Y 子どもたちを満足させる一人遊びと愛情関係・・・それだけで充分なのだろうか?
〜集団や社会のなかで“役割”を果たすことの意味をあらためて考える
ぼくは学生のころ、「役割」という言葉が嫌いだった。「役割を担う」ことは、自分の全体を破壊し一面化するように思えた。集団に埋没することへの恐れもあったかもしれない。そして何より、ほんらいの人間関係とは、一人の個人の「全体」を認めあう関係であると思っていた。
いまも、そうした関係が必要不可欠だという思いは強い。妻や、何人かの友人たちとの関係は、「愛情の関係」ないし「生死を気遣いあう関係」ともいうべきものであって、生まれ死んでいく一個の存在としての互いを気遣い、配慮しあっている。
しかし他方で、人の生はそうした関係だけでは足りないと思っている。集団や地域や社会のなかで求められる役割を果たすことも必要なのだ。“よい仕事”をしていると自分のことを思える(自分に対する誇り)、そして他者からもそのように認めてもらえる(他者からの承認)ということが、そこには含まれているからだ。
年末のNHKのテレビで、アフリカ人のある家族の生活を見た。十歳くらいの男の子が大切な山羊を一匹逃がしてしまうが、翌日には山羊の出産を上手に手伝い成功させる。父が「昨日はだめだったが、今日はとてもよくやった」と褒めると、男の子はほんとうにうれしそうな顔をするのである。
それを見ながら、現代において「役割と承認の関係」を身につけることの難しさをあらためて思った。近代以前の家族はともに働く共同体でもあって、子どもたちは小さいころから何かの役割を与えられ、自分が不可欠な部分を担っているという意識を自然に身につけていっただろう。それに対して、現代の家族は生産を欠いた消費の場であり、愛情関係へと“純化”されてしまっている。そして個室のなかには一人遊びの道具が豊富に用意されている。学校では「勉学」という目標が与えられるが、それはあくまでも個々人の目標にすぎず、自分が不可欠な部分を担っているという意識は育ちにくい。
もちろんぼくは、昔に戻れといいたいのではない。私たちの社会は、生まれながらに役割が与えられるような(「農民の子は農民」であるような)社会ではなく、一人ひとりが長い教育を経たうえでみずから仕事を「選択」することを前提としているのであり、過去への単純な回帰は不可能である。しかし教育のあり方を思い描くとき、子どもが成長するなかで何かの役割を担い、責任と誇りと他者からの承認とを獲得していくという過程を視野に入れることは、大切である。よくいわれる「個性の発揮」が教育の目的として不十分なのは、そうした過程を視野に入れていないからである。
役割は、しばしば個性の発揮と対立するものとみなされる。しかしそうではない。役割とは、言い方を変えれば、「持ち場」である。持ち場は責任の意識をもたらす。そして持ち場を担おうとするからこそ、自分なりのやり方で“よりよい仕事”をしようと工夫したり、都合の悪いルールを改めようとする意欲が生まれる。個性とは、仕事を担い・自分なりに工夫し・何が“よい仕事”かを考える、そうした努力を通じて滲みだしてくるものと考えたほうがよい。
七十年代までの日本人は、家のため・社会のために尽くす(=役割を立派に果たす)のが人として当然である、という感覚をもっていた。ぼくが学生だった八○年ころを境にして、私たちは「社会や家のために生きるのではない。個としての悦び・充実感を味わうために生きるのだ」という姿勢に大きく転換していく。しかしいま、人生の悦びと充実のためには一人遊びや愛情関係だけでは足りないということを私たち大人はあらためて認識し、そこから教育の姿を考え直さなくてはならない。