このごろの西研、これからの西研・2012
お医者さんの学校に来ています……
犬 ひさかたぶりの「語りおろし」ということで、まず近況と最近の問題意識などについてお話いただけますでしょうか。まず、近況となりますと……ここ、お医者さんの学校ですよね。
西 はい。東京医科大学、新宿にあるお医者さんを育てる学校で、「医学をめざす学生に哲学を教えてほしい」というお話をいただきまして、いま1年生に哲学を教えています。もう3年目になりました。現象学研究会の仲間で、今度ご自身も哲学的に医療を考察した著作を出される行岡哲男さんが東京医大で救急医療を長くされてきた方なのですが、その方がきっかけをつくってくださいました。行岡さんの今度のご本(行岡哲男『医療とは何か――現場で根本問題を解きほぐす』、河出ブックス、8月刊行予定)は、絶対に正しい診断・治療法はありえない、ということをふまえたうえで、医療スタッフと患者とはどういう発想のもとに関わっていけばよいのか、ということを根本から考えた力作で、ぼくは原稿をみせていただいたのですが、とても刺激をうけました。
行岡さんもその一人ですが、「お医者さんは、半分文系でないといけない」というふうに考えておられる方がこの大学にはいます。この「半分文系」という発想、とても重要だと思います。病気は、自然科学的にみると、身体の機能がなんらかのトラブルを起こしている状態ということになりますよね。そして医療は、手術なり投薬なりといった効果的な介入をして、そのメカニズムを正常化させることになる。これは、医療の近代科学としての側面ですよね。でも、他方では、「病」はその人間に独特の「意味」をもたらす経験でもあって、そこにも注目しなくてはいけないからです。
それで、授業ではこんな話をしています。……身体は、自然科学的にいえばあるメカニズムのもとに動いているものなんだけど、人間にとって「身体」がどんな意味をもつものか考えてみよう。すると、それは「能力の座」と定義できるのではないか。例えば、「しゃべれる」とか「歩ける」とか。でも、そうした基本的な機能だけでなく、日本語を話せる、英語を話せる、ピアノやギターをひけるなどなど、文化的なものが「身について」能力となる、つまり身体化しているものもある。
ここが肝心なのですが、この身体のもろもろの能力を通して人は世界との関係を打ち立てているわけです。ところが病気になると、この能力が損なわれるわけですよね。今まで当たり前にできていたことができなくなる。そうすると、「こうしたいのにできない」という感じで、欲望>能力という具合になり、能力と欲望のバランスが壊れてしまう。
ここから何が起こるかというと、いちばん極端な例でいえば、自分にとって生きがいになっていること、いわば生の可能性の核心をなすものが失われてしまう、ということですよね。この生の可能性には、「できること」(能力)と「したいこと」(欲望)の両面が含まれています。例えば、ピアニストは、ピアノをひくことを通して、例えばショパンのこの曲のこの感じを、こう表現したい、という思いをもっている。作品から自分が受けとったことを表現できて、聞いてくれる人との間に共振が生まれて……ということが喜びの中心にあるわけですよね。できる・したい、の二つがそこにある。ところが指の動きが悪くなるということは、普通の人なら日常生活に支障がない程度であっても、ピアニストにとっては決定的に「できない」ということになってバランスが壊れてしまう。
会社務めをしている人にしても、ただ給料をもらって、ということだけではなく、仕事を通して人や社会に何か意味あることができていること、家族に収入をもたらしているということが、よろこびであったり心の支えであったりします。しかし、病気になるとそういうことがやはり「できなく」なる。
動物だったら、単にできなくなって困る(不便になる)だけなんでしょうけれど、人の場合には「できなくなる」ことは、自信喪失や無力感につながりやすい。自分の価値がなくなったように思えるわけです。あるいは、「なんで自分だけがこんな目に遭わなければいけないんだ」という思いがしばしばやってくる。行岡さんはこれを「不条理感」と名付けています。これは「状況を変える力はないが、しかしそれを受け入れることもできない」という無力感から出てくるわけです。
つまり、科学的には「身体のメカ二ズムの不調」といったことが、人間的意味の世界では、能力と欲望のバランスが壊れて苦悩を生み出す、という事態を生み出していることになります。もちろん、身体の直接的な苦痛もあるでしょうけど、それだけではなく、「生きていて意味があるのか」という苦悩に苛まれてしまうわけです。これは、これまで構築してきた自分自身の生の物語――これまで…のようにして生きてきた自分は、これから−していきたいと思って、いま〜している――が壊れてしまう、ということでもあります。生の物語はそれなりの能力を前提して描かれていたものだからです。ですから、その能力が低下したり失われたりした、という新たな前提のもとで、生の物語をどうやって再構築していくか、という問題がその人に迫ってくることになる。そんなことかなと思います。
もちろん、「生の物語の再構築」を支援するのは、お医者さんというよりも、直接的には家族だったり、あるいはそれを専門とする人の仕事だったりするのかもしれません。でも、お医者さんにしても、病は単に痛いとか苦しいとかいうことだけじゃなく、生きることの可能性や意味にかかわるような次元をもっていることを意識できないとだめなんじゃないか、と思うんです。行岡さんの著作ではこのあたり、ずいぶん詳しく語られているので、ぜひ皆さんが手にとってくださるとよいのですが。
犬 ですよね。「病気からその人にどんな問題が生じているのか」ということって、体の機能の不調だけのことじゃないと思いますし……それになにしろ、相手の人格的な部分にきちんと配慮したうえで言葉を交わしてくれるお医者さんだと安心しますよね。逆にそういう感性がまったくないと、ちょっと怖いなあと思ってしまう。
西 そうですよねえ。それで、大学の授業でも、「お医者さんは科学の世界と意味の世界、二つの世界に同時に股をかけながら仕事をしなければいけないよね」ということを言って、「病の本質観取」を、実際に学生にやらせています。「さまざまな病があるけれども、病は一般にそれを経験する人にとってどんな意味をもっているのか」という問いについて、それぞれが大切な契機と思うことを出し合い、話し合ってもらう。そうすると、だいたい、いま言ったようなことが共通部分として出てくるんですよね。
あと、「半分文系」ということでいうと……「自分自身で考えてみること」「自分の思いや考えを言葉にして考えあうこと」の面白さや大切さを、哲学を通して伝えたいという思いがあります。
どこの医大や大学でもそうだと思いますが、「自分で考える」ことよりも、マニュアル的なもの、ある種の公式のようなものを求める学生が増えてきている。学力の高い子でも、あまり深く考えないで大量の情報を蓄積し吐き出す……という勉強のしかたを身につけてしまっていることが多いように思います。学問の奥深さへの興味や期待……芸術や音楽と同様に学問の世界にもすごい人がいて、その人への憧れをもって……ということが剥落している。だれかが切実な問題意識のもとに追究した成果としてこのような考え方が生まれたんだ、というところがきれいに落っこちて、ただ情報として、結果としての知だけとらえようとする、そんな感度が広まっているように思うんですよね。
ただの情報として蓄積するのであれば、それらはもうすべて一般的な知識にすぎない。でも、例えば「この人は何が気になってこんなことにこだわったんだろう」「これって自分自身の問題、こことかかわっているんじゃないか」という視点がもてるようになると、つまり自分自身が「考える人間」として立ったうえで、本や知識を捉えられるようになると、「よくこんなすごいこと考えたもんだな」という次元が出てくるでしょ。
それで、哲学というのは、まさしく、考える人間として立った人たちのあいだでの営みですよね。自分のあたまを使ってとことん考え、議論して、「なるほど!」とみんなが納得できる普遍性のある理論をつくりだそうとするのが、哲学というものです。自分自身がなるべく根っこからほって考え、それをみんなで議論をしあって、と姿勢があってはじめてなりたつ。自然科学も哲学から生まれたものですから、根っこにそういう姿勢をもっているわけで、そういう精神を医学生に感じてほしいし、そうして考えることのよろこびを味わってほしいな、と思います。
哲学の原点を見つけました……
西 実は、「哲学のこころの原点を探ろう」ということで、プラトンを去年くらいから関西現象学研究会(大阪で行っている研究会)で読み直していたんですよ。それで、ぼくらのイメージする哲学の原点はソクラテス・プラトンなんだな、ということをあらためて確認できたような気がしています。
さっきいったように、自然科学も哲学から分かれたもので、「原理性と普遍性を求める主体的な営み」ということでは共通だけれども、ぼくらの考える狭義の哲学のイメージって、「これっていいことだよね」「これって大事だよね」というように、人間にとっての意味や価値の問題を確かめ知ろうとする、ということですよね。
ソクラテス・プラトン以前のギリシア哲学は、この世界はもともと何でできているのか、という問題について議論を重ねてきた。水だろう、いや水じゃなくてこうだろうというように、考え議論しあうなかで原理を探っていく哲学のスタイルがそこで築かれていったわけですよね。で、ソクラテス・プラトンが画期的だったのは、そうしたなかで「そもそも人間にとって、何が大切なんだろう?」という問いを出してきたことです。それで、ソクラテスは、お金も大事だし、健康も大事だろうけど、でも何より大切なのは、「魂の世話をする」ことではないか、っていうんですよ。つまり、魂がわくわくしてくるような、魂にとってのよい≠アと、これを確かめ知ることが哲学じゃないか、と。これを対話しながら考えあっていく、という哲学の形をソクラテスは打ち出したわけです。
彼らはもう2400年くらいも前のひとなのに、ほとんどいまのひとの感覚と変わらない。ぼくらが考えそうなことが、たくさんでてくるんです。プラトンの著作はすべてソクラテスが主人公で、そこにいろんな人が登場してきていろんなテーマについて対話する、というかたちになっているのですが、大きなテーマとして「正義とは何か」というのがある。『国家』という作品のなかで、トラシュマコスというソフィストが「正義とは、権力者が自分の利益になることを正義と言っているにすぎない」という説を唱えます。それに対してソクラテスが、「ほんとうかい?」と問いかけながら、それをつき崩していく。トラシュマコスの説はちょっと物を考える人なら、一度は考えたことのあるようなものですが、そのようにさまざまな人間の思考の形というのがかなりの程度出てきている。ソクラテスはそこを押さえながら、そういう人でも納得せざるを得ないような普遍性のある考え方に進もうとする。ときどきソクラテスの論法自身がかなりソフィスト的というか、強引な場合もあって、「こりゃちょっと無茶だよね」なんて言い合いながら読んでいるんですが、ソクラテス・プラトンの志としては、ハッキリとだれもが納得しうる議論≠ノ向かおうとしているわけです。
またなかなかおもしろかったものに『プロタゴラス』というプラトンの初期作品とされているものがあります。光文社の古典新訳文庫でとても読みやすい訳が出ています。そこでは、プロタゴラスという高齢で有名なソフィストと、まだ若いソクラテスが議論をするんですが、そのとき、ソクラテスが責め立てたら途中でプロタゴラスがむくれちゃうんですよね。すると、周りの人が、プロタゴラスはそんなふうに感情的になったらだめだし、ソクラテスにしても、相手がもっと議論をしやすいように配慮しなければいけない、なんてことを言い出すんです。つまり、周りの人たちが「公正な議論を展開するにはどうすればよいのか」ということを言い始めるんですよね。
そういうふうに、相手を攻撃して勝ち負けを競うのではなく、フェアに議論をしてお互いの考えを出し合い、分かり合えるようにするためにはどうすればよいのか、という話が出てくる。つまり、フェアな対話ができる空間を自覚的につくろうとしていたんですよ。このころからそういうことをちゃんとやっていたんだんな、ぼくらの考える哲学の原型ってソクラテスのときにもう完全にできていたんだな、と思いました。
犬 「魂の世話」っていい言葉ですよね。そもそもの哲学との出会いって、自我の不安や関係への不安だとか、それぞれの生の問題とのかかわりの中で生まれている。哲学の言葉は間違いなく、そうした問題を自分のなかで確かにしたり、あるいは人と確かめ合ったりする契機になる。その一方で、「自分の思いや考えが正しい。理解できないほかの人が間違っている」という自己正当化に結びつけたり、単に知的理解を競い合うこと終始したりしてしまう可能性もある。でも、それは喜びを生み出さないし、自分自身の生を痩せさせてしまう……ということは、自分の体験に照らし合わせていえることかと思います。で、「魂の世話」というキーフレーズを念頭においてみるようにすると、哲学の本質的なよい面が展開していけるようになると思います。
西 そうですよね。で、そういう哲学的思考の本質的な部分を広めていければな……というのがこのところの大きなテーマの一つで、竹田(青嗣)さんと朝カル新宿でギリシア哲学の完全解読講座をしたり、今年は忙しくてやれてないのですが昨年は本質観取のワークショップに取り組んだりしてきました。本質観取のほうは本にする計画もあってちょっとずつ進めているところです。
「ケアの哲学」と「人間観のバージョンアップ」
西 このところ焦点にしているもう一つのテーマは、医療系の大学にきたことも関係していますが、広く「ケア」と呼ばれる領域を哲学的に考えてみようということです。こちらのほうは、現象学研究会の仲間の山竹伸二さんと、横浜の朝日カルチャーで講座を開いています。
「ケア」というといろいろな領域が含まれますが、介護、看護、医療、はすぐ浮かぶと思います。それに保育や教育もケアという側面をもっている。しかし、ケアのいちばん原点になるのは「養育」つまり子育てだと考えています。これらにはそれぞれの特質はありますが、しかしケアとして共通するところもある。
それで、ぼくと山竹さんがこのケアについて考えるときにいちばん重要だと思っているのは、「人間観そのもののバージョンアップ」です。
ケアという言葉が近年話題になっているのは、一つには高齢社会の到来で介護のような仕事が時代的にますます必要とされているということがある。しかしより本質的にいえば、「主体の危機」という状況があると思うのです。かつて個人の自由を阻む家や村があり、それに対抗して、自分なりの自由な生き方をしたいという問題意識をもつことができた時代は、自由という言葉が輝きをもっていた。そして、自分の思いを理解しない親や地域に「抗う」ことで自分という主体を形成していた部分も大きかったと思います。
でも、いまのこの時代はどうか。さっきの「魂の世話」の話のように、「自分にとってはこれが大事だしぜひ実現したい、人と協力し合ってやっていきたい」という思いをもてる人たちはいいのですが、しかし多くの人たちがなかなかそこに行けない。「主体」という言葉と密接に関係する言葉に「自立」があります。自分の意志をもち、自分としてどう生きていこうかという姿勢をもち、自分でいろいろ試みて、失敗したらそのことに対して自分で責任をとる……そうした、自立した強い主体が、いまや簡単には成り立たないのだ、ということがはっきりしてきたんだと思います。
親に逆らい、地域共同体に逆らう、ということを通じて自立を獲得してきた明治以来の知識人や、団塊の世代くらいまでの人たちの場合、じつは、地域の分厚い人間関係に支えられていた部分が大きかったと思うんです。近所のお兄ちゃんが遊びに連れて行ってくれたり、家にもたくさん兄弟がいたりするような、分厚い人間関係のなかで育てられてきたところがある。ところが、そうした、人が否応なしにまずそこへと巻き込まれ、そこに支えられたり反抗したりしながら自分を育てていく「人間関係の網の目」が、いま、たいへん薄くなっているわけなんですよ。
もっと正確にいうと、子どもの気持ちを受取り、甘えさせ、そしてまた次第に自立しようとする気持ちを見守り、というようにちゃんと子育てをしている親もいるわけですが、まったくそうじゃない親、子どもの気持ちを受けとめられない親もたくさんいる。昔だったらそんな場合でも、おじいちゃんやおばあちゃんだとか、地域の人間関係や、先輩なんかが支えてくれる部分があったと思うんです。でも、いまそこが希薄なため、たまたまどんな親のもとに生まれてきたかで、その子がどのように生きていけるのかが決まってしまう面がある。つまり、「自分自身の物語を描きながら、自分の意志をもって生きていく」「ほかの人たちと出会い、互いの意志を出しあい了解しあいながら関係をつくって生きていく」という、主体的な生き方をつくることがなかなか難しい。「ほっといてもおのずと人間は育つものだから」というような、おっとりした考え方ができない時代になってしまっていると思うんですよね。
つまり、ヨーロッパの近代思想や、人権と民主主義のような仕組みは、「自分の意志をもって自由に生きようとする主体」を前提としているわけですが、じつはそのような主体が成り立つためにはさまざまな条件が必要であったのだ、ということがわかってしまったのだと思います。そこで、そのような条件とはどのようなものかをハッキリと取り出し、それを念頭においた上で地域なり学校なりをどう再構築していくか、という課題が出てくることになりますが、そのときに、さきほど言いかけた「人間観のバーションアップ」が必要になります。少しお話してみます。
人が育っていくプロセスの最初にもっとも必要なものは、親が与えてくれる安心や信頼感です。エリクソンの言葉でいえば「基本的信頼」ですね。寒くてオギャーっと泣けば毛布をかけてもらえるし、おなかがすけばお乳を与えてくれる。怖いことがあればぎゅっと抱っこをしてくれる。そういうことです。でも子どもはずっと甘えていたいわけではなくて、自分で自分なりに好きなことをしたいという探求心、冒険心ももっている。エリクソン風にいえば「自律」への要求ですね。
しかしこの二つは対立するものではなくて、基本的には「信頼がベースとなって冒険できる」というふうになっている。必要があれば甘えられる、守ってもらえるという安心空間がベースにあって、冒険心や探求心が育つ。そうした冒険、探求を通して、自分なりにいろいろやってみるなかで、世界とはこういうものだということ確かめ、より安心できるものにすることができるし、同時に自分なりに世界をとらえ、コントロールしていける能力が育つわけです。自律から世界への信頼が出てくる面もあるわけですね。
この前エリクソンの『アイデンティティとライフサイクル』を読んだので、ついその言い方を出してしまっているのですが、エリクソンは、自律autonomy
の次に「主体性 initiative」の段階がくるといっています。「主体性」というのは、基本的信頼と一定の自律性を獲得したうえで、他者と相互了解しつつ「自分のやりたいこと・やるべきこと」をはっきりと目標としてもつ、という段階ですね。社会性のもとで自発的な意欲をもつ、という感じでしょうか。これがぼくの言葉でいえば「自立」に相当すると思います。
ちょっと話を複雑にしてしまいました。もっと簡単にいえば、世界に対する安心や信頼を持ち得てはじめて人は積極的に世界に関わる意欲をもちうる、ということです。安心や信頼を育むことなくして、「主体性を持て!」「自立せよ!」と連呼しても無理がある。人の主体性や自立性は、安心や信頼という土台をもっているわけです。仕事をして評価されようと懸命にがんばっている人も、その人が信頼という土台を他者関係のなかに積みあげてきていない場合、ちょっとしたことでもろく折れてしまうことになりかねない。また、何かで失敗して意欲がくじかれ挫折したとしても、温かい支えや安心できる場所があれば、いわばそこで休んで傷を癒しながら、ふたたび意欲をもって世界に関わる主体になっていくこともできる。この「安心や支え」が、自分の存在や想いを大切にしてもらっている、という「無条件な(能力の評価ではない)承認」の感覚と結びつくことで、そこからふたたび社会的な意欲が立ち上がってくる、ということが、ケアということの核心になっていると考えています。
ところで、自立した大人と見られている人も、甘えん坊屋さんのところをもっている。たとえばぼくらは研究会とかしょっちゅう一緒にしていますよね。「ともに哲学を研究し魂の世話をしている」といえば聞こえはいいけれども、研究会をだしに遊んでいる、楽しんでいる部分って大きくないですか。「ほう、あんたはそんなことを考えるんだ、それっていい考えだね」と思ったり、それぞれの人生のエピソードを聞いて共感したりして。いってみれば遊びなんですよね。そこはまあ、自立した大人どうし?がやっていることだから、完全な自己放棄的甘えではないけれども、そこに、どこかおたがい甘えあったりじゃれあったりということも含んでいる。そういう面なしの「自立」は、考えにくい。
犬 たしかに、何かが新しくわかっておもしろいという部分ももちろんあるけれども、深く理解されるよろこび、自分の話をきちんと受け止めてもらえる安心感っていう部分がすごく大きいですよね。ずっと続けている研究会や読書会で、お互いの親和的関係がつよくなるほどそうなる感じかも。逆に新しい研究会に参加したり、立ち上げたりするときの場合、チャレンジしてみる冒険心のほうがある気がします。
西 そうですよね。安心と冒険、愛と冒険とか、依存と自立でもいいんですけれども、その二元性をもちながら、さまざまな活動を繰り広げていくのが人間のありかただと思うんですよ。人はそうした二元性のなかでさまざまな活動を展開する生き物で、ライフサイクルのそのつどそのつどで、その人なりにある課題や、困難にであっている。そんな人間の見方をする必要がある。なんで必要があるのかというと、そういう見方をしてはじめてサポートっていうことが考えられるし、また教育や広い意味でのケア、支援をどうすればよいのかということが見えてくると思うんです。
自立や自由をひたすら叫んでいられた時代というのは、まだのんきだったところがあるように思います。いまや家や地域での人間関係が解体され、関係そのものがある定型を失っている。先生ってこういうふうにふるまうものだとか、だれそれであればこうあるべきだという定型的なものが崩れてしまっているわけですよね。かなり複雑な関係を取っていかなければならないし、生きること自体が大変な世の中になっているということがいえると思います。
そういうなかで、どうすればひとが心地よく、よりよい生を生きられるかという課題を考えるとなると、人間のとらえかたそのものを、自立一本槍ではなく、甘えと自立の両極があってこその人間である、ととらえる必要があるのではないか。そうすれば、この場合は「自立」のところでうまくいかなくなっている、この場合では「甘え」のところがうまくいっていない、というように多様な「うまくいっていない」ありようがとらえていけるようになるし、それぞれの場合にふさわしいフォローのありかたも見えてくるようになる、と思います。
つまり、さっきいったような「分厚い人間関係の網の目」を前提にしたうえで、自由なり自立なりを考えることができた時代よりも、人間観そのものにしても深まったありようがもとめられているし、教育やケアについても、それを踏まえたうえで、その核心はなんなのか、重要なことはどこにあるのかということを考え直していかなければならないと思います。そのあたりのことを……まだその大枠が見えてきた段階なんですが……深めていきたいと思っているんですよね。
という感じで、「哲学の方法を深め、広くみんなと共有していくこと」「人間観を深めて、われわれが生きている社会でのサポートのありかたも含めた、社会の再設計の礎にする」ということが、最近意識している課題という感じですね。
犬 たしかに、人間関係にしても、さまざまな価値観にしても、こうあるべきだ、いままでこうだったからこうすればいい、ということが成り立たなくなっている部分ってだんだん大きくなってきていますよね。……もう10年以上前ですが、西さんの「正義」の本質観取の講座をはじめて受けたとき、実は「正義」という言葉自体に違和感があったんですよ。「正義感」という言葉に振り回されて生きている息苦しさのようなものが、まず連想されてしまう感じで。それぞれの人が、生活の中でもっているよしあしの感度を確かめるための言葉としては「遠い」感じがしました。でも、「正義」という言葉を置いたうえで、それぞれの人がもっている「公正さ」の尺度を生活場面から具体的に出し合い、その共通部分を考えあう……というワークショップを実際に体験してみて、その意味が実感できたように思います。当たり前の前提を置いたうえで社会の設計図を描くことが不可能な状況のなか、公正さの指標そのものをどこに置くかということ自体についても、一から考えあっていく必要があるし、しかもそれはこうして可能なんだと。
西 そう、その通りで、哲学の思考を広めたいというのは、自分だけじゃなくて、社会のひとびとがここってほんとは大事だよねということが、納得できて共有できるようになれば、そこに基づいて、これからこうやっていこうね、っていう方向がみえてくると同時に、希望ができますよね。それがなにもできないと、ある意味無力ですよね。ないしは勝手にそれぞれが、これが正しいんだと主張しあい、イデオロギー対立のようになってむなしいだけになってしまう。
哲学ってこれが正しいんだ、ということを上から言ってしまうんじゃなくて、どういう言い方をすれば共通の次元がくくりだせるか、ということを考えていくものなんですよね。このことって、哲学を学んでいる人の間でも、あまり共通理解されていないことだと思います。「哲学は普遍的な真理を追究しようとしたが、そのことの問題性が自覚され、ポストモダンに至った」という理解のしかたもあるし。
哲学に対して、「これが普遍性だ」ということを上から強制的に架してしまうようなものだというイメージを重ねてしまうとすると、たしかにそういう考えが出てきてしまうのかもしれません。でも、近代のビッグな哲学者たちの著作をたどってみると、うまくいえているかどうかは別としても、哲学の思考は、けっして無理矢理にではなく「こういう形でとらえれば、このことに関しては共通性をくくりだしていけるよ」という発想をとるものなんですよ。「ほんとうにきちんと考えれば、ここは納得しあえるよね」という地点を見つけて、それを言語化していくことだと思うんですよね。
そういう意味でいうと、今後の方向性がみえないこうした時代状況のなかで、哲学的な思考が非常に大きな存在理由をもっているんだということを、伝えていく必要はやっぱりあると思います。(了)