もぎたて語りおろし(2004/6.17出荷)



『不美人論』をめぐって(2004/4・18収録)

 
……西研   
……藤野  犬……犬端(管理人)




男は、女性の美しさの背景に「何か」を求めている?


 ここは新宿ルノアールにある「和室」。昨日は、新宿朝カルで、西さん・藤野さんおふたりそろっての『不美人論』講座がありました。で、西さんは引き続き同じ朝カルでヘーゲル「法哲学」の講義を……恒例の「ロビー談義」(毎回講義のあと、講師の西さんと竹田青嗣さんを囲んで受講生がロビーに集まる。おふたりが講義その他の質問に丁寧に答えてくれる)も含め夜9時までなさって……藤野さんは、ここでは受講生として参加。

さすがにお疲れのご様子です。


(入室早々ダウンする二人)

 ごめんなさい。昨日からずーっとこの話題、集中してやってきたから。今日は何を話したらいいかと……

  あ、だいじょうぶですよ。いつもだいだい、こういう「ゆるーい感じ」で始めてますから。

 ですよね。さて……ええと何から話しましょうか……あっ、そうそう、犬端さん、講座のあと(受講生20名ほどがお茶を飲みながら、講師のおふたりに感想を伝えていたとき)「子どものころ、お母さんがいちばんきれいだと思ってた」っていう話をしていたよね?

 あ、いきなりそこから来ますか。

 うん。たしか、「男性は女性の『美』の背景に何を求めているのか」ということを話題にしていたんだよね。で、犬端さんの場合は、子どものころは母親のことがいちばんきれいだと思っていた。でも、思春期になって、一般の美醜感覚のようなものがだんだん芽生えてくるにつれて、「特にきれいでもないのかなー」と思うようになっていった……そういうことを話していたよね。

 ぼくが大人になるにつれて、母親自身が、容姿に恵まれていないことを目の前で嘆いていましたしね。「もっと鼻が高ければ」だとか、「顔のここがこうだったら……」というようなことをたまに言っていましたし。

 でも、男性が「子どものころ、ママがいちばんきれいだと思っていた」って話、最近私の年齢があがったせいか、あんまりまわりで聞かなくなっているから、新鮮に思いました。でも、そういうのも、本音のひとつとしてはあるんだろうね。

 「マザコン」と思われたらかっこ悪い、というのがありますから、まあだんだんとそういうことを人前では口にしなくなるし、ぼく自身もしばらく思い出したこともなかったんですけど……きのう、講座に参加された方たちとか、(「受講生」として参加した)竹田青嗣さんと話しているうちに、ふと思い出した。小学校中学年くらいまでは、たしかに母親がいちばんきれいだと思い込んでいました。

 子どものころって、「関係の好ましさ」が美醜の感覚に直接反映されていく、ということだよね。

 そんな感じがしますね。「好ましいものがきれいにみえてくる」っていう体験の原型かもしれないですね。それで、思春期を境にして、テレビに出てくる女優だとかタレントとかみているうちに、「世の中的にいうと『きれい』ってこんな感じ?」っていう尺度が、それはそれとして身につくようになっていった……というようなことかもしれないですね。 

 あのとき、……これは『不美人論』にも出てくるんだけど……たしか、映画の『美女と野獣』のことをみんなで話題にしていたよね。むくつけき男が、がんばって成功して、ヒロイン役の美女の愛を勝ち取っていく。そういう、ある種決まりきったようなパターンが映画だとか物語にはあるんだけれども……

 そういう男性視点の、典型的なロマンスに対して、私はしらけてしまうところがあるんです。ただ、その美女に自分を素直に投影できる女の子はいっしょにロマンが持てるのかもね。心も姿も美しいお姫様に自分がなっちゃうような夢。中国では美青年周恩来と不美人の妻とのロマンス物語があって女性に大人気だと聞きましたが、はたして男性はそのロマンに共感してるのかなあ。女性だけの楽しみである少女小説のようなものではないかなあ。少なくとも男性視点であるとはいえ、美女と野獣は男女共に、というか世間一般で受け入れられてるよね。
 でも私はやっぱりどこかひっかかる。ヒロインの心が美しいのはいいんだけど、美女であることは絶対条件みたいで。

 でも、竹田さんが、男性が女性の「美」を通して感じ取ろうとしているのは、実は「やさしさ」とかそういうものなんじゃないかっていう話をしたんだよね。

 女性の「美しさ」の向う側に求めているものがあるんじゃないかって。それは、基本形としては母親の好ましさ、やさしさにつながっているんじゃないかって話したのよね。

 やさしく受けとめられている関係の「快」の感触が、美醜の感覚につながってくる、ということは、自分の幼少期のことを思い出してみても着実にいえると思いました。

 あのとき竹田さん、「男の人って、美しさだけじゃなくって、やさしさまで求めるわけなんですかー」って女性聴講生に文句言われていたけど(笑)。でも、やさしさだったら、努力でなんとかなるような気もしてくるよ。女性から見ればけっこう希望がもてると思う。

 性格というのは、ある種、意識のもちようで変えられるところがあるじゃないですか。でも、見た目の美醜というのは、あらかじめ与えられてしまっていて、努力では変えられない部分で、それがすごく投げやりな気持ちを起こさせるわけだよね。でも、男性が女性に求めているのは、ただ「見目麗しい」という部分じゃなくって、その背景にあるものだとしたら、(自分の魅力というのは)もっと別の形でも出していけるものなんだなと、思えるようになってくるじゃない。しかも、やさしさだけじゃなくって、それぞれ自分にあったように、もっといろいろな魅力の出し方があると思うし……

 そうだよね。そういうふうに思えたら楽になると思う。

 すべては生まれつき与えられた(容貌の)「形」によって決まってしまうのだったら、どうしようもなくなってしまう。でも、実は「形」の背景に求めているものがあるんだっていうことが分かればね、それに対しては工夫のしようもあるじゃないですか。
  でね、どういうようなことを美醜の背景に男の人が求めているのかな、ということをもっと知りたいな、と思ったの。女性は「形」が、まずは男の人に対して女性的魅力を発揮する重要なものなんだ、と思ってる人は多い。もちろん面食いではない男の人もいますけど、やはり不美人では、男の人には好かれないし、愛されにくいと思ってると思う。でも、男の人が女性に対して、どんな「よさ」を求めているのかということを、実際に聞いてみると、意外にそう絶望的に決めつけることもないんだってことが分かるかもしれないし、それって面白いよね。

 ちょっと整理するとね、この美醜についての問題って二つの側面があると思う。まず一つは「男の人は女の人の容姿の美に何を見ようとしているか」ということ。いまみなっち先生(藤野さんの愛称です。念のため。)がいってくれたことだよね。みなっち先生も『不美人論』で言っているけど、具体的なだれかと愛し愛される関係、自分という存在が受け入れられる関係をつくれることで、美醜にまつわる悩みはかなりの部分が解決されるところがある。そのためにも、相手である男の側が女性の容姿に対してどういう感触をもっているのかを理解するのは、けっこう大切なことだと思う。

でも同時に、美醜は「自己イメージ」に関わることでもあるよね。自分自身が「素敵な自分」ではないと思えるととても苦しかったり、逆に、自分が素敵だと思えると元気になってきたりすることがある。そういう、「自己イメージをどのように形づくっていくか」、という側面からも考えていく必要があるよね。女性が、「自分のためにおしゃれをする」っていうのは必ずしも嘘ではないと思う。自分のことを素敵だな、かっこいいな、きれいだなと思えると、すごく積極的に他人に関わって行動していける。そういう面は確かにあるよね。そういう「自己イメージの形成」ということでいえば、男にとって自分の容姿のもつ意味と、女の人にとって自分の容姿のもつ意味というのは、まただいぶ違うところがあるだろうな、と思う。

 そうだね。女性が自己イメージを高めるためにはやっぱり自分の容姿のことを「きれいだな、かわいいな、自分なりにそこそこいけてるな」って感じることが大事だと思うの。その次に「性格、ちゃんとしてるな、才能あるな、お利口だな、かっこいいな」などなどが来るんじゃないかな。どんなにばりばり仕事できても、鏡に映る姿がやつれてしわくちゃだったらがっくり来そう。女の人が自分にロマンを持つためにはどうしても容姿の比重が男性より重くなると思う。女の子は小さい頃からきれいに着飾ったり、お化粧したりするの一般に好きだもんね。「自分はきれいで大切にされる花」みたいなイメージを追うのかな。それは外から強要されているだけではない感じする。


「関係の喜び」の中心はどこにある?

 それで……まず、「男がどんなことを女性に対して何を見ているか」ということに関してだけど……犬端さんの場合は、「母親的なやさしさ」が核となっているという竹田説が、けっこうあたっているなあ、っていう感じですよね。

 うーん。男の人がきれいさから女の人に求めようとするものって、もう少し性的なものだと女たちは思っていると思う。「きれいだ」っていうことを通じて、「やさしさ」というよりは、なんかもっとこう……「どきどきする」時には「ぐっときちゃう」っていうか……それこそ「女」を感じてるんじゃないかって。もちろん「やさしさ」とか「性格の美しさ」ということもあるのかもしれないけれども、何よりも「女性」としての魅力があるんじゃないかって思うわけよ。

女の子って「『不美人でやさしい人』よりも『美人でつんつんしている人』のほうがもてる」って、どっかみんな思っているんじゃないかな。それは女の誤解なのかな。

 そうだね。「性的魅力」という点でいうと、見栄えは圧倒的に重要だと思う。男性の場合には、相手のことをよく知らなくてもその魅力だけでセックスできるところがあるから。だから水着写真やヌード写真が氾濫しているわけだよね。男性のエロチシズム(性的な欲求)という点でいうと、きれいでありながら少し挑発的な誘う感じが入っているとグッとくる、というのが基本形じゃないかなあ。

バタイユの『エロチシズム』という本があるんだけど、「ふだんは手をふれることが禁じられているきれいなものを侵す(犯す)、ということがエロチシズムの本質だ」というふうにいっているんだよね。これには多くの男性が納得するんじゃないかと思うんだけど(笑)。だから、容姿がきれいであると男性が感じることは、エロチシズムが発動する条件としては必要。

ただ、ここで、時間の経過ということは大きなポイントになる。とくに容姿が現代の美的基準でいって美しいということはなくても、話し方とかふるまい方とか雰囲気とか、そういうことが積み重ねられていくと、だんだんかわいくみえてきたり、きれいにみえてきたりする。きれいにみえる、というのは男性が恋するためには(ないし「いい感じの人だなあ」と思うためには)絶対に必要なことだけど、でもそれは時間の経過を前提にすれば、容姿がきれいでなくても充分可能。

でも問題は、そのときの「きれい」ってなんだろう、ということだよね。いくつか要素を挙げられるんだろうけど、その一つに「やさしさ」というのは確実にある。それがどういう「やさしさ」か、ということはあるけど。

 「人間としてのやさしさ」というより、「女性としてのやさしさ」なのかな。

 竹田さんは「包容力」って言っていたよね。やっぱりこう包まれる感じだとか……自分がいることを受け入れてくれて……

 つまり、「お母さん」みたいな感じ?

 うん。「お母さん」だろうね。ふつうは「包容力のある男」っていうんだけど。

 「女性的な包容力」だよね。

 うん。なんか包まれる感じっていうのはあるよね。

 ちょっと話がそれちゃうかもしれないですが……自分がだれかを「好ましく」思うときって相手にどういう「よさ」を見いだしているのかなと考えてみたんですよね。そうすると、その人が「自己イメージ」に「対処」しているありかたひかれている部分は多いな、と思ったんですよ。要するに、自分の資質や与えられた条件にきちんと向き合ったうえで、他者からの視点も公平な感度で取り込んで自己像を形づくってるような人ですね。あと、お互いどうしの関係の中で「よい」と思えるものを楽しみながらつくっていける感覚をもった人ですとか……そういう人を好きになっていることが多いな、と考えたんです。でも、それって特に女性に限定したものではない。

じゃあ、殊に女性に対してどのようなことを求めているのかというと……さっきから話に出ている「やさしさ」は、やっぱり一つにはあると思いました。「やさしさ」というか、西さんもおっしゃっていたけど、「受け入れられる関係の快」ですよね。

自分の母親の場合、客観的に見て必ずしもやさしい人だったわけでもなかったし、やさしくしようと意識的に努めていた人でもなかったように思う。むしろどちらかといえば我の強いタイプで、仕事をばりばりやりながら生きていく、という感じの人でした。でも半面で、愛情をもって人に接しようとする資質は、「母親」という立場を離れた部分でも、相当にもっている人だったと思う。自分自身、母親との関係の中で精神的な安定を得ていたところがありましたからね。そういう「関係の快」を「美しさ」と重ねて感じていたのは、もちろん幼年時代限定のことだったわけですが。

もちろん、「やさしさ」という、自分という存在を受けとめてもらえる関係の快だけから、女性の美醜に対する幻想が成り立つものじゃあないとは思いますよ。造形的に均整がとれている美しさに惹きつけられるという部分は、自分の中にもありますし。

でも、西さんがさっき「時間の経過」っておしゃったことにつながるのかもしれないけれど……お互いのなかに固有な「よさ」を見出しあうことから生まれた、具体的な相手との関係を、さらに「よく」しながら持続的に積み上げていける、ということがやっぱり「関係の快」としてはいちばん大きなものじゃないかな、と思います。そういうことからみると、「造形的にすごく整っていて美しい」ことは、それほど重要な部分ではないような気はしています。藤野さん、「哲学関係で出会う男の人って女の人に対する見方がゆるい」って言っていましたし、あんまり一般的な考え方じゃないかもしれないけど。

 いや、それはだいたいみんな同じだと思うよ。たしかに、エロティックな魅力や、そういうものを発散していると感じられる容姿というのはあるし、男の場合、その人が何ものであるかにかかわりなく、そうしたものに引き付けられてしまう部分はある。でも、それは、相手との持続的な関係のなかで、いっしょに何かを作りあげていこう……というようなのとはちがうことだよね。

 うん。例えば、テレビで見ているタレントさんをきれいだな、いいな、と思う幻想と、具体的な誰かと理解し合い、お互いの世界を交流させていくなかで深い喜びを味わいたいという幻想とは、あんまり一致してないですね。

 犬端さんはさっき、「自分の資質や与えられた条件にきちんと向き合ったうえで、他者からの視点も公平な感度で取り込んで自己像を形づくってるような人」っていったでしょう。これが犬端さんなりの「きれい」なんだよね。平たくいうと、よく自分のことがわかっていて自他をフェアに見つめることができること。こういう人を犬端さんは「生き方がきれい」と感じるんだと思う。それともう一つ、関係のこともあったよね。ぼくなら、関係の努力ができる人、といいたいところだなあ。関係のなかで困ったことやトラブルが起こったときに、相手にそれをきちんと伝える努力をすること。そういうキャッチボールができる人。

昔、「カップルの間でトラブルが起こるのはあたりまえ。そのときにきちんと互いの感じをききとって解決したり工夫したりできると、愛情が復活する」という法則(?)について考えたことがある。そういうことができないと、相手がいかに自分を愛してくれていても辛くなる。逆に、向こうもしんどいところがあるのに、やっぱりこちらを理解しようとして努力してくれているんだなあと実感できると、それには感動するから、だから愛情が復活する。つまり、ただ受け入れるではなくて、そういうことができる人には「きれい」を感じる。

これはカップル関係でなくても、一般に他者との関係に対してどう態度をとるかをみてると――たとえば学生たちがまわりの人たちとの関係がギクシャクしてきたときにどうできるかをみてると――「この子はいい子だなあ」と思ったりすることはある。

こういう「生き方のきれいさ」はとっても大きな魅力になるものなんだけど、でもこれは残念なことに、何かのつきあいができてきてからのことだよね。また、何をきれいとみるかの個人差もかなりあるかもね。

 そういう男の人の感じ方がはっきりと実感できて納得ができれば、女性側は救われるのかもしれないけれども……。でも、美しさや性的魅力っていうのには即効性があるじゃない? その場での男性からの扱いが露骨に違ってくるから、なかなかねえ。
 ちょっと話が変わるけれども、きれいじゃなくても「色っぽい」人ってすごく自信があるのよ、女の人の場合。それが昔、とても不思議で。わたしたち女性から見て、容貌はあまりぱっとしなくても、自信に溢れているような人がいる。たぶん色っぽさは男性に対して即効性があるせいだよね。もしすぐには好かれなくても、決して男性には嫌われない、拒まれないという自信なのかもしれない。

 色っぽい人か。でも、ふだんなかなかいないよね。仕事の場面とかだったら、あんまりそういうところは出さないようにするだろうし。

 うん。微妙だけど……やっぱりいますよ。「なんとなく色っぽい」という感じで、そんな発散しているという感じじゃないけれども、「この人自分の色気を知っているな」っていう人。で、人間って、男も女もみんなそうなのかもしれないけれども、異性から愛されるっていうことがものすごく自己イメージを高めるということがありますよね。いくら人格的にすぐれていても、それだけではちょっとさみしいっていう感じがある。男性の場合は分からないけれども、女性の場合は決定的にそれがあると思う。これって自己イメージのつくりかたっていう側面での話になってしまうかもしれないですけど。

 女性的な魅力って、たしかに見た目の美しさですとか、色っぽさですとか、そうした即効的な部分、いってみれば「匿名性の段階でのアピール」部分もあると思うけど……それとは、また別のところから沸いてくることも多いように思うんです。「人格的すぐれている」というのとはちょっと違う気がするけれど、この人のこういうところが好きだな、いいな、という経験が積み重なってくると、容姿にしてもどんどんきれいに見えてくるし、だんだん性的な魅力も感じるようになってくる……ということはありますよ。これもあまり一般的ではないですか。

 いや、それは、ほんとうにそう思うよ。

 その人との具体的な関係の中で女性性を受け取りだすと……たとえばやさしさであるとか……その人にも性的な魅力を感じるようになる、ということでしょう。そういう順番があるっていることだよね。そういうことを女の子が自覚できるようになればいいと思うし、そういうことを、それこそ男の人とも討論し会える場所がもてたり、実際に男の人と長いスパンで付き合える機会があったりできれば、全然違ってくると思う。

だけど、たぶんみんな、ふだん即効性に「やられてしまっている」ので、なかなかそういうようには考えられなのが現状かな。だって、美人って、どこの場所にいても生き生きとできるし……

 たしかに有利であることには間違いないんだけれどもね。

 うん。逆に不美人だと、そういう最初の段階で、「不美人であるため男性に歓迎されない自分」というのを意識しておどおどしちゃったり必要以上に大人しくなってしまったりね。その繰り返しで「自己イメージ」への確信もだんだんなくなっちゃって、「美人」との「差」がさらに激しくなってしまう。男の人が、そんなにぱっと見だけの美醜で人を選び取ったりしないということが、ちゃんと実感として分かればいいんだけれどもね。

 うん……でもたしかにね……ぱっと見で、どの人がきれいか、ということになると、だいたいは順番が決まってしまう。それぞれの好みの違いという部分はあるとしても、美醜の感覚はある程度一致している、という部分はある。
 だからぱっと見で、きれいに見える人はたしかに有利。これはまちがいない。でも、男がそこだけで付き合っているかというと、そうではない。『不美人論』にもでてくるけど、みなっち先生がそういう経験をしてきた「合コン」の場合、むしろそのことだけを競い合うゲームになっているから、特に実感させられるのかもしれないけれど。

 うん、たしかにそこだけを競い合う場所だからね。短時間の集団見合いに近いもの。

 だよね。だから、入り口として関係をつくっていく際には有利かもしれないけど、そうした美醜だけで女の人を選んでいるかというと、それはないと思う。だってさ、いくら一見きれいに見えたって、めちゃめちゃいやな人だったらね……。

 むしろ許しがたいものを感じてしまうことすらある。

 うん。そういうように「許しがたい」と思ってしまうのって……たぶん自ずとぼくら男性がそこに清らかなものであるとか、好ましいものを勝手に直観してしまうので、裏切られた感じをもってしまうのかもしれないよね。

 それもありますけど、「自分は特別なんだ」ということを前提に振る舞っている「美人」を見ると、「別に特別なんかじゃないよ」って反感を抱いてしまうことが多いですよ。「自己イメージ」のつくりかたに共感できない人には、基本的にあんまりひかれないですね。

 それもあるね。自分はていねいに扱われて当然、みたいな態度にはカチンとくるからね。ところでさ、男が女性に求める清純さってなんだろうっていうのもちょっと考えてみたい気がする。僕の場合は、「清らかなものを見る」は絶対なんだよね。それはまた、エロティックな関係とはまた別のもので。とくに中高生の時代を考えると、清らかなものを相手の中に見いださないと、……恋するっていうふうにはならなかったなあ。ぼくは。どう? 

 あ。そう言われてみると、「そうだな」としかいいようがありませんね。なんかそういう「幻想の同形性」ってあるものなんですかね。

 うん。何をもって「清らか」っていうと、それはいろいろあるよ。例えば、さっきもいった、生き方に潔さがあるという清潔感だとか、いろんなパターンがあるとは思うよ。たぶん犬端さんだったら、さっきから「自己イメージ対する関わり方の姿勢」っていうことを言っているけど、つまり、自分自身のあり方をよく分かっているという面での聡明さがないと、その子のことを素敵だと思わないし、あんまり「清らか」だと思わないんだと思う。聡明さというか……自分自身のあり方をよく見つめている、そういう生き方をこの人はもっているんだなと思ったときに、この人は素敵だな……と思う。そういうことがあるんじゃないかな。

 それも「そうだ」としかいいようがないですね。自分に対する……なんというかこだわりと謙虚さをバランスよくもっていて、できるだけ「よい」自分でありたい、という姿勢で一生懸命ものごとに関わっているような姿をみて、「いいな……」と勝手にしみじみしていることは往々にしてあります。

美醜の秩序はほんとうに「動かない」ものなのか?

 いずれにしても、思うのは……男が女性に対してひかれる要素にはいろいろあって……いまの「清らかさ」ですとか、さっきの「やさしさ」「包容力」だとか、そういうお互いの関係性のなかで見出していくような魅力がありますよね。一方で、もちろん「匿名性の段階での魅力」……というか「ぱっと見の美しさ」もある。テレビを見ながらだれそれがきれいだなと思ったり、クラスのだれそれがきれいだとかいう話をしたり……というレベルでの幻想性ですね。でも、それは関係の快を求めるうえでは、必ずしもプライオリティーの高いものになってはいない……ということはいえるんじゃないかな。

 で、藤野さんの『不美人論』の場合、美醜というのは「先天的」で「動かしがたい」ものとしてある、ということをまず立脚点にしていますよね。たしかに、さっきも西さんともお話していたように、ぱっと見でだれが美しいかという話をすると、ある程度一致をみてしまうことが現実にある。でも、だれかを「きれいだ」「きれいじゃない」というふうに受けとめること自体にしても、実際には相当に「動いていく」部分もあるように思います。最初は特に印象に残らない場合でも、相手の中にある「よさ」にひかれているうちに、とてもきれいな人に思えてくる、ということがよくありますし。で、ひょっとして「動かない」部分の美醜というのは、関係の喜びを得ていくという点では、それほどプライオリティーが高いものではないように思えてしまう。

 生まれつきの美醜は、まったく固定的な序列ではないっていうことですよね。

でも、その序列が、女性たちにとっては、とっても堅固なものにみえてしまっていることも、事実としてあると思う。その誤解、といってしまっていいか、まだ自信持てないけど、その問題をまずときほぐさないと前に進まない感じ。今だって、だれが「きれい」「きれいじゃない」っていうのを話すと、かなり意見が一致してしまう、っていう話になったでしょ。それをほんとうにすごく堅固な階層であるかのように、女たちは感じるわけよ。岩のように。

きのうの講演に参加してくださった方の話にもあったけど、放課後に男の子たちが、「だれがかわいいか」という美人投票をやったりだとか……そういうように品定めされることに傷つく経験を重ねてきている。

 「自分がどう思われているのか知るのがつらくて、もうこれ以上聞きたくない、と思ってしまった」という話だったよね。

 そうそう。でも、意外と男性たちはそれを気楽にやっている。ひょっとして、ある意味では、たいしたことじゃないと思っているので、そういうことをやっているんじゃないかって感じられる部分もあるよね。ただわいわい楽しく。

 そうかもしれない。

 でも女の子たちとしては、それを決定的なもののように感じてしまうことはあるよ。自分自身の評価、女の価値としての評価として決定的なものであるかのように感じてしまう。わたしもこわかったことを思い出したよ。高校のとき、やっぱり男子たちがやっていたんですよ。人気投票。女子がクラスに20人くらいいて、男子30人が選ぶの。上位3人は平気で聞けるけど、自分の順位なんてこわくてこわくて聞けませんでした。とても「たいしたことじゃない」って思えなかったね。『不美人論』では「進学校ではそんなに美の序列がきつくなくて、楽だった」と書いたけど、やっぱり人気投票は女性間でシャレにならなかったの思い出した。

 そうですね……。たしかにいま、この場で話をしている分には「それってたいしたことじゃないよ」っていうことで意見が一致するんだけども……

 うん。哲学の場所って語り合う空間がたくさんあるし、内面を出しやすい場所でもあるからね。でも、そういう場所や機会って、ふだんそんなにあるわけじゃないもの。そういう意味でいえば、かえってここが特殊空間かもしれないよ。

 もちろん、現実をきちんと受けとめることがもちろんまず出発点になるわけですけど、「その先」を考えようとするとき、どのように考えれば可能性や展望を見出せるのかなあ、ということを発想の中心に置こうとしますよね。哲学の場合。そうすると、美醜の「動かせない」と感じられる側面に重きを置くよりも、実際に「動いている」部分に焦点をあてて考えていこうよ、っていう方向性は出てくるとは思います。

 そうだね。そうやって、考える視点を発展的な方向に切りかえるためにも、「動かせない」の呪縛から逃れたい。そうしなければただ運命を呪うだけになっちゃう。でもね、例えば、全然知らない人が近付いてきて「痩せたほうがいいんじゃない」なんていきなり言われた、なんていうことも、きのう聴講者からいただいた感想のなかにあったし……自分の気持は切り替えたくても外の意識が切り替わってないもんだからなかなか簡単にはいかないのよね…特に不美人は。現実は厳しいです。ただ……その聴講生への中傷はまだ「愛」があるほうなのよね。

 え。それって「愛がある」の?

 だって、知らない人ですよね。まったく。

 そうだよ。言われたの、彼女が女子高生のときだったんだって。だから、声かける男の方に「話し掛けてみたい」という動機があるのよ。絡む感じに近いんだろうけどね。でも「ブス」とか「デブ」とか知らない人から平気でいわれた、という話もあった。

そういう、見た目の感じで、いきなり自分の序列がつけられてしまう体験を、女性たちは、特に不美人は相当にしてきているんだよね。そういうことにめげちゃっているところって大きいと思うんだ。

 そんなこと気にすることはないよって、軽軽しくいえることじゃないですね。

 うん、そうだね。

 そういうのって……まったく知らない相手に向けて、ひたすら自分の悪意を投影させちゃう人に出くわしてしまうという……事故にあうような体験ですよね。

 それがまた、くだらない相手だってわかっていてもダメージを受けるんだよ。生まれつきのものに関することだからね。

 やっぱりそういうふうに、ほんとうに実害を被る人にとっては深刻だよね。小さいときから、自分は美しくないんだということを意識させられ続けてきて、世界に向かって自分が開いていけないようになってしまうと、それはものすごく不幸なことだと思う。

 女の子って、幼稚園のころからそういう美醜の問題に向きあわざるを得ないわけじゃないですか。竹田さんが「女性はたぶん小学校の3、4年生のころから容姿の良し悪しが自己の問題になって来るのでは」と言ったら聴講生の女性たちから、「いいえ幼稚園からですよ!」という声があがって竹田さんもへえー、まいりましたって顔されてましたね()。男性には想像を超えてるのかな。まれに、不美人なのに容姿問題に向き合って来ないですむ女性の場合もあるみたいだけど。小さいときから親に「かわいいよ」って言われて育って、世間に出てみたらショーック!みたいなね。

 でも、親がそいうふうに、かわいがって育ててくれていれば、パーソナリティーとしての基本はできるんじゃないかな。

 反対に、幼稚園から「かわいくない」って言い続けられると……きついだろうね。人格に反映してくるだろうね……

 そうだね。でもね、美醜の秩序が、ほんとうに岩のように固定していることではなくて、動いていくものなんだと知ることで、ずいぶん楽になる人がいるっていうことも、また事実だと思うよ。

 そうですよね。藤野さんも最初に言っていたけど、男の人が女の人に抱く幻想がどんなものかというのを実際に聞いてみると、見た目の美醜にそれほどとらわれない、非常に多様なものだというのが分かったりだとか……美醜の秩序自体もそれほど固定化したものではないことが分かったりだとか……

 結局、そういうことについて語り合えない、語り合おうとする場所がないということ自体が、みんながこの問題を自分の中にひきずってしまっている原因だと思う。ほんと容姿の問題って自分のコンプレックスと深く結びついているからシャレにならないでしょ。声をあげられないのよね。それに背景に「美人、不美人は生まれつきで仕方ない。その序列は変わらない」というあきらめに似た不条理感があるからね。だから、不満やひどすぎる不美人差別に対して怒りがあっても吐き出さずにフタをした状態。でもさ、昨日の講演でもそうだけど、発言しやすいきっかけがあれば、女性たちの口から言いたいことがいっぱい出てくるじゃない。男性も素直な意見を言ってくれてた。だから言えるようにする機会をつくっていくのって、とても大切だと思った。

 ある種のカタルシスみたいなのが漂っていましたよね。講演が終わったあと。

 そうですよね。昨日の講演に来てくださった方たちって、……実際に(容姿の点で)そんなに深刻な人っていなかったでしょう。だけど、すごくみんな切実に考えていて……。

 どちらかというと、きれいだと言われる経験も少なからずあるんじゃないんだろうか、と思えてしまう人が大半のようにみえました。

 自分のなかでの容姿の問題が切実なので、一生懸命きれいにみえるように努力している部分はあると思うんだけれども。それこそ自己イメージの問題だからね。自分が自分のことあまりきれいじゃないと思えてしまうとつらい。

 それは女子学生に聞いてみてもいっしょだよ。悩みをもってる子をみてみれば、そこそこにかわいい子たちなんだけれども、中学くらいから容姿で悩みつづけてきたりしている。

 喫茶店でいろいろな人の会話を意識して聞いてみると、ほんとうに美醜の話って多いですよ。なんか別の話をしていても、あの人きれいになったとか、ダイエットに成功しただとか、しょっちゅう話題に出てくる。なんで美醜はこんなにも入り込んでいるんだろう、ほんとに女性の関心事だってことにあらためて驚いちゃう。

 他人から受け入れられたり評価されたり、自分で自分というものをどうやっていくか、というのは人間にとってものすごく中心的な関心事だしね。女性の場合、容姿がそのことの超・重要なポイントだとすると、それに関してそう簡単に安心できないんだろうね。「あなたは絶対大丈夫」っていうお墨付きがあるわけではないから。

 多くの女性が容姿に関心があるのは当たり前、でも、なぜ当たり前なのか、を考えだすと、つらかったことや生の不条理に向き合わなくてはいけないから、なかなかしんどいことになるよね。それで今までまともに語られなかったのかな。
 でも、容姿に関する問題をオープンに話題にできる機会が全然ないので、ひとりぼっちで必要以上に、苦労を背負いこんでいる子も多いと思う。「そういう苦労をひとり背負うのって、ちょっと損しているんじゃない?苦しんでる人、他にもいっぱいいるし、その苦しみは案外ひとりよがりに肥大してる可能性あるよ」ってこと知る必要はあると思うな。そういう肥大した思いをどんどん溜め込んでしまって、心を閉ざしてしまう子たちもいるわけだし。いっぱい。それから、女性のなかでも、あまり容姿問題にしばられてないマイペースの人もいる。そういう人の意見聞くのも凝り固まった心の風通しよくするよ。

 そうですね。この『不美人論』をきっかけに、話題にしていける機会がどんどんできれば、それってすごく意味のあることだと思います。

 そうだよね。そう思っています。