X“個別的な体験世界”と“客観的な科学世界”どちらが「ほんとう」なのだろうか?
「ほんとう」とは、みずからの経験を「言葉」によって確かめるなかで形づくられる
心理学者の小沢牧子さんは、学校教育とは、ミュラー・リヤーの図を見せて「ほんとうは長さは同じだ」と教えるようなものだといっている(『心理学は子どもの味方か』古今社)。
それは「客観的・科学的なものごとのとらえ方を「上」に置き、肉体的・感覚的なとらえ方を「下」に位置させて、事象のふたつの姿に上下関係をつける」。学校が求める「学び」は、「いまここの個別体験の世界」から子どもをひき離して、「記号的・普遍的・抽象的な、数や文字の世界」へ連れていくことを目的とするものである。そこでは、ふたつの世界を行き来して「身体が納得するかどうかを確かめながらゆっくり世界を広げていくことが許されない」。
もちろん小沢さんは、数学や科学がそれじしんとしての面白さや豊かさをもっていることや、それらが社会生活において有用であることを「否定」しているのではない。私たちの一人ひとりの「身体的・個別的な体験の世界」と「客観的な数学的・科学的世界」とが対立させられ、後者こそが「真理」であり「科学的」なものであって人はそちらに近づくべきだ、という構図。これが学校での学びのなかに根深く存在していることを指摘しているのだ。
「どちらの世界もほんとう」なのであって、一人ひとりの「個別体験の世界」と「身体の納得」が大切にされなくてはならない、という小沢さんの意見にぼくも共感するが、一つ付け加えておきたいのは、「言葉」というものの役割について、である。
小沢さんの意見では、数も文字もともに「抽象的な世界」の側に入れられている。たしかにその通りで、早い時期から文字という「記号」が読めたり、大人たちの言いまわしを使える子どもがほめられる。そして「ただしい」漢字の書き方や言葉の使い方が教えられる。しかし言葉は、個別的な体験を単に抑圧するような「抽象性」にとどまるものではないと思う。
個々人の苦悩、悦び、怒り、「嘘だ!」というような思い。言葉は、そうした体験を深く見つめることを可能にするものでもある。たとえば私たちは、日記という仕方で、また短歌や詩や小説や批評文といった仕方で、みずからの個別的で感覚的な経験や思いを言葉にする。そうすることで、私たちはみずからの経験をたどりなおし、その核心を確かめているのだ。
言葉はまた、他者とのつながりを可能にする。言葉によって、私たちはみずからの経験や思いを他者に伝え、時代も場所も異なるさまざまな人たちのそれを感じとることができる。こうした自身の経験の確かめと相互の交換によって、私たち一人ひとりはみずからの価値観や生きる方向を育て、またつくりなおしていく。
いま、学校では「生きる力」という標語のもと、知識偏重から問題解決型の知性へ、ということがいわれ、来年からは「総合学習」もはじまることになっている。しかし、これまでの教育に決定的に欠けていたものは、一人ひとりが言葉を通じてみずからの価値観と方向とを形づくることが大切だ、という認識ではなかったろうか。そうした認識をもたない限り、新たな試みもなかなか実を結ばないように思う。
近代社会は、個々人に自由な生き方を可能にした。職業も生き方も自由に選んでよい、ということは、それまで窮屈な生き方を強いられていた人々にとっては大きな悦びだったはずだ。しかし現代を生きる若者たちは、生き方も価値観も与えてもらえない不安を抱えているように見える。
「欧米に追いつけ追い越せ」といったかつての世界像が崩れてしまった現在、私たちの社会における教育は、「言葉」の世界を豊かにすることによって子どもたち一人ひとりがみずからの価値観を形づくることを支援する、そうした視点から作り直されるべきだと考える。