知のプリズム
(1998年、桐原書店の小論文講座に連載されたものです。)
〈1〉哲学の方法
「哲学」という学問があることは、だれでも知っている。プラトンやカントの名前を耳にしたことのある人も多いと思う。でも、いったい何をやっているのか、よくわからない人がほとんどではないだろうか。歴史とか物理学とかだったら見当がつくけれど、でも、哲学っていったい何をやっているだろう?
ぼくは哲学を、こんな感じのものだと思っている。人はいろんな疑問や謎を抱く。そしてそれを、なるべく根本から考えたいと思う。しかし、どうやったら根本的に考えられるか、なかなかそれがわからない。そういうときに求められるのが、哲学なのだ。哲学とは、「どうやったら根本的に考えることができるか」を考えるもの、一言でいうと、「考え方を考える」ものなのである。
頭が痛くなってきましたか? 一つ、具体的な例を挙げてみよう。
〈自分が死んだらどうなっちゃうんだろう〉。だれでも一度は、このことを考えたことがあると思う。なかには、ある時期これが気になって気になって仕方がなかったことがある、という人もいるかもしれない。
この「死んだらどうなるのか」には、いろんな答えがある。キリスト教だったら、はるか未来に「最後の審判」があって、そのとき死者はみな蘇り、神の前で裁きを受ける。そして、心正しく生きた者は永遠の幸福に預かり、罪ある者は地獄に落ちることになっている。閻魔様の裁きを受けて、天国と地獄にいくのとよく似ている。仏教だと、魂が輪廻して人間や動物に転生するのだが、やはり、心正しく生きた者は上位の存在に生まれ変わる。これらには、死後には生きていたときの「報い」がくる、という発想があるようだ。また、よくある怪談話では、「恨みを持ったまま死んで自縛霊になったんだ」なんて話がまことしやかに語られる。もちろん「肉体が滅びれば何も思ったり感じたりはしないよ、すべては終わりさ」という科学的?な意見もある。
このようにさまざまな説があるわけだが、いったいどれが本当なんだろうか? 真実は一つなのだろうから、その真実を知りたい、と私たちは思うのだが。
−−しかしここには、どれが本当なのかを決定するための手段がない! 「メキシコの人口は何人か」というような疑問なら、統計資料を調べればわかる。「メキシコの文化」について知りたければ、実際にそこに行くのが何よりだ。私たちはふつう、自分で実際に経験したり、また他人が経験したことを情報として教えてもらったりしながら、事実を確かめている。しかしこの手段は、「死んだらどうなるのか」には効かない。自分はまだ死んでいないのだし、死んだ人に尋ねてみることもできない。「臨死体験」をした人の話を聴くことはできるが、しかしそれは死の体験ではないだろう。
結局この問いは、普通の意味で調査して答えを出すことはできない。つまり、≪だれも決定的なところはわからない≫のである。確実にいえるのは、まずそのことだ。
しかし、それにもかかわらず、人は「死んだらどうなるか」をあれこれと想像し、さまざまな説を創りだしてきた。では、それはなぜなのか?〈そもそもなぜ、人は「死んだらどうなるのか」がこんなにも気になるのか? どんな民族であっても宗教を持ち、死後の世界について語ってきたのはなぜか?〉
このように問いの方向を転換してみると、これだったらわかる。≪死が怖いから≫だ。だれだっていつかそのうち死ぬ。死んだら、いま生きているこの世界のなかにいて活動を続けるわけにはいかない。もう恋するあの人と会って話をしたり、大好きな音楽を聴いたりすることはできない。一切ができなくなり、自分から奪われてしまうことの恐怖。このように「死が怖い」からこそ、宗教は死後の世界を説明してきたのだろう。
人という存在は、死への恐怖を抱き、宗教を創り出してきた。あらためて考えてみると、これはじつに興味深いことではないだろうか。もちろん犬や猫だって、身の危険を感じると逃げるのだから、死の恐怖と似たようなものを感じているのかもしれない。しかし、人間の場合には、いまここに猛獣が襲ってきて死が迫っているわけでもないのに、だれもが「いつか死ぬ」ということを知っている。そして、「死ぬまでをどう生きていこうか」と考えたりする。たぶん動物には、そんな未来のことを考えたり計画をしたりすることはできない。
≪人は、自分が死ぬということを知り、死を恐れ、また死ぬまでをどう生きようとするかを考える、そういう存在である≫。その意味で、人は「死」を知る動物なのである。
しかし問いは、まだまだ終わらない。−−人はなぜ死を怖がるのか? またなぜ人だけが死を自覚することができるのか? なぜ人は、そのつどの現在だけを生きるのではなく、将来を考えたり過去を振り返ったりできるのか?
そうやって問うとき、私たちは「人間の生とはどのような特質をもつものなのか」ということを問うている。私たちがじっさいに経験しているのにもかかわらず、よくわからない、不思議な「人間の生」。この人間の生の解明こそが、じつは哲学の最終的な課題なのである。他者から侮辱されると怒り、名誉を求める人間。人を愛し、愛されることを求める人間。正義を求め美しいものが好きなのに、罪を犯し他者を傷つけもする人間。そういう人間の本質を、哲学は探ろうとするのである。
さて、もう一度、今までの歩みを振り返ってみよう。「死んだらどうなるのか」という問いには、決定的な答えが出ないことがわかった。そのとき、なぜこんなにもその問いが気になるのか?と問い返してみた。すると、「死を知り、死を恐れる人間」ということが見えてきた。最終的には「人間とは何か」という問いにつながっていった。
このように、≪根本的に考えようとして問いを深いところにまで追いつめていく≫のが、哲学の方法である。その要点は次のように整理できるだろう。
@なんらかの問いに対して、すぐさま「正解」を求めずに
A「そもそもなぜこのような問いが浮かび上がってきたのか」と問う
Bすると、その問いをもたらしている「生」のありようが見えてくる
Cそこで、この生のありかたをさらに解明しようとする
なるべく根本的なところに遡る−−問いそのものが浮かび上がってくる生の現場に戻り、そこから考えてみること。これが、哲学の心であり方法なのである。
〈2〉
哲学でよく取りあげられる問いの一つに、「私が見ている色は他人が見ている色と同じか」というものがある。
ぼくが、お気に入りの真っ赤なTシャツをもっているとしよう。しかし、それはAさんには真っ青に見えている。そして彼は青を「赤」という言葉で呼ぶのかもしれない。つまり、言葉が一致しているから生活上何も支障はないのだが、実際に一人ひとりが見ている色は全然ちがう、というようなことが、理屈としては考えられるのである。
ぼくじしんは、「まあ似たような色を見ているんだろうな」と思ってはいる。なぜなら、色から人が受け取る情緒(赤は情熱的であり、紫は怪しい色、青は清潔感がある)も、人々のあいだでかなりの程度一致しているみたいだから。
しかし、ここが肝心なのだが、私の見ている色と他人の見ている色が同じだと「証明」することは絶対に不可能である。他人の頭のなかに入っていって、他人が見ている色や世界をそのままに観察することはできないからだ。私たちは、色を指す言葉が他人と一致すること、また色あいについての情緒が一致することから、同じ色を見ていると「信じて」いる。論理的には、そこまでしかいえないのである。
同じような問いに、「私が見たり触れたり行動したりしているこの現実は、じつはすべてが夢(幻想)なのかもしれない」というのがある。たとえば17世紀の哲学者デカルトは、こんなふうに語った。
〈少しでも疑わしい物事をすべて疑ってかかってみて、それでも絶対に疑えないものが残るかどうかを思考実験してみよう。すると、私たちはいま見ているこの事物があること、ひいては、この現実世界があることを最も確かなものだと思っているが、それさえも疑えないわけではない。一切が脈絡のある夢かもしれないし、幻想かもしれない。欺く力をもつ霊がいて、私たちの心のなかにきわめて生き生きとしたイメージを吹き込んでいるという可能性も考えられるからだ。−−それでも疑えないことはあるかといえば、やはりある。目の前に事物らしきものを見ていること、こうやって疑ったり考えたりしていること、これだけは疑えないだろう。いま感じたり考えたりしている私、その存在は疑えない。「われ思う、ゆえに、われ有り」〉
これはとても有名な話だが、しかし、なかなかすごい話である。「どんなに私にとってリアルであるとしても、それが客観的な現実であるという保証はない」といっているのだから。たしかに私は、私の感じたり考えたりしていることの「外」に出て、客観的現実そのものを眺めたり、それに手を触れたりすることはできないのだ。
しかしだからといって、不安になる必要はない。私たちは他人としょっちゅうおしゃべりしていて(もちろんその他人も自分が感じる限りでの他人だが)、他人とちゃんと話がかみ合って一致したものを「現実」と認め、かみ合わないものを「勘違い」とか「幻覚」だとする。空にUFOが見えたとき、隣にいる人たちと「あれはUFOですよね」と話して一致すれば現実になるし、彼らが皆「何をいっているんですか、何も見えませんよ」と口をそろえていうならば、私は自分の目がおかしいと思うだろう。
要するに何をいいたいかというと、こうだ。
1.デカルトのいうように、私は私の意識の外側には出られない。
2.しかし私は私の意識の内側でもって、立派に「現実」と「幻覚」を区別している。
3.他者と一致したものが現実と呼ばれ、そうでないものは幻覚や夢とされる。
これが、あれこれ考えた末のぼくなりの結論である。
しかしこの問いを、また別の方向から考え進めることもできる。「そもそも、なぜ人はこんな変なことを考えるのか」と問うてみよう。
みんなといっしょに遊んだり仕事をしたりしているとき、私たちはそんなことは考えもしない。一人で家まで帰ってくる道すがらとか、部屋で一人ぼーっとしていたりするときに、これらの疑問はやってくるのだろう。これらの問いの核心にあるのは、〈私にとっての世界と、他者にとっての世界はまったく別物であって、私は他者とはちがうたった一人の生のなかを生きているだ〉という「ひとり(孤独)」の感覚なのだとぼくは思う。
私たちは幼いときには両親に深く依存し結びついて生きているが、成長し自立していく過程のなかで、自分が親やまわりの人々とは切り離された、固有な時間と空間を生きる存在であることに気づきはじめるのにちがいない。
ぼくのなかに、そのこととたぶん深くつながっている記憶がある。
幼稚園に通っていたとき、父方の祖父が死んだ。田舎の父の実家で葬式が行われた。父が涙を流しながら祖父を棺にいれ、墓まで何人かで運んでいって土に埋めた(今では珍しい土葬の習慣であったようだ)。それから数日後のことだと思うが、ぼくはいつもの家に帰ってきて、そこから幼稚園まで歩いていた。強い風が吹いていて木の葉が舞い上がっている秋の日の朝だった。いつもは友だちといっしょのはずなのに、なぜかそのときは一人で幼稚園に向かいながら、ぼくは「じいちゃんが死んだ、じいちゃんが死んだ」と頭で何度もくり返していた。
祖父とはいっしょに暮らしてはいなかったので、とくに別れが寂しかったわけではない。しかしそのときのぼくはたぶん、「死」ということの意味を確かめようしていて、そしてたしかに「ひとり」を感じていたような気がする。死は、人をひとりに直面させるものだからだ。
人は社会的存在であるだけでなく、自分固有の思いをもって生きる存在、孤独を知る存在である。それは人に苦しみを与えることも多いけれど、それが人間の生に奥行きと広がりを与えているのも事実だ。
いつか訪れる死に脅えること。親や友人たちの価値観に違和感を抱き、一人の人間としてどう生きていくかを考えること。孤独のなかで他者とのつながりの大切さを知ること。そのような生の次元を、人は確かに持っている。
人が文学や音楽や哲学を形作ってきたのは、人が孤独のなかでみずからの生を見つめ直そうとし、さらに、深い次元においてふたたび他者とつながろうとするからだ。深く生を見つめ直して発せられる声は、他者を動かす。ぼくの文章にも、みなさんの書く小論文にも、そのような声が響いているだろうか?
〈3〉 人は何を求めて生きているのか。
人はいったい何を求めて生きているのか? この、難問だが重要な問題を考えてみたい。完璧な答えは無理としても、少しずつ前進しよう。
まず思いつくのは、腹が減れば食いたいし、喉が乾けば水も飲みたい。疲れてくれば眠りたい、お風呂に入ると気持ちがいい、というようなことだ。一言でいうと、身体の快を求めて不快を避ける。この点では、人間も動物もそんなに変わらない。
でも、人間が求めるものはそれだけだろうか。古代ギリシャの哲学者プラトンに『饗宴』という作品があるが、そこに登場する謎の婦人ディオティーマは、こう語る。「人間は有名な人となって『不滅の名声を永遠にうち建てること』への恋心のためには、どんな危険をも冒し、金銭を費し、いかなる労苦にも服し、さらにはそのために命を捨てるのです」。
永遠の名声を得る。皆から尊敬され、憧れの対象となり、語りつがれる人物になる。−−こんなことを本気で願う人は少ないだろうが、どんな人だって、「ホメられること」は好きだ。自分の努力や才能に対して「たいしたもんだ」といってもらうのが、嫌な人はいない。それはすごく嬉しいし、誇らしい気持ちになる。逆に、人から「ナメられる」のはだれだって嫌だ。自分でも「オレってつまんないヤツだ」としか思えないときには、ほんとうに苦しい。そこで、定理の1番目。
定理1:人は、他者から「価値ある存在」として承認されることを求める。そこには、自分を価値ある存在と思いたい、ということが含まれている。
しかし、人はいつでも他者から評価されるわけではない。だから、自分を認めさせようとして互いに「競争」する、ということが人間社会には不可欠の要素となってくる。
ドイツの哲学者ヘーゲルは、人類が飲んだり食べたりしているだけの動物的な在り方を脱したとき、最初に起こってきたのは「承認をめぐる戦い」だったろう、といっている。つまり「オレのほうが偉い、オレを認めろ」といって戦って、勝ったほうがボスになる。そこから人類の歴史は始まった、という。ぼくは小学校に入ってすぐのころ、ぼくとはちがう幼稚園の出身者でボスだったヤツと大ゲンカをして負けたが、そのくやしさは今でも覚えている(ぼくが力ではなく勉強のほうで勝負するようになったのは、ひょっとするとこの事件が関係しているかもしれない)。
いま「勉強で勝負」と思わず書いてしまったけれど、社会が整ってくると、「承認をめぐる戦い」も、ただのケンカや決闘ではなくて、ルールを備えた一種のゲームのようなかたちになってくる。たとえば、試験による学歴の獲得。市場での競争による富の獲得。選挙による権力の獲得。
辛いのは、私たちが好むと好まざるとにかかわらず、そのような「承認をめぐる競争」のなかに投げ込まれる、ということだ。すごく立派な肩書きを身につけようとまで思わなくても、ナメられるのは嫌だ。でもナメられないためには、そこそこの位置につけなくてはいけない。そう思うと、好きでない勉強もしなくてはいけない……。
しかし他方で、人間社会は「自由参加」のゲームもつくりだしてきた。たとえば、スポーツ、将棋など。音楽や芸術は明確な勝ち負けはないけれど、やはり作品のよしあしを競うのだから、これに含めていいだろう。これらのゲームの場合には、好きな人・得意な人だけが参加して、競いあえばよい。そして勝者は、相手からも、またまわりからも評価され、自分でも自信をもつことができる。
しかし、ここで立ち止まってみたいのだが、この種の自由参加のゲームのなかには、単に勝ちたいとか評価されたい、というだけではない要素が含まれているような気がする
。
たとえば将棋の羽生名人が、あるときこういっていた。「ぼくは勝ち負けを超えたい。もっと新しいところに行きたい」。もちろん、勝ち負けがなければ競技にならない。でも、自分が求めているのは、今までのとはちがった「新しいところ」、今まで自分の知らなかった新たな発想や戦術のような、何か新しい境地に行くことだ。こう彼はいいたいのだと思う。
ぼくじしんは哲学をやっているが、重要そうな何かが新たに見えてくると、興奮してくる。「ああ、あちらの方向に行けば、ぼくはもっと新しくなれる、進化できる」と思うのだ。そこには、ちょうど未知の大陸を探検し新たな物事を発見するときのような、期待と興奮がある。たぶんこれは、音楽や芝居をやっている人でも同じだろう。「あちらには素晴らしいものの予感がある、そちらに進んでみよう」。そこで、定理の2番目。
定理2:人は新しい世界、新たな可能性を求める。そしてみずからが進歩・進化したいと思う。新たな可能性が見えなくなり進歩している実感もなくなるとき、停滞感がやってくる。
勝ち負けを超えたいということには、さらに別のことが含まれていると思う。将棋の対戦のなかでは、相手の戦術・創意工夫を含んだ「個性」との出会いがある。こちらもまた、こちらの個性をぶつけていく。おそらくそこには、勝ち負けという「結果」だけでなく、死力を尽くして闘うなかでの相手との出会いと充実感が含まれているだろう。
定理1でいったように、たしかに他者から評価され尊重されるのはうれしい。でも、それだけだったら、王様にでもなって臣下がかしづいてくれる、というのが理想ということなるだろう。
でも、それだけでは面白くない、とぼくは直観的に思う。相手との「出会い」がそこにはないからだ。他者からホメてもらうときでも、いちばんうれしいのは、たとえば「ここを努力した」「このことをやりたかった」というこちらの思いをわかってくれたときである。自分自身が受けとめられた、という感覚があるときである。そこで定理の3番目。
定理3:私たちは、単なる評価では満足しないところがある。他者から自分自身がきちんと受けとめられている、という意味での、深い「承認」ということを求めている。
人が小説や詩を書いたり、あらためて論文を書いたりするのも、そのためだろう。そこには、富や学歴や権力を身につけることによる「社会的評価」ではなく、他者から深いところで承認され受けとめられたい、そして自分自身を社会的評価の目からみるのではなく、深いところで理解し受けとめたい、という願いが奥底に隠されていると思う。
〈4〉汝自身を知れ
前回の「人は何を求めているか」のなかで、こんな定理を挙げてみた。
定理1:人は、他者から「価値ある存在」として承認されることを求める。そこには、自分を価値ある存在と思いたい、ということが含まれている。
この定理のなかの「価値」という言葉はいささか抽象的だから、少し具体的にイメージしてみよう。私たちは自分をどう思われたいのか?−−能力がある人、美しい人、カッコいい人、人柄のいい人、おもしろい人……。
このように、価値という言葉は、いろんな種類の「よさ」を広く言い表す。だから何をもって価値とするかは、人によってずいぶんちがう。「成績がよい」ことを大切にする人もいるが、「そんなのはたいしたことじゃない、面白いことをいって他人を笑わせるほうが大事だ」と思う人もいる。 このような「価値観」のちがいは、どこから生まれてくるのだろうか。たぶん、幼児のころにはそんなにちがいはなかったはずだ。どんな子だって、だっこされると喜ぶし、おなかがすくと嫌がる。価値観のちがいをつくるのは、もちろん、親である。
子どもは親の価値観を吸収して育つ。親が活発で俊敏なことを好むなら、子どももそうなろうとする。親が「あたまがいい」ことを好むなら、やはり子どもはそうなろうとする。それは、子どもが親に愛され・ほめられたいからだ。もっとキツい言い方をすると、親から嫌われないため、究極的には「捨てられない」ために、子どもは親の望むもの=親の価値観を身につけて、そのようになろうとする(だから子どもは大変である。大人は責任さえとれば、思い通りに生きてよい。ぼくは大人になってほんとうによかった、と思う)。
他にも価値観を与えるものとして、「学校」もありますね。でも人は、親や教師の与える価値観の枠内で、一生すごしはしない、少しずつそれらを「相対化」して、自分なりの価値観をつくりだしていく。
子どもどうしでいっしょに遊ぶとき、そこは家庭や学校とはちがった価値観、ちがったルールが支配する世界である。いっしょになってあえて「悪いこと」をしてみたりしながら、親や学校を相対化していく。とくに中学生くらいからは、親や教師、また友だちに対しても批判的な目で見つめるようになってくる。
ぼく自身のことでいうと、中学のころ、他人をよく観察していたのを思い出す。「こいつは口ばっかりで行動が伴わないやつだ。あいつは人柄はいいがちょっとバカだ、親のいうことをそのまま信じてるもんなあ。あの人は他人に動かされずに自分のペースで動いている、そこはすごい」。いまから思うと、何が素敵で、何が恥ずべきことか、ほんとうにカッコいいとはどういうことか、というようなことをずっと考えていたように思う。
このような「価値観のつくりなおし」は、私たちが生きていくうえで、とても大切である。なぜなら、価値とは人がそれをめざす「目標」だからだ。価値あることがハッキリしており、自分はそれをめざしているという感覚があるとき、人は生きているという実感をもつことができる。「あそこに素敵なものがある、あそこに行きたい!」しかし、何がよいこと・素敵なことかがハッキリしなくなるとき、現実というものの輪郭も、自分自身の存在も、かぎりなくアイマイになってくる。ちょうど道を見失って迷子になったように、世界が混沌とし、不安に包まれてしまう。
動物の場合には、何がエサであり何が敵であって、どういうふうに身を処さなくてはならないか、には強固な枠が定められている。しかし人間は本能的に世界に関わるのではなく、価値をめざすという仕方で、自分と世界との関係をそのつどかたちづくり、またつくりなおしているのである。
定理4:人の世界との関係は固定的なものではない。人は価値を見いだすことによって、世界と自分との関係をたえずかたちづくっている。
人が価値をつくりなおすことを強いられるのは、基本的には、それまでの価値のもとでは息苦しくて仕方がなくなったときだ。
たとえば、「成績こそが大切だ」と教えられてきたし自分でもそう思っているのに、なかなかそうなれない、ついていけない、というような場合。たとえばぼくの通っていた中学はそこそこの受験校で、成績が唯一の価値だった。成績のための努力に疲れて息苦しさを感じていたぼくは、どこかに成績以外の「ほんとうの」価値はないか、と思っていた。
既成の価値−−世間一般の価値はだいたい、能力・富・権力・名声というあたりに集約される−−に息苦しさを感じるとき、人はそれと「反対」の価値を求めることがある。たとえばキリスト教。「貧しきものこそ幸いである。天国は汝のためにある」「富める者が天国に行くのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい」(『マタイ書』)。つまり、能力や富や権力といった世俗的な価値をすべて否定して、純粋な心の美しさと信仰にのみ、真の価値を置くのである。ぼくは高校のころ、信者にこそならなかったけれど、キリスト教の教えに強く惹かれていた。
宗教の多くは、このようにして、貧しい者や力無い者を勇気づけてくれる。しかしそれはしばしば、世俗の価値から見下された者たちの「復讐」の道具ともなる。「信仰している自分たちこそ優れている、世俗の者たちは真の生き方を知らない愚か者だ」というふうになりやすい。
では、どのようにして、自分なりの価値を見つけていけばいいのだろうか。能力や名声だけを唯一の価値と思い込むのでもなく、宗教の説く純粋な真理や善に自分をあずけてしまうのでもない、そういう道はないのか。
ぼくは、あらかじめ決まった「正解」はない、と思う。答えを教えてくれるのは自分自身であり、だから、各人にそれぞれの道がある。
私たちは、自分が何を求め何を恐れてきたのか、よく知らない。というより、知ろうとしない。そして自分の外側に、自分を価値づけてくれる何かを探そうとしてしまう。「私はいままで、何を求めてきたか。それは私に深い悦びと肯定の感覚を与えるものだったか。私が深いところで求めていたのは、何だったのか」。こう問うてみるべきなのだ。
定理5:方向を教えてくれるのは、私自身である。
外部からの声にまどわされることなく、「汝自身を知れ」。自分の声をよく聴き取り、深い納得に従って生きていく。ソクラテス以来、哲学はそういう生き方があることを、私たちに示唆してきたのである。(了)