「普遍性」をめぐる最近のエピソード (2013.12.24UP)


 田原総一朗氏が突然現われて……

 西 今年の1月だったかな、突然ジャーナリストの田原総一朗さんから、勤め先の大学に「西さんと哲学の話をしたい」という電話がありました。何度か対談をして、それを本にしませんか、というお話です。

なんで田原さんが哲学に興味をもったかというと……田原さんは小学校4年生のときに敗戦だったんですって。ばくより少し先輩の団塊の世代の人たちの場合、直接的な戦争の記憶って全然ないわけなんだけれども、田原さんはしっかりそれをもっている。

よく「黒塗り教科書」の話って聞くじゃないですか。


犬端 戦前使っていた教科書の、教えちゃだめになったところに子ども自身墨で線を引かされ、それをそのまま使わされていたっていう話ですよね。


西 そうそう。で、田原さんの話によると、教科書が黒塗りになったどころか、先生の言うこと自体百八十度変わったらしい。

大戦中は「日本は正義の戦争を戦っている、みんな大人になったら国のために戦争に行くんだ」といっていた先生が、「あの戦争ほどよくないものはなかった」ということを平気で言うので、非常にショックを受けたそうです。

高校生になると、今度は朝鮮戦争が始まった。アメリカ軍を支持する発言をした先生に対して、「そもそも戦争ってよくないものじゃないんですか」と言ったら、「お前は共産党か」と言われたそうです。それでもうどこか「正義」というものが信じられなくなってしまった。

エピソードはまだあって、ジャーナリストになっていた60年代半ばに、ソ連に行くチャンスができたんですって。国交は回復していましたが、まだなかなか行けなかった時代ですよね。ちょうど、スターリンを批判していたフルシチョフが失脚して、ブレジネフが新しく指導者になったころです。

田原さんは、当時社会主義に共感をもっていたので、ソ連はいい国なんだろう、いい国をつくろうとしているんだろう、と思い込んでいたそうです。で、当局が取材を自由にして構わないというので、モスクワ大学の学生に会いたいと希望を出したら、セッティングしてくれた。その学生たちといろいろ話しているとき、「何でスターリンみたいなのがまた復活してきたんだ、君らどう思うんだ」と聞いたら、みんな真っ青になって、それだけは勘弁してくれ、と言ったそうなんですよ。

それで、この国にはまったく言論の自由というものがないんだな、ということが分かったそうです。

それでも、日本に戻って来てからも、心情的にはずっと反体制で、左翼の人たちとの付き合いが続いたそうです。だがその一方で、ソ連の現実を見てしまっているので、心から反体制に与することもできない。かといって、体制派にもなれないし……そうすると心情的にはだんだんアナーキストに近くなっていった。もうどちらの側にもつきたくないし、そもそもつくことができない、というような。

そういう状態がずっと続いたそうですが、ジャーナリストの活動を長く続けているうち、自民党の人たちと付き合う機会も増えるようになり、そのうちだんだんと、ただ体制の側を批判し続ければよい、ということではだめだな、と思うようになったそうです。
絶対なるものを信じることができない以上、批判し続けるしかない、とかつては思っていたけれども、そのスタイルだけではもうだめだと、思うようになった。

そんな中で、「正義」について、いったいどう考えればよいのかということが、自分にとっては長年のたいへん大きな疑問だったんです……と、まずそのことを率直にしゃべってくれたんですよね。

それまでは田原さんのことをあまり知らなかったし、ちょっとアクの強い人だな、くらいの印象しかもっていなかったけれども、実際に話してみて、感じの悪い人じゃ全然ないんだな、と思いました。

それでも最初のころはリズムが合わないというか……ぼくなりに一生懸命説明しようとしているとき、悪気がないのはわかるんだけれども、途中で突っ込んできたりするんですよね。そこで突っ込まないでほしいな、まず最後まで聞いてくれないかなあ、とかいうことも多かったです(笑)。でも何回か対談しているうちに、波長そのものも合うようになっていきました。



ソフィスト?いや、全然違うでしょう……

西 対談が始まった最初のころ、田原さんは、「自分はソフィストに共感する」と言っていたんです。プラトンみたいに、イデアだとか、「ここに正義あり」みたいな物言いをする人は信じられない。その点ソフィストは、疑い、批判し、これが絶対だということに対して、「ほんとにそうなのかよ」と言い続けていくわけで、自分はそういう姿勢のほうにこそ共感する、と。それで、ぼくに対して、プラトンをなんでそんなに評価しているのかということを、問い詰めたりするわけなんですよね。

ところが、です。何回も話をしているうち、この人はけっしてソフィストではないな、というのが分かってきました。全部で10回くらい対談したんですよね。一回で2時間以上話をしたので、そうとう話し込んだわけなんですが……。

対談の最後のほうで、原発のことが話題になりました。田原さん、そのとき原発について何かの雑誌で連載をはじめるといってました。それからしばらく時間がたってますから、もうとっくにはじまって終わっちゃったかも。それはともかく、「反原発だとか、逆に原発は残したほうがよいのだ、というような議論がさかんになされているが、そのこと自体は自分にとってはどうでもいい。そのことを書きたいのではない。むしろ日本の社会にはインデペンデント、つまり「独立している」という部分がどこにもない。そのことを書きたいのだ」と、そんなことを言うんです。

どういうことかというと、原発を支持する意見というのはさまざまな利権とずっとつながっていて、社会にとって原発がどう有益なのかということが本当に問題になることはない。他方、批判する側にしても、いわば結束して悪口をいうことで、自分たちの党派性を維持することのほうに主眼がある。日本の社会に生きる人たちにとって、原発の意義ないし問題点がどこにあるのかということが、ほんとうに開かれた形で論じられることがない。もちろん、それは原発で仕事をしてきた人たちも含めて考えなければいけないことだけれども、そういう形で考えられることもない。

つまり、根本的に、敵か味方か、得か損かということで話が決まってしまい、ほんとうに市民にとってどうかなのということを、開かれた形で考え合っていくという、それこそインデペンデントな意志が、日本の社会にはないのだ、と言いたい。……ぼくなりの言い方にやや翻訳しているかもしれませんが、こんなことをおっしゃっていました。それは、ほんとにその通りだな、と思いましたね。

つまり、田原さんは、ひたすら批判し価値を相対化するだけのソフィストでは全然ない。
むしろ市民社会の原理に立って「正義」の問題を考えようとする、ルソーやカント、ヘーゲルなとど同じ発想をもっている。一つの問題を、党派性からではなく、この社会を生きている人たち一般にとって、ほんとうによいものなのか、役立つものなのかという観点から考え抜こうとしているわけです。それって、いってみれば、「普遍性を考える」ということじゃないですか。

それで、「ほんとうの意味で普遍性、公共性を考えることではじめてインデペンデントな意志を持てるということであれば、ぼく自身が考えていることとまったく同じです」みたいな話をました。

それでも最初のうちは田原さん、ぼくのこの「普遍性」という言葉に対して、「いや、自分は普遍性を信じない」と言っていたんですよ。けれども、対談を重ねていくなかで、「いや、そんなことはなくて、自分も普遍性を求めているからこそ、そうした問題意識が出てきているんだ」と分かってくださったように思います。

田原さんが、ぼくと議論を展開していくため、わざと最初ソフィストを騙っていたのか、それともほんとうに自分の立ち位置がはっきりしてなかったのか、というのは分かりません。でも、いわゆるソフィストの姿勢でものごとを考えてきた人じゃないな、ということは強く思いました。非常に素直な、純粋なところをもっている人だなあと感じました。


犬端 田原さんが、「西さんと話をしたい」と思ったのは、やはり西さんの本を読んだことがきっかけですか。


西 ぼくに関しては、「100分で名著」のニーチェのテキストを読んで、はじめてニーチェのことがよくわかったと言ってました。そのほか、河出書房から出ている『これが哲学!』を読んで、この人だったら難しい言葉で煙に巻くこともなく、素朴に質問してもきちんと答えてくれるだろうと思った、という話はしてくれました。

田原さんって……なんかもう怖いものがない感じなんですよね。ほんとうのことを言いたい、率直によいものはよい、おかしいものはおかしいと言いたい、そういう心根がすごく感じられた。ジャーナリストってテレビ局が声をかけてくれないと、仕事にならない世界なんでしょうけど、そうしたなかでもかなり「志」を貫いてきた人なのかもしれないですね。

こんなことも言っていたな……。自分は自分を知識人だと思ったことがない。ちゃんとまともに勉強したこともないし。それでも田原さんの場合、だれも聞けないようなことでもいちばん大事なことを質問してしまう。「自分は知識人じゃない」ということにしても、その背景には一人の生活者として、いちばん根っこのところから湧いてくる疑問をごまかしたくない、知識人にもそれを突き付けていきたい、という志があったと思うんですよ。実際、知ったかぶりのことを一切言わないし、偉そうなことも全然言わなかったです。
もちろん田原さんの全体像は正直ぼくにはわからないけれども、少なくともぼくとしゃべっている限りでは、非常に誠実な、まっとうな感じが伝わってきた。非常にいい経験でしたね。



「普遍性」はともに築いていくもの……

犬端 内容としては「正義論」が中心になった感じですか?


西 というよりも、ソクラテス、プラトン、その次がデカルトで、ルソー、カント、ヘーゲル、ニーチェ、というように、一人ひとりの哲学者を比較的古い所から順番にやっていきました。

それで、最終的には、やはり「普遍性」が大きな主題になりました。アプリオリにある普遍性ということではなく、語り合い、確かめ合いながら、「このことはみんながよいと認めることができるよね」というように、ともに築き上げていく「普遍性」は大事だし、それができないと哲学の意味がない。ぼくらは未来をつくれないし、インデペンデントにもなれない。……そういうことが大きなテーマになった。そこに当然「正義」も関係してくるけれども、最終的にはやはり「普遍性」が終始一貫したテーマになりました。


犬端 それでも、最初田原さんは「普遍性」という言葉自体に違和感があったわけなんですね。


西 そう。だいぶ抵抗していましたよ。でも最後のほうでは、「やはり『普遍性』がなければね」と、本人自身が口にするようになった。


犬端 ある言葉に対してそれぞれの人が抱いているイメージって、言葉を交わし合う経験そのものを通して編み変わっていきますよね。

 ぼく自身にしても、実存型タイプのせいか、素地としてひねくれていたせいか、あらかじめの(アプリオリな)「真理」への拒絶感のようなものがあり、「普遍性」という言葉にしても同様のイメージでとらえていた時期はけっこう長かったように思います。でも西さんや竹田さんの哲学を通して、むしろ、「あらかじめの真理」という信憑が潰えてしまうなかで「普遍性」の概念が出てきているんだな、ということが見えてくると、その「語感」そのものが編み変わっていったような感じがします。


西 そうそう、「真理」じゃなくて「普遍性」、なんですよね。


犬端 「真理」への素朴な信憑は自分の中には生きていない。それでも、共有できる価値を確かめ合い、見つけ出していくことに支えを見出しながら現実に生きている。そんな自己理解ができてくるのと一緒に、「普遍性」という概念が入ってきたように思います。


西 まったくそうですね。先日の「臨床と哲学のあいだ」のシンポジウム(2013年9月7日に行われた、竹田青嗣さんと鯨岡峻さん(発達心理学、京都大学名誉教授)を招いて)のとき、竹田さんが「普遍性を求めるというのは、よいものを求めているということがあるからなんだ」と、はっきり言っていましたよね。わが意を得たり、という感じで聞いていました。

「これってほんとうにいいよね」「これが大事だよね」ということをお互い確かめ、握りしめて、そちらに向かって一緒に歩んでいこうとする、その希望があるから「普遍性」を求める。普遍性なるものが、もともとどこかにあってそれを発見する、というようなものではない。われわれが「よいこと」を共有して生きていきたいという願いがあるからこそ、そこに普遍性という信憑がやってくる。そんな感じですよね。

プラトンも、「真のイデア」ではなくて、「善のイデア」が最高のイデアだ、とはっきり言っています。正義をよく知る=正義のイデアに到達するためには、正義がどういう点でよいのか、を知る必要がある。あらゆる問いは究極的には「よさ」の問いになる、と『国家』で言っています。あのとき竹田さんが、プラトンのことを口に出したかどうかは忘れましたが、「普遍性というのは、つまりよさを求めることだ」という発言に対して、とても共感しました。


犬端 そうですね。自分自身がこのことに心を動かされた、このことをよいと思った、という経験を言葉にして受け止めてもらえること、よいと思えることの内実を共有化できること自体がうれしいものだし、そこから共通の方向性が生まれていくことって……納得できない「真理」を当為として飲み込まされるのとは正反対に、確かな喜びとしてあると思います。だから、「普遍性」という言葉や概念そのものが共有化されていくなかで、そうした語り合いの場面、表現のゲームがさまざまなところで展開されていくようになると……いいですよね。


西 そうですね。お互いの思いや考えを、言葉で表現し合おうとするなかで、はっきりくっきりさせていく手応えですとか、そうした考えがひとりよがりのものではなく、みんなともつながっているし、そのことが自分やみんなが生きていく糧になるだろうという実感をもてるのって、うれしいことですよね。そういうことを含めて、「普遍性」というのは大事だと思います。


犬端 田原さんは、素地として「普遍性」への感度をもっていた感じですか?


西 それははっきり、持っていると感じました。そこがよかったんだと思います。


犬端 これからテレビの番組とかで、「普遍性」という言葉を積極的に使うようになったりしたら……おもしろいですね。


西 そうですね! 

対談のゲラの直しをついこの前までやっていました。年明け早々には本になると思います。幻冬舎からです。