V 今どきの子どもには、我慢や奉仕をさせることが必要――なのだろうか?

       子どもたちの個人主義的な生活感覚に見合ったかたちで、新たに教育の課題を考える



 「ボランティア活動など社会奉仕体験活動、自然体験活動その他の体験活動の充実」ということが、六月の学校教育法及び社会教育法の改正のなかで決定された。これがどのような発想のもとに実施されるのかが、気になっている。

 というのは、これはもともと、森前首相の諮問機関であった教育改革国民会議が打ち出した「奉仕活動の義務化」の方針を、 和らげて 成立したものだからだ。〈少年による凶悪犯罪、ひどいいじめ、学級崩壊といったモラルの崩壊は、豊かな社会のなかで戦後民主主義によって権利と自由ばかりを教えられた子どもたちがきわめて自己中心的になったからだ。奉仕活動の義務化は、国家によって守られている以上国家に奉仕する「義務」があること、質素な共同生活のなかで「我慢」をすること、他人に「奉仕」することの大切さ、他者との「協力関係」などを教えることになる〉というのが国民会議の主旨である。そこには、軍隊的な厳しい組織のなかで少年たちのワガママな性根を叩き直したい、という感覚がある。

 ぼくはこれは、現代社会の実状を見失った、危険な議論であると思う。

 そもそも、自分のやりたいことを大事にしてよい、という意味での「自由」な生き方が認められるようになったのは、決して悪いことではない。それに子どもたちは、消費社会の進展のなかで、幼いころから自分の好みや楽しみを大事にする個人主義的な生活感覚を身につけている。こうした趨勢を逆戻りさせることは不可能なのであり、むしろ必要なのは、こうした個人主義的な感覚に見合ったかたちで、新たに教育の課題を設定しなおすことなのだ。その点に関して、重要なポイントが二つあると思う。

@「自己への配慮」の能力を育てること

 現代社会で生きていくために必要な能力の一つは、自分の生き方のスタイルや価値観について「考える」力である。――どういうことが自分は「好き」か、何を自分は「大切」にしていきたいか、どういうペースで生きていくのがよいか。また実際に生計を立てていくにはどういうやり方があるか。知識の獲得だけでなく、こうした“自分自身を配慮する”力が育つように支援する必要がある。

 具体的には、生き方や価値観について考えたり、書いたり、議論しあったりする時間があるといい。たとえば何かの論説文に対する自分の意見を小論文にまとめる、というような。教育改革国民会議は「道徳教育の必要」ということも強調しているが、特定の道徳観の強制は現代社会にはなじまない。考えを他人と交換することを通じて、一人ひとりが自分の価値観を形づくっていく、そうした場こそが必要なのである。

A「ルール改変」の能力を育てること

 自発的に共同関係をつくりあげ、必要があればそのあり方を改変していく能力が大切である。体験活動は、その点で大きな寄与をなしうるかもしれない。「共通の目的」に向かって活動し、そこにそれぞれが自分の「役割」を見出し努力することを通じて、互いに「承認」しあう歓び――「よくやったね」とほめてもらったり互いに信頼感を抱く歓び――や、共通の目的を「達成」する歓び、といったものが得られるならば、それは将来に向かって大きな糧となるはずだ。

 その点からみて、与えられたルールと役割を我慢して遂行するような、“軍隊的”な組織体験はふさわしくない。現代人が獲得しなくてはならないのは、自発的にともに場面をつくりあげていく力、つまり、ルールや役割じたいをも必要に応じて改変していく力だからだ。たとえば、「自分は嫌だ」といい放つのではなくて、ルールの不都合さを皆にきちんと「表現」し、新たなルールへの「合意」をつくりあげる力。

 「体験活動の充実」はこうした力を育てるように、活用されるべきだと考える。