失われてしまった勉学の意味…これをどうやって再構築すればいいのだろうか?

遠回りでも、だれもが共有できる 「スタート地点」をさぐることから始めよう

 

 前回は、いじめや不登校などの問題行動の根は、何のために勉強するか(勉学の意味づけ)が失われてしまったことにある、と述べた。「受験のための勉学」というかつての意味づけは、高学歴を獲得すれば貧困を脱し社会で活躍できるという「ご褒美」によって支えられていたが、高学歴と豊かさが広く行き渡っていくにつれてリアリティを失っていったのである。

 いま、教育改革が押し進められるとともに、「ゆとりか、それとも学力か」という意見の対立が新聞をにぎわしている。しかし、どちらが正しいのかを即答するのは避けよう。重要なのは、遠回りのようでも、新たな教育の理念(勉学に対する新たな意味づけ)を、根本から考えることによって、構築していくことだからだ。

 それは、大人が子どもたちに対して、「勉学は少々きつい面もあるが、〜だからこそ必要なのだ」と自信をもって言えるようになる、ということでもある。理由がわからないまま長期間勉学に従事させられる、という徒労感から子どもたちを解放しなくてはならない。

 では、教育の目的理念を、いったいどうやって構築していけばいいのか? あれこれの独断的な前提からスタートするのではなく、だれもが共有しうるような「スタート地点」を慎重にさぐる。これが「哲学」の思考法なのだが、ぼくもそういう心づもりで進めていきたい。

 まず、教育とは何か、ということから考えてみよう。さしあたってぼくは、教育とは、子どもを「社会の成員(大人)としてふさわしい存在」へと育て上げていくこと、と定義してみたい。

 どんな時代、どんな社会の人々でも、子どもを大人に育て上げなくてはならなかった。そのさいには、社会の成員として「ふさわしい」あり方が何かしら想定されていて、それが教育の営みを導いていたはずだ。

 その「ふさわしさ」は、大きく二つに分けられるだろう。一つは、働いて食べていけるために必要な能力、つまり農民なら農民としての、漁民ならば漁民としての、技能や知識。もう一つは、他の人々のあいだでふさわしいふるまいができること―基本的なルールを守り、他の人々と協力する態勢をとれること、自分に与えられた役割を果たしその責任をとれること等々、つまり、他者との関係能力である。

 では、現代社会においては、どういうことが「大人としてふさわしい」のだろうか? 教育理念を構築するとは、このことをあらためて考え、かつ共有しようとすることに他ならない。

 だが、この「共有」ということがなかなかむずかしい。そこには、社会のあり方と人間の生き方をどのようなものとして思い描くか、つまりは、異なった社会観・人間観が直接に入り込んでくるからだ。

 たとえば、ぼくが最初に挙げた「教育とは、子どもを社会の成員としてふさわしい存在にすることだ」という定義に対しても、反発を覚える人がいるだろう。「それは、社会的期待に子どもを添わせようとするよくない発想だ。教育とはむしろ、子どもの主体的な判断力を育てるものだ」というわけである。

 この意見はしかし、「社会の秩序にただ従うだけでなく、主体的な判断のもとにみずからの人生をつくりあげ、社会のあり方をも批判的に検討する人間こそが社会の成員としてふさわしい」という近代的な人間観にもとづいている。これもまた、社会の側が子どもたちに寄せる「期待」の一種というべきである。

 次回は、私たちの教育観に深く影響を及ぼしている、この近代的な人間観と社会観とをあらためて検討してみたい。それは、教育についてのさまざまな意見対立の「根」をさぐることにつながるはずである。