると、せむしは知恵がなくなる。」つまり、生まれつき障害をもっている場合でも、それを取り去るな、というのです。

そして、ルサンチマンから解放されるには、「そうであった、そうでしかありえない」ということを単に“是認”するのでは足りないという。「障害がある」ことや、「他人に対してうまく関われない内気な自分に生まれついてしまった」というようなことを、「しかたがないと思う=是認する」だけでは足りない。「そうであった、そうでしかありえない」ということを自ら意志する、自ら欲しうるようにならなければならない、と言うんです。これを昔読んだとき、「そこまで言うかなあ?」と思った。障害や欠点といったものも含めて欲すことなどできるんだろうか? それは無理な話ではないか、と。

このことに関連して思い出すことがあります。20代の半ばころ、竹田さんが和光大学でやっていた「民族差別論」というゼミに出ていたときのことなんですが、そこに骨形成不全という障害をもった女性が一緒に参加していた。彼女は「自立障害者」の運動を早くから始めていた人でした。病院などの施設に入れば確かに介護という面では安全である。でも施設の中だけにいるのはつまらない。それで、公的な補助金を集めてアパートを借り、援助をしてくれる多くのボランティアの人たちと常に連絡を取りながら生活していたんです。トイレに行くのも一人ではできなかったですから、彼女は。

その彼女が話してくれたのですが……障害者の仲間うちでしばしばこういうことが話題になる。「もし神様が現れて、あなたの障害をすべて取り払ってあげましょうといったなら、あなたはどうするか」と。「私はね、やはり障害をもったこの体に生まれてこようと思うんですよ」。……そう彼女はいうんですね。

でも、ぼくはそれに対して、「もし障害を取り除く手段があるのだとしたら、それは受けてもいいんじゃないかと思う」と言った。彼女が少し無理をしているような気がしたので、そう言ってしまったのですね。ただ、障害者の間でそういう「究極の問い」が出てくるということについては、すごくわかる気がした。

彼女たちは、なぜこのわたしがこういう体に生まれついたんだろうか、という思いに当然とらわれる。身体の美醜ということもあるし、自分が生きることじたいにたくさん人の手を借りねばらならない、ということも大きい。つねに負い目を抱えてしまうわけですね。すると、なるべく迷惑をかけないようにしたい、という発想になる。そして施設でひっそりとすごすしかなくなってしまう。でもそれでは、人と出会ってわいわい楽しくおしゃべりをすることもできない。気心の通じる仲間をつくることができない。自分の人生を楽しめないし、そうすると自分の生そのものを肯定できなくなってしまう。それで彼女は一つの決断をして、自立障害者への道を歩んでいくことを選んだと思うんですよね。

彼女はきっと「この障害のある自分の人生をどう受け入れるか」ということを何度も何度も考えたのだと思います。それができなければ、ずっとルサンチマンを抱えたままで生きていかなければならないから。そして、「自分自身の人生を肯定できるために、この体に生まれついたこと自体を肯定するんだ。」と心に決めたのだと思います。

ただ、そのとき僕は、たとえ「積極的にその条件を肯定できる」ところまで行かなくても、「しかたがない」ということでもいいんじゃないかと思った。この条件を受け入れること以外に自分の人生は展開していかない、という了解が自分の中でハッキリすれば、積極的に肯定することまではできないとしても、「是認」でよいのではないかと思ったわけです。

でも、なぜかニーチェは、是認では足りず、悪条件も含めた自分の人生を「欲する」のでなければいけないと言うんですね。



「永遠回帰説」について考える


 ニーチェ哲学の柱の一つに「永遠回帰説」というのがありますよね。悦びも苦しみもすべては永遠に回帰する。まったく同じ人生が何度も何度も繰り返される……というような。それが、自分自身の不幸や欠点をも積極的に受け入れていかなければならない、ということであるとしたら、もう相当にしんどいことに思えてならないんですけれども。


 ちょっと補足しておきましょうか。永遠回帰というのは万物が永遠に繰り返すという話です。宇宙が創世され、太陽系ができて地球ができて、生命が発生して、そして自分自身が生まれてこの人生ができると。で、そのうちこの宇宙が滅びても、まったく同じ初期条件の組み合わせができれば、そこからまた同じ歴史が繰り返していくことになる。永遠に同じ状態が反復されていくということになる。その永遠回帰を君は欲しますか、というのがニーチェの問いなんです。もちろんフィクションなんですけどね。ただ、もし永遠回帰が真実であるとするなら、「かくあってしまった」ことをいかに呪っても、何度でもそれがよみがえってくることになります。そうだとしても、君は自分の人生を肯定できるかい? というのがこの思想の要諦ですね。

それで、呪わしい運命や欠点をも「仕方なく是認」するのではなく「積極的にそれを欲する」のでなくてはならない、という点に戻りましょうか。ぼく自身の考えをいえば、本質的なことは次のようなことを自覚していくプロセスだと思っています。

まず、ルサンチマンの根にあるのが無力感であり、そこからもたらされる復讐心であることがわかること。そして、ルサンチマンという復讐心が自分に喜びをもたらさないこと、正確にいえば喜びを受け取る可能性をすごく狭くしてしまう……というか、それを絶ってしまうことを自覚すること。そして、もし自分が自分の人生から喜びを汲み取って生きていきたいと心底思うのなら、自分自身に与えられたマイナスの生の条件、「障害がある」とか「かわいく生まれてこなかった」とか、あるいは「こんな親の元に生まれてきてしまった」というようなことを否定するのではなく、その条件のもとでわたしはどう生きることを欲するのか、いかに喜びをもって生きていくのかを自分自身に問いかけていくこと……それが大切なんじゃないかと思う。

ちなみに、竹田さんは『ニーチェ入門』(ちくま親書)で、永遠回帰説について非常に面白いとらえかたをしています。……このまま他者や過去を呪って生き続けることもできる。でも、こうした生の条件を受け入れたうえで、どうやって喜びをくみ取って生きるか、とみずからに問うこともできる。それは君の自由だ。じゃあ君はどちらを選ぶ……永遠回帰とは、要するにこういう問いかけなのだと。ニーチェはそういう選択肢を示しているのだ、というのが竹田さんの読みです。これは非常に優れているな、と思いました。ただ「ポジティブに生きなさい」というのでは説教みたいですものね。

ぼくは思うのですが、ルサンチマンに入っているとき、穴ぼこに落ち込んでいるときというのは、自由な感覚がなくなっているんですよね。自分で自分の人生を選べるという感覚、わたしは自分の人生を望むようにしていけるという感覚を忘れてしまっている。

でも、エネルギーに溢れているときって、人生をキャンバスのように感じることがあるでしょう。ここにどのような色の絵の具を塗るのもぼくの自由だ。どんな絵を描いたっていい。でも「穴ぼこ・ルサンチマン状態」というのは、そういう自由の感覚が失われ、無力感にとらわれてしまっている。でも、たとえ自分自身の生の条件は変えられないとしても――自分の人生が真っ白なキャンバスではなくで、ちょっとここがへこんでいたり、このへんが盛り上がっているようなデコボコなキャンバスだったとしても、「でもこれが自分自身のキャンバスなんだ」と思うことができれば、そこにまた自分なりの絵が描けるわけじゃないですか。このキャンバスの上に自分は好きに絵を描いていっていいんだ、というように思えたとき、自由の感覚は戻ってくると思うんですよね。

人生を一つのゲームに例えると、その初期条件の設定は人によって違うわけです。男として生まれてきたこととか、能力差や美醜の差もある、親の違いもある。その他諸々いろんな条件設定がある。そうした条件というのはある意味で人間を縛るものだけれども、でもその条件を受け入れたうえで、こんなことができるんじゃないか。こんなふうに人との関係をつくり、楽しんでいくこともできるんじゃないか、というように思うことができれば、人生はひとそれぞれ違う条件の中で、どのように生きる喜びを引き出すかということが問われるゲームになる。そういうふうに人生を考えられるようになれば、もう穴ぼこからは抜け出せているわけですよ。ニーチェの「永遠回帰」思想の要諦にはそういうことがあると思っています。

それでも、やはり「なぜ、マイナスの条件を是認するだけではだめで、それを積極的に欲するのでなければいけないのか」ということは自分の中でもけっこう引っかかっています。それで、自分なりに考えてみたんですよね。

……「是認」ではやはり押し付けられた感じが伴う。……しかたがないや。自分がこういう条件に生まれついてしまったのは。この人と一緒になれないのもしかたがないよね。これも運命だから……。というように。でも、運命を押し付けられたという感覚、何かを諦めざるを得なかったのだという気持ちが残っていると、ルサンチマンは何かの折に蘇ってきてしまう。だから、障害や不運といった、悪い条件ごと人生を意欲しなくてはならない。初期条件を含めて、さまざまな苦しいことを今まで体験してきたわけですよね。そういうことも含めて自分の人生全体をいかに肯定することができるか。たぶん、ニーチェはそうふうに考えたのではないかと思います。

それでも、例えば障害をもって生まれてきたというような過酷な初期条件を積極的に肯定するのはなかなか難しいだろうと思います。それで、それを肯定的に考えられる条件があるとすれば、それはどんなものか?と、さらに考えてみました。

まず一つは、障害が自分にプラスをもたらしていると思えるとき、ですね。例えば、さきほど話題にした障害のある女性のケースでいえば、自立障害者の運動を積極的に行うことで、さまざまな人間関係を築いていっているのですね。彼女はとても知恵のある人なので、ボランティアに集まってくる人たちとおしゃべりをしながら、彼らにもいろいろなことを与え、多くの人から好感をもたれていました。障害があること自体はマイナスかもしれないけれども、それをきっかけにさまざまな人との関係が生まれ、ネットワークが広がり、その中で生きてきたわけですよね。そうすると、障害を取り去った彼女の人生というのは、人生をそっくり別のものに入れ替えるようなものだ。それを考えると「障害という条件込みで、わたしはこの人生を欲する」ということもなるほど可能なのかな、と思うんです。


 現時点で、自分の人生に対する肯定感をもてていれば、そう考えることも可能になる……ということですかね。


 そうですね。今がどうであるかということが大きいかもしれない。障害をもって生きることはすごく大変ではあったけれども、それを軸にポジティブな人生を展開することができた。「災い転じて福となす」という言い方は単純かもしれませんが、そのことがいい人間関係をもたらしているときには、それを肯定できる場合もある。


 さっきの「キャンバス」の話でいうと、この自分のキャンバスの上に、こういう絵が描けるぞ、描けそうだなあというイメージが持てるかどうか、ということですよね。つまり、自分自身の未来への展望が抱けるというか……そういう気持ちが湧いてくるなら、自分のキャンバスというか自分自身のありよう、自分の運命を……それを積極的に意欲しているかどうかはわからないけれども、まずもっての前提として自然に受け入れている状態にはなっているのかもしれない……ですよね。


 そうですね、犬端さん冴えてる! 自分の中で、この条件のもとでもこういう絵が描けるよって思えればいいんですよね。「こんな条件の下でも、自分なりの絵が描けるかもしれないな」と思えることが第一段階だとすれば、「この条件の下でも、かくかくしかじかのこんな絵が描ける、こんな素敵な絵が描ける」というような具体的なイメージが出てくれば第二段階。そうなると、初期条件も含めて肯定できるようになるわけですよね。

あと、もう一つ。ニーチェの「永遠回帰説」のたぶんポイントとなるフレーズに、「全ての喜びは永遠を欲してやまない」という言葉がある。もし、ほんとうに生きててよかったなあという喜びがあったとすると、たとえそれまでにどんな断腸の苦しみがあったとしても、その喜びは永遠を欲してやまない……ということです。

ニーチェのなかでは、苦しかったことも楽しかったこともすべてが必然の網の目でつながっている、のです。ものごとの経緯は、因果でつながっているので、その過程の中でものすごくいやなことがあったにせよ、ほんとうにたった一回でも、これはすばらしい、ほんとうに生きていてよかったということがあれば、そのことをもって人生全体を肯定することになる。この人生を自分は何度でも繰り返して生きてみたいと思う。味わいたいと思う。人生には苦しいことも、マイナスのこともある。でも、自分が人生の中で、ほんとうに生きていてよかったと思えることが一度でもあったならば、ほかの苦しかったことともども引き連れて、この人生全体をもう一度生きたい。そう思うことができるだろう。そう言い方です。これが「永遠回帰を汝は欲するか」という説です。

この、永遠回帰を欲することができる人は強者で、欲し得ない人は弱者である……『権力への意志』ではそういう言い方が出てくる。強者・弱者という言い方には抵抗がありますが、ここでニーチェが言いたいことは、この自分の人生、これまでにほんとうにいやなこともあった。でも、この人生が何度でも繰り返し巡ってくることをあなたは欲することができますか。そういう形で生を肯定できる人間が、ほんとうの意味で強い人だ。金を持っているとか力が強いとかいうことではなくて、ほんとうの意味で強い人である。……そういうことを言おうとしているわけです。


 はじめて永遠回帰ということが、実感をもって理解できたように思います。このことはほんとうに嬉しい、というような出来事を基点にすえたうえで自分の人生全体を考えようとすること。それによって自分のありようをトータルに肯定できるようにしていくこと。……ということなんですね。正直、これまで永遠回帰って何のことを言いたいのかよくわからなかったのですが……はじめて腑に落ちてきた気がします。


 そうなんですよね。別に、「不幸なこと、苦しいこと自体を喜びとして感じなさい。受け入れなさい」という無茶なことを言っているのではない。



今を生きる若者たちとニーチェ



 授業でこうしたニーチェの話をなさったとき、学生さんからの反応はどんなでした?


  ええとですね……まず、永遠回帰の話に関連して、「いまの自分の人生を繰り返し生きたいか」ということについてですが、こんな反応がありました。
授業のときに使ったレジュメなんですが……(と学生からの意見などをまとめたところを読んでくださる。)

「自分の人生をまた繰り返して生きたいか、といわれたら、はっきり嫌といいます。肯定なんてできません。えーえー、ぼくはどうせ弱者ですよ。話は変わりますが、ぼくも奥手なのでニーチェ君の気持ちはよくわかります。女の子と話しとかすると、ほんとうに生きていてよかったと思いますもん。なんかさびしい話ですね……。」(男子3年生)

これ、ちょっと説明しますと、ニーチェが、ほんとうに生きていてよかった、自分の人生は永遠に繰り返されてもよいだろう、と思った体験は、好きだったルー・ザロメさんという女性とお散歩してお話をしたことではないかという説があるんですよね。とても不器用な人だったらしいので、あまり女性との関係もなかった。でも、ルー・ザロメさんのことはほんとうに好きで、一緒に親しくお話をした三十分だか一時間が至福の時間だったんだろう、ということを授業で話したんですよね。

あとはこんな意見もありました。

「生きていてよかったと思える出来事があったとしても、また生まれ変わってもこの人生がいいと思うとは限らなくないですか。」

……ある意味で言えば、ニーチェという人は、普通の人の感度からみれば相当極端なところまで追い詰められているわけですよね。24、5歳のときに大抜擢されて古典文献学の教授となり、将来その道のスターになることが約束された。でも、『悲劇の誕生』で自分自身の芸術観を語ってしまったので、厳密な古典文献学としてはまるでだめだということになり、学会での将来を閉ざされてしまった。自分の思想が、生前はほとんど評価されることもなかった。体調も非常に悪く、常に強烈なめまいや頭痛に襲われる……一般的に言えばとてもネガティブな条件が多い。そうした自分の人生をどうしたら肯定できるかというところで、ギリギリに追い詰められている。

普通そこまで追い詰められるということは少ない。いいことがあったり悪いことがあったり、ぶつぶつ言っていたらそのうちにまた楽しいことがあって……そういうふうに条件が変わると、また機嫌よくなって生きているなんていうことも、けっこうあるわけなんですよ。そうやってアップ・ダウンの波をそれなりに乗り越えて生きていけている人は、「自分の人生全体を肯定しよう」という問い方をしなければならないところまで行かなくても済んでいる。自分の人生をまるごとどうやって肯定するかという問い方自体が、いま自分が生きているというその場所から見て、ぴったりフィットする問いとして感じられにくいのかな……とこの回答を見て思いました。


 若い人にとっては、自分自身がこれからどうなっていくかよくわからないなかで、トータルな視点から自分の人生全体を俯瞰するように見つめなおしてくことは難しいような気がします。それに、「このことがすごくいいことだった。」「至福の出来事だった」、ということがこの先もほんとうにそう思えるかどうかは、その後の自分自身のありかたによって変化することもあるようにも思います。


 そうですよね。逆に、そのときはそんなに嬉しかったという自覚はないんだけれども、あとで考えてみると、自分が生きるうえでとても大きな出来事だった、大切な意味をもっていたんだということがわかることもありますし。そのつど人は自分自身のことを了解をし直しながら生きているわけですから。

ニーチェの場合だったら、ルー・ザロメとの記憶を大切な宝物のようにして、ずっと生きていくということがあったかもしれない。すごくつらくても、あのときの記憶に立ち返ると、そのときの幸福感がよみがえってくる。そういう生き方をしていたのかもしれない。でも、より一般的な条件から考えれば、今の時点で、これから自分が他人から肯定されて生きていける可能性を感じることができるかどうかということが、やっぱり決定的ですよね。

だからさ、そのつどそのつど、自己了解における肯定のし直しがあるというふうに考えるべきなんでしょうね。一度永遠回帰という真理をつかめば、それでわたしは人生を肯定できます、というようにはなかなかならないだろうと思う。


 いま、山竹伸二さんの主催している読書会で、ニーチェの『権力の意志』を読んでいるんですね。文庫本でいうと、下巻の「新しい価値定立の原理」あたりからは、竹田さんのいう欲望相関的な世界定立につながる着想であるとか、とても興味をひく考察が展開なされているのだけれども……上巻の「ヨーロッパのニヒリズム」を読んでいるときは、自分の意志で人生を組み立てていける「生きていてもいい」強い人と、反対にそうできない、本当は「生きていてはいけない」ような弱い人がいるのだ……というニュアンスを感じてしまう表現にそこここで出くわし、正直言って少々反感を抱いてしまったふしもありました。

でも、今日の西さんの「永遠回帰」のお話から……人間それぞれの状況を生きている。初期条件から恵まれている人、あるいはとても不利な条件のもとに生きていかなければいけない人がいる。では、どんなことが「強く・よく」生きていくことなのかというと、自分自身の状況にきちんと向き合いながら自己了解を深め、その自己了解に基づきつつ積極的によりよい自分の生を構想していくことではないか。単純に、初期設定に恵まれている人を「強者」と言おうとしているわけではなく、自己了解にきちんと基づいた生を自らつくろうと意志することが、ほんとうに「強く・よい」あり方である……という思いがその根底にはあるんじゃないか……ということが見えてきたような気がする。


 そうそう。それはそうだと思います。

ただね……少し微妙でね……。体力ですとか、遺伝ですとか、そういう実体な側面から、もともとエネルギーに満ち溢れた人がいるとか……そういうことを言ってしまっているところもあるんですよね。ナチが優生学に利用してしまうような「危なさ」が確かに混じりこんでいる。


 そうですよね。学生さんのコメントに「どうせ僕は弱者ですよ」というのがありましたけど、なんというか……「自我弱モード」になっているときに読むと、逆に落ち込んでしまうこともあるんじゃないかしら。少なくても自分の場合はそうだな。


 それはわかります。この言い方は少し行き過ぎているな、というところもたくさんあると思う。キリスト教をここまでののしらなくてもいいのに……ですとかね。強者・弱者にしても、すごく生物学的な、生理学的な匂いのする決めつけのしかたをしてしまっているところもある。ニーチェ自身がたいへん過酷な実存状況を生きてきたわけですし、なにしろ何度も自殺を考えたような人ですからね。バランスが取れているな、と思えるときの文章と、彼自身がルサンチマンの塊になっているとしか思えないようなときの文章とのバラつきが大きいですね。


 今日西さんからおうかがいできたことが、「ルサンチマンを克服していくための思想」という視点で、ニーチェから汲み上げられた最良のエッセンスということになるのかもしれませんね。自分自身という「キャンバス」にいま、どんな歪みや凹みがあるのかということをきちんと理解したうえで、そのうえに自分自身が楽しいな、素敵だなと思える絵を思い描いていく。そう発想を切り替えていくことができれば、「穴ぼこ」に落ちてしまったときにでも、そこから這い出るための手がかりが具体的に見えてくるように思います。

ただ、そうした自己了解を形成したり、あるいは今後の自分の生への希望を見出したりしていくためには、他者からの承認という契機がどうしても欠かせないような気がします。人と語り合い、人の言葉に励ましを受けてようやく立ち直れるようなことって、やはり多いですよね。自分自身の決意や努力だけで、自分のありようそのものを編み変えていくことは相当難しいことだと思う。ニーチェの思想からは、そうした他者からの承認という側面が伝わってこない気がします。


 そうですね。実は、学生からも同じ感想が出てきています。

「ニーチェの解決法は一人で乗り越えるものであって、他者を必要としない。……人と出会えてはじめて乗り越えられる障害もあると思う。」(2年女子)

自分自身の穴ぼこ……というかマイナス条件を、どうやって自分で受け入れて生きていくかというときに、人との関係というのはやはり大きなものだと思います。人との関係の中で自分自身のマイナス部分を受け入れていこう、受容していこうという気持ちになっていくプロセスもあると思う。その点、ニーチェは一人で全部解決しようとしているんじゃないか、という印象を受けてしまうところがありますよね。

あと……こんなコメントもあります。

「自分を自分で肯定するということはとても大切なことだと思います。強い自分だけでなく、真理に頼ってしまう弱い自分を受け入れることも……。常に自分を肯定するということは、自分と真剣に向き合うことから逃げているんじゃないかと思います。……だれも一人では生きられぬ。弱さが愛しくてその手をつないだ(好きな歌です)。」


 同感ですね。


 そうですね。自分でも「いやだなあ」と思いながらも、そういう弱い自分もいるんだということを含めて、自分のことを認めてあげる。それはとても大切なことなんじゃないかと思う。最初から、「ルサンチマンを絶対にもってはいけない」と思おうとすると、そのこと自体がまた苦しかったりするんですよね。学生たちからも、「ルサンチマンをもつな、といわれるとそれがしんどい」という反応がよく出てくる。


 それはありますよね……


 ニーチェには、ルサンチマンを持たずに、力強く生きるというヒロイズムがちょっとあるんですよね。

最終的には自分自身に与えられたこの条件、「このでこぼこしたキャンパスのもとで、おれはこういう絵を描こう」というところまでいければよいのだけれども、いきなりはそこに行けない。「自分は傷ついているな」とか、「おれ、自分で思っているよりはるかにまいっちゃっていたんだな」ですとか、自分が傷ついていることの認定、弱い自分の認定ということが、実は自己了解を組み立てなおしていくことのいちばん最初の土台になるべきだと思う。ニーチェは別にそのことを否定しているわけではない。でも、彼の言葉にはところどころ、「ルサンチマンをもたずに雄雄しく生きろ」「弱い自分であってはいけない」という匂い、響きを感じさせるところがある。このコメントを書いた学生はそれに反応している。とても鋭敏な子だと思いました。


 でも、なんかいいですよね。こういう話題を通じて、学生さんたちがこんなふうにしてお互いの実存を語り合えるというのは。それだけでなにかしら心励まされるものがありますよ。


 そうそう。みんなほんとうにひとりずつ、それぞれ自分の場所からニーチェの思想をしっかり受け止め、考えているんだな、ということが伝わってきて、ぼくもとてもうれしかったですよ。


 今日の最初に、共生感が次第に失われていく時代を生きること困難についてお話しいただきましけれども、そうした中で……西さんがいつも言っている「実存を語り合うゲーム」というのは、他者との関係に開かれながら自分自身の生のありかたを見つめ直し、自分自身が元気になれる生のストーリーを再構成していくためにはほんとうに欠かせない、大切なものだなあと思います。そのこと自体が、こういうふうに非常に楽しいものでもありますしね。

それに、ニーチェの思想って、ある意味相当な「メリハリ」はあるだけに、強い共感を与えたり、ときには反感を抱かせる。それだけに、自らの実存を見つめ、語り合って行くゲームを展開していくためには、格好のきっかけになるんだということもよく分かった気がします。