『ためらいの倫理学』(内田樹)について

2006/05/13 於:現象学研究会  

 

○はじめに

「自分の正しさを雄弁に主張できる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性のほうが私は好きだ。」

筆者は「この本で自分の語りたかったこと」を以上のように端的にまとめている。

この言葉の通り、「自らの『可誤性』を念頭に置きながらも、自分自身の感触に基づいて『よし・あし』を吟味する」ことが筆者に一貫する姿勢として伺える。こうした視点から、「権威主義的」「党派的」な思弁に陥っているポストモダン思想の問題を的確にとらえていくところは、胸のすくような思いで読んだ。だが、内田のこの「実存に定位する誠実な懐疑主義」とでも呼ぶべき思想的態度は、(「これは問題」「ここが変」というように)諸問題を批判するに際して効果的かつ魅力ある表現を生み出している一方、思想の原理を生み出すためには弱いものだというようにも感じた。自分なりにとらえた功罪の両面を整理してみたい(というと偉そうですが……)。

 

○ポストモダン思想の「権威主義」

内田自身「ラカン」の言っていることは「ほとんど分からない」し、ラカン派の学者による解説書の中で「自分の分からない点を腑に落ちるように解き明かしてくれる」ものにもこれまで出会ったためしがないという。「自分にとって分かりやすいものだけを受け入れる」独善的な姿勢は内田がよしとするものではない。(事実、ラカンについては、「師」と仰ぐレヴィナス同様にかなり「はまっている」ようだ。)ここで内田が問題視しているのは、ラカン派を標榜する多くの思想家が、(自らはきちんと理解しているはずの)ラカン思想のエッセンスを多くの人と分かち合えるように敷衍することに労力を傾けるのではなく、「ラカンの凄さ」が分からない者・共感を示さない者を「反ラカン派」とみなし、それに対する批判的な言説をひたすら繰り返し述べているような現実である。

たしかに、ポストモダン思想家の多くが、既製の価値の一切を相対化しようとするそれ自体は極めて反権威主義的な内容の思想を、「この思想を理解できないものは愚かだ」というような極めて権威的・党派的な語り口で述べることがままあるように思う。そうした「自己批判力を欠いた知性のあり方」に対して違和感をもつ内田の感性は至極まともなように感じる。(例えば宮台慎司についても、「(多くの愚か者と違い)自分はすべて分かっている・すでにこうなることは分かっていた」などという高みに立った語り口がイヤだという。)

 

○ポストモダン的「他者論」の問題

この問題は、『敗戦後論』をめぐる加藤典洋と高橋哲哉の論争に対して、内田が加藤の側に正当性を認め、高橋を厳しく批判することを通して浮き彫りにされている。

『敗戦後論』で加藤典洋は、「自国の(戦)死者」を「悼む」こと(その存在を正視すること)を起点として「アジアの犠牲者たち」へと開かれていこう、という言い方をする。もちろん加藤は「侵略戦争」を正当化しようとしているわけではない。だが、高橋哲哉は侵略戦争という罪を犯した以上、「自国の死者をまず悼む」ということを口にすべきでない、なによりも先に「アジアの犠牲者」という「他者」に向き合い「贖罪」することが必要だ、と主張する。

内田は「高橋の言うことは『正しい』」としながら、こうした、「他者」に罪責感をもって応答する感度の「ある」「なし」を指標に「正義」と「悪」を峻別し、(自らを「正義」の側に位置づけ)罪あるものを糾弾していく「審問の語り口」に、「鳥肌が立つ思いがする」という加藤の気持ちがよく理解できる、という。

 

高橋哲哉がこの際後ろ盾にするのはレヴィナスの「他者論」である。しかし内田は、レヴィナスの真意をきちんと汲み取れば、こうした「審問の語り口」はできなくなるはずだ、と語る。「他者」の「顔」を面前にし、取替えのきかない他者の実存に触れ、(世界を一方的に対象化しようとする主体としての自らのありかたに)躊躇し、毅然とした「正義」から逡巡する「愛」の語りへとシフトしていくこと。レヴィナスが表現するのはそうした事態ではないか。ところが今、現代思想の多くが、「他者論」の名のもとに、「弱者」としての「他者」に与することをもって(自らは例外者とし)、自らの属する社会の「不正」を厳しく糾弾するという同型の議論を繰り返している。(上野千鶴子らのフェミニズムなどがその典型として槍玉にあげられている。)内田は、こうした「他者論」の痩せた解釈が蔓延していることが、思想そのものを枯渇させているのではないかととらえる。

(以下、本文の言葉を引用)

 

レヴィナスは他者と倫理の関係を次のように定式化した……

『「同一者」の審問――それは決して「同一者」のエゴイスティックな自然発生性の内部では果たされない。それは「他なるもの」を介してもたらされるのである。「他者」の現前による私の自然発生性のこの審問のことを私たちは倫理と名づける。「他なるもの」の異質性、「他なるもの」は、私の「自我」にも、私の所有にも帰し得ないという事実、それはまさしく倫理として、私の自然発生性の審問として成就するのである。』(以上はレヴィナス『全体性と無限』からの抜粋) 

……「他者性の哲学者」たちは「他者による自我の審問」をこんなふうに解釈した。

「他者」に対する倫理的な債務や罪責感を感じることの「できる」自我がある、これは「倫理的主体」である。一方に他者を単なる理解・支配・所有の対象とみなし、倫理的有責性を引き受けることの「できない」自我がいる。

前者は「よい自我」であり、後者は「悪い自我」である。倫理的な「よい自我」は、自己省察的であり、知的に誠実であり、思想的に前衛的である。エゴサントリックな「悪い自我」は、無反省的であり、知的に不誠実であり、思想的に反動的である。

……「自己審問の主体」という立場が知的位階性において非常に有利であることは理解に難くない。というのも、「自己審問」は単なる有責性の告白や、無能性の認知であるにとどまらず、「そのように厳しく自らの倫理的有責性を告発し、自らの知的貧困を認識することができることくらいに倫理的に誠実で、知的に卓越している」という「一回ひねり」の自己肯定を論理的に帰結するからである。

彼らはこの威信を「自己審問という苦役」に対する知的報酬と理解した。「他者」の現前に屈服し、「他者」に拝跪したものは、その代償として、「同類たち」を威圧するカードを手に入れるのである。

……この戦術は、その後ポストモダン期の「ポリティカリーにコレクト」なムーブメントの中で大々的に活用されることになった。

私は差別者だ。私は抑圧者だ。私は多数派だ。私は健常者だ。私は強者だ」。この宣告はただちに「免罪符」として機能し始める。そして、「改悛せるエゴサントリスト」という特権的立場から、改悛をためらうすべての問題に対して苛烈な審問を行う権利を彼らは手に入れるのである。……他者という豊かな思想的論件は、これを功利的に活用する方途を見出した心貧しい思想家たちによって、著しくその多産性とひろがりを失ったと私は思う。……現在、「他者」とい言葉を誰かが口にするとき、彼らは必ず誰かを糾問し、こづきまわし、断罪するためにその言葉を利用している。

「他者」問題とは、ほんらい「他者と私のあいだには、いかなる〈愛〉の関係が成り立ちうるのか?」というすぐれて個人的な問いだったはずである。しかし、いまでは「愛」について哲学の語法で語りぬこうとする人はあまりに少ない。285288

 

また、「ポストモダン的他者論」は、「他者」の「外部性」(主体に取り込むことのできない・理解しがたさ)のみを強調し、実際に「他者」と邂逅したときにどのようにコミュニケーションゲームを成立させていくのか、という現実的な問題を回避している。もともとポストモダンの語る「他者」は、主観的・共同体的価値を相対化していくために理論上要請された観念的(観想的)なものにすぎず、「価値観のまったく異なった人との間にどのような関係を取り結んでいくか」という実存的な問題と一線を画したところで語られている。内田はそのことに対する違和感を以下のように語る。

 

……現在、世界的な規模で進行している排外主義的なナショナリストたちや原理主義者たちのプロパガンダは、つきるところ「私は私であり、他者は他者である。その間に架橋することは不可能である」という古くて新しい命題に収斂する。

この命題は、古代的な異族排除の論理と同型でありながら、現在の他者論のフレームワークを一部受け継いでいる。というのも「他者性の哲学者」たちは他者とのコミュニケーションを、「とりあえず断念する」ところから出発したからである。彼らは交通不能の他者を「外部」に設定し、それはそのまま「かっこに入れて」……そのような「外部」を構想しうる自分の知的威信を「内部」に向けて行使することに専ら務めてきたのである。

 しかし、おのれの交通手段をはじめから過度に低く設定するのは、おのれの交通手段を過大評価するのと同じくらいに有害である。 

 コミュニケーションの不可能な相手と、身をよじるようにしてなおコミュニケーションを試みる「私」のシステムのきしみから、「愛」は起動するのではあるまいか?他者との出会いの意味は、「私の理解を絶し、私の共感を拒む者」を「外部」に構想するという観想的な営みには尽くされず、そのような「外部」に向けて、いかなる保証者も準拠枠もないままに、なお身を投じる「私」の冒険的実践のうちにこそ求められるべきなのではあるまいか? 他者との出会いとは、コミュニケーションすることの不可能性の覚知が、かえっていっそうコミュニケーションへの欲望を駆動するという逆説的な出来事を指すのではあるまいか?293-294

他者は「我が家」に混乱と不和と紛争と確執を引き起こす。他者との出会いとは、「我が家」という安定的な知解のシステムが解体し、私が絶対的な「単独者」として孤立するような経験である。というのも、到来した者の言葉は、私の理解や共感を越えているにもかかわらず、その理解できない言葉を、私はそれでもなお一個の「主体」として引き受け、聴き取らなければならないからである。この背理的な責任の引き受けを通して、はじめて「主体」は成立する。293294

 

○「ためらいの倫理学」の功罪

『全体性と無限』を読むと、レヴィナス自身は、「世界を自らのもとに対象化し・取り込む」主観のありかたに批判的なまなざしを注ぐものの、同時にそうした「主体」として生きることの不可避性を鋭くとらえていることが伝わってくる。前述の引用からも明らかなように、内田自身も「師」であるレヴィナスのこの着想を受け継いでいる(ように思う)。「他者との邂逅を通して自らが安住する価値世界を越え出て行く」「相矛盾する視点を自らのうちに引き受け、ものごとをとらえようとする」ことを念頭に置きながらも、そうした「主体」の「外」(=超越的・特権的外部)に出ることはできないことに対する透徹した自己理解がうかがえる。

内田が『敗戦後論』での加藤典洋を高く評価するのも、加藤が、「ナショナリスト/反ナショナリスト」「反米派/親米派」など相対するそれぞれの立場に身をおく者たちが、自らの「正しさ」を揺るぎないものとして延々と主張しあっている戦後思想空間の不毛性をつき、「みずからのうちに『ねじれ』を引き受けることのできる(われわれという)主体」を打ち立てる必要性を提唱しているところにある。

 

だが、本書でみるかぎり、内田の展開する論は、「思想」というよりは「文学性の高い表現」であるように感じられる。

例えば、表題となっている「ためらいの倫理学」は、カミユが描き出す「反抗的人間」から着想を得ている。「異邦人」の主人公に顕著なように、「反抗的人間」は自らの実存的感触にこだわるあまり、多くの際に「共同体的な価値」を受け入れがたいものとして見出す(例えば自分にとって取替えのきかない「母」の死を、通常のしきたりで弔うことに対する拒否感)。しかし、そうした「実存」どうしの公正な関係という「正義」にはこだわり、その正義のためには「死」をもいとわない。だが、いざ「正義」の名のもとに他者の命を奪おうとする局面に立ち、その際相手の「顔」をまのあたりにすると(相手の「実存」に再び触れると)逡巡してしまう(「異邦人」で殺人が行われたのは、太陽の光で「顔」が視界から遮られたからだ、とする)。そうした「ねじれ」を生きる(生きざるをえない)実存の様相を「文学」はつぶさに描き出す。この文学的感性を「倫理」をつくりだしていく礎石にできないものか……というようなことを内田は語っている。

内田のこうした言葉には共感を覚えるし、独特なカミユ解釈に対しても心惹かれるものを感じる。だが、「ねじれを自らのうちに抱え込む」生き方を自覚できること自体、そこにはすでに高い倫理性が前提とされているのではないか。レヴィナス、カミユなど、内田自身が深くコミットする思想家から引き出そうとする思想は、「高い文学性」とともに「原理としての弱さ」を誠実な形で露呈している、というのが自分自身の「文学的」な感想である。

 

とはいうものの、先にも述べたように、内田のベースには、(「主体」の限界を自覚しながらも)「『主体』の場所に定位し『よりよい自分・よりよい関係』をめざしていくこと以外に生の目的は見出せるものではない」という透徹した近代的人間理解があるように思う。

 

例えば、内田は(「おじさん的思考」という言い方で)社会の実践の場で鍛えられた功利主義的判断(「ナカをとる」「折り合いをつける」ことで、状況の中での最善の結果を導き出していく判断?)の有効性を語る。また、本書中、高橋哲哉の「社会的不正義を厳しく糾弾する言葉」に対して語られる以下の言葉などからは、近代市民社会の本質を的確にとらえていることが伺える。

 

ある政治的私見が公共的な「正しさ」の準位に達するために必要な唯一の条件は、「政治的な自由」によって支持されるということである。つまり、自由な考え方をすることが許され、自由な発言をすることが許されている人々に対して働きかけ、その人々を集めて多数を形成するということである。選択する人々が「政治的に自由であること」、それだけが「政治的正しさ」の正当性を保証する。「自由な精神」に支持された「政治的正しさ」だけが合法的である。仮に結果的に「正しく」でも、自由を損なわれた精神によって選び取られた私見は合法ではない。65

 

このように内田は、自由の相互承認のみが公共的な正当性を導き出す唯一の方法であることを正しく認識している(ように思う)。

 

ただ、内田の場合、そうした自由な個々人が、自らのうちで「よし・あし」を吟味していくための思考の原理を提示しえてはいない。レヴィナス同様、「主体であることの不可避性」を正視してはいるものの、「主体の限界・可誤性」に敏感なあまり、「内在に定位して普遍妥当性をつかみとっていく」という主観哲学の積極的な可能性を見出せてはいない(ように思う)。

本書中の以下の言葉から、そのことは顕著に伺える。

 

徹底的に知的な人は、知性の徹底性について根底的な疑惑にとりつかれる。それはプラトンからデカルト、フッサールまでみんな同じである。哲学者たちはそこで「必当然的明証性」(決して疑い得ないこと)というものを何とか探し出して、とにかく知の身分保証をしようとしてきた(デカルトの「コギト」やフッサールの「超越論的自我」というのはそういう工作物である)。

レヴィナス先生はそういう道をとらなかった。

先生は知の徹底性について根底的な疑惑から先人たちが「どのように逃れたか」を考察した。そして、次のような洞見を得た。

知の徹底性への疑惑から逃れる仕方はいつも同じである。それは必当然的明証という「物語」をつくりだすことである。哲学者はその反省の究極において「物語」を見出すのだが、見出したとたんにそれが自分で創り出した「物語」でしかないことを構造的に忘却する。

だから哲学のこの限界を乗り越えるためには、ただ一つの身ぶりがあれば足りる。それは自分が「知の極限」において出会うものは、自分が創り出した幻影であるという経験的事実「から」出発することである。「知の極限」に「その先」はない。

だから「出発する」ということは「戻ってくる」ということにほかならない。

徹底的に知的な人は徹底的に具体的な生活者となる。そこにしか人間の生きる圏域はないということを知っているからである。哲学者は「物語」の渦巻く俗世間に別の「物語」をたずさえて戻ってくる。

けれど、それは「どこかに〈真理〉という終点があるはずだ。」という儚い希望を切り捨てた、深い、底なしの、終わりのない「物語」である。279280

 

フッサールの「超越論的自我(主観性)」は、ここで内田が問題視しているように、不可疑性を担保するために要請されたものではない。むしろ、ここで内田が打ち出している、「どこかに〈真理〉という終点があるはずだという儚い希望を捨てた」思想的態度に立脚したものとしてある。真理≒客観が所与のものとしてあるという前提を棄却し、(内田が語るように「徹底的に具体的な生活者」として、すなわち自らの実存に定位することで)意識・経験の内側でそれが確信として成立している様相を見取っていく方向へと視線変更した自我・主観性のありようを指している。

だが、そのとき哲学的思考が自らのうちに見出すものは、(ここで内田が言うように)ひと括りに「物語」という言葉で名づけられるようなものではない。それはより広い視点から「信憑構造」としてとらえるべきものだ。その中には確かに(共同体的な価値を無前提に受け入れることによって成り立つ)「物語」もある。しかし、同様に、知覚経験をベースとし、より普遍的に共有可能な(それでいてやはり一つの信憑であることには変わらない)「客観的世界像」もそこにおいて成立している。

いずれにしても、近代哲学のエッセンスを集約した現象学の方法、すなわち「主観のうちに信憑構造を訊ねあうゲーム」は、「物語の外には出られないという自覚」のみではなく、(おそらく内田自身も希求するであろう)「他者性へと開かれつつ『よりよい』をめざしていく」言語ゲームを展開する可能性を包含しているもの……ではないかと自分は思う。