「教育」をめぐるさまざまな意見…これを“どこから”考えていけばいいのだろうか?
まず、議論の土台となる“出発点”からあきらかにしていこう
この「教育をテツガクする」のコラムも、もう第七回目。これまで書いたものをあらためて読み直してみたら、いちばん大切なことが抜けていたなあ、と思えてきた。
皆さんもご存じのように、「教育」をめぐってはさまざまな意見が渦巻いている。いま「ゆとり」と「生きる力」を標語とする教育改革が進められ、今年から「総合的な学習」が全国でスタートする。この改革は「かつてのような知識の詰め込みはよくない、生徒それぞれが体験的に発見し考える主体的なプロセスを大事にすべきだ」という意見にもとづいているが、他方では、学力低下を懸念しつつ「一定の知識をきちんと教えなければいけない、基礎・基本が大事だ」という意見もある。「総合」の授業の進め方について不安を抱く教師の声も、あちこちから聞こえてくる。
このようなさまざまな意見の渦のなかで、私たちは、足が地についたしっかりした考え方をどうやって形作り、共有していくことができるのか。そもそもどこが共有しうる出発点となるのか。―いま必要なのは、こうした根本的な問い方なのだと思う。ぼくも新規まき直しの気持ちで、単なる「意見」の提示ではなく、共有できる土台を一つひとつ固めていく、という心づもりでこのコラムをやっていきたい。
さて今回は、なるべく手前に遡って、恚、有できる土台揩ノなりそうなものを探してみることにしたい。〈そもそも、なぜこんなにも、教育が注目され語られるのか?〉まず、ここからスタートしてみよう。
ぼくの答えは簡単。〈教育に関する論議を沸騰させているのは、少年たちの現況に対する危機意識からである〉というものだ。
この答えには、多くの人が賛同してくださると思う。八○年代になってから、いじめ・不登校・学級崩壊・高校中退・援助交際・少年の暴力事件といった、少年に関わるさまざまな問題がクローズアップされてきた。これらへの危機意識が、「教育に原因があるはずだ、教育をなんとかしなくては」という焦燥にも似た思いを生みだしているようにぼくには思える。
いま押し進められている教育改革も、少年たちの諸問題の原因を「受験競争」に求めるところから生まれてきたものであることを、教育社会学者の苅谷剛彦さんはていねいな実証を通じて示している(『教育改革の幻想』ちくま新書)。苅谷さんによれば、教育に関する多くの人々の認識は「受験競争→詰め込み教育(役立たない知識の暗記だけの勉強)→点数による子どもの一面的な評価→成績や序列化や受験によるストレス→教育問題の発生」(同書P・118)というものであって、そこから、教育問題の発生をくい止めるには、受験競争を緩和し(ゆとり)詰め込みでない主体的な学び(生きる力)が重視されねばならない、という論理が導かれるのである。
苅谷さんは同書のなかで、受験競争が子どもたちのゆとりを奪い大きなストレスを与えているという常識に対し、現在では受験競争は大幅に緩和されていること、かつ、もっとも受験の厳しかった一九五○年代末から六○年代においても、受験生は必要な睡眠時間を確保し受験を肯定的に受けとめていたことを示している。つまり、少年たちの諸問題が「受験のための教育」から発生するという認識は、現実とは大きく食い違っていたのだ。
さらにいえば、「教育が悪いから少年に問題が起きる」という見方がそもそも疑わしいのではないか。先取りしてぼくの考えをいえば、少年たちの諸問題は、基本的に教育現場の責任ではなく、“世界像の危機”ともいうべき日本社会の構造変化から産みだされたものなのである。〉次回は、この“世界像の危機と勉学の意味喪失”というテーマを取りあげます。