あのころの西研
(2002年)10月11日、橋口譲二さんと京都精華大学で対談しました。
橋口譲二さんをご存じですか? 人が世界にどう関わって生きているかを、写してきた写真家です。鹿児島出身、53歳。彼はいま、日本の高校生・大学生や、その年代のインドの人たちと独特なワークショップを試みています。
たとえばインドの村で十八歳くらいの人たちに何人か集まってもらって、その人たちにカメラを渡して、「あなたが好きなものを撮ってきて」という。そして撮ってきたものをみんなで見ながら互いに話しをする。そうやって、自分が何が好きで何が嫌いで、ということを認識するチャンスにするとともに、互いの生き方を照らし合わせていく、そういうワークショップです。
詳細については、『対話の教室』橋口譲二・星野博美、平凡社、2200円を見てみてください。また橋口事務所のHPにもこの本の紹介があります。
http://homepage2.nifty.com/mitropa/
来年からぼく(西)は、京都精華大学「社会メディア学科」の教員になります。新学科発足記念講演の一つとして、橋口さんに対談を申し込み、快く引き受けていただきました。
打ち合わせをしていると、話がどんどん出てきて、しかも、彼が写真でもってやろうとしていることと、ぼくが哲学でもってやろうとしていることとが、深く共通しているところが見えてきて、興奮してきました。自分のモノサシ(価値観)を形づくっていくツールとしての写真! 哲学もそういうツールであるはずだ、とぼくは思ってきたからです。
10月11日の橋口さんとの対談の日は、特別な一日になりました。京都精華大の広場に写真を展示しようというので、午前11時に集合し作業に取りかかって、完成したのは午後1時過ぎ。発泡スチロールのパネルの上に写真をピン止めにして、イーゼル(絵を描くときの三脚)の上に載せたものを、並べていったのです(手伝ってくれた学生さんや事務の方、ありがとうございました)。
少し風はありましたが、天気はよくて最高の気分でした。写真は、インドの青少年たちが撮ったものと、橋口さんがインドのいろいろな人たち−−ヨガの行者、働いている主婦、レンガ職人、といったさまざまな人たち−−を撮ったもの(将来の夢、についての各人のコメントつき)です。行き交う学生たちが、写真の前で足をとめて、ひとつひとつに見入っているすがたは、何か楽しく気持ちが弾んできました。
ぼくは前夜あまり眠れず睡眠不足な上、作業をして気持ちがよくなって午後は芝生にねっころがっていたので理性がぶっとび、対談の時点(夜6時半)では頭がほとんど働かない状態でした。
でも、お互いが写真をとるうえで、また哲学するうえで、大切にしてきたものは何か、というようなとてもストレートな話ができて、とても楽しかった。
写真という業界は、消費社会というか資本主義と密接につながっていて、場合によるとチョロく売れてしまったりするそうです。いったい何を大切にしていくのか、というような問いかけがないと、とても「危ない」のだ、と橋口さんはいってました。
でも、哲学や思想や学問といった領域でも、売れるという価値観とはちがうかもしれませんが、同じようなものかもしれない。何を大切にしながらやっていくのか、という問いかけを失ったまま、仕事をしている人、たくさんいるような気がします。
「西さんが大切にしているものはなんですか?」の問いには、ちょっと考えて「人間的努力への信頼かなあ」と答えました。−−人間は捨てたものではない、というふうに思いたいし、また思ってもらいたい。いろんな困難が個人の生き方にも社会のあり方にもあるけれど、でも、ともに考えあい助け合っていこうとする努力はできるし、また努力している人たちがいる。そういう人間的努力への「信」を、授業でもゼミでも、本によっても、育てたいのだ、というようなことをいいました。
もう一つとてもおもしろかったのは、インドと日本でのワークショップでの「ちがい」の話でした。青少年にカメラを渡して、「君の気持ちが動いたものをとってごらん」というふうにいう。そのやり方はインドでも東京でも同じなのですが、東京のほうがものすごく疲れたと橋口さんはいってました。というのは、インドの貧しい青少年は、ともかく働かなくてはいけない。自分の好きなもの、嫌いなものといった、「自分のなかに動く感情」に目を止めるヒマがなく生きてきた。でも、ワークショップの時間は、彼らにとって特別な時間で、自分のなかに動くものがある、ということがとてもうれしくて仕方がない、というようすだったそうです。ところが、東京では、そうした「核」のまわりをいろんなものが取り巻いていて、それを取り外していくのがともかく大変で、疲れるのだ、というのです。
日本の子供たちは、さまざまな情報のなかで早い内から自分のジャンルをつくりあげてますよね。ぼくは映画だ、とかロックだとか。その点に関してはものすごい情報量をもっていて、そのことで、「他人とちがう自分」をようやく設定している。でも、それは必ずしも、「自分のなかに動くもの」を感じとり見つめる目を育てることにはつながっていない。むしろじゃましているかもしれない。−−そんなことをぼくはいいました。
自分のなかに動くもの、そこからすべてが始まる。ぼくはそう思っています。そして、そういうふうにして「自分にとって大切なもの」を確かめつくりあげようとする若い人たち(若くなくてもいいんだけど)が好きなのです。哲学がそういうことの助けになれば、ということも、ぼくが強く願っていることです。
橋口さんは、写真のワークショップはそういうことを「狙った」ものではなく、むしろ自然に起こってくるものにまかせていってできてきたものだ、といってました。でも、橋口さんの無意識のうちに、人が自由になるとは?という問いかけがなければ、そういうワークショップにはならないはずだ、とぼくは思ったりするのです。
その他、表現は「抗う」ことなしにはでてこない、とか、たくさんいろんな話をしました。
心に残る、特別な時間になりました。