●意識章(西研担当)
T 感覚的確信 あるいは「このもの」と思いこみ
〔冒頭部〕【A】
[感覚的確信とは] 最初にすぐに我々の対象となってくる知は(最低次の知であるから)「それ自身無媒介な知」、つまりあれこれと反省したり思いめぐらしたりすることなく、感覚をそのまま受け取り確信するような知である。それはまた「無媒介なもの」ないし「存在するもの」の知であって、自分の対象は意識とは無関係にそれ自体として客観的に存在しており、かつ、一切の他の対象とも無関係な独自な個別的ものである、と信じて疑わないような知である。(⇒これは具体的には、見たり聞いたりする感覚によって与えられるものをそのまま信じる態度のことだから、感覚的確信と呼ばれる。)意識経験を観察する我々も、この知に変更を加えずその知のなす経験をそのままに受け取らなくてはならない。
[感覚的確信の豊かさと貧しさ] さて、感覚的確信の内容はきわめて具体的なので、一見すると【もっとも豊かな】認識であるように見える。感覚の与えるものは時間と空間の広がりにおいても無限に多様であるし、また一片を採って分割していってもたえず新たなものが見つかるからだ。また感覚的確信は【もっとも真実な】ものであるように見える。なぜなら、対象をそのまま無媒介に受け取るだけで、あれこれ考えて対象の姿を歪めることがないからだ。
しかしこの確信はじつはきわめて抽象的で貧しいものにすぎない。なぜなら、それが口に出して言うのはただ「これがある(存在する)」ということだけだからだ。ここでの対象は、さまざまな性質をもった具体的な事物ではなく、ただ「これ」(=個別的なこのもの)としかいいようのないものなのである。(⇒というのも、もし確信が対象にさまざまな性質を認めて「赤い」とか「丸い」と口にするならば、そのとたんに、その対象が他の赤いものや丸いものと似ていて、他の青いものや四角いものとは似ていないことを認めてしまうことになる。つまり対象が他のものと関わりをもつことを認めてしまうことになるからだ。しかし確信はそのようなことはせず、感覚の与えてくるものにいわば“ひたって”いるだけなのだから、確信はただ「これはある」としかいえないのである。)
この確信においては、意識のほうも「このひと」(=個別的なこの私)としかいいえない。なぜなら、この意識は、対象をあれこれ比較したり判断したりするような思考を一切欠いているし、また他人と自分とを比較することもないからだ。このように、この確信がうちに含む対象も意識も、きわめて貧しいものなのである。
[0 主客の未分離状態](⇒これから感覚的確信が経験することを、最初から段階的にたどっていくことにしよう。感覚的確信の出発点は、感覚の与えてくるものにいわば“ひたって”いて言葉を発することもない状態であり、そこでは自我と対象の区別すらもないだろう。ただ「ある」としかいえないようなこの状態を「純粋存在」と呼ぶことにしよう。)
この純粋存在からはすぐに、「自我としてのこのひと」と「対象としてのこのもの」という二つの契機が離れ落ちてくる(⇒これはいわば“我にかえった”状態である。)こうなってみると、自我は対象を通じて「これはある」という確信をもっているのであり、対象のほうも自我によって確信されていることになる。だからじつは、対象も自我も、まったく他から切り離された無媒介なあり方をしているのではないことになる。
だがこれは、あくまでも意識経験を観察する我々が見て取ったことにすぎない。確信じしんが経験のなかでこのこと(=対象も自我も無媒介な個別的なものではないこと)を自覚していくのではなくてはならないが、そのありさまをこれから見ていこう。
〔一 対象こそが無媒介に存在する、とする立場〕【A】
確信はまず、意識ではなく対象のこそが無媒介に存在すると思う。対象は1.知られる・知られないにかかわらずそれ自体として存在しており、かつ、2.他の対象とも無関係に独自に存在する個別的な「これ」なのだ、と信ずる。対象こそが本質的なものであり、意識のほうはたまたま知ることも知らないこともあるという意味で、非本質的なものだとみなされる。
でははたして、確信の思いは真実かどうか。そこで感覚的確信に向かって「これとは何か」と尋ねてみることにしよう。わかりやすくするために、「これ」を「〈いま〉〈ここ〉にあるもの」とみなして、まず「〈いま〉とは何か?」と問うてみる。
いったん「〈いま〉は夜である」と書き留めてみた。しかししばらくすれば〈いま〉は昼になっている。つまり、〈いま〉とは、夜でも昼でもありながらそれらでは“ない”ものであり、いわば、“否定を通じて持続する”ようなものである。〈いま〉をその意味で、「一般的(普遍的)なもの ein Allgemeines」と呼ぶことにしよう。
〈ここ〉についてもまったく同じことがいえる。「〈ここ〉は樹である」が、私が後ろを向けば「〈ここ〉は家である」と変わってしまう。〈ここ〉もまた、一般的なものなのである。
そもそも言葉というものじたいが、一般的なものといえる。確信はそれ自体として個別的に存在するものを思い浮かべつつ、「これはある」と言うのだった。しかし「これ」とか「存在する」といった言葉もまた、あらゆるものに適用できる「一般的なもの」に他ならないからだ。
かくして、確信は、無媒介な個別的なものこそが真理であると思い込んでいたが、真理はむしろ「一般的なもの」なのである。
(★⇒解説:ここでは「個別的なものなど存在しない」などという、きわめて理解しがたいことが言われている、と思った方もいるかもしれない。しかしヘーゲルは、個別的なものの存在を否定しているのではない。私たちが感覚によって物事を捉えるときにも、すでになにがしかの一般的な把握が入り込んでいることをヘーゲルはいいたいのである。たとえば、目のまえの物について「このコップ」と言うときにも、「(他のコップと同じく)水を飲むためのもの」という知的な把握(現代的哲学では「意味」と呼ばれる)が含まれている。われわれは知的な一般的な把握のもとで個別的なものを捉えているのである。
ちなみにフッサールならば、私たちが物事を捉えるときそこには事実性の契機と意味性の契機の二つがある、と言うだろう。いまコップを見るときでも、〈いま〉〈ここ〉に起こっている具体的な一回性としての事実性の契機と、(コップ、ガラス製等々)「として」了解されるという意味性の契機とがある、とされる(フッサール『イデーンT』「事実と本質」)。
〔二 意識の側にこそ無媒介性があるとする立場〕【A】
では、確信は次にどう対処するか。
これまでは対象こそが無媒介で本質的である、と考えていた。しかし次に確信は「対象は【自我】がこれについて知るから存在する」(*FMS.83 フェリックス・マイナー版の頁、金子訳のヘッダーにも記載あり)と考える。つまり、対象がどうであろうと、「私が見ていること」は確実でありそれは独自な個別的なものだ、と考えるのである。
(★⇒この態度については、次のような意見とみなせばわかりやすい:〈対象が実際にどうあるのか、そんなことはどうでもよい。私がいま感じているこの感覚(味・香り・色あい)の個別性・具体性、これこそが確実であり真実である。これは他の人が感じるものとも、また私が他のどんなときに感覚してきたものとも異なった、独自なものなのだ〉と。この立場は、感覚的確信(=感覚の確実性)というネーミングにぴったりである。)
しかし、こういう感覚の個別性に固執する態度もアッサリと覆される。−−「私が見ているもの」は樹である。「他の私が見ているもの」は家である。どちらも同じ権利をもって並び立つ。じつは「私」というのは、「〈いま〉〈ここ〉〈これ〉と同じく「一般的なもの」である。「見ること」も、家を見る・樹を見る、でありながら、家でも樹でもない「一般的な見ること」なのである。
(★⇒解説 これには思わず反論したくなる方もいるかもしれない。私は私であって、他の人とはちがう、この当たり前の区別をヘーゲルは無視するのか、と。もちろん個別的な私は存在しているのだが、しかし私が「私」という言葉を用いて語ることができるのは、〈自分以外にもさまざまな人がいて、そのそれぞれが感じたり考えたりする「私」なのだ、自分はそうしたもろもろの私のなかの「one of them」なのだ〉という了解があるからである。「私が【私】、【この個別的な私】と言うときにも、私の言っているのは総じて【すべての私】のことであって、各人が私の言うところのもの即ち【私】であり、【この個別的な私】なのである」(FMS.83f.)そのように、〈一般的な私のなかにこの私もまたいる〉という把握を私たち各人はもっているはずである。
見ることも同じである。私たちはしばしば「いまこれを見ている、この感覚は独自だ」と思う。しかし「見る」という言葉を用いる以上、聞くのでは「なく」見ている、というふうに把握しているはずだ。感覚といえどもまったくの素のままではなく、必ずそれなりの知的な把握のもとにあり、意味づけられているのである。)
[三 自我と対象との直接の関係に閉じこもる]【A】
では確信はどうすればよいか。次なる戦略は、自分と対象との直接無媒介な関係のなかに閉じこもる、という戦略である。もう言葉を用いることも、過去の〈いま〉と現在の〈いま〉とを比較したり、身体の向きを変えて前の〈ここ〉といまの〈ここ〉とを比較したりすることもしない。こうすれば、自分と対象との直接の関係のなかにひたっていることができるだろう、と確信は考える。
この確信は対話の場に出てこないので、我々のほうでこの確信の立場になり代わってみる以外にない。確信は言葉を用いたり比較したりしてはならないのだから、成り代わった我々は、真理であるはずの個別的な〈いま〉を、我々に対して「指示」してみることにする。するとつぎのようなことが起こる。
@まず〈いま〉を指示して、「この〈いま〉は存在する、これこそ真なるものである」とする。しかしそのとたん、それは「存在した」ものになっている。最初の真理を取り消さなくてはならなくなる。A「〈いま〉は存在した、ということが真理である」とする。Bしかし存在したものは存在するものではないから、この第二の真理をも否定して、「〈いま〉は存在する」という第一の真理に復帰する。
こうして、〈いま〉を指示しようとすれば、それは無媒介な固定的なものではなく、むしろ、「いまを指示→存在しなくなる→またそれを打ち消して最初に復帰する」という運動であることがわかる。〈いま〉は、「他的存在のうちにおいても(=〈いま〉でなくなりつつも)己れたることにとどまるところの単一なもの」であり、「一般的なもの」なのである。
[四 総括]【A】
感覚的確信は実際にはいつも、自分の真理が個別的なものではなく一般的なものであるという結果にまで進んでいく。〈ここ〉は樹であると言い、次にはそれを取り消して〈ここ〉は家であると言うことによって、〈ここ〉が一般的なものであることを経験しているのだ。だが、確信は自然的な意識(学的でない日常的な意識)であるから、この結果をいつも忘却してしまうのである。
これは自然的な意識としては無理のないことだが、しかし、「【このもの】ないし感覚的な物としての外物の実在ないし存在は、意識に対して絶対的真理であるという説」FM87が、哲学的主張や懐疑主義の結論として唱えられるとすれば、まことに奇怪なことである。
知恵の最下級の学校であるケレスとバッカスについての古代のエレウシスの密儀においても、人びとはパンを喰らいブドウ酒を飲むことによって感覚物の絶対性を否定している。動物さえも、感覚物を食い尽くすことによってその実在性を否定しているのである。
哲学的な主張についてさらにいえば、それは存在する外的な対象を「現実的な、絶対に個別的な、まったく個人的な、個体的な物であり、おのおのがもはや絶対に同一のものをもたぬ諸物」として規定する。たとえば目のまえの「この紙片」がそうである、と。
しかしこれを言葉にすることはできない。「思い込まれている感覚的な『このもの』は自体的に(=本性的に)一般的なものである意識に所属する言葉にとっては【到達できぬ】ものだからである」FM88。
言葉でなく指摘しようとしても同じである。私たちが指摘する〈ここ〉は、純粋な点としての〈ここ〉(まったくの無媒介な、それだけとしての〈ここ〉)などではない。あくまでも、一定の空間のなかでの位置としての〈ここ〉であるはずだ。つまり、もろもろの〈ここ〉では“ない”ものとしての〈ここ〉、なのであり、その意味でやはり、一般的なものなのである。「これはもろもろの〈ここ〉のうちのひとつの〈ここ〉であり、言い換えると、一つの〈ここ〉でありながら、それ自身において多くの〈ここ〉の単純な複合であり、つまり、一般的なものである」FM89。
こうして私は、「この紙片」を、直接無媒介なものではなくて、真にあるとおりにとらえる(=知覚する nehme ich wahr ⇒ドイツ語の「知覚する」はもともと「真にとらえる」という意味の言葉)ことになるのである。
U 知覚、あるいは物と錯覚 【C】
〔性質も物も、矛盾を孕む〕【D】
「知覚」は、もう感覚の確実性に固執しないで、自覚的に思考を働かせる。反省的な立場をとって「物」の真理をつきとめようとするのが、「知覚」の態度である。
知覚は、感覚的確信とちがって、一般性という見方(思考)をもっている。例えば、「塩は白い」というように、物のなかにさまざまな「性質」があることを、知覚は見出す。たんなる感覚としての色と「性質」とはちがう。「性質」という捉え方には、思考が含まれているからだ。それはどういうものか。
まず第一に、性質とは「一般的なもの」としてつかまれている。塩は「白い」が、砂糖だって「白い」。「白さ」は他の物にも共通する一般性なのだ。
しかし第二に、白さはこの塩の性質でもある。性質とは、まさに物の特質を表現するもの、それが他ならぬ「塩」であることをあらわすものでもある。つまり、物の独自性・固有性を表現するものとしても、つかまれているのだ。
「性質」という捉え方に含まれている思考をこのように解きほどいてみると、それはとても不思議な性格をもっていることがわかる。つまり、〈一般性にすぎないものがどうやって物の独自性を表現できるのか〉という矛盾がそこには孕まれているのだ。
そんなことは簡単に解決できる、と思った人もいるだろう。一つの性質だけを挙げるから混乱するのだ。塩には他にもいろいろな性質がある。塩は同時に、辛く、立方体でもある。それらの諸性質が全体として塩の独自性を表現する、と考えればよい、と。
確かにこれはかなり説得力がある考え方といえる。「白くて、辛くて、立方体」。このように性質が三点そろえば、塩といっていいだろう。この考え方は、物を分類するのに役立つし、じっさい私たちは諸性質の組み合わせでもって物を分類することも多い。しかしこれは上の矛盾を完全に解決することはできない。この考え方は、物を他の諸物との比較や共通性、他との連関によって定義する。つまり、物を一般的な諸性質の「束」とみなすことになる。ヘーゲルの言い方では、物とは、それぞれ没交渉な諸性質を「〜でもあり、…でもある」という仕方で共存させる「普遍的な媒体 das allgemeine Medium」なのである。
しかしそのとき、物の独自性・唯一性はやはり保たれないのではないか。物はそれ自体としては「一つ」なのではないだろうか。そうみるならば、物の真理は、諸性質を排斥してみずからが一つであることを主張する「排斥する統一 ausschliessende Einheit」であることになる。
かくして、性質において見られた矛盾は、いまや「物」に即してこういうかたちをとる。〈物の本質は一般的な諸性質の媒体=「多数」なのか。それとも「一つ」なのか。どちらが本当なのか。〉−−意識はこの問題に直面し、あれこれと解決策を練ろうとする。
〔知覚の経験〕【B】
知覚はまず、物は真実には「一つ」である、と考える。私が見るから白く、舌で味わうから辛く、触るから立方体なのだ。つまり、多数の諸性質はあくまで「主観にとって」そう現れるだけだ。客観それ自体は、あくまで「一つ」であろう。こうして意識は、「一つ」を客観の側に、「多数」を自分の側にふりあてる。
こうして、物の側には「一つ」という規定しか残らないことになった。しかし、新たな疑問が起きてくる。様々な物はそれぞれちがっているはずなのに、どの物も目鼻を欠いたノッペラボウの「一つ」だとするなら、物の区別がまったく成り立たなくなる。塩は、白く・辛く・立方体であるから、塩といえるのだ。とすると、物自体に諸性質が備っていると考えざるをえなくなる。
そこで、逆転が起こる。物の側にこそ「多数」の諸性質がある。それが「一つ」であるのは、意識の側がそれらをまとめて「一つ」にしているのだ、と。
意識はこのように、さまざまな試みをする。けれど、次第に意識はこう考えるようになる。〈自分はさっきは「一」を物にふりあて、「多」を自分にふりあてていた。今度は「多」を物にふりあてて、「一」を自分にふりあてている。これはかなり無理なことをやっているんじゃないか。物そのものに「一」と「多」が同時にそなわっている、と考えるしかないんじゃないか〉と。
物の本質は、一でも多でもない。一つであるものが、多数の性質としてみずからを現し出し(したがって他の諸物とも連関し)、しかもそれらの性質を一つである自分のなかに取り収める。一から多への発現と、一への収束。自分だけである状態から他との連関に身をおき、ふたたび自分のなかに戻る。物がそういう、特異な存在の仕方をしていることを意識は認めざるを得なくなる。
このことは、意識についてもいえる。さっきの経験のなかで、意識も一つであったり多であったりした。意識じしんが一つであり(⇒この一つであるあり方は「対自存在」と呼ばれる、他と関わらず自分だけに向き合って閉じこもっている、というイメージ)、かつ、様々な性質や物を知覚する多数の意識となり(⇒自分以外の他のものへと関わるあり方は「対他存在」と呼ばれる)、ふたたび自分のなかに戻って一つになる。意識も物も、このような二重の存在性格をもつのである。
(★⇒この知覚の章は、「対他存在」「対自存在」というヘーゲル独自の術語を用いて展開されているので、この二つの術語について解説しておこう。
物が多数の諸性質の「媒体」である、というあり方は、物を他の諸物との連関において捉えることでもあった。このように、他と連関し他に対してあるあり方のことを、ヘーゲルは「対他存在 Sein fuer ein Anderes」と呼ぶ。これは物が独立性を失っているあり方でもある。
これに対して、物が「一つ」である、というあり方は、物が他との連関を断ち切って独立しているあり方である。これをヘーゲルは、自分が自分だけに対しているあり方、という意味で「対自存在 Fursichsein」と呼ぶ。
《物は、真実には対他存在なのか、対自存在なのか?。いや、どちらかではなく、そのどちらでもある》というのがこの章での結論であった。しかし、この結論はかなり異常なものにみえるかもしれない。対自存在・対他存在とは、物のあり方ではなく、むしろ意識のあり方ではないだろうか。
意識はたしかに、さまざまなものを意識しながらそれでも一つにとどまる、といえるだろう。でも、物に対してそういう言い方ができるかどうか。一であり多である、というのは、物にそなわったものではなく、意識の観点の移り変わりではないのか。意識が物を一つとみたり、多数の性質とみたりするだけのことだ、と。
たしかに、そういってもかまわないと思う。しかし、意識の場面において叙述される意識経験の学においては、意識の観点の移り変わりは物そのものの変化でもある。物は、一つとみなされ、そのかぎりで一つで「ある」。しかし多数の性質をもつとみなされるかぎりでは多数で「ある」。つまり、意識の二重性と物の二重性は、じつは同じ一つの運動なのである。ヘーゲルはそのことをはっきり認めている。私たちからみると、これはほんらい意識の運動というべきものだろうけれど、この運動を物のがわにひきよせて表現すれば、物の二重性という言い方も可能なのである。)
〔無制約な一般性〕【C】
さて、この経験がもたらしたものは何だったのだろうか。知覚は、一つという規定と、多という規定をそれぞれ独立したものと考えていた。〈自分であること=対自存在)〉と〈他とのつながり=対他存在〉という二つの規定も、相容れない排他的なものと考えていた。ところが、意識はこの経験をつんで、一と多、自と他が不可分に連関していることを知った。一と多、自と他という規定が、それだけでは真理たりえないことを知ったのである。真理は対自存在と対他存在とが不可分に統一されたもの、ということになるが、それはすでに「物」とはいいえないものであり、「無制約な絶対性一般性 unbedingte absolute Allgemeinheit」FM100と呼ぶのがふさわしい。
V 力と悟性、現象と超感覚的世界 【B】
〔まえおき〕【B】
意識の二重性と物の二重性は、一つの同じ運動の別の表現だった。このことを意識の経験を観察する〈われわれ〉ははっきり自覚している。しかし、意識はそう自覚してはいない。意識は自分自身の在り方を洞察しないで、あくまで対象の側に真理があると思い、それを追い求めるのである。だから、意識は、こうした二重の性格を備える新たな対象を、物の真理として求めることになる。
この新たな対象は、もう「物」ではない。物は、「一つ」と「諸性質」で構成されていたが、いま求められているのは、一つでも諸性質でもないようなもの、だからだ。この新しい対象は、さしあたり、「力」と呼ばれる。力(エネルギー)は、様々な現象や諸性質を生み出しつつ、それ自身としては一つであるようなものだからだ。
この新たな対象と対応する新たな意識形態は「悟性」と呼ばれる。これは知覚と異なって、純粋な「思想」だけを対象とするような意識である。知覚の段階では、「性質」に見られたように、感覚的なものと思想とが入り交じって捉えられていた。ところが、エネルギーとは、感覚的なものでは「ない」ものなのだ。もっとも最初のうちは、どこかまだ感覚的に捉えられているが、それが感覚を超えたもの(=超感覚的なもの)であり、純粋な思想であることが、悟性のつむ経験のなかで次第にはっきりしてくることになる。
〔力とはどのようなものか〕【B】
私たちはふつう、「力」というときに、それを何かエネルギーの塊のような実体としてイメージする。その実体としての力が、外に現れ出て様々な結果を引き起こす、というふうに考えるのだ。そのとき私たちは、内側に存在していた「内的な力」と、外に現れ出た「外化した力」とを区別した上で、前者こそが本来の力であり、力の本質だとみなしていることになる。
〈この「内的な力」と「外化した力」とはどのような関係になっているのか。内的な力のほうが力の本質といいうるか〉−−悟性は力の本質を解明しようとして、この問題につきあたることになる。
まず悟性が気づくのは、「内的な力」はそれ自体として独立している実体的なものではありえない、ということだ。力は、外に現れ出る(外化する)ことがなければ、力とはいえないだろう。力が力たりうるためには、外化することが必要なのだ。だとすれば、「内的な力」は独立した存在を持ちえない。
「外化された力」ももちろん、独立した存在をもちえない。様々な諸現象は、それが「力の外化したもの」とみなされる以上、独立したものではありえないからだ
さらにいえば、「内的な力」と「外化した力」の区別も、決して実体的な区別ではない。内的な力は、外化せざるを得ないのだから、すぐさま外化した力へと移行する。外化した力も同じで、それはすぐさま「内的な力」へと戻っている。
ようするに、力とは、物のような固定的な実体ではなく、内→外→内という運動であり、「内的な力」と「外化した力」の両面を合せ持つ全体なのである。
(解説★⇒私たちはふつう、力を「対象」の側にあるものとみなしている。電気や物理的な力などは、思考とは関わりなく客観的に存在するものだと思っている。しかしヘーゲルがこの悟性の章を通じて最終的に言いたいのは、力の運動とはほんらい私たちの思考過程に他ならない、ということだ。私たちは、様々な諸現象を見たとき、例えば「電気という力」がそれを引き起こしている、と考える。そして、電気という力のほうから諸現象を説明しようとするのだ。つまり、内→外→内、という力の運動の内実は、じつは私たちの思考のプロセスなのだが、そのことを私たちは見ないままに、「客観世界の本質は力にあり」と考えるのである。
ヘーゲルはこの章で、人々が物の本質について考えつめていくと「力」という概念へと辿りつかざるを得ないという必然性と、そして力という概念がほんらい思考であり、私たちが世界を説明しようとして創り出す概念であることを示そうとしている。)
〔現象と内なるもの〕【B】
次に、感覚的な世界を「現象」とみなし、その背後に「内なるもの」(本質)を想定する意識が登場する。ここでは、意識は、感覚的なものからまったく解放された純粋な思想を対象とすることになる。
力は〈われわれ〉からみると思想なのだが、意識はそれをまだどこか感覚的な実質を伴うものとイメージしてもいた。しかし、意識は「内的な力」と「外化した力」の二項目が独立した実体ではないことを知ると、なかば感覚的だったそれらの「現象」を超えて、その背後に存在するだろう「内なるもの」を求めることになるのである。
内なるものとは、超感覚的な世界であり、彼岸である。(★⇒現実の感覚的世界の背後または上方に超感覚的な世界を考えるこのタイプの発想は、一般に「二世界論」と呼ばれる。イデア界を想定するプラトンもそうだし、天国を考えるキリスト教もそうだ。)この超感覚的な彼岸は最初はまったくの「空虚」である。なぜなら、それは現象(感覚的な世界)では「ない」もの、という規定しか持たないからだ。彼岸の内容を満たすものがあるとすれば、それを感覚的な世界から汲み上げるしかない。(*何か具体例が必要。)悟性は、彼岸のほうを「本質」と考えて感性的な世界をその「現象」とみなすが、〈われわれ〉からみると、むしろ現象のほうがもとになっている。われわれは感覚的な現象を説明するために本質(彼岸)をつくりあげるのである。
つまり、本質/現象という区分は決して実体的なものではなく、本質が先にあるのでもない。内的な力/外的な力という区分が実体的なものではなく、力が思考のプロセスであったのとまったく同じことなのだ。私たちは感覚的な物事に出会い、それを可能にする超感覚的な本質を想定し、そこから物事をその本質の「現象」として説明するのである。
〔内なるものとしての法則〕【B】
「内なるもの」として具体的に取り上げられるのは「法則」である。悟性は、たえず変化して不安定なさまざまな現象から、静止した安定したものを取りだす。「不安定な現象の安定した像」、それが法則である。変転する現象としての世界に対して、静かな法則の世界が成立する。
ところが、法則は現象の全体を説明することはできないから、いくつかの法則がつくられることになるだろう。しかし悟性はそれに満足せず、いくつかの法則を統一した「ひとつの法則」を求めることになる。なるべく一般的な説明方式を求めるのは、悟性の本性なのだ。例えば、物体落下の法則(ガリレオ)と天体運動の法則(ケプラー)が万有引力の法則(ニュートン)に統一されていったように(⇒現在でも、物理学は「大統一理論」をめざしているのに注意。)
このように悟性は、より一般的な法則を手に入れようとして努力していく。しかし悟性はそれでは満足できなくなる。例えば、物体落下の法則は、S=1/2・gt2 とされる。そこでは、時間と空間という項目があり、この二つが関係づけられている。ではなぜ、時間と空間はほかならぬそういう仕方で関係づけられるのだろうか? つまり、時間と空間の結びつきの必然性、法則の根拠はどこにあるのか、を悟性は考えざるを得ない。
〔同語反復としての〈説明〉〕
そこで悟性は、ふたたび「力」を持ちだす。しかし以前の力とはちがって、こんどは法則の根拠として考えられたものだ。たとえば悟性はいう、「物体落下の法則がかくかくしかじかであるのはなぜか。重力がもともとそういう成り立ちをしているからだ」と。しかし、これは明らかに同語反復(トートロジー)にすぎない。このような説明にならない説明を、悟性は平気で行っているのである。
(★⇒説明:万有引力の法則が働くのはなぜか。なぜそのような公式で描かれるのか、と問うてみるとしよう。これを説明しうる、より根本的な力なり法則なりが発見されるかもしれない。ではその法則はなぜこうなっているのか? このようにして、より根本的な説明を求めて悟性は進もうとする。しかし最終的には、「こうなっているからこうなっている」「もともと物体とはそうなっているのだ」「この力はもともとそういう性質をもっている」というような同語反復的説明に到達するしかない。完全な説明、ということはありえないのである。ヘーゲルの語ることをそのように受け止めてみれば、じつに鋭く本質的な指摘であることがわかるだろう。)
しかしながら、この〈説明〉の指摘には決定的な意味がある。力の運動も、現象と内なるものも、区別項をもつ法則とその根拠としての力も、いっさいが意識の運動であり思考過程である、ということを、意識じたいが自覚する契機となるからだ。これらはすべて、様々な区別(多)を見出したのちに、それらを統一的なもの(一)へと還元し、そこから区別(多)を説明する、という意識のなす運動なのである。
しかし、さらに重要なことがもう一つある。区別→統一→区別という運動は、ほんらい意識そのものの存在の仕方である、ということだ。意識は、外に出てさまざまな多様なものを意識しながら、すぐさま内にかえって一つになる。意識は、固定的な実体ではないのだ。意識がこのような存在の仕方をしているからこそ、区別→統一→区別、というかたちで対象世界を〈説明〉することが可能になっている。今まで語られてきた「諸思想」は、意識自身の在り方を対象的な場面に投影したものともいえるのである。
このことを、〈われわれ〉は洞察している。悟性は、対象というかたちで自分の在り方をみていたのである。つまり、意識はほんらい「自己」を意識する「自己意識」だったのである。しかし、悟性はあくまで対象と自分とを分離して考えるため、そのことを気づくことができない。
〔〈無限性〉とは〕【D】解説
(★⇒解説 もう私たちは、[対象]意識の最後に到達している。自己意識の章へと移行するにあたって、ヘーゲルは〈無限性〉という概念をとりあげている。これは、ヘーゲル哲学のかなめともいうべき概念なので、詳しく解説しておこう。
〈無限性〉とは、さしあたって、区別→統一→区別……という意識の在り方を論理的な概念として捉えたもの、といっていい。「無限」といっても、限りなく広がる、ということではなく、有限なものではないということ。意識は、さまざまな有限なものへと自分を区別するけれど、すぐさま自分へと戻る。つまり、有限なものに関わってはいても、それから自由に自己同一性を保つ存在なのだ。
無限性には、いろいろな表現がある。「統一と区別との統一」。「同一性と非同一性の同一性」「他と関わりつつ自己同一であること」。力点によって、言い方がかわる。
一つの力点は、「一と多」にある。意識は一であり、かつ多である。だから、「意識は統一と区別との統一」である。
もう一つの力点は、「自己と他者」にある。意識は、内面にひきこもって自分である(同一性)だが、外に出て様々な他者に関わって自己同一性を失う(非同一性)。しかし、それでも自己同一を保っている。だから、意識は「同一性と非同一性の同一性」である。「他と関わりつつ自己同一である」も同じこと。
無限性には、いろいろな表現がある。同一なもの(A)が、区別項(B,C)へと分離する。その時点で、@区別されたBとCが対立し(B/Cの対立)、Aまたもとの同一なものと区別項とが対立する(A/B,C)。しかし、BとCの区別はじつは絶対的なものではなく、相互に規定を交換して、もとのAに戻る(図)。
B
A→ ↓↑
← C
この無限性の概念は、意識ないし自我から汲み取られたというより、もともとは若いときの「生命」の概念から得られたものだ。普遍的な生命と個体との関係について、かつてのヘーゲルはこういっていた。〈普遍的な生命と個体との関係は、神秘であって語りえない。もしそれを言葉にするならば、結合と非結合との結合としかいいえない〉、と。普遍的な生命と個体とは、結合しているが、分離してもいる。結合と分離が一つになっている。青年ヘーゲルがこの時点では「語りえない」としていたものを、哲学者ヘーゲルは、無限性という論理的な概念として語りうるものにしたのだ。
つまり、無限性とは、意識ないし自我の存在性格でもあるし、普遍的な根源実在の存在性格でもある。普遍的な生命は、自分をさまざまな生命体へと分離しつつ、普遍的なものとしてとどまっている。そういう在り方が無限性なのだ。これは、意識の存在の仕方をあらわすものだが、それは対象世界の新たな捉え方にも反映してくる。
〔自己意識への移行〕【B】
静かな法則の国と変転する現象世界とが区別されるとき、自己同一性と変化とは、別々の世界にふりあてられていた。しかし、この対立はくずれ去って、世界全体が「無限性」として捉えられる。つまり、世界はさまざまに変化しつつ自己同一を保つ存在、として捉えられることになる(★⇒これは次の自己意識の章で、自然全体でもある巨大な「生命」として登場する)。
このとき、意識の在り方としての無限性が、対象世界の在り方の無限性と一致する。意識と対象の区別は脱落し、主観と客観の在り方全体が無限性であることがあきらかになる。