二〇一二年に、私は竹田青嗣さん、マンガ家の藤野美奈子さんとともに『知識ゼロからのニーチェ入門』(幻冬舎)という本を出した(現象学研究会の方々にも年表や著作案内などで協力していただいた)。その「まえがき」を著者たちの代表ということで私が書いたのだが、そのさい、ニーチェが苦しみつつ「体験を黄金に変え、最大限に利用」しようとしたことを強調した。帯にも「体験を黄金に変えた哲学者」と大きく出ていたので、この言葉を記憶してくださっている方もいるかもしれない。
これはもともと藤野さんがニーチェの「書簡集」から見つけてきた言葉で、この本のなかの藤野さんのマンガ「ザロメとニーチェ−−恋のルサンチマン」(p.56以下)に出てくる。そこで藤野さんは、失恋と人間不信に陥っていたニーチェが、自分に言い聞かせるようにこの言葉を発しながらこの苦悩を乗り越えていったようすを鮮やかに描いている。このマンガを校正刷で読んだときには、ハッとさせられた。これまで語られてきたニーチェ像よりも、はるかにリアルで生き生きとしたニーチェの姿があると感じた。この言葉と藤野さんの描き方はニーチェの思想の核心を射貫くものだと思った私は、この言葉を「まえがき」に使わせてもらうことにしたのである。
『ツァラトゥストラ』(1883-85)のなかには、「苦悩をただ是認するのでは足りない、苦悩を含む自分の過去をみずから欲する≠フでなくてはならない」という意味の言葉(例えば第二部「救済」)がある。『ツァラトゥストラ』の直前に書かれた『悦ばしき知識』(1882)には「運命愛」という言葉もある。一言でいえば「苦悩を肯定し愛せよ」ということだが、ニーチェが具体的にどんなことを考えていたのか、その内実はわかりにくい。しかしこの「体験を黄金に変え、最大限に利用する」という藤野さんの発見した言葉は、その内実をきわめて具体的にイメージさせてくれるものだった。〈苦悩の体験を否定するな、むしろ苦悩から深い知恵を引きだせ〉と。
藤野さんはマンガのなかで、ニーチェ自身がこの「体験を黄金に」という言葉を自らに言い聞かせながら失恋と人間不信の苦しみを乗り越えようとしただけでなく、さらにその乗り越えの過程とともに『ツァラトゥストラ』が成立していったことを描いている。この藤野さんの描くニーチェによって、私たちは、彼の「運命愛」の思想をはるかに具体的な肉付きをもったものとして受けとることができるようになったと同時に、『ツァラトゥストラ』の内容をより深く理解する鍵を得たといえるかもしれない。(ちなみに、藤野さんご本人に尋ねてみたところ、この「体験を黄金に変える」という言葉じたいは西尾幹二氏か渡辺二郎氏の文章のなかでも取り上げられていた記憶があるとのことだった。しかし、この言葉をザロメ体験の中核に据えてニーチェと彼の思想を理解し、さらに『ツァラトゥストラ』の成立と深く結びつけたところには、藤野さんの独創があるといってよいと思う。)
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ところで、ニーチェの失恋の経緯をよくご存じない方のために、これを簡単に説明しておこう。ローマで知識人のサロンを開いていたマルヴィーダ・フォン・マイゼンブークという年長の女性が仲立ちとなって、ニーチェは聡明で知的なロシア人女性ルー・ザロメと知り合うことになる。一八八二年四月のことである。そのときニーチェは三七歳、ザロメわずか二一歳であった。
ニーチェの親友であったパウル・レーもザロメに魅せられ、すぐに求婚している。そのことを知らないニーチェも続いてザロメに求婚するが、ザロメはどちらも断っている。しかし彼女はレー、ニーチェ、ザロメの三人による知的な共同生活≠提案する。また夏にはザロメと、ニーチェとニーチェの妹はタウテンブルクという小さな町に三週間逗留し、ニーチェはザロメと毎日哲学を語り合ったが、そのとき深い精神の共鳴を感じたという。そして十月、とうとうライプツィヒで三人の共同生活が実現するが、しかしギクシャクしてうまくいかず、ザロメとレーの二人は去って二人で住み始める。
これだけをみると、よくある三角関係の決裂に見えるが、話を難しくしているのはニーチェの妹の介在である。妹にはザロメに対する嫉妬心があったようで、ザロメやレーのよくない噂をたえずニーチェの耳に入れている。ニーチェは結局、「ザロメとレーはすでに恋仲だったのに、それを自分に黙って共同生活をもちかけた。自分は彼らに裏切られた。レーは知らないところで自分の悪口も言っていた」と受けとったようだ。つまり、失恋のショックだけでなく、もっとも自分をよく理解してくれていると思っていた二人が自分を裏切った、という人間不信の苦しみがニーチェにとってより大きかったかもしれない。
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藤野さんは、ニーチェの立ち直りと『ツァラトゥストラ』の成り立ちを次のように描いている。−−人間不信で苦しい年末を過ごしたニーチェは、翌八三年の二月、『ツァラトゥストラ』第一部をわずか十日間で描き、元気を取り戻す。しかしそこにまた妹が「レーがニーチェの悪口を言っている」とニーチェの耳に吹き込み、ニーチェはふたたびひどく苦しむ。ニーチェは『ツァラトゥストラ』第二部を七月に書くが、「第2部のツァラは世俗と戦いもがき、疲れ、泣く…自分は生を直視できぬ、と」藤野さんは書く(前掲「ザロメとニーチェ」p.66)。つまり第二部のツァラトゥストラの苦しみは、ニーチェその人の苦しみでもあった、ということになる。
冬になってニーチェは『ツァラトゥストラ』第三部を書くが、そこには、牧人が喉に入り込んだヘビ(=ニヒリズムとルサンチマンの象徴)を噛み切って光り輝く存在になる、という有名なシーンが出てくる。そこで藤野さんはいう、「どん底のニーチェもへびと戦ったのだ。自分の哲学の勝利を信じて」。そしてここで例の書簡の言葉が引用される。「ぼくには自分の思考法や究極の哲学があるのだから……絶対に勝たねばならない」「体験を最高級の黄金に変え、最大限に活用すること−−!!」と。
翌年八四年の春に、妹への手紙でニーチェはこう言っている。「ぼくの知り合った知人のうち ザロメ嬢との交際が最も価値ある生産的な交際だった。この交際によってツァラトゥストラまでぼくは成熟し得たのだ」と。「そこにはへびを完全に噛み切ったニーチェがいる」と藤野さんはコメントしている(前掲、p.67)。
このように、『ツァラトゥストラ』が成り立つ過程は、そのままニーチェが苦悩を乗り越えていく過程であった、というのが藤野さんの示そうとしたストーリーだが、これにも「ナルホドそうだったのか!」と納得させられる。
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ところで、藤野さんから教えてもらった「体験を黄金に変える」という言葉は、もともとどんな文脈で発せられた言葉だったのか、に私は興味があった。その意味は、先ほども述べたように、苦しい体験を否定したり恨んだりするのではなく、そのなかから素晴らしい知恵をつかみ出す、ということだろう。しかしそれを「黄金に変える」という、まるで錬金術のような表現をしているところが気になるし、また、「ぼくには自分の思考法や究極の哲学があるのだから」という箇所では、その思考法や哲学が直接には「何」を指しているのか、ということが気になっていた。
それでこのたび「書簡集」をあたってみた。すると、体験を黄金に変える、という言葉が出てくる箇所が二箇所あることに気づいた。一度目は、三人の共同生活が解体した直後の、八二年十二月。かつてバーゼル大学の同僚であった友人オーヴァベックへの手紙においてである。この間がじつに辛かったこと、睡眠剤を大量に飲むがいっこうに効かないことを述べて、ニーチェは言う。「錬金術師の芸当でも考案して、この泥から金でも造り出さないなら、僕はだめになってしまう。−−僕にとって「あらゆる体験が役立ち、毎日が聖なる日で、すべての人間が神々しく」みえる!!!とこう論証する世にも素晴らしいチャンスが僕にはあるのだ」(『ニーチェ書簡集T』ニーチェ全集別巻1、塚越敏訳、ちくま学芸文庫、1994年、p.597)
錬金術師のことはともかく、なんとしてもこの苦しい体験を金に変えなくてはならない、というニーチェの思いが伝わってくる。その次の文はやや読みにくいが、〈あらゆる体験が役に立つものであり、すべての人を憎むのではなくすべての人から学ぶことがある、そういうふうに自分は生きていきたいし、じっさいにそのようにできるということを身をもって実証したい。そうやってみるチャンスに自分はいま恵まれている、ともいえるんだ〉というようなことだろう。
しかしそう書いたすぐ次に、ニーチェはこう書き付けている。「僕の疑惑はいまやすこぶる大きい。いま耳にする一切から、僕は僕にたいする軽蔑を感じている。たとえば、最近ではローデの手紙からだ」。
ローデは学生時代からの親友で、古典文献学をリッチュル教授のもとで学んだ仲間である。ニーチェの処女作『悲劇の誕生』(1872)がほとんどの古典文献学者から批判されても、ただ一人ニーチェの味方となってそれを支持した。さらに「ニーチェの独創的発見をローデは一生かけて実証したといってよい」(大沼忠広「ローデ」、渡辺二郎・西尾幹二編『ニーチェ物語』有斐閣ブックス、1980年所収、p.43)ともいわれている人物である。そんなローデがニーチェを軽蔑することなどありえないだろうから、ニーチェはよほどひどい人間不信に陥っていたように思われる。
このあと、ニーチェは二月に『ツァラトゥストラ』第一部を書いて少し元気になり、くり返しになるが、妹によってまたひどい不信に連れ戻され、七月にようやく第二部を書く。七月半ばのマイゼンブーク夫人への手紙では「レーとルー[・ザロメ]というこの二人の人物は、私の靴の底を舐めるだけの値打ちもない」と痛罵していて、ニーチェの苦悩の深さがわかる。しかしそれから一ヶ月ほど経った八月半ば、オーヴァベックへの手紙のなかで、ニーチェはふたたび「体験を黄金に変える」と書く。
−−自分のなかには「仮借なき暴君」がいて、これまで苦しんできた肉体的な苦痛だけでなく、こんどは精神的な苦痛に対しても「勝つ」ようにと望んでいる。そして「なんといっても自分の思考法や究極の哲学があるのだから、ぼくはそのうえ絶対的勝利を必要としているのだ。−−つまり、体験を最高級の黄金に変え、最大級に利用することなのだ」と(前掲『ニーチェ書簡集T』、p.620)。
これをみるかぎり、ここでの「自分の思考法や究極の哲学」とは、まさしく「体験を黄金に変え、最大級に利用すること」であることになる。泥のような体験からも最高級の知恵を見いだすような、そういう姿勢で生きること、だ。しかしこのような「哲学」を、ニーチェはいつごろ、どのようにして獲得したのだろうか?
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処女作『悲劇の誕生』のとき、すでにニーチェは、苦悩を是認し肯定して生きるという思想を語っていた。それはおよそ以下のようなものである。−−「すべては一つ」であり、「根源的一者」だけが実在している。この根源的一者から個体(個人)はみずからを分かつ。つまり、自分だけの個人的世界を幻想として作り出し、それを安全に保とうとする。しかしそれは結局は無駄である。他の個体との関わりが必然的である以上、その関わりのなかで個人の自分だけの世界は滅ぼされ、「苦悩」を体験せざるを得ない。しかしこの苦悩は同時に、個体性を捨てて根源的一者へと溶解することであり、そこには「歓喜」もまたある。「個体化は悪の根本原因であり、芸術とは、個体化の束縛を破りうるという喜ばしい希望のことであり、融合帰一をあらためて回復することへの予感なのである」(西尾幹二訳「悲劇の誕生」『世界の名著57・ニーチェ』、中公バックス、1978年、p.509上。クレーナー版S.99)。
つまり、「苦悩とは個体性を捨てて根源的一者に戻ることである」という一種の「形而上学」を当時のニーチェはもっていて、そこから苦悩が正当化されていたことになる。このくだりは、連続性への憧憬を語った後のバタイユを思わせる。「私たちは非連続の存在であり、理解できない運命の中で孤独に死んでいく個体であるが、しかし失われた連続性への郷愁(ノスタルジー)をもっているのだ。(中略)この死ぬべき個体の持続に不安にみちた望みをいだくと同時に、私たちは、私たちすべてを存在に結びつける、最初の連続性への強迫観念(オブセッション)をも有している」(ジョルジュ・バタイユ、『エロティシズム』渋澤龍彦訳、二見書房、1973年、p.19)
バタイユは、人間の欲望を「自我を保とうとする欲望」と「自我を解体して連続性へ到ろうとする欲望」の二元性でもって捉えたが、バタイユのこの説は、後期のニーチェ説よりも、むしろ前期の『悲劇の誕生』に影響されているかもしれない。この論点を追求してもおもしろいが、いったんおいてニーチェに戻ろう。
この「根源的一者」の想定を、しかしニーチェは捨てていく。『人間的な、あまりに人間的な』(1878−1880)を書いた中期のニーチェは、冷静かつ懐疑的な「反=形而上学者」となって、ロマン主義的な根源的一者も否定していく。しかし根源的一者の想定がなくなれば、苦悩の体験を肯定する理由もなくなるはずである。では、苦悩の体験をも肯定し、それを利用するという思想を、ニーチェはどこから得てきたのか?
中期の冷静かつ批判的・合理的に見えるニーチェは、実生活ではひどい眼病と頭痛と吐き気とに苦しめられていた。この身体の苦痛(と、おそらく「なぜ自分だけがこんな目にあうのか」というような恨み)にどうやって耐えるか、という問いは、彼が生きのびる≠スめに、きわめて切実なものとなっていたはずである。
そのとき、「苦悩によって根源的一者へと還帰する」という『悲劇の誕生』の思想は、日々苦しんでいるニーチェには、もはや真実味をもたないものになってしまったのかもしれない。しかし「根源的一者」や「神」のような、苦悩を正当化し意味を与える「形而上学」をすべて捨て去ったとき、では、苦悩に耐える理由をニーチェはどこから見つけることができたのだろうか。
その解決の予兆は、中期の終わりとも後期の始まりともいわれる『悦ばしき知識』(1882)に見ることができるように思う。この本は、ザロメに会う直前に脱稿したものだが、そこには永遠回帰説や『ツァラトゥストラ』の予告が入っているだけでなく、「運命愛」についても語られている。以下に引用するのは、ザロメと会うことになる一八八二年の年初にあたって書かれた断片である。
新しい年に
私はいまだ生き、いまだに考えている。私はまだ生き続けなければならない。(中略)私も言わせてもらおう。どのような思想が新年早々に私の心をよぎったか、−−いかなる思想が、私がこれから生き続けるための理由となり、保証となり、甘美さとなるべきかを! −−事物における必然を美と見ることを、私はますます学びたいと思う。−−そうして私は、事物を美しくする者たちのひとりになりたい。運命愛(amor
fati)、これをいまから私の愛としよう! 醜悪なものに闘いを挑むのはやめよう。私はひとを非難することを望まないし、非難する者を非難しようとさえ思わない。目をそむけること−−これを私の唯一の否認のあり方としよう! 要するに、私はいずれは、一個の全面的な肯定者になることを願うのだ!(『悦ばしき知恵』村井則夫訳、河出文庫、2012年、§276、p.285f.)
ニーチェにとっていちばん大切なものになったのは、根源的一者のような形而上学的想定ではなく、「悦ばしく生きること」だったのにちがいない。どんなことが起こっても、それを肯定する生き方。醜いものからは目を背け、苦しい体験からは学ぼうとする生き方。「悦ばしく生きる」ためにこそ、そうしよう。しかしそれだけではなく、そのような生き方がじっさいに可能であることを、「一人の生の実験者」として自分の身をもって実践してみせること、これを行おう。
私という一人の「個人」が悦ばしく生きるために。しかし同時に「思想家」として、これを一つの生の実験として行い、未来の人々に示すためにもそのように生きてみせる。この二つのことによって、ニーチェは自分の生を支えようとしたのだと思う。
年初にこのように書き付けたニーチェは、しかし、この年に大きな挑戦を受けることになる。ザロメやレーに対して「靴の底を舐める値打ち」もない、と言い放ったりするほどの精神的苦悩をニーチェは体験する。そのとき彼は、このみずから立てた「運命愛」の思想を愚直に実践しようとした。その愚直な実践のさいの言葉は、しかし「運命愛」ではなく、「この体験を最大限に利用し、体験を黄金に変えること」というものだったのだ。
「ザロメ、レーとの体験から私は何が学べるか?」――彼はおそらく何度も自問したにちがいない。その自問は、どのようにしてニーチェを「『ツァラトゥストラ』へと成熟」(妹への手紙)させたのか。さらにこのことを問うてみたくなるが、それは次の機会に譲り、いったんこの話はここで終わりにしておきたい。
(了) 2015/06/14
「体験を黄金に変える」−藤野美奈子の発見≠オたニーチェ―
西 研