U 学校や他人とのつきあいは疲れるという子が増えている。なぜだろうか?
自分たちにとって心地よい場所や関係に変えていくためのルール感覚を身につける
いま、ひきこもりをはじめとして、「他者との関係能力」にトラブルを抱える若者たちが多くいる。しかしそれは、若者だけの問題ではなく、かつての他者関係の取り方を失ったにもかかわらず、それに代わるものを獲得しえていない現代の日本人全体の問題なのだ。小学校の学級崩壊や中学校の 荒れ も、こうした視点から捉え返す必要がある。
かつての他者関係ということでぼくがイメージしているのは、周囲の空気を微妙に察知して、そこに自分を同調させていくやり方である。農村共同体でのこうした気遣いのわずらわしさから、戦後の日本人は解放されようとしてきた。他者から邪魔されずに音楽を聴いたりできる、自分だけの時間と空間を求めた日本人は、ぼくも含めて大なり小なりオタクになった。
しかし私たちは、他者関係や集団性じたいを心地よく自由なものにしていくためのルール感覚を身につけてはいない。他者や集団は、あいかわらず同調すべきもの=疲れるものであって、一人になったときにはじめてホッとできる、という人は多い。
しかもこの傾向は、近年ますますひどくなっているように思う。少子化が進み、一人遊びのアイテムが十分に用意され、地域での子ども社会も解体してしまった現代では、関係能力を身につける機会が減ってきたからだろう。
では、現代の子どもが身につけるべき 関係能力=ルール感覚とは、どのようなものか。
第一に、ルールは最初は親や教師から与えられるが、次第に、ルールの必要性を子ども自身が了解していく必要がある。第二に、集団活動を行う上で不必要・不都合なルールを、よりよいものに改変していく能力を身につける必要がある。集団への同調ではなく、不都合をはっきりと言葉にしながら共有していくことが大切だ。これを、ルール改変の能力と呼ぶことにしよう。
ではこれをどうやって身につけるか、ということだが、やはり学校に大きな役割を果たしてもらわなくてはならない。知識授受の面では多くの代替手段があるが、コンピュータでルール感覚を体得することはできないからだ。だが、この面からみたとき、いまの学校にはいくつもの問題がある。
@集団のさまざまなルールの基礎になるのは、「何のための」集団かということだ。しかしいま、「何のために学校に行くのか」は子どもたちのなかに明確な像を結んでいない。これが子どもたちのルール感覚をひどく損なっているのは確かだ。
この点については、勉学は「自分の将来の生活のために」必要なのであって、優劣を競うものではない、という感覚が社会的に(教師にも親にも子どもにも)共有されるべきだと考える。それぞれがそれぞれのペースで、ということが、制度的にも可能になったほうがよいと思う。
A中学校での「校則」には、その必要性が疑わしいものがたくさんある。これは、生徒たちがルール改変のプロセスを学ぶ体験として活用すべきだ。親や教師とも話し合いつつ、無意味なルールを変更しようとする経験は貴重である。
B集団のルールの必要性を学ぶのには、集団的なスポーツや労働のように、共通の目標をそれぞれが役割を果たすことによって実現する、という経験が有効である。しかし学校の目的は一人ひとりの成長にあるので、共通の目標を直接にはもちえない 弱みがある。
昭和三○年代には、子どもたちは原っぱに集まり、その場でルールをつくったりつくりかえたりしながら遊んでいた。子ども社会の消滅とは、自由にルールをつくりあげていく空間が消滅したことを意味している。私たち大人は、そうした場所をどうやって子どもたちに用意するか、を考えなくてはならないのである。