現象学的明証性とエビデンスをめぐって

 (2012/9/6 UP)


 「山竹氏の悲劇」あるいは「疑似エビデンス主義」について

 

西 この前(2012年6月末)に、国際人間科学研究会議(International Human Science Research Conference: IHSRC)というものがモントリオールであって、竹田青嗣さんたちといっしょに参加してきました。これは現象学を、心理学、医療、看護、教育などに応用しようとする人たちの会議なんですが、そこでぼくが発表したのは「エビデンス」についてです。「エビデンス」という言葉は、自然科学では「証拠」というニュアンスで使われています。実験や統計をとってみることを通して得られる証拠、という感じですね。「あなたの意見には、エビデンスはありますか」というような言い方で使われる言葉です。

 しかし、このエビデンスという言葉は、現象学では、明証性と訳されるんですね。同じエビデンスが、自然科学畑では「実験や統計による証拠」、哲学では「明証性」となるわけです。

 では、なんでこの「エビデンス」について考えてみようと思ったかというと、この自然科学の意味での「エビデンス」が、人間や社会に関わるもろもろの学問、心理学、看護学、教育学などの学問に関わってくると、なかなかやっかいなことになるんですよ。

 さっきまで、横浜の朝日カルチャーで「ケアの現象学」をいっしょにやっている山竹伸二さんがこの東京医大のぼくの研究室に来て、いろいろ話をしていたんですが、山竹さんって大学は心理学部出身なんですってね。

 

 ぼくも、空手部心理学科卒(?)という話を聞いたことがあります。

 

西 いや、まさしくその通りで(笑)、大学の勉強にはどうも熱心に取り組むことができなかったそうです。なんでそうなっちゃったかというと、とにかく実験をしなくちゃだめだと言われたそうです。当時から自分でフロイトやラカンをこつこつ読んでいたけど、卒論でそれを中心に書くことなんてとうてい許されない。とにかく何か実験をしたうえで、「この因子とこの因子にはこういう相関がある」というような、それらしい形にまとめなくてはならない。

 それでこんな実験をしたそうです。「意味のある単語とまったく意味のない音の羅列では、どちらが記憶に残るか」。

 

 意味のあるほうに決まってますよね。

 

西 ですよね。でも、とにかく「実験を踏まえて論証した」という形にしないといけないというんで、山竹さんはそれをやったそうです。当時まだパソコンのソフトもろくになかった時代に、コンピュータの詳しい友人にわざわざそれ専用のソフトを作ってもらったりして。序論ではフロイトやラカンにもふれたようですが、本論はまったくの実験。たしかにエビデンスは出たようですが、でも何の意味があるのか、ということになってしまいますね。ご本人笑って話しておられましたが、ある意味、悲劇的といえるかもしれない(笑)。

 たしかに、実験という形でエビデンスをとらなければわからないものごともあります。たとえばある薬が実際に効くかどうかということについては、実験と検証によって確かめることが欠かせませんし、そうしたことをしっかりやるのが自然科学の本分だと思います。

でも心理の領域になると、例えばアンケートをやって統計をとる場合でも、質問項目をどうつくるかによって、期待どおりの結果が出るように操作することもできる。一見数学的にみえるけれども、実はその土台そのものが危うかったり、山竹さんの話のようにわかっていることをわざわざ「科学的な手法」で確かめる手続きをとったり、ということになりかねない。実験と観察=(科)学的という等号では、人文系の学問はうまくいかないんですけどね。

 同じような話はたくさんあって、ある心理学の先生で、「共分散分析」という方法に即して研究するのが心理学者のアイデンティティなんだとおっしゃる方がいた。「共分散分析」というのは、ぼくも詳しくはわかりませんが、統計の結果を分析し、項目の相関関係を分析するという数学的な手法のようです。それでその方は、卒論でも、学生にも同じことをやらせようとする。「心理学をやる以上、それは不可欠だから」というわけです。学生たちがそうした分析を通して、人間や社会や人々の意識について新しい洞察が得られればもちろんすばらしいことですが、でも実態はというと、手順を覚えて研究らしいかたちにすることが重視されるので、そこから何をどう考えていくのか、という肝心のことは二の次にされている感じでした。

 この東京医科大にも、ほかの大学の心理学科を出て、いったん会社勤めをしてから医学部に入ってきた学生がいますが、やはり同じようなことを言っていました。心理学科でいろいろ実験的なことをして、それらしい論文は書いたけれども、そのとき、データというものはきわめて恣意的に操作できてしまうし、それらしい論文というのはいくらでもつくれてしまうんだ、ということがわかってしまった。それで、心理学をこれ以上続けている意味はないなと思った、と言ってました。

 

 「山竹氏の悲劇いたるところ」でという感じですね。

 

西 そうですね。要するにそこにあるのは、自然科学の方法を模した、いわば疑似エビデンス主義とでもいうべきもので、それを可能にしているのは数学的手法なんです。普通の人にまねできないような、高度な数学的手法を用いることで科学性が担保されていると考える。統計学的な、数学的な手法を用いることこそエビデンスに基づいた学問であり、そのことによって、科学的な知見をこの世の中に増やしたことになるのだと。そういう考え方は根強くある。

 たしかに統計というものを上手に用いれば、われわれの常識的な思い込みを相対化するきっかけになったり、「意外にこうだったんだ」という気づきを生み出したりすることもあります。例えば、「三丁目の夕日」のころよりも、現代のほうが犯罪率は明らかに低いんですよね。イメージ的には昭和は牧歌的な感じがしますけど。しかしそのように有効に統計を使うためには、どういう事柄がそれに適しているのか、どういう形で展開していけば効果的に使えるのか、ということを吟味しておくことが必要だと思います。

でも、しばしば、そうしたカナメとなる考察を抜きにして、心理学や人文系の学問は、疑似エビデンス主義、疑似科学主義みたいなものに陥ってしまっていることがある。


それで「質的」と言えるのだろうか?〜グラウンデッドセオリーの問題

西 でも、心理学者でもそのことを問題だと思っている方はたくさんおられるのですが、疑似エビデンス主義の危うさ、みたいなことを公言してしまうと、心理学の学会のなかでは身が危うくなってしまうかも。

 
 たいへんですね。

 

西 たいへんですよ。もちろん、もっと人間的な心理学が必要だと思っている人もたくさんいるわけで、「質的」な研究に取り組んでいる人もいる。「質的な心理学」というのは、数値に還元できない「質的」な事柄を重視する。「当事者の経験」から考えようとするわけですよね。たとえばインタビューを重ね、そこから考えようとする。それは、人間のことを考える学問にとって、ひとつの重要な手法であるわけです。でも、それではこの「質的心理学」がよい方向に進んでいるかというと、そこにもなかなか危うい面があると感じています。

 

 そちらも危ういんですか。

 

西 そうなんですよ。なにが危険かというと、いま看護学や臨床心理学など質的研究のなかでは、グラウンデッドセオリーという手法がものすごく流行っているんです。

どういう方法かというと、いろんな人からインタビューをして、まずテクストに落とす。それをもともとの文脈から切り離してバラバラにしたうえで、そこから共通カテゴリーを引き出してくる、というものです。

 このグラウンデッドセオリーには、やはり似非エビデンス主義みたいなところがあると思います。テクストを分解して、そこから共通項を取り出していくという手続きを非常に緻密にやるのは、大変な労苦がかかると聞いています。心理学の人たちが共分散分析をやるように、たいへんに手間がかかる。でも、手間はかかるけれども、きちんとした手続きを厳密に踏まえて処理したらこういう結果がでました、というように論文を作成すると、非常に科学的にみえるわけですよね。

 でも「インタビューで得られたテクスト」というのには、実はインタビュアーとインタビュイーとの関係が非常に強く含みこまれているわけですよね。インタビュアーがどういう姿勢で、どういう意図で話しかけたのか、その意図はどれくらいインタビュイーに共感的に受け止められているか。あるいは、すでに人間関係ができている間でのインタビューなのか、それともインタビューを新たに申し込み受けてもらったのかだとか、さまざまな関係性の中で発言が出てきているという背景があるわけです。

 そういう背景にあるものすべてが、文脈を解体して共通項を拾っていく、という手続きの中では落ちますよね。むしろ、具体的な文脈を落としてデータ処理するというのが技法としての持ち味なわけです。まさしく「客観的」な実験のデータとしてテクストを見ようとするわけです。

でも、そのテクストって、どう考えても具体的なやりとりがあってはじめて出てきているわけですよね。たとえば、インタビュイーも、この人にしゃべってもしかたないな、と思ったら肝心なことは言わなくなるだろうし、逆に、この人はちゃんと話を聞いてくれるし、いままであんまり言わなかったことだけど、しゃべってみようかな、と思うことだってあるかもしれない。インタビュアーとインタビュイーの呼応する(あるいは呼応しない)関係性は、じつは非常に重要だと思います。しかしそういう事情は全部無視したうえで、一定の手続きを踏まえてデータ処理して、こんな結果ができました、というようにしてしまうわけですよね。これを「質的な心理学」といっているわけですから、はなはだ怪しいものがあるわけですよ。

 

 それで「質的」だというんですか?

 

西 はい。

 

 量や数値ではなく「言語」を媒介にするから「質的」だということですか?

 

西 そうです。

 

 でも、「言語」を媒介にするといっても、とても無機的な感じですよね。むしろ「言語」の本質を無視しているように思えます。

 

西 そう。でも、無機的に、厳密にやるからこそ科学的だということになる。

 

 ちょっと困った感じがしますね。

 

西 困った感じがしますよね。でも、その方法に習熟するのはけっこう難しいらしくて、特にそのGTA……グラウンデッドセオリーアプローチですよね……を用いて、修士論文を書くと、ちゃんとした研究をやったということになりやすいので、とても流行っているようです。

 もちろん、分析者がインタビュイーである患者さんときちんと関係をつくろうと努力すれば、つまり、「こういうことをハッキリさせたい」という観点をきちんともってそれを患者さんに共感的に共有してもらって、かつ、いろいろな話を十分に引き出すことができれば、ちゃんとした研究になるだろうと思います。ヘンな言い方になりますが、技法は何であろうと、いまみたいなことがしっかりしていれば、よい研究になる可能性がある。でも、この手法の建前としては、自分の主観を入れずに、インタビュイーの発語を客観的なテクストとして確定し、それを客観的な手続きを踏まえてデータ化しているからこそ、その結果には「科学的なエビデンス」があるのだ、という理屈になっている。この理屈はやはりまずいと思います。

 

 心理学が対象とする領域って、人間的な価値や意味の問題にかかわることですよね。となると、その発想や方法にしても、自然科学的事象に対するアプローチとは違ったありかたが求められる、ということでしょうかね。

 

西 そうだと思います。ではどういうありかたが可能なのか。この問いを現象学から迫ればどういうことになるか、を考える必要があると思ってきたわけです。

 


「内的リアリティ」〜現象学の明証性の核心は何か

西 例えば何かの事件が話題になっているときにも、当事者がそれをどう感じていたのかを考えてみることが大事ですよね。もちろん、その時点で感じたことや考えていたことを思い起こすことには難しい面もある。しかし「その事件は自分にとってどのように経験されていたか」ということを、当事者自身が確かめながら語っていく。つまり、当事者が自分自身の「内的なリアリティ」に即して語っていくことができれば、事件の意味はひじょうに具体的になってくる。

じつは、人は他人にはなかなか言いにくいこともあるし、自分の感じていることを自分で見ないようにしている、ということもよくある。ですから、事柄によってはかなりの難しさがあるのと思うのですが、もしインタビューという方法が生きるとすれば、語り手の「内的なリアリティ」を引き出せるかどうか、ということになると思うのです。

 

 「内的なリアリティ」ですか。

 

西 そう。「内的リアリティ」という言葉を仮に作ってみたのです。自分でなんらかの経験を反省してみて、「自分自身の想い・実感としてこのことは疑えない(客観的にはまた別の見方がありうるとしても)」ということがあると思うのですが、それをこんな言葉で呼んでみたいと思って。それで現象学の話になるんですが、フッサールもやはりこうしたことを考えていて、それを「エビデンス」という言葉で呼んでいます。訳語は「明証(性)」ですが。フッサール晩年の著作に『デカルト的省察』というのがありますが、その最初が「エビデンス」から始まっています。ちょっとこみいっていますが、その話をしてみます。

 


フッサールはまず、学問には「エビデンス」が必要でそれがなければ学問にならない、と言っています。そのさいのフッサールのエビデンス(明証)の定義は、「事柄それ自身が現前すること」というものです。事柄が、想像などではなくて、じかにそのまま与えられているので疑えない、ということです。

簡単な例でいうと、例えば「隣の部屋にたしか椅子が三つあったよね」と思ったとする。でもこれはまだ基礎づけられた℃鮪タではない。それで実際に隣の部屋に行って見てみると、ちゃんと椅子が三つあった。このように「見てみると椅子が三つある」ということが「事柄がそのものとして′サ前している」ということです。こうして「隣の部屋には椅子が三つある」という命題は、実際に見るというエビデンス(明証)によって基礎づけられた、ということになります。

 実証的な科学は、最終的には知覚事実が拠り所となりますよね。自然科学のエビデンスというのは実験と観察によるものですが、それは究極的には「知覚すると確かにこうなっている」という事実に基づくものと言えます。ですから、自然科学の方法を煎じつめていうと、知覚事実と数学的処理ということになるわけです。そう考えると「事柄それ自身が現前する」というフッサールのエビデンスの定義は、一応、実証科学も含めて包括できるものになってはいるわけです。

 でも、普通に言われるときのエビデンスには「誰もが確かめられる証拠」という意味があるんですね。つまりそこには「公共性」ないし「共有性」の次元がある。フッサールの定義だと、この次元が抜け落ちてしまう。実証科学が、実験したり観察したりすることを求めるのは、もともと知覚事実には「だれもがそこにいれば同じものを見るはず」という共有性があると信じられているからです。さらに、知覚された事実を紙に記録してとっておけば、その紙はだれもがアクセスできる証拠となる。

 このような「公共性」「共有性」の次元が普通の意味でのエビデンスには求められるのですが、フッサールのいう「事柄それ自身の現前」というエビデンス(明証性)はあくまでも「私にとって」疑えない、ということでもって定義されている。しかし、この「私にとっての疑えなさ」は、そのまま「だれにとっても疑えない証拠」にはならない。知覚事実の場合には、「私にとっての疑えなさ」がたいていの場合、そのまま「皆にとっても疑えない証拠」になるわけですが。

 例えば、あるコンサートが「私にとって」このように実感された、ということを言葉でもって語ることはできますが、それはウソかもしれない。ホントはつまらなかったけれど、いろんな理由で「素晴らしかった!」と言っているだけかもしれない。私の実感(内的リアリティ)は、私にとってはいかにリアルで疑えなくても、他者からは見えないからです。このことを意識の「私秘性」などと英米の哲学ではいっていますね。心のうちは他人から見えない、ということです。

 こういうことがあるので、公共的な場面からみれば、各人の私の実感(内的リアリティ)はハナハダ怪しくて信用できないことになる。なので、心理学の行動主義といわれるものは、内的な実感や内省にもとづくその記述なんてものはやめてしまって、あくまでも行動だけを見よう、という方針をとった。心はブラックボックスとしておいて、どういう刺激に対してどういう行動をとったか、という、「ふるまい」だけに着目する。それであれば、客観的・公共的に観察し記述することができるからです。その次元だけでやることによって、心理学は「科学的な」ものになる、というのが行動主義の考え方でした。

 ところが、このような、知覚(観察)できる公共的な次元でのみ学問を打ち立てようとする考え方とは正反対に、内的な実感・リアリティに依拠することがむしろ厳密な学問を可能にする、と考えたのがフッサールなんです。その考えを最初に創始した人こそデカルトであった、その線を自分は発展させようとしている、ということでフッサールは『デカルト的省察』を書いたわけです。ということで、また『デカルト的省察』の冒頭に戻りますね。

 さっきいったように、知覚事実というのは、まさしく事実が現前していて、かつ、誰もが確かめられる、というように、実証的な学問の根拠になるものです。でも、知覚事実というのは原理的に「誤りうる」ものなんです。


 フッサール自身にしても、「事物知覚」の構造を、実際に見ているのは「その一部」だけれども、その見えている一部を通して、全体像を思い描いてしまっている、というような言い方で説明していましたよね。つまり「知覚事実」はその対象についての確信成立の契機ではあるが、事物そのものがそこに与えられているわけではない。だから「この対象(はこうだ)」というような「事物知覚」は、原理的に可疑性をもつ「超越的」なものといえる。それに対して「(このことを)こうとらえて(しまって)いる」という事態(こちらが「事柄そのものの現前」?)のほうは疑いようがない「内在的」なものだ、というような言い方を、『イデーン』でしていたかと思います。

 

西 まさしくそうですね。例えば、ボールの表を見ていても裏は見えない。でも裏がどうなっているのか、についても思い描かれている。「やはり縫い目があって……」というふうに。でも実際に裏を見てみたら、裏は平らになっていて半球だった、ということがあるかもしれない。そのように、「球としてのボール」というのは可疑性を含む信憑、つまりノエマ(思い描かれたもの)だ、ということになります。でも、「いま目の前にあるものを見ていてこれが球形のボールだと思っていること」じたいは、反省する意識に直接に与えられていて、疑うことができない。反省によって与えられてくる現在の体験は、内在的で不可疑的なものだ、ということです。

 そういうことを背景にもちつつ、『デカルト的省察』でのフッサールは、知覚事実の存在のもつエビデンス(確かに目の前のコップはある)と、反省によって与えられる、内在的な体験の存在のエビデンス(目の前にコップがあると思っているこの体験は、確かにある)とでは、後者のほうがより厳密なエビデンスなのだ、というふうに論を進めていきます。

 すなわち、知覚事実のエビデンスは実証科学の基礎ではあるが、究極的な明証性はもたない。後になって「まちがっていた」という可能性があるわけです。知覚事実どころか、事実すべてを集めた世界そのものだって、デカルト風の極端な言い方をすれば、「脈絡のある夢」であって存在しない、という可能性だってある。ふつうわれわれにとって世界の存在と知覚事実の存在は自明で疑いようがないものですし、またこの自明性のうえに実証科学も成り立っているわけだけれども、究極的なエビデンスをもつのは、デカルトのいう「われ思う、ゆえにわれあり」のほうにある。

 そういうふうに、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」の話をフッサールは持ち出しています。「世界そのもの」の存在については、疑おうとすれば疑える。でも、こうやって「世界を意識している」事態を反省してみたとき、その世界を意識している体験の存在は疑えない。もっと具体的な例を出すと、いまコーヒーを飲んでいて「苦いな」とか「だけどいい香りがしてうまいな」とか思っている。そのとき「コーヒーそのもの」のほうは、ひょっとしたら大豆で作られた代用コーヒーかもしれないという可能性は排除できない。でも、こういう味や香りを感じていること自体は、つまり、このような意識作用の存在自体は、疑うことができない、ということですね。

 ちなみに、「われ思う、ゆえにわれあり」という命題はなかなか面白い特質をもっています。このときの「われ」は、特定のだれかのことではなく、「そのつどこの命題を読む人の自分」なんですよ。つまり、この「われ」に自分を代入して考えないと、この命題は意味をなさない。「どんな人でも、自分の意識対象の存在は仮に疑えたとしても、こうやって意識をしているということ自体は疑えない」ことは、自分自身に照らし合わせて考えてみてはじめて、納得できるということです。

 このように、「われ思うゆえにわれあり」というときの「われ」というのは、「事実としてのわれ」ではなく、どんな人もこの「われ」に自分をあてはめて考えてみれば、このことは疑うことができないよね、ということを表している。

 これは非常におもしろい命題です。というのは、たいていの命題は「世界の中の存在」つまり「世界の中の事実」に関わるものですよね。ところが「われ思うゆえにわれあり」というときの核心は、「世界はなくても、われという事実はある」という事実次元のことではなくて、「どんな人だって自分の意識を反省してみると、自分の意識作用がたしかにあるというのは、疑うことができないよね」ということにあるわけです。

 何でこんな話をしているのだろう……というと、さっきお話しした「『内的リアリティ』と『公共性』をどうつなぐことができるか」という論点に関わるからです。つまり、「われ思う、ゆえにわれあり」という命題は、内的リアリティを表現するものでありながら、しかもこれは「どんな人も反省してみればそうなっているはず」という仕方で、公共性をもつ。このような特質をもつさまざまな命題を創り出そうとすることを、フッサール現象学はもくろむのです。

 それは、ある種の体験に共通する基本構図――これを本質とフッサールは呼びます――を取り出すこと(=本質観取)によって可能になります。例えば、さっき述べた「事物知覚の本質」について、フッサールはより詳しくいうと、次のような諸点を述べています。

 まず、第一点目は、想像や想起とちがって、事物知覚には「対象そのもの」が与えられている、という疑いえない感触があること。そこに明証性があるわけです。

でもそれと同時に、二点目として、実際には「前面しかみえていない」。しかしその見えていないはずの背面についても「一定の幅をもって予測されている」。例えばこの「伊右衛門」というペットボトルを見ながら、その背面に宇宙があると思う人はまずいなくて、同じ材質でできたものがつながっているんだろうな、と思っている。こういう一定の幅をもった予測のことを「地平」とか「規定された未規定性」と呼んでみたりしている。未規定ではあるが、一定の幅をもつものとしては規定されている、ということです。つまり、「対象そのものが与えられている」という感触があるのに、実は「思い描かれた部分」を必ず含みこんでいる。こうしたことが事物知覚の本質だということを、フッサールはいろんなところで何度も語っています。

他にも、背景(地)が必ず暗々裏に把握されている、とか、目の前に知覚している事態は客観的世界の一部だと信じられる、ということも指摘できます。

 大切なのは、これらの命題については、どんな人でも自分の事物知覚を「反省」(内省)することを通して、それが正しいかどうかを確かめることできる、ということです。反省して、「ああやっぱりそうなっている」と確認ができる。つまり、本質観取によって記述された命題の正しさは、各自が反省して得られる「内的なリアリティ」によって支えられるものなんです。

 現象学のカナメは、このように、反省によって「なるほど確かだ」といえる本質構造を上手に取り出そうとすることにあります。一人がそれをやって、本質記述の命題として提示してみる。するとそれは間主観的に確かめ合うことができようになる。「事物知覚って確かにそうなっているね」というように。事実と照らし合わせて合っているか・間違っているかというのが自然科学の命題であるとすると、本質記述の命題は、各人が自分の中で反省してみて「なるほどそうなっている」と賛同したり、あるいは補足することもできる。そのようにして成り立つわけなんですよね。

 フッサールは、この本質観取の方法で人間の意味世界(内的世界)のあり方の基礎構造を捉えていこうとしました。ぼくや竹田さんはそれを受け継いで、例えば、なつかしさの本質、罪悪感の本質といったような感情の本質構造や、自由、正義、幸福のような価値の本質についても、現象学的な本質記述を行おうとしているわけです。それはだれもが、内省によってその正しさを確かめうるようなもの、なんです。

 

 「客観=真理を間違いなくとらえることができる特別な視点はない」という自覚に立ったうえで、「誰もが共有可能な確かめの仕組み」をつくりだしていこうとするのが、現象学の発想のポイントですものね。

 

西 そうそう。そして、その拠り所になるのが……こんな言葉をつくってみたんですが、「反省的な明証性」(リフレクティブ・エビデンス)だと。さっきの「内的リアリティ」と同じことなんですが、意識体験を反省してみると確かにそうなっている、ということですね。実証科学でいうところのエビデンスが、いわば「経験科学的なエビデンス」(エンピリカルサイエンティフィックなエビデンス)だとすると、それに対して現象学は、反省的な明証性、リフレクティブなエビデンスによって展開するものである、といってみたい。そして、各人が内的リアリティを拠り所に「本質記述」を行って「共通構造」を取り出していこうとする営みのなかに、「どんな事物知覚でもこういう特質をもっているはずです、どうぞみなさん確かめてみてください」というように、だれもが確かめられるという公共性が含みこまれている。これが現象学のいう明証性の特質だと思います。

  


でも問題は簡単ではない 〜生の問題の「明証性」について


 「反省的な明証性」ですか。確かに、そういう言い方をしてみると、それが、「こう見えて(しまって)いる」というそれぞれの所与性、それぞれの「内的リアリティ」に立ち返りつつ共通本質を取り出していく、という現象学的普遍洞察の底板であるというニュアンスがはっきりしてくるように思います。 

西 そうではないかと思っています。ところが問題は……とようやく、ここが言いたかったことなんですけど……

 

 え、問題があるんですか?

 

西 そう、その問題は何かというと、心理学の質的研究で行われているインタビューの場合、事物知覚の本質記述とは違う事情があるということなんです。

 知覚事実に関しては「だれもがそこにいれば同じものを見る」と信じられていて、かつ、その記録もだれもが確かめられる、という公共性がある。本質記述命題についても、各人の意識経験を反省することで確かめられるという公共性がある。ところが、「ぼくの音楽体験」をインタビューで語る、ということになると、他人はいくらでも疑えるわけですね。さっき言った、体験の「私秘性」があるわけです。

 それでもやはり、自分にとっての内的なリアリティを材料に語っていくことは可能だし、大切なことだと思うんですよ。

例えば、朝カル横浜で山竹伸二さんとやっている「ケアの現象学」でも取り上げたことがありますが、鯨岡峻さんが提唱する「エピソード記述」という方法があります(鯨岡峻『エビソード記述を読む』東大出版会、2012年など)。この「エピソード記述」というのは、保育士さんが、保育経験のなかで、心を動かされたことやはっと気づかされたことを、文脈をおさえたうえで記述する、というものです。例えば「この子は3歳で、下に弟が生まれたからか、精神的にやや落ち着きのないようすだった。私もこの保育園に来てからもまだ半年、ようやく慣れてきたが、まだまだわからないこともたくさんあり不安な心的状況で……」というように、まず文脈をおさえる。そのうえで、こうしたエピソード(事件)が起こった、という具合に語っていくんですよね。そして最後に、なぜそのできごとに対して自分の心が動いたのかということの意味を、現時点からふりかえって考えていくんです。

 そしてさらに、そうして書き上げたものを保育士さんどうして読み合わせていく。そのとき、「そのときの感動ってこういう発見も含まれていたんじゃない」という意見を言ってあげることも可能ですよね。このように、エピソードやそれに対する考えを、お互いに交換しあいながら、保育にとって大事なことってなんなのかなということを考えあっていくのが、「エピソード記述」の意味するところです。

 では、なぜ、互いの内的なリアリティを交換して「了解しあう」ということが成り立つのか。これは究極的には「同じ人間だから」ということになりますが、この例に即していうと、「同じ関心をもって保育の仕事をしているから」ということが大きい。エピソードの読み手は、「自分も、子どもとの触れ合いのなかで、そんな出来事が起こればびっくりして考え込んでしまうと思う」というふうにして、書き手は自分ではないのだけれど、その立場に自分を置いて、それをあたかも自分のものであるかのように追体験することができる。

 つまり、了解可能性のいちばん底にあるのは、「自分とあなたは違うけれども、あなたの感じているのと同じような思いは、多少とも自分の中にもあるはずだ」という、「同じ人間である限り」という前提だと思います。さらに、保育士という具体的なレベルでいえば、日々同じ関心をもちながら子どもと接しているという、共通の土台のなかで培われた心模様があり、それを土台として他人の体験を自分のものであるかのように感じ取ることができたり、また一方では、別の人間であるからこそ「ちょっと視点を変えればこんな見方もできるかも」というように、自分の感想を返してあげたりすることもできる。

 つまり、そこでは、知覚事実や本質記述のように、だれもが厳密に確かめうるという意味での完全な公共性はないが、他者の記述を自分のもののように感じることはできる。つまり、その人の内的なリアリティのすべてをわかりきることはできなくても、その人の語りを通して、その人の内的リアリティを自分なりに感じ取って、そこに自分にも他人にも共通な心の動きが立ち働いていることを直観することができる。「経験の共同性」や「関心の共有性」を背景にしながら、そこで「互いに共通するもの」を、「リアルなもの」としてくくりだせるわけですよね。

 それでも、「だれもが同じように確かめられる知覚事実だけが真のエビデンスで、それだけが唯一の学問の礎だ」という頑なな考えをもっている人からすると、こうしたことは「はなはだあやふやな主観的なものにすぎない」ということになりかねない。

もちろんそれは主観的なものだけれども、ぼくは、ある意味主観的でいいんだと思います。その主観的な体験を見つめる反省の眼差しがしっかりしていて、その記述を読んだ人の中に、書き手の内的リアリティが伝わり、自分自身の経験と感触とを喚び起こし賦活するならば。

 例えば保育士さんたちが、それぞれの体験に照らし合わせながら、「こういうことって保育のなかではあるよね」「こういうときにどうするかということが、保育士としては重要だね」ということを語り合っているときって、保育に大切な共通本質を、実は確かめ合っているんですよ。鯨岡さんの「エピソード記述」では「本質観取」という言葉は使いませんが、そこでは互いの経験を語りあいながら共通するものを確かめあい、保育についてカナメとなるものを取り出そうとしているはずです。

 そして、それが互いのなかで確かめあわれて「リアル」なものとなってくるときには、やはりそこには明証性の感覚がある。自分のなかに経験のリアリティがあり、さらにみんなもそのように感じていることが確信される。そういうときには、やはり一種のエビデンスと呼ぶべきものが、自分のなかに生まれてくるわけです。それは決して恣意的なことではない。そのように考えることで、質的心理学的なものに対してもはじめて根拠が与えられるようになると思います。

 前にも言いましたが、そもそもインタビューって、グラウンデッドセオリーみたいに、ただ録音してデータに起こして、というようなものではない。そこには話し手と聞き手との共同作業があるはずです。自分を相手の立場に置きながら、それでもなおかつわかりきれないところを尋ね返したり、ないしはインタビュアーのほうにも自分自身の関心がありますから、その関心からみてここはどうなんですか、と重ねて聞いたりすることで、相手の発言を引き出したりしている。

 そうしたインタビューがそもそもできるというのも、同じ人間としての共有性や感情性をともにしているという大前提があってこそなんですよね。だから、インタビュアーはまったくの黒子でただ相手の話を聞いているんじゃなくて、自分と相手の立場を重ね合わせることができるからこそ、さまざまな質問もし、相手の感触を確かめようと相手の言葉を引き出そうとする。あくまでも相手の話、相手の体験を聞くのだけれども、そのさい、相手のもっている「内的なリアリティ」を言語化することを、互いに協力して行っていると思うんです。

 

 先ほど西さんが提示してくれた「反省的な明証性」の概念って、人間的意味や価値の問題をともに考えていくための原理としては普遍性をもつものだと思うんですが、現実の問題であればあるほど、「知覚モデル」のように強固に一致した共通経験があるわけではないので、クリアカットに共通本質を取り出すことってできないですよね。だからこそ、ともに考えていく足場をつくるためには、言葉を通してお互いの生きている文脈を確かめあい、互いの「意」をたずねあう……という、言ってみれば言語そのものの本質に即した作業が欠かせないし、その点でもインタビューが大切な方法になることがよくわかります。でも、お話を聞いていると、グラウンデッドセオリーって、「客観性」を担保したいがために、言葉の字面的な部分(竹田青嗣さんの言葉でいえば「一般言語表象」)を、「生きている文脈」や「意」から、つまりそれぞれの実存、それぞれの「内的リアリティ」から切り離して扱おうとするわけですよね。それはやはり問題だと思います。

 

西 そうなんですよ。ですから、内的なリアリティを語り合い、確かめ合うなかで得られるこうした「エビデンス」が人間の問題を考えるためには大切だということを、自然科学的「似非エビデンス主義」に対して主張していくのはたいへん重要なことだと思っています。モントリオールでの発表でも、大枠は言えたんですが、まだまだ詰め切れてはいないという感じで……

それで、この9月末くらいから、久しぶりに現象学論の執筆にとりかかろうと思っているんですが(筑摩選書)、そこで、人間を扱うときの人間科学のエビデンスをどのように見出していくべきかという問題を、ちゃんと論じていきたいと思っています。

(了)