あとがき
  −−「至高なもの」をめぐって


 『精神現象学』が出版されたのは約二百年前のことだ。そんな昔の本が、現在を生きる私たちにとって切実な何かを伝えてくる、などということがあるのだろうか? そう思っている人が、この本のテーマは近代人にとっての「至高なもの」なのだ、と聞けば、びっくりするかもしれない。
 至高なもの、といえば、バタイユに『至高性』という最晩年の書物がある。そのバタイユはニーチェの後継者と自分をみなしていたが、同時にヘーゲルから(直接には一九三○年代にパリ高等研究院でおこなわれたコジェーヴのヘーゲル講義から)多くの影響を受けた。
 このバタイユとヘーゲルのことを、この「あとがき」の場を借りて述べてみたいと思う。
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 バタイユの思想は、動物と異なった人間に固有な欲望とは何か、という点に関するヘーゲルの思想に大きく触発されたものだ。
 『精神現象学』の自己意識の章の冒頭で、ヘーゲルは人類の「歴史」のはじまりを描いている。歴史は、自分を相手に認めさせようとする「承認をめぐる死を賭した戦い」に始まり、その結果、「主人と奴隷」という支配・隷属の関係がもたらされる。奴隷は「言うことを聞かねば殺す」という主人の命令に怯えつつ、そのつどの欲望を我慢して田畑を耕すこと、つまり「労働」することを学ぶ。人は未来のために配慮することを学び、自分の身のまわりの自然を人間の住みやすい世界へと造り変えていくのである。
 この箇所には、ヘーゲルの人間存在の本質に対する鋭い洞察が表明されている。
 一つは人間が、自我の欲望(竹田の用語では「自己価値」の欲望)と承認の欲望をもっている、という点だ。
 動物は未来を配慮せず、「いまここ」を生きている。そしてその欲望は基本的に身体の快不快に動機づけられている。しかし人間はちがう。身体の快不快も大事だが、同時に「価値ある自分でありたい」という強い欲望をもち、価値ある自分であることを他者から承認してもらいたいと願っている。この自我への欲望と承認の欲望が歴史のなかで最初に現れるとき、「承認をめぐる死を賭した戦い」という形をとる。自己意識どうしは「オレを認めろ」といって争い、この争いのなかで身体の不快を耐えて自我の欲望(プライド)を貫き通した側が「主人」となる。身体の不快に耐えきれなかったほうは負けて「奴隷」となる。
 そして奴隷は労働を身につけるのだが、この労働にヘーゲルは大きな意味を見ている。そもそも労働するのは人間だけだ。人間だけがいまここでの欲望を遅延させ(ようするにガマンして)未来の生存のために配慮する。人間だけが「死」を知るのであり、死なないように配慮しつつ生きる。
 このようにヘーゲルは、死を知りつつ生きること、現在の欲望の遅延と未来への配慮、といったことを、まさに人間的な生の特質と見た。そして労働は、人間が未来の目的に向けて現在なすべきことは何か、と合理的に考えつつ行う行為だから、人間をしだいに「理性」的な存在にしていくものだと考えた。
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 ではバタイユは、この思想をどう受けとめたか。彼は、人間だけが「労働の世界」を成立させる、というヘーゲルの洞察をきわめて本質的なものとみた。しかし同時に彼は、未来を配慮しつつ行う労働は人間存在の「半面」にすぎない、と考えたのだ。
 人間はたしかに、未来における自分の生存を確かなものとするために、あれこれ配慮しつつ生きる。「この仕事を明日までに終わらせなければ」と思いながらがんばっている。私たちは他者からの評価と自身の未来とをたえず「気遣って」生きているのであり、それは、絶えざる不安に動機づけられてもいるのである。
 こうした労働の世界の秩序を生きる人間は、しかし同時に、こうした未来への絶えざる気遣いをすっかり取り払って「いまここ」を十全に享受したい、という欲望をも育てあげている。そうバタイユは考えた。
 これ以上何もいらないと感じ、いまここに完全に充足しひたっている奇蹟的な瞬間。そうした状態を彼は「至高性」と名づけている。それは典型的には、エロチシズムや祝祭という仕方で現れるが、
私たちの生活にときに訪れてくる「うっとりさせる瞬間」でもある。それは「たとえばごく単純にある春の朝、貧相な街の通りの光景を不思議に一変させる太陽の燦然たる輝きにほかならないということもありえよう」(バタイユ『至高性』湯浅博雄他訳、人文書院、一九九○年)。
 バタイユがこのような思想を展開したのは、その晩年(一九四○年代〜五○年代初頭)のことだが、そこでバタイユが対峙しようとしたのは、生産性と労働とが唯一の価値として認められるような時代の風潮だった。このような、いわば「生産主義的近代」に対抗しつつ、あらゆる有用性の彼方にある、それ自体が充足であり悦びであるような生の次元を掘り起こすこと。これを彼は果たそうとしたのである。
 人間が、自我を守り未来を気遣おうとする欲望をもつだけでなく、同時に、自我の努力を解き放っていま・ここの充足を求めようとする欲望をもつ存在でもあること。そうした二重の欲望をもつ存在として人間を捉えたことは、ヘーゲルにはないバタイユの独創であって、これはバタイユの大きな功績といえる。彼が有用性を超えたそれ自体としての充足と悦びとを人間存在の根柢に据えたことも、現代の私たちにとって説得力のあるものだろう。
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 私たちはいま、格差の拡大を懸念しながらも、高度成長終焉後の「豊かな社会」を生きている。職場で勤勉に働いている人も、「生産主義的な価値」を第一とするような見方からはすでに離れていて、それぞれが悦びや享受といった次元を大切にしようとしている。先進国においては「生産主義的な近代」が終わりを告げつつある、といえるかもしれない。その点で、バタイユのメッセージは、私たちには受け入れられやすい。
 しかしまた、一方向の価値観を失ってしまった私たちは、何を大切なものとして生きればよいのか、どこに向かって努力すればよいのか、という次元でとまどっている。どこにも“ほんとうのもの”がない、というニヒリズムの感覚は、私たちの社会に薄く、しかし確実に広がっている。
 そういう現在からみたとき、ヘーゲルの思想はもう終わったのか。いや、そうではない、とぼくは思う。
 至高性の次元を人はどうやってつかんだらよいか? そう問うたとき、バタイユは、エロチズム、祝祭、またふと訪れてくる“恩寵”のようなもの、を挙げるだろう。それはよくわかるし、ぼくも共感する。しかしその思想には、私たちが生の方向をどう形作っていけばよいのか、という問いに対する答えがない。「めがけ」たり「努力」したりする次元が、バタイユにはない。それに対し、ヘーゲルの思想はそういう次元を提示している、と読めるのだ。
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 じつはヘーゲルも、単なる生産主義的価値を打ち立てようとした人ではない(バタイユの論を読むと、しばしばそう受け取られてしまうが)。彼もまた、「至高なもの」をめぐる人間の欲望について『精神現象学』でとことん考えている。しかしそれは、バタイユ的な「自我の解体」という仕方ではない。詳細はここでは述べられないが、人間存在の特質である自我の欲望と承認の欲望が“ほんとうのもの”(「絶対本質」と呼ばれる)をめがける欲望へと“転形”していく、というふうにヘーゲルは考えるのである。
 「理性」の章では、近代における「至高のもの」をめぐる意識の範型として、恋愛・革命・表現の三つが取り上げられ、「精神」の章では、近代の具体的な歴史に沿って、信仰と啓蒙、フランス革命、カントの道徳性、ロマン主義的「良心」といったものが、絶対本質をめがける人間的な欲望がいかなる形をとっていくか、という観点から叙述されていく。『精神現象学』は、だから、「至高のもの」をめがける人間的意識の冒険なのである。
 ヘーゲル自身は、ではどういうあり方をこの冒険の“最終形”として考えたのか。その一つが理性章の末尾における「表現」であり、もう一つが精神章の末尾における「良心」である。ここでは表現についてのヘーゲルの思想にこだわってみたい。
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 理性の章でとりあげられる、恋愛・革命・表現。これらは近代における「至高のもの」としてあったものであり、それをヘーゲルが見事に捉えていることにあらためて驚かされる。そしてこの三つは、明らかに、近代的な自由の感覚とともに訪れたものだ。
 よく知られているように、近代文学の最大のテーマは恋愛である。18世紀半ばのルソーは『新エロイーズ』という小説を書いているが、ルソーは恋愛を、孤独な互いの魂が透明に通じ合う特権的な体験とみなした。近代の個人は、共同体の固定的な役割関係から解放されて、「どんなふうに私は生きるか」をたえず考えずにはおれない。だから、近代人は孤独な内面の領域を大きく育て上げることになる。こうした内面は、ふつう他人とは共有できないものだが、もしそれがだれかと通じ合えるとしたら? こうして近代における恋愛は、二つの魂が一体になるという特権的意味をもつものとしてイメージされるのである。
 では「革命」はどうか。抑圧的な政権に対して抵抗し革命をめざす、ということのなかには、この社会のすべての民衆と苦難をともにし、ともに戦っている、という意味が含まれている。社会のすべての人々と自分が一体になる、という特権的な幻想を、革命はもたらすのである。
 では、ヘーゲルが最終形とみなした「表現」の領域はどうだろうか。
 近代になると、学問や文学や思想や芸術をめぐって市民たちが議論しあう「公共圏」が形づくられたことはよく知られている。それは、一七世紀イギリスのコーヒーハウス、一八世紀フランスのサロン文化、一八世紀末から始まるドイツでの読書協会といったさまざまな具体的な形をとった。
 でもなぜ、そういう場所を人々は求めるのか? これもやはり、近代的な生の条件と関わっている。私はどんなライフスタイルを生きていけばよいのか、そこでは何が“大切なこと”なのか、私の苦悩にどう対処すればよいのか、私は社会とどのように関わればよいのか。そういったさまざまな問いを近代人は抱え込まずにおれない。
 【こうした問いを孤独に抱え込むことなく、相互に交換しあうこと】。なによりも、表現の営みはこうした人々の要求から生まれたものだ。自分の考えを表現して、他者に受け取ってもらい反応を返してもらう。もしこの表現を作品の形にできるならば、自分の個人的な内的なものが他者の存在と共振しあい、さらに時代や社会へとつながる可能性がある。
 もちろん、表現の努力は九割が「労働」といっていい。頭を使いさまざまな言葉を工夫しなくてはならない。しかし書いている最中に、自分の存在の深いところとつながったと思えることがある。「ああ、私はこう感じていたのか」と気づかされることがある。さらにこうした自己了解を作品の形にして他者と交換することで、互いの存在が共振したりつながったりすることが、ときに起こる。
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 ヘーゲルは、このような表現の営みを〈事そのもの〉という言葉で特徴づけている。−−彼はいう、最初は自分の内なる想いを作品にするだけで楽しい。しかしできあがった作品を見て自分でも不満に思ったり、他人の作品をみて「ああこれはすごい」と思ったりする。そこで人は「ほんもの」をめざそうとするようになる。こうして表現の行為は、他者からの批評と承認とを含んだ、文化的な営み(文化的なゲーム)となる。
 ここでめざされる「ほんもの」という理念を、ヘーゲルは〈事そのもの〉(これぞ文学、これぞ落語、と言いうるもの)と呼んでいる。これは表現を営む人々の脳裏にあるものだが、同時に、具体的な古典的ないくつかの作品としても存在している。
 ぼくがつけ加えるならば、この「事そのもの」をめざすゲームには終わりがない。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』がいかにすごくても、【いまを生きる私たちの表現】というものはまたちがったものになるだろうから。(さらにいえば、カラマーゾフのすごさをなんとか言ってみようとするとき、それはまたその人なりの独自な表現となるだろう。)
 こうした、表現の営みが個人を他者と社会へとつなぐ、というのが、ヘーゲルの考えた至高なものの形であり、それはバタイユ的な「自我の解体」とは異なった道筋といえるだろう。
 では、だれもが表現しなくてはいけないのか? そんなことはない。しかし、作品という仕方ではなくても、自分の感じたことや考えたことを語り、それが他者によって受けとめられ、そして反応がかえってくる、という“表現−理解の関係”が、生きていくうえで必須なものだとぼくは感じる。おそらくぼくだけでなく、自由な個人として生きる私たちは、自分自身に深くふれたという感覚と、他者の存在にふれて共振する感覚とを必要としているのだ。
 そのような、私たちがふだん行っている“表現−理解の関係”の延長上に、作品を通じた文化的な営みがある、と考えてみればいいと思う。
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 いまぼくは、ヘーゲルの〈事そのもの〉を狭義の表現の営みに結びつけて語ったが、これをもっと広く受け取ることもできる。ここに「ほんとうの教育」「ほんとうの看護」といったものを含めて考えてみることもできるのだ(ヘーゲル自身の書きぶりは微妙だが、狭義の表現のイメージからスタートしながら、それを次第に人間の行為一般へと拡大している、と言えるだろう)。たとえば教育に携わる者が「教育にとって大切なことは何だろうか」と考えつつ実際の現場でいろいろと試し、生徒や他の教員からの反応をもらって、さらに工夫を続けているとしよう。そういう努力のなかでは、どこか「ほんとうの教育」というものが信じられ、めざされているはずだ。
 このようにして、個々人の努力のなかにも一般の人々のなかにも、「ほんとうのもの」への信が生き続けていく、ということが大切なのだ。もし様々な人間的な営みが、いわば【広義における表現と相互批評のゲーム】として育っていくならば、近代の自由はニヒリズムをもたらさない。むしろ、こうした自由な試行と他者との交流こそが、「ほんとう」を育てる基盤となっていくだろうから。
 このようなヴィジョンを、ヘーゲルは抱いていた。そしてこれは、バタイユの「至高性」とは、人間的な努力(めがけるもの)という点では正反対だが、どちらも、人間が生きるうえで等しく大切なものだと思う。
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 「生産主義的近代」が終わりつつあるいま、ヘーゲルの『精神現象学』からは、近代の自由の行き着く先に、狭義・広義の表現の営みが豊かに展開される社会が生まれてくる、というヴィジョンを読みとることができる。日本の社会を生きる私たちは、互いの生き方に立ち入らない「不干渉」の自由を得てきた。しかしそこにとどまらず、さまざまな仕方で互いに関わり合い共振しあうような、そういう生の次元をつくりだすこと。そういうあり方のなかに真の自由をヘーゲルはみていた、といえるように思う。
 バタイユとヘーゲル、この二人はともに、動物とは異なった人間的な欲望と悦びの独自なあり方を取りだそうとした。いま私たちが求めているのは、人間的な欲望と悦びとを深い次元で捉える新たな“実存”の哲学、一人ひとりが各自の生をあらためて了解しなおし、かつ、生の方向を構想することをサポートする哲学である。その点からみたとき、バタイユとヘーゲルの思想を交錯させつつ考えることは、哲学としての大きな本質的な可能性があると思う。
 さらに、いま私たちが求めているのは、これからの社会構想を支える“社会”の哲学である。ヘーゲルは、自由を基盤とした社会を構想した。人々の自由がどのような条件のもとで豊かに展開されうるのかを徹底的に考えた彼の思想は『法の哲学』(一八一七年)のなかで詳しく展開されている。これは竹田が「まえがき」で述べているように、人間存在の本質論(欲望論)を根柢に据えた社会の制度論という独創的なものであり、私たちがこれから、あらためて自由で対等な社会という近代の初発の理念を生かそうと思うとき、大きな可能性をもつものとして読み直すことができる。
 このように私たちが新たな実存と社会の哲学とを求めるとき、ヘーゲルの哲学は、その首尾一貫した徹底した構想の一つであって、必読のものだ。しかし竹田もいうように、その独得な読みにくさによってほぼ“アクセス不可能”になっていた。この『完全解読』によって、多くの人たちがこのヘーゲルの思想にふれてもらえるならば、うれしく思う。
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 最後に、お礼をいっておきたい。
 最初にぼくが『精神現象学』を読んだのは二十歳くらいのころで、先日亡くなられた小阪修平さんの主催するヘーゲル研究会(略称へ研)でのことだった。竹田さんと出会ったのもそこがはじめてである。小阪さんはいまのぼくと竹田さんの「読み」をどう思うかなあ、などと思ったりする。感謝をこめつつ、ご冥福をお祈りしたい。
 ヘーゲルをともに読んできた友人たち、とくに現象学研究会のみなさんと朝日カルチャーセンターの竹田・西の講座の受講生の方々にも感謝したい。この本は、竹田・西と多くの人たちとで長年ヘーゲルを読んできた結果であって、その歩みを記念する一冊になったなあと感じている。
 また、この『完全解読』が可能になったのは、先人たちの仕事のおかげである。なかでも金子武蔵の訳書(『精神の現象学』上下、岩波書店)には最大の恩義を感じている。あらためて強調しておきたいが、金子の訳文と解説とは世界的な水準のものだ。意を伝えようとして訳文がふくれあがっている面はあるが、単純な誤訳はほとんどない(考え抜いた末に誤ったかなあ、という箇所はあるけれど)。『精神現象学』本文を読み進むためには必須だと思う。
 また、イポリットの詳細なコメンタール(イポリット『ヘーゲル精神現象学の生成と構造』上下、岩波書店)、加藤尚武氏のヘーゲル論(『ヘーゲル精神現象学の形成と論理』未来社、『ヘーゲル「精神現象学」入門』有斐閣選書など)にも教えられた。
 本をつくっていく過程では、編集の山崎比呂志さんには大変なお世話になった。山崎さんは研究会にも出席して、私たちのヘーゲルの読みにつきあってくださった。深く感謝したい。

二○○七年十一月
                                 西 研