(関西現象学研究会活動報告)
〜今、ルソーにはまってます……
 (2006/1・3)


 
……西研   
 犬……犬端(管理人)


 京都に引っ越してから、現象学研究会の創設期以来毎回大阪から駆けつけてくれていた清風高校の居細工さんや橋口さん、また彼らのお友達たちを中心にして、関西現象学研究会をやっています。名古屋に住んでいる藤野美奈子さんもときどき来てくれています。

関西現研では、このところルソーをずっと読んでいます。最初に「エミール」を読んで、それから「新・エロイーズ」という恋愛小説を読みました。これがまた妙に面白かった。そのあとまた思想関係にもどって「人間不平等起源論」を読み、今はまた「告白」という自叙伝を読んでいます。これは晩年の作品で、「包み隠さず自分の人生を語るんだ」といって、幼少のころから自分の人生の全体のことを書いている。

どうしてルソーにそんなに惹かれているのかというと、まず、文章がすごく生き生きしているんですよ。表現がすばらしい。「新エロイーズ」も「告白」もそうですけれども、本人の情感や思いが、非常に生々しく伝わってくる独特の文体をもっている。ルソーは、フランス語の文体を変えた人としても知られているそうです。それこそ、「この人の魂が語りかけてくる」という感じで、いい文学を読んだときのような読後感があります。

それに、ルソーという人は、近代人がもった夢の形というか考え方の形というか、そういうものをひとりであわせもっているようなところがある。そんなところに惹かれるのかな。

彼はジュネーブの出身で、いちおう市民層の出身ですが、徒弟に出されて……時計職人の徒弟なんですけれども……つらくて脱走して、放浪しているうちにヴァランス夫人という慈善活動などもやっていた貴族の夫人とめぐり合うことになる。そこでいろいろ勉強させてもらったりする。それからパリに出ていく。最初は音楽家としてオペラなんか作曲し、だんだん成功していくんですよね。そしてあるとき、ディジョンのアカデミーが「学問や芸術は人の習俗をよくするのに役立ったか」というテーマの懸賞論文を募っていたんですね。そのテーマを聞いて、ルソーはハッとする。「学問や芸術は目立ったり、人から評価されたりするためのものになってしまっている。人の魂をよくすること、他の人に依存せず心正しく生きるためにはむしろ邪魔なものだ。自分自身の魂をみてみれば、そこにはやっていいこととよくないことがちゃんと書かれている。自己に立ち返らなくてはいけない」ということを論文に書くんですよね。その論文が当選して、それからは思想家として活動し始めて時代の寵児になっていくんです(「学問芸術論」1749)。

以来、政治思想の代表作である「社会契約論」に至るまで、彼は有徳な市民になることの重要性を説くわけです。人に依存しない、隷属しない、自由で誇り高い人間が連帯し、ともに社会を築き上げていく。そういう像を打ち出していく。「人間不平等起源論」(1754)から「社会契約論」(1761)に至るまでは、そういう思想の傾向が濃い。

話を戻しますと、彼は「学問芸術論」で成功したら、突然「自分は都会のなかの目立とう目立とうとする人間関係が嫌いだから田舎に引っ込む、シンプルな生活をする」とか言い出すなんですよ。友人たちはみんな「田舎のくらしに耐えられなくなってまたパリに戻ってくるんじゃないの」という冷ややかな見方をする。でもほんとうに引っ込んじゃうんですよね。彼は後年、「告白」(1770)という自叙伝で、こんなことを語っています……パリで「学問芸術論」や「人間不平等起源論」などを書いていた時期、自分の頭は「自律した誇り高く徳に満ちた人間」というイメージでいっぱいになっていた。でも、パリ郊外の田舎に引きこもってみたら、こんどは本来のシャイで気弱な自分に戻ってしまった、と。なんか、そういう極端な振幅のある人なんですよね。

で、田舎に引っ込んでから、友達がいなくて寂しかったのかもしれないけど、小説を書き始めるんです。恋愛小説をね。恋愛小説を書いて、その中の空想で自分を満たすということをしていた。そのとき、ときどき遊びに来てくれるドゥドト夫人という女性がいた。ルソーは彼女のことが好きになってしまう。でも、彼女には恋人がいるのですね。

ところで当時の上流階級は、妻も夫もそれぞれ恋人をもつのがごく普通のことだったようです。女性はきわめて若く結婚して、それから恋愛をするわけです。財産管理の面では結婚をしてしっかり保全しておいて、それから、ということだったのかもしれません。

ルソーは、彼女の恋人とも友人だった。でも、あまりにこのドゥドト夫人が好きになってしまったので……「一生に一度の恋」といっているんだけれども……彼女を口説こうとするんですね。でも、「わたしには恋人がいるからそれはできません」と断られてしまう。それでも二人は非常に親密に話をしあう関係になっていく。恋は実らないんですけどね。それで、このドゥドト夫人に対する恋愛(むしろ失恋)が「新エロイーズ」(1758)という小説となっていくのです。

「新エロイーズ」は二部構成になっいて、前半は「恋愛」が、後半は「友情」がテーマになっています。主人公のサンプルーは、若くて教養があるけれども市民層の身分であり、貴族ではない。財産がとくにあるわけでもない。そうした主人公が、貴族の娘さんであるジュリの家庭教師をすることになり、やがて二人は恋仲となる。二人のあいだには深い魂の結びつきが生まれるが、互いの身分の違いは大きな結婚の障壁となる。彼女は、父親をどのように説得するか、とか、結婚するためにいろいろ方策を考えるんだけども、やがて父親が自分の友人で、ずいぶんジュリよりも年上の男性を結婚相手に連れてきて、結局その人と結婚せざるをえなくなる。最初、彼女はその結婚を嫌がっていたのですが、結婚式のときに最終的に、サンプルーとの恋愛は捨ててこのだんなさんと生きていくことを心に決める。そして、傷心のサンプルーは「世界一周の旅」に出ることになるのです。当時イギリス海軍に、ほんとうに世界一周した船があったらしく、そこに乗船したということになってます。「さようなら」というわけで、第一部は終わります。

そして第二部。7年後にサンプルーが戻ってきてみると、元恋人のジュリと彼女の年上の夫は田舎の田園で静かで平和な暮らしを送っている。サンプルーは二人の間にできた子供の家庭教師となり、3人での生活がはじまる。そこにジュリの従姉妹で親友のクレールがやってきて、4人の生活となるのです。ここでは、お互いどうしがどれだけ心おきなく打ち解けた交わりを結べるかということが主題になっている。「恋愛」から「友情」へ、という感じですね。田舎の静かな暮らしと魂の親密な交わり。それさえあればほかには何もいらない。そうした心情がほんとうに生き生きと描かれています。ルソーは、ドゥドト夫人との関係を、恋愛ではなく友情という形で生き延びさせようとしたのかもしれない。それが小説にそのまま反映されている気もするのです。でも、小説のいちばん最後、ジュリは事故にあって死ぬことになるのですが、その前に、「わたしはもう恋愛は終わったと思っていたけれども、死ぬ前になって、やっぱりあなたのことが好きだったことがわかりました」という告白をする。それはルソー自身の願いかもしれないけどね。そして、「自分の年老いた旦那のことをよろしくお願いします」という手紙を託して死んでいく。

つまり、ルソーは、かつては誇り高く、侮辱やそういうものに対して力瘤を振り上げて戦おうとする人間だったはずなんだけれども、しだいに、恋愛と親密な世界に生きる喜びを求めていくようになるんですよね。

人間が自由であり自立していること。そうした誇り高い、徳をもった人々がともに社会を形成していくということ。それはいってみれば近代を生きる人間のひとつの典型的な像ですよね。
その次が、「恋愛」と「友情」。もちろん昔から人を好きになったり、仲良くなったりということは当然あっただろうけれども、近代になって自立した個々人というものが前面に出てくると同時に、そうした個々人がお互いの心を通わせ、お互いの魂をどれだけ近くに感じることができるかということが非常に切実な問題にもなってくる。

で、晩年はどうかというと……。ルソーはいろいろなことがあってしだいに孤立していくようになる。教育思想で知られる「エミール」(1761)が焚書になったり、宗教思想の点でカトリックからもプロテスタントからもクレームをつけけられ、危険人物になったり。大衆的な人気はとてもあるんだけれども、一種の逃亡生活みたいなことを強いられるんです。そんな中で晩年を迎えていく。

すると今度は、「自然との一体」ということを言い出す。自然の中を歩き、自然に包まれ、その中に自我が溶けていく経験のすばらしさのようなことを口にするようになる(「孤独な散歩者の夢想」1776)。


 かつては社会の中でだれにも負けない立派な人間であろうとした。でも、「自分」を競いあう一面もあるそうした社会関係でのゲームにだんだん嫌気がさしてしまい、むしろ互いの実存を深いところが配慮し合える関係を求めるようになる。……そうした心情は、よく理解できるし、共感もできる気がします。そういう面では近代人としての実存を突き詰めた形で生きた人なのかもしれないですね。


研 そうですね。最初にも言ったけれども、ルソーという一人の人間の中に、近代人のたどった夢の形というのが全部織り込まれているようなところがあるんです。若いころは文化人としての成功を熱望し立身出世をめざす。そのうち、出世や評判を求めるのが嫌になって、他者や評判に依存しない、独立した徳のある人間であろうとする。富も名誉もいらない、魂の自由と徳だけが問題なのだ、という感じですね。そして、そのような自由で独立した徳ある人間たちがともにつくりあげる社会を夢見る。しかしまた、次には、独立といったことよりも、他人とのあいだでのうち解けた親密な関係をこそ求める。恋愛と友情ですね。そうそう、ハンナー・アーレントも「ルソーは最初の親密性の思想家である」といってました(「人間の条件」)。そして晩年は、そういう親しい他者との関係さえも持ち得ないような気の毒な状況のなかで、自然との一体感を求めていくことになる。

こうしてみてくると、ルソーは、不平等を告発し社会の改革を求める「社会思想家」としての面だけでなく、後のニーチェやドストエフスキーにつながる実存思想の面もあわせもっている。近代精神が抱え込むさまざまなドラマを一人でもっているようなところがあるのです。ルソーという一人の人間の実存を通して、近代精神そのもののありかたが見えてくるという感じがする。その辺がぼくにとっては非常に面白いのです。

……ごめんね。けっこう突っ込んだ話になってしまったね。もっと短い話にすればよかったかな。


 いえいえ。ぼく自身、実存思想にもつながるルソーの一面って知らなかったですし、とても面白いですよ。そういうことって、これまであまり語られてきていないことじゃないですか。


 でも、一時期ルソーってすごく流行っていたんですよ。京都大学の人文研に桑原武夫さんを中心にした読書会があって、60年代にはさかんに読まれていた。だから、ルソー研究の蓄積はものすごくちゃんとあるんです。でも、80年代初頭でそれがいっぺん途切れてしまった感じがする。そのころからルソーの人気がなくなり、あまり読まれなくなってしまった。

それがどうしてかということなんですけど……ルソーってロマン主義の祖でもあるわけです。さっき晩年に「自然との一体」ということを言い出すようになった、という話をしましたよね。まず、そうしたロマン主義に対する批判が出てきたということが考えられると思います。西欧近代社会は「自然」や「未開人」を勝手に利用したり差別したりする一方、これまた勝手にそこに幻想を抱き、夢を繰り広げていったりしている。そういうロマン主義批判が出てくるようになって、ルソーの思想が「近代精神のもつ悪」の代表みたいにとらえられるようになってしまったのかもしれない。

「近代批判の矢面に立たされる」ということでいえば「告白」という名前の小説を書いていること自体が象徴的ですよね。この小説、というか自叙伝は、いろいろな文学者に影響を与えた。日本の私小説なんかにも影響を与えているらしいです。でも、その後フーコーが「性の歴史」の中で、告白という制度の問題性というものをドーンと出した。
……告白という制度はキリスト教の中ではじまった。性に関することなど、一切のことを人に語らせようとする。神父さんはそれを聞いているだけだが、「包み隠さず言わせる」ことによって、語る人を内面から支配する。語ることによって、ある意味で主体であり、かつ従属者であるものとしての人間が形づくられるようになったのだ。そもそも、告白という制度がなければ、性的なものを含めて自分自身の感覚を鋭敏に感知しようとする「内面」というようなものじたいが存在しなかった。つまり、告白の制度がなければ近代文学にしても哲学にしてもありえなかっただろう……そんなことをフーコーは言っているのです(『性の歴史』1976)。

告白というのは自分の内面を表出するわけですよね。お互いどうしの内面を語り合うことで、心と心が、魂と魂が通じ合うというように。ルソーの求めた親密な関係は、まさにそういうものだった。「新エロイーズ」は書簡体の小説で、つまり手紙のやりとりでもってつづられていくのですが、手紙という媒体は、相手に対する思い(ラブレターが典型ですが)を含む「内面」の表出であって、そこには魂と魂の通じ合いを求めていく面がありますよね。でも、そうした、「内面にこそその人の真実がある」という見方をポストモダン思想は全部ひっくり返したいわけなんですよ。おそらく、80年代初頭からポストモダン思想が席巻するなかで、ルソーへの評価や研究の蓄積がいっぺん途切れちゃったんじゃないかなと想像しています。このことは、今後もう少し詳しく調べてみようと思っています。

ただ、ぼく自身はこうしたポストモダンの考え方に対してはすごく批判的です。たしかに、告白によって、「自分自身に対して問いかける」ということが出てきたのかもしれない。自分自身の感触を確かめながら「わたしには罪があるんじゃないか」だとか「わたしはこれでいいんだろうか」というように内省することが、告白という制度の中で焦点化されていったという見方もできるでしょう。
でも、僕の考えでいえば、近代社会が成立し、人々に自由が与えられるようになれば、別に告白という制度がなくても「わたしはもっとこうありたい」とか、「こんな自分では嫌だ」というような自分自身に対する内省と問いかけが必ず起こってくるものだと思うのです。近代以前の共同体とは違って、人は単なる「役割存在」ではなくなるわけですから。つまり家長としての責任を果たせばその人はもうそれでまわりから十分に承認される、というような生き方ではなくなってしまうわけですね。近代人は、一方では役割を果たしながらも、そのように生きている自分自身の人生をどう考えるか(私はどのように生きたらいいのか、善悪や幸福とは何か)という主題を抱え込むようになる。また、そういう自分自身の実存としての領域について語り合いたいという欲求が当然出てくる。自分自身の魂の問題を語りたい、聞いてもらいたい、反応をもらいたいという欲求が必ず出てくるものだと思う。

そのとき、文字という媒体が決定的な役割を果たす。書くことによって自分をたしかめ、また他人に伝えていくということができるからです。小説の原型が書簡体にあるという話を耳にしたことがありますが、「手紙を書く」という行為は、自分の思いを書くと同時にそれをたしかめ、相手に届けることになるわけですから。そういう意味で、単に役割存在として生きるだけではなく、実存について語り合い、それによって心の結びつきを求めるようになった近代人には、手紙や小説は非常に大きな意味をもつメディアだったと思う。ルソーの「新エロイーズ」は、まさにその書簡体の小説なんですよね。

でもそれを、フーコーらに端を発するポストモダン思想のように「内面というようなものは近代的な制度によってつくりあげられたものにすぎない。内面に真実があるというような考え方そのものが幻想なんだ」と頭から否定してしまったら、近代的な生そのものを否定することになってしまう。「それぞれの人間が役割存在に解消されない生の場所をもっている」ということは近代人の基本的な生の条件ですよね。ぼくらは内面をもってしまうのだし、それを確かめ、語り合い、理解し合ったりしながら生きていくものなんだということをまず前提にしないと人生は構想できない。ぼくはそう思っています。

そういう面からみると、ルソーって、「書くこと」「語ること」によって、お互いの内面を通い合わせるということをすごく求めた人で、近代的な生のはじまりというか、そういう姿があるような気がするんですよ。そのことが、ぼくにはもうすごく面白い。これはいつになるかわからないけれども、ルソーのことは必ず本にすると思う。「ヘーゲル・大人のなり方」(NHKブックス)以来、ひさしぶりに評伝ものを書きたいという気分がわいてきています。ひとりの思想家の人生に付き合いながら、「こんなことを考えちゃった人ってどんな人なんだろう」ということを考えてみたい。


  ルソーを通して、一つの近代的な実存のありかたを浮き彫りしてみよう……というような感じでしょうか。


 そうですね。それはちょっとやってみたい。今回、関西現研でルソーを読み込んでいくなかで、そんな気持ちがむくむくとわいてきています。これは久しぶりに当たりクジをひいたなあ……みたいに面白いですよ。ルソーは。